「神の選びが救いを決める」
讃美歌541/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 メッセージ;「神の選びが救いを決める」 ある牧師先生がメッセージの中で、こんなことをおっしゃっていました。キリストの香りというものは、人々を惹きつける。ごらんなさい、イエスさまの周りには、あんなにたくさんの人が集まっていたではないですか。あなたもイエスさまとの交わりを欠かさないならば、キリストの香り、魅力的な香りを放つ人になれますよ……。 イエスさまがこの地上にいらした当時も、ガリラヤであれユダヤであれ、多くの人がイエスさまの周りにいました。それはやはり、神の子だけが放つことのできる香り、キリストの香りに惹きつけられて、ということができるでしょう。それは、創造主なる神さまに創造された存在なのが人間である以上、人間として、いわば本能的な態度、とすら言えるのかもしれません。しかし、そういう人々はたしかにイエスさまが素晴らしいお方であることを知ってはいましたが、それはイエスさまが神の子そのものでいらっしゃったから、という、正しい理解を持っていたかというと、それは疑わしいものです。彼らの中でその理解がはっきりしていたならば、イエスさまのことを十字架送りにするという、とんでもなく罪深いことなどそもそもできなかったはずです。 今日の本文に登場する、イエスさまのもとにやってきた人、この人は別の福音書によれば、青年とも書かれていますし、指導者とも書かれていますが、ともかくこの人にとって、イエスさまとはどのような人物に見えたのでしょうか。まず17節から見てみますと、彼はイエスさまのもとに駆け寄り、ひざまずいてご質問しています。 この態度は、イエスさまのことを神の子、神さまと信じるゆえに、礼拝する態度からきたものでしょうか。続く彼のことばがそれを明らかにします。「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」しかし19節をご覧ください。イエスさまはこの青年の呼びかけに対し、このようにお答えになりました。「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。」 イエスさまは彼の目を、唯一まことの神さまに向けさせられました。すなわちイエスさまは、彼にとって第一の問題が、神さまとの関係がまともにできていないことであるとほのめかされたわけです。それは、彼がもし仮に、イエスさまはまことの神さまであると信じていたとしても、それは変わりなかった、神さまと彼の関係はまともにはできていなかったことになります。 イエスさまのことを「良い先生」と呼ぶのは、結構なことのようにも思えるでしょう。しかしイエスさまというお方は、父なる神さまの御姿を地上において映されるお方ゆえに「良い」また「尊い」お方なのであって、素晴らしい律法の教えをされるからとか、律法を落ち度なく守り行なっておられるからとかいったことは、あくまでイエスさまが「良い」お方であることを知る上での、副次的な要素でしかありません。 イエスさまは、この青年がそのようなレベルでご自身を理解するにとどまるゆえに、「良い先生」という呼び方をしていることを指摘されたわけです。そして、そのような理解でしかイエスさまのことを見ていないこの青年のほんとうの問題、すなわち、永遠のいのちがいただきたい、という問題に触れるために、このようなことをおっしゃいました。19節です。 このみことばは見覚えがあるでしょう。そうです。現在、ずっと毎週、「バプテスト教理問答」で学んでいる、モーセの十戒のことばです。 ただし、よく見ると、イエスさまはそっくりそのまま十戒を引き写してお語りになっているわけではありません。第六戒の「殺してはならない」、第七戒の「姦淫してはならない」、第八戒の「盗んではならない」、第九戒の「偽りの証言をしてはならない」、ひとつ飛ばして第五戒「あなたの父と母を敬え」はそのとおりですが、第九戒と第五戒の間の戒めが「だまし取ってはならない」となっています。これは、第八戒と第九戒を合わせた戒めと見ることができます。しかし、ここでイエスさまが挙げられた十戒のことばには、神との関係について語る第一戒から第四戒の戒めがありませんし、もうひとつ、第十戒の戒め「あなたの隣人の家を欲してはならない」が欠けていて、どんなに頑張って適用しようにも、この第十戒に該当するらしいことをイエスさまはお語りになっていません。これについてはのちほどあらためて見てまいります。 イエスさまは、この青年が、神の戒めを守り行うことによって救いを得て、永遠のいのちを得ることができるという、本来このユダヤの宗教社会において常識となっていた考え、さらに言えば、およそこの世に存在するあらゆる宗教に共通する考えに根差していることを前提に、神の戒めはこのようにあり、それを守り行うならばいのちを得ると理解していますね? と、戒めを列挙して問うていらっしゃるわけです。しかしこの青年は何とお答えしたでしょうか? 20節です。イエスさまがこのように挙げられた十戒の戒めは、少年のころから、すなわち、善悪の判断のつく、物心つくころから、ちゃんと守り行なってきたというわけです。 たいへんなことです。それらの戒めを落ち度なく守ってきたとは、道徳的に素晴らしい人生を歩んできた人だといえるでしょう。しかしこの「守る」ということは、積極的に守るのと、消極的に守るのでは、ちがいがあるのではないでしょうか。ユダヤの宗教社会における「律法を守る」ということは、いわば消極的に守っている状態です。イエスさまの引用していらっしゃる十戒のみことばは、「あなたの父と母を敬え」以外は、みな、「~してはならない」ということばであり、それは言ってみれば、「禁止されていることを避ければ大丈夫、この戒めを守ったことになる」ということになるわけです。 ところが、イエスさまは、たとえばマタイの福音書5章の「山上の垂訓」をお読みすればわかるとおり、「~してはならない」ということばを文字通りに守りさえすればそれで律法を守り行なったことになる、ということにはならない、律法はもっと高いレベルのことを人に要求している、という意味のことをおっしゃいました。たとえば、十戒の第六戒の「殺してはならない」という戒め、それは実際に人のいのちを奪わなければそれでよし、ということではなく、人に悪口を言っただけで、殺人罪と同じレベルのさばきを受けるものである、すなわち、悪口とは殺人に等しい、という意味のことをおっしゃいました。いったい、それでこの戒めに耐えられる人が何人いるでしょうか? またイエスさまは、同じく十戒の第七戒の「姦淫してはならない」についても、夫婦以外の関係にある人を相手に肉体的な性的行為をしなかったとしても、心の中でだれかに対していやらしい思いを抱くだけで、それは姦淫の罪を犯すことで、律法に違反している、という意味のことをおっしゃいました。そうなるといったい、どれほど多くの人がこの戒めを守れていないことになるでしょうか? それが律法を守り行うということなのです。しかしイエスさまは、青年が持っていたそのような律法に対する理解のどこが問題かを指摘することはなさらず、その代わりにこのようなチャレンジを与えられました。21節です。 まずイエスさまは、彼は実のところ、自分が言っているようには律法を完全に守ってはいない、欠けたところがある、ということをおっしゃいます。しかし、何が欠けているのかということを指摘されませんでした。その代わり、持ち物を全部売り払って、それからご自身に従ってくるように、というチャレンジをお与えになります。 すると、どうなったでしょうか? この青年はこのおことばに顔を曇らせ、悲しみながらその場を立ち去った、とあります。みことばはその理由を、彼が多くの財産を持っていたからだと説明しています。 イエスさまはまさに、このみことばひとつで、この青年が永遠のいのちをいただくにあたって、何がいちばんつまずきとなっているかを如実にお示しになったのでした。この青年の場合は、おかねへの執着がイエスさまにお従いすることを妨げていました。 しかし、この箇所をお読みするときは、注意が必要です。私たちクリスチャンは、私有財産をすべてなげうって施しをするようでなければ、イエスさまにお従いしたことにはならない、ということではありません。福音書に続く「使徒の働き」を読んでみると、初代教会の指導者であるペテロが、信徒が財産を所有することを認めています。いけないのは、土地を売ったそのお金をいくらか手元に残しておいているのに、その売ったお金すべてをささげた、と偽ることであって、財産を持つことそのものまで問題にしているのではなく、むしろ財産を持つのは信徒の自由である、と言っています。 したがって、イエスさまのこのおことばは、すべてを投げうたなければならない、とか、お金に執着してはならない、とか、そういうレベルのお説教ではないのです。もちろん、お金や財産というものに対する私たちクリスチャンの態度には、そのような姿勢を持つべきであることは事実ですが、それだけをおっしゃりたくて、イエスさまはこのようなことを青年におっしゃったのではないことを、私たちは注意する必要があります。 大前提として私たちが知るべきことは、律法をすべて守り行なったつもりになっていても、たった一つでも律法に違反しているならば、その人は律法のすべてについて責任を問われる、ということです。ヤコブの手紙2章10節にあるとおりです。この青年の場合はどうでしょうか? ここでさきほど保留にしていた、十戒の第十戒を見てみます。「あなたの隣人の家を欲してはならない。」このみことばをあえてイエスさまはおっしゃいませんでした。しかし、厳密にこのみことばを適用するならば、この青年はこの第十戒を守れていなかったのでした。 それは、こういうことです。ルカの福音書10章の「良きサマリア人のたとえ」でもお語りになったとおり、イエスさまの定義によれば、ユダヤ人が見下していたサマリア人さえ、ユダヤ人にとっては隣人でした。そのように、隣人のために何かをするためには、目の前にいる人、それこそ文字どおり「隣」にいる人が「隣人」だということがわかってはじめて、その「隣人」のために何かをするという、神さまのみこころを守り行うことができるようになります。 この青年にとって、施しをすべき貧しい人は、ユダヤという神の民の共同体にあって、経済的に守られなければならない立場にありました。ローマ人への手紙15章1節をご覧ください。神の民の共同体は、力のある者が力のない者の弱さを担うことで成り立つ世界です。ゆえに、この青年の持つ、ありあまる財産は、神さまの視点から見れば、力のない者、すなわち貧しい者の持ち物になるべきものでした。 それなのに、この青年は、自分の財産に執着したがために、貧しい隣人の持つべきものを与えるのをいやがりました。これは言ってみれば、隣人の持つべき財産への執着、形を変えた「隣人のものを欲する」ことであり、十戒の第十戒に対する違反です。そして青年はこうしてみことばに背いた代償として、イエスさまのもとを去る選択をして、その結果、イエスさまにお従いすることで得られる永遠のいのちを失うこととなりました。 しかし、イエスさまがこの青年を見つめられた、そのまなざしを想像してみましょう。イエスさまは果たして、わたしに従うのは厳しいぞ、と、意地悪でこのようなことをおっしゃったのでしょうか? そうではないはずです。なぜならばイエスさまはこのおことばを語られるにあたって、「彼を見つめ、いつくしんで言われた」とあるからです。イエスさまはこの青年を愛されました。だからこそ、こうしてご自身の前にひざまずいてでも永遠のいのちへの道を求めるゆえに、その行くべき道はこれであると、真剣にお示しになったのでした。イエスさまはたしかに全能なるお方でいらっしゃいますが、それは人間の都合に合わせて救いの道を提示されるということではありません。 救いの道はこれ、と、たったひとつの道を提示され、それに従うかどうか、その道を行くかどうかを、人に問われるのです。神さまはおひとりであるゆえに、真理はひとつ、それゆえに、救いに至る真理の道はひとつだけであり、それに従うことができなければどうしようもありません。そんな人間に対するイエスさまのまなざしは、決しておさばきになるものではなく、いつでも優しいものですが、その優しいまなざしを受け取って真理に歩むことができないほど、人は罪深い者です。 ともかく、青年は去りました。イエスさまはおっしゃいます。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。」このおことばに驚く弟子たちに、さらに重ねておっしゃいます。「子たちよ。神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」 聖書を読むと、いくつかのみことばが、神さまへの従順と富を所有することを対比させています。イエスさまは、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできません」とおっしゃっていますし、へブル人の手紙には、「金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が『わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない』と言われたからです」とありますし、ヤコブの手紙には「金持ちたちよ、よく聞きなさい。迫り来る自分たちの不幸を思って、泣き叫びなさい」とありますし、テモテへの手紙第一6章10節のパウロのことばに至っては「金銭を愛することが、あらゆる悪の根」であるとあります。こうなると、金を持っているということ、それだけでもはや、そういう人が天国に入るのは、ラクダが針の穴をくぐる以上に不可能、絶望的なことのように思えてくるかもしれません。 弟子たちもそう思ったことでしょう。彼らは言いました。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」それに対するイエスさまのお答えは明快です。27節です。あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選んだ。神が選んだ以上、あなたがたは救われている。永遠のいのちを持っている。 さて、相変わらず、ひとこと多いのがペテロです。28節のようなことを言っています。この流れでペテロがこのように言っていることは、一見すると、私たちは神さまの選びの恵みによってすべてを捨てて、あなたにお従いすることができた、と言っているように見えます。しかし、もし本当に神さまの恵みの選びに感謝しているなら、「ご覧ください」などと言って、すべてを捨ててイエスさまに弟子入りしたことをあえて誇るように言ったりするでしょうか。私たちの態度も注意する必要があります。神さまの恵み、主に栄光、ハレルヤ、と言うのは結構なのですが、その実、自分の自慢をしているようなことというのは、私たちクリスチャンには往々にしてあるものです。私たちは自慢したい、でも、自慢をする自分が後ろめたくて神さまをほめたたえているに過ぎないのではなかろうか、ほんとうに心から、神さまだけにご栄光をお帰ししているだろうか、と、自分を省みる必要があります。 29節、30節のイエスさまのみことばは、そんなペテロをたしなめるおことばではありません。一見すると、のちに大いなる祝福を受けるために、今わたしに従う証しとしてこれらのものを捨てなさい、とおっしゃっているように見えるかもしれません。しかし、そういうことではありません。神さまに選ばれ、救いの道を進む人は、自然と人生の優先順位を、このような、一般的に大事なものと思われているものから、神の国とその義に置くようになり、そのように人生が変えられた者に、神さまは、神の国とその義に添えて与える祝福として、いつの間にか捨てていたそれらのものを上回る祝福を与えてくださる、ということです。 もちろんそれも、神さまの恵みの中で起こされることです。立っていると思う者は倒れないように気をつけなさい(Ⅰコリント10:12)というみことばがありますが、このときペテロは、自分はしっかり神の国に立ってイエスさまに従っていた、という自信がありました。しかしそんなペテロも、イエスさまの十字架を前にすると無残なものでした。 そんな彼もあとになって回復をいただきましたが、少なくとも落ち込んでいたときは、この31節でお語りになったイエスさまのみことばの深い意味をかみしめ、その後初代教会の指導者となったとき、ペテロはつねに、自分が先の者として立っていられるのは神さまの恵みによるということを痛感していたことでしょう。 覚えておきましょう。天国はお金で買うものではありません。どんな努力をしても入れません。人間のわざでは救いには至れないのです。だから、自分にはみことばが守り行えないことを素直に認め、イエスさまに聴きましょう。 想像をたくましくしましょう。たしかにあの青年は、財産を手放すことはできませんでしたが、イエスさまのもとまで去ることはなかったのではないでしょうか。むしろ、彼はイエスさまのもとを離れないで、こう言うべきだったのではないでしょうか。「イエスさま、私はどうしても財産が手放せないんです! 貧しい人たちに施すのが正しいことだと分かっていても、できないんです! 永遠のいのちに入るのは厳しいですが、でも救われたいんです! 助けてください! こんな私を救ってください!」 私たちも、律法のほんとうに語ることがすべて生活に適用されると、とても救われる資格などない者です。そんな私たちは、どんなに努力しても律法を完全に守り行うことなどできません。だからこそ、そんな私たちをいつくしみ、優しく見守ってくださる、イエスさまのあわれみにすがり、罪の赦しをいただいて、恵みのうちに一歩、また一歩、前に進ませていただくばかりです。 祈りましょう。みことばに従いたい、みことばを守りたい、その思いがいつもあるのに、従えない、守れない、そんな私たちだけれども、イエスさま、救い主なるあなたさまにおすがりします。救いの道を歩ませてください。救いを完成させていただくうえで必要がないとあなたさまが見なされるものを、どうかあなたさまの恵みの中で捨てていき、それに代わる神の国の祝福を与えてください。