「いやしは神の栄光のため その2」
聖書;列王記第二5:9~14/メッセージ;「いやしは神の栄光のため その2」 先週のメッセージで、私たちは、病の癒やしというものが神さまのみこころであることを学びました。マクチェイン式の聖書通読をしていらっしゃる方はご記憶のことと思いますが、先週の火曜日の箇所、イザヤ書38章をお読みしますと、神さまのみことばを受けた預言者イザヤが、ユダの王ヒゼキヤに、主はこう告げられる、あなたの病気は治らない、あなたは死ぬ、と語ります。するとヒゼキヤは大いに悲しみ、顔を壁に向けて真剣に祈ります。すると神さまはヒゼキヤのこの祈りを受け入れてくださり、彼の寿命をもう15年延ばすと約束してくださいました。 この箇所からわかることは、もし死ぬことが定まっているかのように告げられたとしても、希望を失ってはいけない、祈りをもって神さまの御前に進み出て、あわれみを求めよう、ということです。なぜ、ヒゼキヤはこのように祈らざるをえなかったのでしょうか? それは、ヒゼキヤの治めるユダ王国にとってはなおアッシリアが脅威であり、いま自分が死んでしまっては、アッシリアに滅ぼされてしまう、という危機感がヒゼキヤにはあったからです。 私たちがもし、この世においてまだすべきことが多く残されているならば――それは多くの人にとってそうでしょう――私たちはとにかく、生き残ることを選んでいくべきです。それでも神さまは私たちに、病気という名の試練を与えられることがあります。そんなとき、もし私たちが神さまの御前に徹底して生きているならば、ああ、もうこんな大変な世の中と別れられてよかった、とはならないはずです。病気のような大変な状況に置かれるときこそ、私たちは神さまのあわれみを、イエスさまのいやしを求める者となりましょう。そしていやしをいただいたならば、神さまがなお自分のことを用いてくださることに感謝しましょう。 それでは今日のみことばにまいります。アラムからイスラエルの王のもとにやってきたナアマン将軍を、私のもとによこしなさい、と、預言者エリシャは言いました。それは、8節のみことばにあるとおり、「そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう」、つまり、ナアマンが、イスラエルの神でありまことのいやし主である主の栄光を見るため、そうして、主を信じ受け入れるためです。イスラエルの王はナアマンが来たことを、アラムの王が言いがかりをつけてきたのだと震えあがりましたが、エリシャはむしろ、これは主の栄光があらわされる絶好の機会だととらえました。とらえ方がちがうのです。 こうしてエリシャは、ナアマンを迎え入れる準備は整っていることを王に告げました。それを受けて、ナアマンはエリシャのもとに行きました。しかし、そのいでたちといえば、馬と戦車です。馬に曳かせた戦車で馳せ参じてきました。われこそはアラムの将軍である、さあ、治していただきたい、そんな堂々としたナアマンの態度が見えてくるようです。 ところが、エリシャはナアマンに面会しようとしません。使いの者がナアマンに面会し、そして、なんと言ったでしょうか?「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだは元どおりになって、きよくなります。」 これは取りようによっては、門前払いとも言えることです。ナアマンはこうして、格下の国であるイスラエルにわざわざ赴き、威儀を正して面会に来たというのに、これではまるでけんもほろろの態度だ、失礼だ、と思ったのでしょう。 しかしここで私たちは、ナアマンが何を問題にしたのかを見る必要があります。11節のみことばにそれが現れています。まず、ナアマンは、エリシャが自分の前に出てこなかったことに憤慨します。ナアマンはエリシャが出てきたならば、どんなことに期待したのでしょうか? ナアマンはこんなことをしもべたちに言っています。「彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で手を動かし、ツァラアトに冒されたこの者を治してくれると思っていた。」 まずナアマンは、「彼の神」という言い方をしています。まことの神さまはたしかにイスラエルの神でいらっしゃいますが、ナアマンのこのことばを見ると、弱小国家イスラエルにとっての神、という意味にしかなっていません。 その神が、強い国であるアラムの将軍である私に仕えるのだ、という、ナアマンの驕りが透けて見えます。ナアマンがもし、「彼の神」という発想を捨てられなかったならば、そのイスラエルの神、エリシャの神の力によりツァラアトがいやされようとも、そのいやしをもたらしてくださった神さまを信じる、すなわち神さまに献身するには至ったでしょうか。疑わしいことです。 ナアマンはさらに、このようなことを言っています。12節です。単に川に入ってきよくなれというならば、わざわざ遠路イスラエルまで来て、ヨルダン川に入らなくても、アラムを流れるアマナやパルパルに入れば充分ではないか。何が悲しくてこんな遠い国、弱小の国の川に入れというのか? しかし、もしナアマンがこの態度のままでいたならば、彼のツァラアトは治りませんでした。なぜでしょうか? エリシャの告げたいやしの方法、すなわち、神さまのみこころにかなったいやしの方法に従っていないからです。従えないのは、ナアマンが考えていたいやしの方法こそが正しいと考えたからでした。 たしかに、その国で「神の人」としてみなの尊敬を集めている、いわゆる「霊的な」人物が現れて、何やら唱えながら手を動かすならば、いかにも治りそうに思えないでしょうか。しかしこれは、神さまのお取りになる方法ではありませんでした。神さまはどこまでも、ヨルダン川で七回身を洗いなさい、とおっしゃっただけです。 7回、というのは、神さまがみわざを行われるにあたって人がアクションを起こすべき回数として、神さまがお命じになった回数として、聖書のほかの箇所にも登場します。ヨシュアに率いられたイスラエルがエリコに攻め入るとき、その城壁を七日間、一日に一周して、最後の七日目には七周したとき、神さまはエリコの城壁を崩壊させられました。7、という数字はそもそも、神さまが6日で世界をおつくりになり、七日目にお休みになったという、完全な創造の秩序を象徴する、完全数でもあります。 そして、ヨルダン川は、なんといっても、イエスさまがバプテスマをお受けになった場所です。イエスさまがバプテスマをお受けになったとき、聖霊がお下りになり、父なる神さまが、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」とおっしゃいました。まさに、三位一体の神さまのご栄光に満ちたご臨在がいちどきに現れた場所、それがヨルダン川です。神さまはそのヨルダン川でこそみわざを行われるのであって、アラムの川でもいいわけではなかったのでした。 もちろん、そのようなことをナアマンは理解していたわけではありませんでした。あまりにも自分は馬鹿にされたと思い、国に帰ることにしました。しかし、彼のしもべたちは、このようなことを言いました。13節です。 しもべたちも面白いことを言うと思いませんか? もっと難しいことを命じたら、あなたはお従いになるでしょう? たしかにそうではないでしょうか? ナアマンは治りたい一心で、たくさんの金や銀や晴れ着を携えて、遠路はるばるイスラエルまで来たわけです。それほどの努力を惜しまないならば、どんな荒行苦行を命じられても、喜んでするんじゃないでしょうか? それこそ日本の感覚でいえば、滝に打たれたり、札所巡りをしたり、お百度参りをしたり、といったところでしょうか。それは時間をかけて肉体を苛め抜くことですが、それでも治るならと信じて、取り組むわけです。 ところが、そういう荒行では治らないわけです。治るには、エリシャに告げられた神さまの方法に従うこと、これしかありません。これは、罪が赦され、きよいものとされるために、神さまが私たちに定めておられること、そう、イエスさまを信じ受け入れることと共通します。 私たちはイエスさまを信じています。こんなにも簡単に罪が赦され、神さまの子どもとなり、永遠のいのちが与えられ、神さまに用いられるすばらしい生き方ができるなんて! 私たちは、信仰による救いというものがあまりにも単純なことに驚き、感謝するでしょう。しかし、一般的にはどうでしょうか? こんなにも簡単に救われるというのに、聖書の示す唯一の救い、永遠の救いの道である、イエスさまの十字架を信じるということに、人々は見向きもしません。その代わり、もっと別のものをお金をかけて拝んだり、まことの神さまではないもっと他のものに夢中になったりして、救いを求めます。私たちよりもよほど大変なことをしているのです。 そういう努力をする姿は、一見するととても美しく、また、そういう人はきよい、などと一般的には思われるでしょう。しかし神さまの御目から見れば、救いに到達しているわけではありません。むかしのアメリカの説教家が言ったとおりです。まるでその姿は、お魚が好きなお父さんを喜ばせようと、学校をさぼって釣りに行く子どものようだ、と。お父さんを喜ばせるには、釣りなんかしている場合じゃなくて、学校に行くしかないように、私たちは、ピントの外れた努力ではなく、神さまの望んでおられる方法で救いをいただくしかありません。 ナアマンの場合は、ただ単にいやされればよかったのではありません。イスラエルの神に出会うということは、まことの救いにあずかるということを意味します。しかしその出会いによって救われ、いやされるためには、単純にエリシャのことばを信じ受け入れるしかありませんでした。信じ受け入れたならば、そのしるしとして、ヨルダン川で7回身を洗うことをするだけでした。 果たして、ナアマンはそのとおりにしたら、彼のからだは元どおりになりました。しかし、聖書はそれだけを書いていません。幼子のからだのようになった、と書いています。幼子のような信仰をもってエリシャに与えられた神さまのことばを受け入れ、従順に従ったら、幼子のような新しい人として生まれたということを語っているわけです。 人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはない、イエスさまはそうおっしゃいました。新しく生まれるには、神さまとそのみことばを、小さな子どもが素直に信じ受け入れるように、信じ受け入れることが必要になります。 いやしということにおいても同じことが言えます。神さまはいやしてくださる、いやしてくださるのは神さまのみこころである、そのことを素直に、みことばから受け取っているならば、あと、私たちのすることは、そのみことばを握って祈ることです。それを、あれこれと複雑に考えるならば、信仰を働かせる余地がなくなりはしないでしょうか? ナアマンをご覧ください。ヒゼキヤをご覧ください。イエスさまにいやされた人々をご覧ください。みな、いやされるという信仰があり、その信仰を働かせた人たちです。 私たちは何か、いやしというものに対して、複雑に考えてはいないでしょうか。あるいは、もっと難しく考えてはいないでしょうか。救いもいやしも、神さまの賜物であり、それを受け取るには、私たちがただ、神さまの定めてくださった方法にお従いすることです。それは、お祈りです。少しも疑わずに信じて祈る。その境地に至るまで信仰を働かせるには、一にも二にも、祈ることです。 また、ほかの兄弟姉妹のためにも祈りましょう。ヤコブの手紙5章をお読みすると、病気の人は教会の長老たちを招き、オリーブ油を塗ってもらって、祈ってもらいなさいとありますが、この場合に働かせる信仰は、病んでいる人もさることながら、手を置いて祈る人たちの信仰でもあります。私たちは、神さまが病をいやされるのがみこころであると信じているならば、その信仰のとおりになるように、自分のためにも、家族のためにも、ほかの兄弟姉妹のためにも祈りましょう。