「いやしの目的は神の栄光 その1」
聖書;列王記第二5:1~8/メッセージ;「いやしの目的は神の栄光 その1」 先週で、マルコの福音書の講解が10章の終わりとなり、次の11章からはイエスさまのエルサレム入城、最後の一週間を扱う箇所ということで、切りのいいところとなりました。そこで、今うちの教会に必要なメッセージは何だろう、と、祈りつつ思い巡らしましたところ、うちの教会はいま特に、「いやし」のために祈ることが必要であるという導きを、祈りのうちにいただきました。 ただ、聖書の中には、イエスさまがなさったいやしのみわざをはじめ、癒やしに関する記事が多岐にわたって登場していて、集中して扱うには、箇所をある程度絞る必要がありました。その結果、今日から1か月の間、聖書がいやしというものをどのように語っているかを学ぶ上で、とてもふさわしい本文に行きつきました。それが、列王記第二の5章のみことばです。 この列王記第二の5章は全体を、4つに分けることができます。それを今月、1週間ずつ学んでまいりたいと思います。この箇所は、いやしというものがいかに、創造主なる神さまの栄光を顕すものであるか、とてもよく語っています。ともに学んで、私たちもまた、自分はいやされる、また、人をいやす働きに用いていただける、という信仰を持つことができるならば、とても幸いです。 さて、それでは、今日の箇所に入るにあたって、おもな登場人物とその背景の説明からまいります。まず、ナアマン将軍が登場します。アラムという国の将軍です。アラムはイスラエルの隣国でしたが、たびたびイスラエルに攻撃を仕掛けていて、そういう意味ではイスラエルに敵対する国でした。また、再来週学びますとおり、アラムは創造主なるまことの神さまではない、偶像の神を礼拝する国でした。そういう意味でも神さまのみこころに反していました。ナアマンとはそういう国の将軍であったわけです。 もうひとりのおもな登場人物はエリシャです。彼の師に当たるエリヤは、イスラエルが国を挙げて偶像礼拝に傾いていた時代、まことの神さまに民を立ち帰らせるために大いに戦った預言者です。以前、イエスさまの「変貌山」に関するメッセージをいたしましたが、変貌山においてエリヤは、何百年の時を超えて、生きてイエスさまの前に現れました。それほど特別な人物、特別な預言者でした。 そのエリヤの跡を継いだ預言者が、エリシャです。エリヤが竜巻に乗せられて天に引き上げられるとき、エリシャは「あなたの霊の分け前の2倍の分を私にください」と頼みましたが、この願いはかなえられたようだということが、聖書を読むと分かります。といいますのも、エリヤは多くの奇跡を行いましたが、聖書に記録された奇跡のその数を数えると8つです。これに対して、エリシャの行なった奇跡で、聖書に記録されているものの数を数えると、16になります。たしかに2倍です。その分大いに用いられた預言者でした。 エリシャに関する記述は、列王記第二の1章に入って始まります。本日の箇所は5章ですが、この5章の前の4章までにかぎっても、相当いろいろなみわざを行なって、神さまに用いられてることが分かります。エリヤはすごい預言者でしたが、エリシャは、そのエリヤなきあとの預言者の役割を、充分果たしていると言えるでしょう。エリシャの本日の箇所に至るまでの経歴については、今日のメッセージでは詳しく扱いませんので、あとでおうちにお帰りになって、列王記第二の1章から4章までをお読みください。エリシャをどれほど神さまがお用いになったかよくわかります。読んで、驚いて、神さまを賛美していただければと思います。 それでは今日の本文にまいります。1節のみことばです。ナアマンという人が紹介されています。この1節だけでも、ナアマンがどのような人かがわかります。まず、ナアマンがアラムの将軍であることはすでにお話ししたとおりですが、主君に重んじられていた人でした。また、尊敬されていた人でした。その理由も書かれています。それは、主が彼をとおしてアラムに勝利をもたらされたからだ、とあります。 この記述は注目に値します。といいますのも、先ほど申しましたとおり、アラムは本来、主の民イスラエルに敵対する、しかも偶像礼拝の民です。その国が勝利を得ることなど、主のみこころにかなうはずがないと思いませんでしょうか? ところがみことばは、アラムに勝利をもたらされたのが主であると語っています。どういうことでしょうか? これは、「だれによって」主が勝利させてくださったか、ということから考えてまいりたいと思います。つまり、神さまはナアマンを選び、お用いになったのでした。その結果、ナアマンはアラムに勝利をもたらした将軍として、主君である王に重んじられ、国民の尊敬を集めるに至ったのでした。これは、主が、ナアマンをすでに選んでおられ、選びの恵み相応の祝福を与えておられた、ということです。 ナアマンに対する神さまのこの愛は、まさに、イザヤ書43章4節で、主ご自身がお語りになったとおりです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりとし、国民をあなたのいのちの代わりにする。」それでは、ナアマンを愛しておられる神さまの愛を示す「国民」とは、どの国でしょうか? これは、イスラエルと見るのが妥当です。当時イスラエルは、神の民の国でありながら、神を捨て、バアル礼拝や金の子牛礼拝に陥るような、まるっきり神の民にふさわしくない集団へと堕落してしまっていました。そのようなイスラエルを懲らしめるため、神さまは周辺の国々をお用いになり、彼らに攻撃させて敗北を味わわせられたのでした。 ナアマン将軍が主によって勝利を得たとは、ほかならぬ、アラムの勝利、すなわちイスラエルの敗北が、神さまから出たことである、ということです。しかし、神さまはそのようにイスラエルの悔い改めのためにお用いになったナアマンのことをすでに選んでおられた、愛しておられたわけです。 私たちは時に、信仰の歩みをするゆえに周りの迫害にあうことがあるものです。しかしみことばは語ります。あなたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません。もし、私たちが実際の行動をもって彼ら迫害者を祝福するならば、それは彼らの頭に燃える炭火を積み上げるがごとき復讐を果たすことになるのである……ローマ人への手紙12章の終わりの部分にそのような書かれています。私たちはなぜ、彼らを祝福するのでしょうか? クリスチャンに敵対するならばそれは神に敵対することではないだろうか? そういう人を神さまは嫌っておられるのではないか? そうではありません。神さまはそのような人でも愛しておられるのです。考えてみましょう。私たちももともと、神さまに敵対していた存在でした。しかし、あわれみ豊かな神さまは、私たちにイエスさまの十字架を信じる信仰を与えてくださり、神さまのものとしてくださいました。そんな私たちが祝福をいただいているように、私たちは、私たちを迫害する人たちに対する神さまの愛を信じて、彼らを受け入れ、祝福すべきです。彼らの迫害によって私たちがますます、神さまに対する信仰をしっかり持つという祝福をいただくなら、なおさら彼らを愛し、祝福する必要があるのではないでしょうか。 そういうわけで神さまの特別な選びと祝福をいただいていたナアマンでしたが、彼はツァラアトを病んでいました。新改訳聖書が2004年から「ツァラアト」と訳すようになったこの病は、重い皮膚病を指します。ただし、この「ツァラアト」というものは、人体にかぎらず、建物の壁のようなところにも現れるとみことばにあるので、新改訳聖書では「ツァラアト」と、原語そのままを用いているわけです。この「ツァラアト」を病む人は、律法によれば「汚れている」存在として扱われ、それ相応の処置を受けることになります。それは第一に、ツァラアトとは伝染病であるので、共同体に広がってみなを病ませるようなことがないようにするためですが、共同体とはすなわち、創造主なる神さまに対する信仰の共同体であるゆえ、そこで「汚れている」とみなされるならば、宗教的なけがれを身に帯びているということにもなったわけでした。それで、イスラエルにおいては、霊的な意味でも忌み嫌われることになりました。 アラムはもちろん、まことの神さまに対する信仰共同体ではなく、律法によってツァラアトをけがれと規定する社会ではありません。 しかし、この伝染性の皮膚病が、ナアマンにとってはきわめてつらい病であったことはたしかです。かつての日本語訳の聖書ではこの「ツァラアト」は、現代でいう「ハンセン氏病」を意味することばに訳されていて、それは人権を尊重する社会になった現代にそぐわないこともあって、新改訳聖書のみならずほかの訳の聖書でもこの病名は使われなくなりましたが、もし仮にナアマン将軍が病んでいるこの「ツァラアト」が「ハンセン氏病」に類する重病ならば、イスラエルどころではなく、どんな社会であれ大変なことです。王に信頼され、民に尊敬される身であろうとも、その肝心の自分がこんな病気ならば、そんな社会的信頼や武勲など何になろうか、といったところでしょう。それに、下手をすればアラムの軍隊はおろか、アラムの社会そのものからも抹殺されてしまいます。 最近は自分の闘病生活をインターネットで発信することで稼ぐ人が現れるなど、社会が人の病気や障がいというものに寛容になって、それはいいことなのですが、本来、人が社会において活動するときは、ほかの人には基本的に、その人が個人的に抱えている、肉体の病気を含む病んでいる部分は見えないものです。そもそも、正真正銘の病気の人ならともかく、ある程度の社会的地位にある人は、そういう弱い部分をだれに対してもことさらに見せながら社会生活を営むわけにはまいりません。 その点で、ナアマンは軍人、しかも将軍であり、ツァラアトのような自分の病気を言い訳にして、周りの好意に甘えることなど許されない立場にありましたし、そんなことをするのは軍人としての沽券にかかわることでもありました。しかし、彼の身を病気がむしばんでいたということもまた厳然たる事実であったわけで、社会的地位と、社会から抹殺されかねない病気のはざまで、ナアマンは相当な葛藤の中にありました。 しかし、ここに神さまは、ひとりの若い女性を備えていました。彼女はアラムがイスラエルに戦争を仕掛けたとき、拉致されてアラムに来て、ナアマンの妻のもとで働いていた人でした。しもべ、もっとありていに言ってしまえば、奴隷です。ところが、神さまは彼女をお用いになりました。彼女は、自分がいかにアラムの地に住み、その地の有力者に仕える身となっていたとしても、イスラエルという神の民の一員として、その本分をきちんと果たしました。彼女はどんな行動に出たのでしょうか? 3節です。 サマリアにいる預言者で、ツァラアトさえも治せる神の力を持つ人といえば、エリシャをおいてほかにいません。しかし、そのエリシャに会うには、まず、イスラエルに入国する必要があります。エリシャをアラムに呼びつけるのではなく、自分からイスラエルに出向くのです。そして、そのイスラエルという領域の中で、エリシャの祈りを受ける必要があります。 これは、へりくだっていないとできないことです。アラムはすでにイスラエルを負かしていて、現にこうして捕虜の女の子さえも連れてきていたほどだったわけで、アラムにとってイスラエルは格下の存在でした。そんなイスラエルでしたが、ナアマンは行って治してもらおうと思い立ちました。やはりそれは、病気というものが彼を謙遜にさせたと見るべきでしょう。 無病息災、ということばはよく言われますが、それに代わることばとして、「一病息災」ということがよく言われるようになりました。病気を抱えていると自覚することで、かえって、健康というものが当たり前に手にしているものではないことを認め、へりくだるわけです。ナアマンもまた、この病を抱えていたことにより、俺は天下のアラムの将軍だ、などという態度にならず、格下の国と民族であるはずのイスラエルに預言者の存在を認め、そのもとに行くことを決めたのでした。 ここにも、神さまがナアマンを愛により選んでおられたしるしが現れています。ナアマンによってアラムが勝利を得たこと、その結果王の信任と民の尊敬を得られたこと、その一方でツァラアトを病むという絶望的な弱さを抱えていたこと、ところがそんなナアマンのもとに、神の民の一員であるイスラエルの娘がいて、彼女がエリシャのことを知っていたこと……すべてが、エリシャをとおしてまことの神さまに出会うために、神さまが備えておられたことでした。 病気というものそのものを神さまの賜物と言うことには慎重になる必要があるでしょう。しかし、もし人が、病気という弱さをとおして神さまに出会ったり、神さまとより深い交わりに入れられたりするならば、それは祝福ということができるでしょう。もちろん、病気をいやしてくださり、その苦しみを取り去ってくださる、神さま、イエスさまとの出会いと交わりを体験するようになるゆえの祝福です。 ナアマンは、自分をイスラエルに行かせてほしいと、王に直訴しました。王はナアマンに、イスラエルの王に宛てた親書を持たせて送り出しました。ところがイスラエルの王は、ナアマンのツァラアトを治してほしいというアラムの王のメッセージに震え上がりました。そんなことはできっこない。できなかったらこれを言いがかりにして、わが国をまたもや攻撃するつもりなのだ。 ナアマンには明らかに、ツァラアトを癒やしていただけるという信仰があったからこそ、こうして遠路はるばる、イスラエルの王のもとまで来たわけでした。アラムの王は、忠臣であるナアマンがツァラアトに冒されていることが問題であることを知っていて、だからこそ彼をイスラエルまで送ったわけですが、もしかするとアラムの王には、ナアマンのような信仰などなく、イスラエルの王が憂慮したとおり、これはイスラエルを攻撃する絶好のチャンスだと見なした深謀遠慮があったのかもしれません。もっとも、この本文はアラムの王のことが主題ではないので、彼がどんな動機でナアマンを送ったかは特に詮索する必要はないのですが、重要なのは、肝心のイスラエルの王が、エリシャという人がありながらその存在をすっかり忘れ、まるでイスラエルには神がいないかのようにうろたえたことです。 列王記第二を順番に、時系列に沿って読み進めると、この王はあの悪名高いアハブの息子のヨラムであると思われます。列王記第二の3章を見てみると、エリシャはこのヨラム王のことを、イスラエルの王としても、神の民の霊的なリーダーとしても、まったく評価していなかったことが分かります。アラム王の親書の内容に衣を引き裂いて悲憤慷慨したヨラムの態度は、エリシャが軽蔑したのももっともな、いかにも不信仰なものでした。 しかし、エリシャはそのように、不信仰のあまりにみっともない姿をさらした王のことを見捨てませんでした。エリシャは、ナアマンを治してあげようと宣言しました。それはなぜでしょうか? 王の体面を保ってあげるためだったのでしょうか? そうではありません。8節のみことばによれば、「彼、すなわちナアマンが、イスラエルに預言者がいることを知る」ため、つまり、ナアマンが、イスラエルにご自身の預言者をお立てになったまことの神さまに出会うためでした。 肉体がいやされることはみこころです。神さまは私たちの肉体をいやしてくださることによってそのご栄光を顕してくださるお方です。ゆえに私たちのすることは、治らない、治せない、と、イスラエルの王のように自暴自棄になることではありません。それはいかにも神さまを信じていない、現実的にすぎる態度です。そういう態度はクリスチャンとしてふさわしくありません。 私たちはまず、神さまが病をいやしてくださるのがみこころである、という大前提から出発すべきです。もし私たちが病気になったなら、どう祈りますか? 癒やされなくてもみこころです、などと祈るのは、全てを受け入れたしおらしい態度のように一見見えても、それは神さまが全能なる癒やし主であることを考えようとしない、不信仰な態度ではないでしょうか。主はいやしてくださることによって、癒やし主としてのそのご栄光を顕してくださることを信じているなら、私たちはそのご栄光を見せていただきたいと思いませんか? それならば、私たちは切に祈って願う必要があります。自分自身のためにも、この教会という共同体に属する兄弟姉妹のためにも。いま、病の中にある兄弟姉妹のために祈りましょう。主はいやしのわざをもって、ご自身のご栄光を顕してくださいます。