「信仰による救いと癒やし、そして献身へ」

祈祷/使徒信条/交読;詩篇8篇/主の祈り/讃美歌524「イエス君イエス君」/聖書;マルコの福音書10:46~52/メッセージ/聖歌150「わがめをひらきて」/献金;聖歌614「主の愛のながうちに」/頌栄;讃美歌541/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 メッセージ;「信仰による救いと癒やし、そして献身へ」 私は幼いときから、目にハンディキャップを抱えて生きてきました。目というものは自分の顔についていて、鏡でも見ないかぎり絶対に自分の目は見えないから、普段意識することはないのですが、ときどき友達などに目つきを指摘されるとき、そのショックは計り知れないものがありました。のちに私は目の手術をして、ある程度人並みの目つきを手に入れることができるようになりましたが、視力も悪いのまで治ったわけではなく、折に触れてそんな自分であることを思うとき、目が見えないことにかなりの気の重さを覚えていた幼い頃、若い頃の記憶が、今もなお鮮明によみがえります。 そんな私が救われた思いがしたのは、やはり、聖書のみことばをお読みしてでした。聖書の登場人物は、目が見えなかったばかりに物乞いをするしかなかった人でした。イエスさまの弟子たちはなんと口さがなかったことか、彼は目は見えないけれども、耳は聞こえていたにもかかわらず、彼の聞いている前で、イエスさまにいろいろ言うわけです。この人がこんなふうに生まれついたのは、この人の罪のせいですか、それとも、親の罪のせいですか。彼は好きで目が見えないわけではないのに、弟子たちはなんということを言うのかと、目の悪い私などは思います。しかし、イエスさまのおことばはふるっていました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」このみことばをいただいて、私は、そのように弱さを抱えた者だから、イエスさまは私に出会ってくださったのだと、信仰をもって受け取りました。そうなってから、私は劣等感から解放されました。 さて、今日のみことばですが、やはり目の見えない人がいやされ、目を開いていただく、という内容です。イエスさまとその一行がエリコにしばらく滞在し、エリコを出て道をぞろぞろと歩いて行ったとき、その道端に、目の見えない物乞いがいました。 この男性は、2つのハンディキャップを抱えていました。ひとつは、目が見えないという肉体的ハンディキャップ、もうひとつは、物乞いのようなことをして生きていかなければならないという社会的ハンディキャップでした。彼は、二重のハンディキャップの中で生きていました。 しかし彼は、そこからできるものなら抜け出したい、という思いを持っていました。そこにちょうど、イエスさまが通りかかりました。イエスさまならば私のことを癒やしてくださる、目が見えるようにしてくださる、そうなったら、もうこのような、物乞いのような悲惨な立場に身をやつす必要はなくなる……あらゆる回復をいただきます。 彼は、そこをイエスさまがお通りになると知るや、叫びつづけました。「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください。」彼はイエスさまというお方に対する、正しい理解がありました。ダビデの子。すなわち、ユダヤという宗教共同体の間で信じられていたとおりの、ダビデの子孫としてお生まれになるキリストとは、いま目の前をお通りになっているイエスさまであるということを、彼は声を大にして告白していました。 この民ユダヤ人は、救い主キリストを待望していました。しかし、そのキリストがナザレのイエスであることを公に告白するには、それだけ、イエスさまというお方に対して、霊的な目が開かれている必要がありました。その点、この男性はたしかに、肉体の目ではものを見ることはできませんでしたが、霊的にはすでに、イエスさまをキリストと告白できるほどに目が開かれていました。 イエスさまを主と告白できるように選ばれた人には共通点があります。それは、自分が弱いことを知り、しかしイエスさまというお方が、その弱さを強さに変えてくださる救い主、神さまだと信じる信仰に導かれている、ということです。はなから自分は強い、神さまなんて頼る必要などない、そのように考えてしまっていては、信仰を持つことはなかなか難しいことで、もっと言えば、神さまの恵みなくしては不可能なことです。 そのように、この目の見えない人は、イエスさまへの信仰が与えられていて、すでに心の目には、イエスさまが見えていました。そのようにイエスさまが見えるならば、あと彼のすることは、その信仰を働かせることです。すること、それは、力いっぱい、イエスさまの御名を呼び求め、あわれみを乞うことです。 この人は物乞いをしていました。ユダヤの宗教共同体の金銭的なあわれみにすがって生きる存在でした。しかし、そのような金銭的な施しが一時的なものでしかないことを、彼はよくわかっていました。もっと根本的な解決をくださるお方から、御力をいただきたい! 井戸から水を汲んで飲んでも渇くけれども、イエスさまのくださるいのちの真清水は、けっして渇くことがない。彼は、自分のほんとうに乞い求めるべきは、一時的な金銭ではない、イエスさまにある永遠のいのち、永遠の救いであることを悟り、それを全力で求めにきました。 しかし、イエスさまの取り巻きは、そんな彼のことを黙らせようとしました。自分たちは次のところに行くんだ。忙しいんだ。邪魔するな。そんな思いがあったことでしょう。イエスさまの取り巻きのこの言動は、最大限好意的に解釈するならば、それだけ、イエスさまが大事、イエスさまのことを独り占めしたい、という気持ちの表れなのでしょうが、しかしその思いを持つあまり、彼らには、人にあわれみを施す余裕が完全に抜け落ちていました。 ある教会のクリスマスでのできごとでしたが、その日信徒たちは、クリスマスの礼拝で大いに盛り上がり、あとは礼拝堂の下の階におりて、持ち寄りの食事を楽しむばかりになっていました。ところがそのとき、教会に、見知らぬ若いお母さんが幼い娘を連れてやってきていました。身なりもよごれていて、どうやらホームレスです。やがて信徒たちは礼拝を終えて下の階におりて食事会をはじめました。事情を察したある婦人の信徒がその親子に、食べ物を分けてあげて、それはよかったのですが、この親子が一緒にその食事の場にいることに対して、明らかにいやな表情を浮かべる人もいました。その人としては、せっかくのクリスマスの恵みが台無しだ、とでも思ったのでしょうか。 愛するということ、愛の奉仕を施すということは、このような、自分こそ恵まれたいという人間的な本能、自然な感情からすると、簡単ではありません。そう考えると、つい、自分たちだけで恵まれたいという、内輪で盛り上がるようなクリスチャンの歩みにも一理あると思えてしまいそうです。しかし、そういうときこそ、私たちは、私たちの主なるイエスさまはどのように人に接していらっしゃったかを、見て学ぶ必要があります。 まず、イエスさまは立ち止まられました。イエスさまが立ち止まるならば、取り巻きの一行も立ち止まるしかありません。イエスさまは彼らに、「あの人を呼んできなさい」とおっしゃいました。イエスさまはこのように、その人を御許に招く働きを、弟子たちにさせられました。まず、弟子たちが意識を変えて、この男性に対する認識を改める必要があった、ということです。そして、そのように認識を改めたうえで、イエスさまのお使いとして用いていただくのです。 私たちもイエスさまに用いていただく光栄に浴したいならば、まず、イエスさまのおこころをよく知る必要があります。自分勝手な考えで、自分の思い込みが優先した状態で、イエスさまに用いていただくことはできません。そのためにまず、イエスさまのみことばを聞きましょう。イエスさまが自分に何と命じていらっしゃるか、日々聖書のみことばを開き、お受け取りすることです。そのご命令に従順にお従いすることです。 果たして、その人は上着を脱ぎ捨て、イエスさまのもとに駆け寄りました。上着とは何でしょうか? 身を覆う財産です。上着というものは質に取ったら日没までに返さなければならない、と、出エジプト記の律法のみことばに記されているのは、それだけ上着というものが人にとって大事だからです。また、あなたを告訴して下着を取ろうとする者には上着も与えなさい、とイエスさまがおっしゃるのは、人を愛する神の愛の大きさを示すために、そのようにたとえでお語りになったのでした。上着はまさに、ひと財産です。 物乞いともなると、もはや上着くらいしか財産と呼べるものはありません。それを彼は脱ぎ捨てて、イエスさまのもとに駆け寄ったのです。これは彼の献身の表現です。イエスさま、私はあなたに出会うために、すべてを捨てます、捨てました……。 イエスさまはそんな彼を見て、彼が何を願っているか、もちろんご存じでした。それでもイエスさまはあえてお尋ねになります。「わたしに何をしてほしいのですか。」彼は言いました。「先生、目が見えるようにしてください。」 イエスさまは全能なる神さまであり、私たちのことを愛してくださっているお方です。ゆえに、私たちが何を必要としているか、すべてご存じです。しかし、イエスさまがいかに全知全能なるお方であるといっても、私たちがその必要を認識し、具体的に願わないことには、イエスさまは私たちのその願い、必要を満たすということはなさいません。私たちにとって神さまに祈ることがなぜ大事なのかは、これでわかります。ほしいものがあり、していただきたいことがあるならば、まずはそれを具体的に祈ることから始めましょう。主はみこころにかなうようにそのお祈りを導かれ、みこころにかなうお祈りであるかぎり、そのお祈りを聴き届けてくださいます。 彼は、その願いとは、目が見えるようになることだと言いました。しかし、神さまが絶対的なお方であるということは、目を見えるようにも、見えないままにもされるということです。すべては主のご主権にかかっています。彼にもそれはわかっていました。しかし彼はイエスさまに恵みとあわれみを求め、何とか見えるようにしてください、とすがりました。そしてイエスさまは……彼の目を開き、見えるようにしてくださいました! ここから教えられることはいくつもあります。イエスさまは、彼の祈り、目を見えるようにしていただきたいという願いを聞かれましたが、そのように目が見えるようになるということは、主のみこころです。 本来、神さまがおつくりになった世界は完璧でした。アダムとエバのむかし、エデンの園のむかし、病気も障がいも環境汚染もありませんでした。しかし、人は神さまに背を向け、罪を犯す道を選びました。それゆえこの世界には堕落が入り込み、人は病むようになってしまいました。障がいもその肉体に臨むようになってしまいました。そのように、肉体が病みに病んだ末に行きつくところは「死」です。神さまのご命令に背いたら人は必ず死ぬ、と警告されていたのに、人は不従順の選択をした以上、これは仕方のないことです。 この、目の見えない人が、イエスさまに願ったら目が見えるようにしていただいたというのは、そのように罪に病む人間も、主に立ち帰るならば癒やしていただける、その肉体のいやしの根本にある、罪の赦しにまで至らせていただける、ということを象徴しています。イエスさまはこの癒しのわざは何によるかというと、「あなたの信仰があなたを救いました」とおっしゃったとおり、イエスさまを救い主キリストと信じる彼の信仰によるのであると宣言されました。 このときイエスさまは、「さあ、行きなさい」とおっしゃっています。つまり、こうして癒やしをいただいたならば、あとは彼が見える目で景色を見渡しながら、どこに行くにも自由でした。ところが彼はどうしたでしょうか? そのように、イエスさまに与えていただいた自由を、イエスさまについていくという用い方をしました。 私たちはイエスさまを信じたならば、この上なく自由な存在としていただいています。自由といっても、「悪いことも含めて何をやってもいい」という自由ではありません。それは自由ではなく、なお悪いものの奴隷になっている状態です。ほんとうの自由とは、悪いものの支配から解放されている状態です。たとえ肉体に病気や障がいがあったとしても、そのことゆえに人生を悲観的にとらえることから解放されます。私たちのいのちは肉体もろとも、イエスさまがすでに十字架の上で贖ってくださったからです。私たちはそのように自由な存在とされましたが、その自由な立場で、私たちはどこに行ってもよいのです。 だが、この男の人は、イエスさまについていく道を選びました。自由の中からイエスさまのしもべになる道を選ぶ。なぜならば、それ以上の自由の喜びは味わえないと知っているから。これがほんとうの献身です。 私はかつて、大学卒業後の進路に、降ってわいたように「韓国の神学校行き」という道が示されたとき、いきなりの話に、どうしても不安な思いを拭うことができず、当時所属していたキャンパス・クルセードという宣教団体のスタッフの佐藤さんという方に、個人的にお話しして相談しました。すると佐藤さんは、このようなことをおっしゃったのでした。「献身するのがみこころではない、ということはないよ。なんでかっていえば、神さまは人に献身することを喜んでおられるからね。」私はこのおことばに背中を押される思いで、神学校ゆきの決心がついたものでした。そのおことばをいただいてから今年で27年になりますが、やはりこの献身の道を行くことは、神さまの大きな喜びであったことを、年を追うごとにますます実感しています。 これは直接献身の話ですが、私たちは直接献身にかぎらなくても、毎日神さまに時間をささげ、神さまに遣わされて、神さまに用いられる生き方をしているならば、それはたとえ牧師や宣教師のような肩書での働きではないとしても、神さまから与えられた自由を、神さまにお従いすることで、一見すると不自由、しかしそのじつかぎりなく自由に用いた生き方をしていることになります。どんな職業でもいいのです。人にはそれぞれ、神さまから与えられた賜物があり、その賜物を神さまのためにこそ用いるならば、だれであれ、献身の生き方をしていることになります。 この男性の場合、イエスさまへの献身の歩みをするには、イエスさまに目を開いていただく、すなわち、目が見えるようにしていただくだけで充分でした。私たちはどうでしょうか? イエスさまのへの献身の歩みはすばらしいと思いますでしょうか? 私は、すばらしい、ということを、身をもって体験しつづけていますし、その献身の歩みに充分に踏み出せない要素があるならば、この男性の場合のそれが目の見えないことであり、それが見えるようにしていただいて取り除かれたように、私も、まだ充分に献身できていない領域はわれながらありますし、それを取り除いていただいて、ますます、献身の喜びの歩みをさせていただきたいと願います。 私たちがもし、イエスさまにお従いしないままでいたならば、それは人生の損失というものです。私たちの従順、私たちの献身において、もし妨げとなっているものがあるならば、それは何であるか、しっかり認識させていただきましょう。そしてそれを取り除いてください、癒やしてください、と、主に祈りましょう。主は必ず、私たちをいやし、献身を妨げるあらゆるものを取り除き、献身の喜びに私たちを踏み出させてくださいます。

「先に立つしんがり」

祈祷/使徒信条/交読;詩篇4篇/主の祈り/讃美歌495「イエスよこの身を」/聖書箇所;マルコの福音書10章32節~45節/メッセージ/聖歌495「世人のとがのために」/献金;聖歌614「主の愛のながうちに」/栄光の讃美;讃美歌541/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 メッセージ;「先に立つしんがり」 矛盾したようなタイトルをつけました。先に立つ者は先頭であり、しんがりは後ろに立つ者。「先に立つしんがり」は、形容矛盾のようです。「曲がった道をまっすぐ前へとバックする」みたいなものです。しかし、イエスさまの説かれる「先に立つ者」とは、実はしんがりであることが、今日のみことばから明らかになります。 まず32節、イエスさまは、天の御国のためにすべてを捨てるものに対する祝福を十二弟子にお語りになったことは、すでに先週のメッセージで学んだとおりですが、それに引きつづくこのみことばにおいては、イエスさまは御顔をまっすぐにエルサレムに向けて、前へと進んでいかれた、とあります。 このお姿に、弟子たちは驚きを覚え、また、恐れをいだいた、とあります。このみことばからわかることは、エルサレムへと進んでいかれるイエスさまのお姿に、弟子たちはただごとではないものを感じた、ということです。 エルサレムでイエスさまを待っているものは何でしょうか? 祭司長や律法学者のような宗教指導者たちに引き渡されて、裁判を受けて死刑の判決が下される、ということです。そしてそれにとどまらず、そのように死刑の判決を下した彼らが、異邦人にイエスさまのことを引き渡し、異邦人はイエスさまをあざけり、つばをかけ、鞭打ち、殺す、そのようにお語りになりました。イエスさまは、ここでははっきりと「十字架」という具体的な名詞を持ち出してはいらっしゃらなかったので、弟子たちは、よもやイエスさまがあの究極の刑罰である十字架によって死刑になろうとは、などとは思わなかったかもしれません。しかし、イエスさまがお語りになったこの苦難は、ほかでもなく、十字架を指していました。 しかし、イエスさまのおことばは、受難の予告では終わりませんでした。イエスさまは3日目によみがえるとおっしゃいました。これにより弟子たちは、イエスさまは死なれてもよみがえる、そのようにして神さまはイエスさまに栄光をお与えになる、と理解しました。 とはいえ、彼らのこの理解が、いかにも不充分だったことを示す対話が、彼らとイエスさまとの間で交わされることになりました。37節のみことばをお読みしましょう。……ヤコブとヨハネのこのことばには、伏線があります。この直前に、ペテロがイエスさまに自信満々に告げたことば、自分たちはすべてを捨ててあなたさまにお従いした、ついては何がいただけるだろうか、という、このことばのお答えとして、イエスさまがお語りになったおことばが、マタイの福音書を読むと、マルコの福音書に収録されていないこともまたお語りになっていることがわかります。それは、マタイの福音書19章28節です。 イエスさまにすべてを捨ててお従いした者は、その報いとしてイスラエルの十二部族をさばく、すなわち、神の民のリーダーとしての役割が果たせるという約束を、十二弟子はいただきました。それが実現するのは、イエスさまがご栄光をお受けになったときである、というわけです。 そのおことばが心にあったということを前提に、ヤコブとヨハネがイエスさまにお語りしたことばを見てみると、12の座に着いてイスラエルの12部族をさばくのは自分たち十二弟子である、そして、その中でも、イエスさまの右と左には自分たちが座れるようになりたい、というわけです。要するにヤコブとヨハネは、ほかの弟子たちを出し抜いてでもイエスさまに取り入りたい、という欲望があったわけです。 イスラエルをさばく立場とは、権力者として偉くなり、多くの者にかしずかれ、富の使い放題、というイメージが、彼らの中にあったのかもしれません。別の福音書を読むと、彼らにその地位を得させようとイエスさまに頼み込んだのは、彼らの母親であったとあります。息子たちが出世してほしい一心でイエスさまに頼み込む母心もあったといえるのかもしれませんが、ヤコブとヨハネは、母親にそんなことを言わせてしまっている自分たちのことをみっともないと思うどころか、自分たちはイエスさまの右と左に座るべき者たちだ、だからこのようなお願いをしても当然だ、という自負があったようです。 私たちは、いろいろなことを神さま、イエスさまにお祈りします。「なになにをください」、ですとか、「なになにしてください」といったたぐいのお祈りは、特に私たちはしているのではないでしょうか? しかし、ここで私たちが振り返ってみたいことは、私たちがそのようなものを神さま、イエスさまに求めている、その「動機」です。私たちがそれらのものがほしいのは、果たして神さまのためでしょうか、それとも、自分のためでしょうか? 私たちは自分の胸に手を当てて、ほんとうに後ろめたさなしに、心からはっきりと、「私は神さまのためにそれを求めます!」と断言できるでしょうか? ヤコブとヨハネがイエスさまに頼み込んだことも、祈りとはイエスさまに話すことであると考えると、これおも一種の「祈り」と言えたでしょう。しかし、イエスさまはその彼らの願いが、果たしてどこから由来したものであるかを自ら探らせるために、ひとことおっしゃいます。 イエスさまはここで、ご自身のお受けになる杯、また、バプテスマを受けることが、あなたたちにできるか、と問うていらっしゃいます。これは、どういうことでしょうか? 少しご説明します。 イエスさまが十字架におかかりになったとき、全身に及ぶ痛みとともに襲いかかってきたものは、血や汗が流れ出すゆえに、脱水してしまわれたという、その苦しみです。その中で死刑執行人が差し出してきたものはなんであったかといえば、苦みを混ぜた酸い葡萄酒でした。これはほとんど発酵が進んだ酢のようなものであり、それに苦みが混ぜられているゆえに、渇きに任せてそれを口にすると、その苦しみは何倍にもなって襲いかかってきます。 十字架の苦しみというものは、愛なる神さまから引き離されてでも人を愛し、人を救うために味わう、究極の苦しみです。その苦しみを味わうには、単なる自己実現、偉くなりたいという思いが動機では、不可能です。そのような思いはむしろ、十字架の苦しみを遂げる思いの正反対のものであり、その思いがひとかけらでもあったならば、人は絶対に死にたくはありませんし、いわんや十字架の苦しみなど、金輪際味わいたくはありません。 バプテスマとは何でしょうか? 人が水に沈められ、また引き上げられることによって、その行為は死にて葬られ、神によって陰府から引き上げられて復活させられることを象徴するものです。そのようにイエスさまは、復活に至るために、いちど死なれるということを経験されなければなりませんでした。ヤコブとヨハネもまた、すべてを捨ててイエスさまにお従いした証しとして、主のみこころにお従いして死ぬことさえも選び取らなければなりませんでした。むろん、人がそのように進んでいのちを差し出せるのは、バプテスマは水から引き上げられることによって完成されるように、死んでも陰府から引き揚げられて永遠のいのちが与えられるという信仰と信頼を、いのちの主なる神さまに置いているからです。 ヤコブとヨハネはイエスさまのこのチャレンジに、「できます」と、自信を持ってお答えしています。しかし、彼らのこの自信はどこから来たものでしょうか? 果たして彼らは、ほんとうにそのような、十字架と復活に対する確たる信仰があって、そのようにお答えしたのでしょうか? おそらくそうではなかったはずです。もし、彼らがほんとうに、イエスさまの十字架と復活をちゃんと信じていたならば、よもや十字架を前にしたイエスさまのもとから散り散りに逃げ出す、ということはなかったはずです。彼らの「できます」という大見得は、所詮、イエスさまによく見られることで高い地位を獲得したい、という、野心の表れでしかありませんでした。 これに対してイエスさまは、なんとお答えになったでしょうか?「いや、あなたたちは杯も飲めなければ、バプテスマも受けられない」とはおっしゃいませんでした。彼らはそのような、イエスさまの苦難にあずかる苦しみを受ける栄光を手にすることは、予告していらっしゃいます。実際、ヤコブは、使徒の働き12章を見てみますと、ヘロデの手にかかり、十二弟子の中で真っ先に殉教しています。ヨハネもまた、宣教の働きがとがめられてパトモスに島流しにされました。イエスさまゆえに苦難は経ているのです。 しかし、そうすれば、御国において偉い者となる、すなわち、イエスさまの両方の座を占める者となる、ということではありません。それを決めるのはご自身ではないことを、イエスさまはお告げになっています。人が天の御国に入ったとき、その天の御国においてどのような報いを受け、その報いとしてどのような地位に就くかということをお決めになるのは、神さまご自身であり、それは人間に知ることが許されていないことを、イエスさまはお語りになったのでした。 さて、このように、ほかの弟子たちをいわば「出し抜いた」ような態度を示したヤコブとヨハネに対し、ほかの十人、つまり、彼らを除いたほかの十二弟子が腹を立てました。さて、彼らが怒ったのは当然だと思いますでしょうか? もしそうならば、彼らはなぜ怒ったのだと思いますでしょうか? よく考えてみましょう。十二弟子は、何かあると、自分たちの間でだれがいちばん偉いか、という議論をおっぱじめるような者たちです。そういう者たちだったら、ほかの弟子たちを差し置いてイエスさまに引き上げてもらおうとするヤコブやヨハネに腹を立てるのは、当然だと思いませんでしょうか? ただし、そういう怒りを発するのが「当然だ」ということと、「正しい」ということは、同じ意味にはなりません。彼らが怒るのは当然でも、果たして正しいといえるでしょうか? この点を正されるために、イエスさまはひとつのことをおっしゃいました。それは「ほんとうに偉い人とはどういう人か」ということです。 まず、異邦人にとって「偉い人」とはどういう人かを、イエスさまはおっしゃいます。そういう者たちは人々に対して横柄に振る舞い、権力をふるいます。イエスさまはここで「あなたがたも知っているとおり」とお語りになっていますが、彼らとその民は、自分の立上の民の上に君臨するローマという異邦人のふるう権力に、相当へきえきさせられていたわけです。 彼ら弟子たちが思い描く「権力」というもの、ことに、イエスさまに投影していた神の国の王というイメージは、事実上ユダヤを支配していたローマの権力に代わる新たな権力でしたが、イエスさまのおことばは、彼ら弟子たちやユダヤ人たちの思い描く王のイメージは、所詮異邦人の世界における卑俗な権力の表れに過ぎないことをほのめかしておられるようです。 イエスさまは、ほんとうに偉いということ、ほんとうに力をもって治めるということは、そういうことではないことをお示しになります。43節、44節です。……ここでイエスさまは「あなたがた」ということばを用いていらっしゃいますが、この「あなたがた」は、第一に弟子たちの群れを指していますが、それ以上に、神の民の群れ、そしてひいては、すべての造られし者たちの群れを指しているといえるでしょう。つまり、イエスさまがお示しになったこの大原則は、前提として神の民における原則であるのと同時に、あらゆる人間社会に通用する原則であるわけです。 出世を狙ったヤコブとヨハネも、それに対して腹を立てたほかの弟子たちも、偉くなりたいという思いでは共通していました。イエスさまはそんな彼らに、ほんとうに主の弟子としてふさわしい態度は、すなわち、長じてキリストのからだなる教会を牧し、キリストの福音を行く先々で宣べ伝える者となるために必要な態度は、へりくだって仕えることである、とおっしゃいました。へりくだることを知らない者、仕えることのできない者には、神の国の働きをすることはできない、というわけです。 しかし、そのようにへりくだること、仕えることは、世の中が常識のようにして教える「出世しなさい」「偉くなりなさい」「人に使われないで、人を使う者になりなさい」という教えとは正反対です。 そういう生き方を目指す必要があるとイエスさまが弟子たちにお教えになった背景には、どんなことがあったのでしょうか? 45節のみことばを見てみましょう。このみことばは、イエスさまがどんな目的でこの地上に生まれ、生きられるのか、ということをお語りになったみことばです。 まずイエスさまは、「仕えられるためではなく仕えるために」この地上に来られたのであるとお語りになりました。イエスさまは神さまです。王の王、主の主です。およそ人という人がお仕えする対象として、イエスさま以上にふさわしい人物などいません。イエスさまこそ、人間の奉仕を受けるにふさわしいお方です。ところがイエスさまは、ご自身がこの地上に来られた究極の目的は、「仕える」ことにある、とおっしゃったのでした。 イエスさまのお働きは、すべてこの「仕える」ということをもって説明できます。十二弟子を訓練されたのは、十二弟子を支配して偉ぶるためではありません。そうではなく、寝食をともにして3年にわたってじっくり教え、免許皆伝の主の弟子にすることによって、弟子たちに仕えられたのでした。そのためには、弟子たちの足を洗うという、奴隷の役割さえ引き受けられましたし、徹夜の漁でへとへとになった彼らのために、パンと焼き魚を備えて朝ごはんをつくってくださいました。彼らが主の弟子としてしみじみするためならば、イエスさまはどんなことでもなさったのでした。 しかし、イエスさまにとっての「仕える」ということの根底には、何があったのでしょうか? 45節の後半のおことばをお読みすれば、それがはっきりします。そうです、イエスさまは「多くの人」を贖う、すなわち買い取るために、ご自身のいのちをその代価として差し出されたのでした。 イエスさまはおっしゃいます。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしはあなたがたをしもべとは呼びません。友と呼びました。友としてくださる、身代わりにいのちを捨ててくださって私たちを永遠の死と滅びから救い出してくださる、それはなぜでしょうか? 神は愛だからです。言い換えれば、イエスさまはそれほどまでに、私たちのことを愛してくださっているからです。 イエスさまが統べ治める神の国は、「愛する」ことをもって成り立っています。異邦人のように人々の上に君臨し、横柄に振る舞うことは、「愛する」ことの反対です。相手を「愛する」ならば、相手に対してへりくだりますし、喜んで仕えます。その愛の究極の形、それは、十字架で身代わりに死んでくださることにより、その流された血潮で、私たちを神のかたちとしての跡形もないほどにけがす罪を洗いきよめ、雪よりも白くしてくださる、ということです。 愛するから仕える、仕えることは愛すること、そのことをイエスさまは、この地上のすべての歩みをもって実践され、十字架とは、イエスさまのその究極の人を愛する姿、仕える姿でした。 イエスさまが堂々とした歩みをもって先頭に立って進んでいかれたのは、その十字架に向けてでした。その点でイエスさまは、当たり前と言えばそうなのですが、だれよりも先に十字架を負うお方でした。しかし、そのように先頭に立つ姿とは、実は人の後ろに立つ姿でした。十字架ほど呪わしく、みっともないものはありません。人は神の栄光を目指して生きる者である以上、こんなみじめな目にあえてあいたいと思うなどおかしいです。しかしイエスさまは、そのようにして人の最も後ろに立つ十字架の道、仕える道、もっと言えば、人から捨てられれる道をお選びになりました。そのように、言ってみれば、「しんがりに向けて先頭に立つ歩み」をなされたのでした。 しかし、この逆も逆の道をイエスさまが歩まれたことで、すべての人が救われる道が開かれました。このようにあえて十字架を背負われたイエスさまを信じるならば、神さまはその人を救ってくださり、永遠のいのちを与えてくださるのです。しかし、単に自動的に救われてそれで終わりというものではありません。私たちは先頭に立って十字架の道を歩まれるイエスさまのみあとを従い、自分も自分を捨てて、日々、自分の十字架を背負って、イエスさまについていくのです。具体的には、まず、イエスさまに救っていただく資格も、イエスさまのみあとをお従いする資格もない罪人であることを思い、救いの喜び、従順の喜びを妨げる罪が示されたならば、祈りのうちに告白して悔い改めることです。 しかし、それにもかかわらず、そのような罪を犯す罪人である自分のことを救ってくださったイエスさまに、その十字架の御業を覚えて感謝をおささげします。そして、少しでもイエスさまの歩まれた愛の歩み、仕える歩みにならう者となるために、愛を増し加えてください、仕える者とならせてください、と、恵みを求めてお祈りします。そして、仕えるべき領域を具体的に示していただき、祈りのうちに導きをいただいて、ひとつひとつ実践させていただくのです。 それがみこころにかなうことです。もちろん、仕事において成果を上げて、職場で昇進して地位が上がり、部下を多く持つようになることはいいことです。しかし、それが何のためかということも、私たちは忘れないようにしなければなりません。上に立って権力をふるうためであってはなりません。いえ、そういうことをたとえ口に出さなくても、心のどこかでそのような思いを持っていて、人に仕えられたい、かしずかれたい、そんな思いを持っているようでは、神の子ども、主の弟子としてふさわしく振る舞っていないことになります。 それがわたしたちです。仕えるより、仕えられたいと願うことの、なんと多い者でしょうか。 仕えるために汗を流すことを言ということの、なんと多い者でしょうか。しかし、そのような自分であることに気づかされたならば、どうかその場で、十字架に向けて、前へ前へと進まれたイエスさまを思いましょう。私を愛するあまり、十字架におかかりになったイエスさまをしのびましょう。このイエスさまのおこころをわが心としつづけるならば、私たちは必ず、イエスさまにならう、「前に立つしんがり」、仕えることをもってこの世に神の栄光を顕し、人々を整えて奉仕の働きをさせるという、神のみこころにかなった歩みができるようになると確信して、今週も、そしてこれからも、歩んでまいりましょう。

「神の選びが救いを決める」

讃美歌541/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 メッセージ;「神の選びが救いを決める」 ある牧師先生がメッセージの中で、こんなことをおっしゃっていました。キリストの香りというものは、人々を惹きつける。ごらんなさい、イエスさまの周りには、あんなにたくさんの人が集まっていたではないですか。あなたもイエスさまとの交わりを欠かさないならば、キリストの香り、魅力的な香りを放つ人になれますよ……。 イエスさまがこの地上にいらした当時も、ガリラヤであれユダヤであれ、多くの人がイエスさまの周りにいました。それはやはり、神の子だけが放つことのできる香り、キリストの香りに惹きつけられて、ということができるでしょう。それは、創造主なる神さまに創造された存在なのが人間である以上、人間として、いわば本能的な態度、とすら言えるのかもしれません。しかし、そういう人々はたしかにイエスさまが素晴らしいお方であることを知ってはいましたが、それはイエスさまが神の子そのものでいらっしゃったから、という、正しい理解を持っていたかというと、それは疑わしいものです。彼らの中でその理解がはっきりしていたならば、イエスさまのことを十字架送りにするという、とんでもなく罪深いことなどそもそもできなかったはずです。 今日の本文に登場する、イエスさまのもとにやってきた人、この人は別の福音書によれば、青年とも書かれていますし、指導者とも書かれていますが、ともかくこの人にとって、イエスさまとはどのような人物に見えたのでしょうか。まず17節から見てみますと、彼はイエスさまのもとに駆け寄り、ひざまずいてご質問しています。 この態度は、イエスさまのことを神の子、神さまと信じるゆえに、礼拝する態度からきたものでしょうか。続く彼のことばがそれを明らかにします。「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」しかし19節をご覧ください。イエスさまはこの青年の呼びかけに対し、このようにお答えになりました。「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。」 イエスさまは彼の目を、唯一まことの神さまに向けさせられました。すなわちイエスさまは、彼にとって第一の問題が、神さまとの関係がまともにできていないことであるとほのめかされたわけです。それは、彼がもし仮に、イエスさまはまことの神さまであると信じていたとしても、それは変わりなかった、神さまと彼の関係はまともにはできていなかったことになります。 イエスさまのことを「良い先生」と呼ぶのは、結構なことのようにも思えるでしょう。しかしイエスさまというお方は、父なる神さまの御姿を地上において映されるお方ゆえに「良い」また「尊い」お方なのであって、素晴らしい律法の教えをされるからとか、律法を落ち度なく守り行なっておられるからとかいったことは、あくまでイエスさまが「良い」お方であることを知る上での、副次的な要素でしかありません。 イエスさまは、この青年がそのようなレベルでご自身を理解するにとどまるゆえに、「良い先生」という呼び方をしていることを指摘されたわけです。そして、そのような理解でしかイエスさまのことを見ていないこの青年のほんとうの問題、すなわち、永遠のいのちがいただきたい、という問題に触れるために、このようなことをおっしゃいました。19節です。 このみことばは見覚えがあるでしょう。そうです。現在、ずっと毎週、「バプテスト教理問答」で学んでいる、モーセの十戒のことばです。 ただし、よく見ると、イエスさまはそっくりそのまま十戒を引き写してお語りになっているわけではありません。第六戒の「殺してはならない」、第七戒の「姦淫してはならない」、第八戒の「盗んではならない」、第九戒の「偽りの証言をしてはならない」、ひとつ飛ばして第五戒「あなたの父と母を敬え」はそのとおりですが、第九戒と第五戒の間の戒めが「だまし取ってはならない」となっています。これは、第八戒と第九戒を合わせた戒めと見ることができます。しかし、ここでイエスさまが挙げられた十戒のことばには、神との関係について語る第一戒から第四戒の戒めがありませんし、もうひとつ、第十戒の戒め「あなたの隣人の家を欲してはならない」が欠けていて、どんなに頑張って適用しようにも、この第十戒に該当するらしいことをイエスさまはお語りになっていません。これについてはのちほどあらためて見てまいります。 イエスさまは、この青年が、神の戒めを守り行うことによって救いを得て、永遠のいのちを得ることができるという、本来このユダヤの宗教社会において常識となっていた考え、さらに言えば、およそこの世に存在するあらゆる宗教に共通する考えに根差していることを前提に、神の戒めはこのようにあり、それを守り行うならばいのちを得ると理解していますね? と、戒めを列挙して問うていらっしゃるわけです。しかしこの青年は何とお答えしたでしょうか? 20節です。イエスさまがこのように挙げられた十戒の戒めは、少年のころから、すなわち、善悪の判断のつく、物心つくころから、ちゃんと守り行なってきたというわけです。 たいへんなことです。それらの戒めを落ち度なく守ってきたとは、道徳的に素晴らしい人生を歩んできた人だといえるでしょう。しかしこの「守る」ということは、積極的に守るのと、消極的に守るのでは、ちがいがあるのではないでしょうか。ユダヤの宗教社会における「律法を守る」ということは、いわば消極的に守っている状態です。イエスさまの引用していらっしゃる十戒のみことばは、「あなたの父と母を敬え」以外は、みな、「~してはならない」ということばであり、それは言ってみれば、「禁止されていることを避ければ大丈夫、この戒めを守ったことになる」ということになるわけです。 ところが、イエスさまは、たとえばマタイの福音書5章の「山上の垂訓」をお読みすればわかるとおり、「~してはならない」ということばを文字通りに守りさえすればそれで律法を守り行なったことになる、ということにはならない、律法はもっと高いレベルのことを人に要求している、という意味のことをおっしゃいました。たとえば、十戒の第六戒の「殺してはならない」という戒め、それは実際に人のいのちを奪わなければそれでよし、ということではなく、人に悪口を言っただけで、殺人罪と同じレベルのさばきを受けるものである、すなわち、悪口とは殺人に等しい、という意味のことをおっしゃいました。いったい、それでこの戒めに耐えられる人が何人いるでしょうか? またイエスさまは、同じく十戒の第七戒の「姦淫してはならない」についても、夫婦以外の関係にある人を相手に肉体的な性的行為をしなかったとしても、心の中でだれかに対していやらしい思いを抱くだけで、それは姦淫の罪を犯すことで、律法に違反している、という意味のことをおっしゃいました。そうなるといったい、どれほど多くの人がこの戒めを守れていないことになるでしょうか? それが律法を守り行うということなのです。しかしイエスさまは、青年が持っていたそのような律法に対する理解のどこが問題かを指摘することはなさらず、その代わりにこのようなチャレンジを与えられました。21節です。 まずイエスさまは、彼は実のところ、自分が言っているようには律法を完全に守ってはいない、欠けたところがある、ということをおっしゃいます。しかし、何が欠けているのかということを指摘されませんでした。その代わり、持ち物を全部売り払って、それからご自身に従ってくるように、というチャレンジをお与えになります。 すると、どうなったでしょうか? この青年はこのおことばに顔を曇らせ、悲しみながらその場を立ち去った、とあります。みことばはその理由を、彼が多くの財産を持っていたからだと説明しています。 イエスさまはまさに、このみことばひとつで、この青年が永遠のいのちをいただくにあたって、何がいちばんつまずきとなっているかを如実にお示しになったのでした。この青年の場合は、おかねへの執着がイエスさまにお従いすることを妨げていました。 しかし、この箇所をお読みするときは、注意が必要です。私たちクリスチャンは、私有財産をすべてなげうって施しをするようでなければ、イエスさまにお従いしたことにはならない、ということではありません。福音書に続く「使徒の働き」を読んでみると、初代教会の指導者であるペテロが、信徒が財産を所有することを認めています。いけないのは、土地を売ったそのお金をいくらか手元に残しておいているのに、その売ったお金すべてをささげた、と偽ることであって、財産を持つことそのものまで問題にしているのではなく、むしろ財産を持つのは信徒の自由である、と言っています。 したがって、イエスさまのこのおことばは、すべてを投げうたなければならない、とか、お金に執着してはならない、とか、そういうレベルのお説教ではないのです。もちろん、お金や財産というものに対する私たちクリスチャンの態度には、そのような姿勢を持つべきであることは事実ですが、それだけをおっしゃりたくて、イエスさまはこのようなことを青年におっしゃったのではないことを、私たちは注意する必要があります。 大前提として私たちが知るべきことは、律法をすべて守り行なったつもりになっていても、たった一つでも律法に違反しているならば、その人は律法のすべてについて責任を問われる、ということです。ヤコブの手紙2章10節にあるとおりです。この青年の場合はどうでしょうか? ここでさきほど保留にしていた、十戒の第十戒を見てみます。「あなたの隣人の家を欲してはならない。」このみことばをあえてイエスさまはおっしゃいませんでした。しかし、厳密にこのみことばを適用するならば、この青年はこの第十戒を守れていなかったのでした。 それは、こういうことです。ルカの福音書10章の「良きサマリア人のたとえ」でもお語りになったとおり、イエスさまの定義によれば、ユダヤ人が見下していたサマリア人さえ、ユダヤ人にとっては隣人でした。そのように、隣人のために何かをするためには、目の前にいる人、それこそ文字どおり「隣」にいる人が「隣人」だということがわかってはじめて、その「隣人」のために何かをするという、神さまのみこころを守り行うことができるようになります。 この青年にとって、施しをすべき貧しい人は、ユダヤという神の民の共同体にあって、経済的に守られなければならない立場にありました。ローマ人への手紙15章1節をご覧ください。神の民の共同体は、力のある者が力のない者の弱さを担うことで成り立つ世界です。ゆえに、この青年の持つ、ありあまる財産は、神さまの視点から見れば、力のない者、すなわち貧しい者の持ち物になるべきものでした。 それなのに、この青年は、自分の財産に執着したがために、貧しい隣人の持つべきものを与えるのをいやがりました。これは言ってみれば、隣人の持つべき財産への執着、形を変えた「隣人のものを欲する」ことであり、十戒の第十戒に対する違反です。そして青年はこうしてみことばに背いた代償として、イエスさまのもとを去る選択をして、その結果、イエスさまにお従いすることで得られる永遠のいのちを失うこととなりました。 しかし、イエスさまがこの青年を見つめられた、そのまなざしを想像してみましょう。イエスさまは果たして、わたしに従うのは厳しいぞ、と、意地悪でこのようなことをおっしゃったのでしょうか? そうではないはずです。なぜならばイエスさまはこのおことばを語られるにあたって、「彼を見つめ、いつくしんで言われた」とあるからです。イエスさまはこの青年を愛されました。だからこそ、こうしてご自身の前にひざまずいてでも永遠のいのちへの道を求めるゆえに、その行くべき道はこれであると、真剣にお示しになったのでした。イエスさまはたしかに全能なるお方でいらっしゃいますが、それは人間の都合に合わせて救いの道を提示されるということではありません。 救いの道はこれ、と、たったひとつの道を提示され、それに従うかどうか、その道を行くかどうかを、人に問われるのです。神さまはおひとりであるゆえに、真理はひとつ、それゆえに、救いに至る真理の道はひとつだけであり、それに従うことができなければどうしようもありません。そんな人間に対するイエスさまのまなざしは、決しておさばきになるものではなく、いつでも優しいものですが、その優しいまなざしを受け取って真理に歩むことができないほど、人は罪深い者です。 ともかく、青年は去りました。イエスさまはおっしゃいます。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。」このおことばに驚く弟子たちに、さらに重ねておっしゃいます。「子たちよ。神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」 聖書を読むと、いくつかのみことばが、神さまへの従順と富を所有することを対比させています。イエスさまは、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできません」とおっしゃっていますし、へブル人の手紙には、「金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が『わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない』と言われたからです」とありますし、ヤコブの手紙には「金持ちたちよ、よく聞きなさい。迫り来る自分たちの不幸を思って、泣き叫びなさい」とありますし、テモテへの手紙第一6章10節のパウロのことばに至っては「金銭を愛することが、あらゆる悪の根」であるとあります。こうなると、金を持っているということ、それだけでもはや、そういう人が天国に入るのは、ラクダが針の穴をくぐる以上に不可能、絶望的なことのように思えてくるかもしれません。 弟子たちもそう思ったことでしょう。彼らは言いました。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」それに対するイエスさまのお答えは明快です。27節です。あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選んだ。神が選んだ以上、あなたがたは救われている。永遠のいのちを持っている。 さて、相変わらず、ひとこと多いのがペテロです。28節のようなことを言っています。この流れでペテロがこのように言っていることは、一見すると、私たちは神さまの選びの恵みによってすべてを捨てて、あなたにお従いすることができた、と言っているように見えます。しかし、もし本当に神さまの恵みの選びに感謝しているなら、「ご覧ください」などと言って、すべてを捨ててイエスさまに弟子入りしたことをあえて誇るように言ったりするでしょうか。私たちの態度も注意する必要があります。神さまの恵み、主に栄光、ハレルヤ、と言うのは結構なのですが、その実、自分の自慢をしているようなことというのは、私たちクリスチャンには往々にしてあるものです。私たちは自慢したい、でも、自慢をする自分が後ろめたくて神さまをほめたたえているに過ぎないのではなかろうか、ほんとうに心から、神さまだけにご栄光をお帰ししているだろうか、と、自分を省みる必要があります。 29節、30節のイエスさまのみことばは、そんなペテロをたしなめるおことばではありません。一見すると、のちに大いなる祝福を受けるために、今わたしに従う証しとしてこれらのものを捨てなさい、とおっしゃっているように見えるかもしれません。しかし、そういうことではありません。神さまに選ばれ、救いの道を進む人は、自然と人生の優先順位を、このような、一般的に大事なものと思われているものから、神の国とその義に置くようになり、そのように人生が変えられた者に、神さまは、神の国とその義に添えて与える祝福として、いつの間にか捨てていたそれらのものを上回る祝福を与えてくださる、ということです。 もちろんそれも、神さまの恵みの中で起こされることです。立っていると思う者は倒れないように気をつけなさい(Ⅰコリント10:12)というみことばがありますが、このときペテロは、自分はしっかり神の国に立ってイエスさまに従っていた、という自信がありました。しかしそんなペテロも、イエスさまの十字架を前にすると無残なものでした。 そんな彼もあとになって回復をいただきましたが、少なくとも落ち込んでいたときは、この31節でお語りになったイエスさまのみことばの深い意味をかみしめ、その後初代教会の指導者となったとき、ペテロはつねに、自分が先の者として立っていられるのは神さまの恵みによるということを痛感していたことでしょう。 覚えておきましょう。天国はお金で買うものではありません。どんな努力をしても入れません。人間のわざでは救いには至れないのです。だから、自分にはみことばが守り行えないことを素直に認め、イエスさまに聴きましょう。 想像をたくましくしましょう。たしかにあの青年は、財産を手放すことはできませんでしたが、イエスさまのもとまで去ることはなかったのではないでしょうか。むしろ、彼はイエスさまのもとを離れないで、こう言うべきだったのではないでしょうか。「イエスさま、私はどうしても財産が手放せないんです! 貧しい人たちに施すのが正しいことだと分かっていても、できないんです! 永遠のいのちに入るのは厳しいですが、でも救われたいんです! 助けてください! こんな私を救ってください!」 私たちも、律法のほんとうに語ることがすべて生活に適用されると、とても救われる資格などない者です。そんな私たちは、どんなに努力しても律法を完全に守り行うことなどできません。だからこそ、そんな私たちをいつくしみ、優しく見守ってくださる、イエスさまのあわれみにすがり、罪の赦しをいただいて、恵みのうちに一歩、また一歩、前に進ませていただくばかりです。 祈りましょう。みことばに従いたい、みことばを守りたい、その思いがいつもあるのに、従えない、守れない、そんな私たちだけれども、イエスさま、救い主なるあなたさまにおすがりします。救いの道を歩ませてください。救いを完成させていただくうえで必要がないとあなたさまが見なされるものを、どうかあなたさまの恵みの中で捨てていき、それに代わる神の国の祝福を与えてください。