聖書;列王記第二5:20~27/メッセージ;「いやしの目的は神の栄光 その4」
はじめに、マタイの福音書10章8節の、イエスさまが弟子たちにお語りになったみことばからお読みします。「病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。」
イエスさまに救っていただき、それにふさわしい、神の国の働き人としての力が、ただで与えられた、それが私たちクリスチャンです。そんな私たちは日々イエスさまとの交わりを持つことによって、底知れぬ力に満たしていただき、また、その力を行使することができます。
その、底知れぬ力、人をいやし、人から悪いものを追い出す力は、何も金銭的なものを受け取らないで用いなさい、これが私たちに与えられた使命です。私たちが奉仕をするのも、悩んでいる人の悩みに乗るのも、みなお金をいただかないのは、そもそも私たちが、永遠の救いとそれに伴うすばらしい力を、ただでいただいているからです。
それをはき違える働き人はいったいどうなってしまうのか、それを今日のみことばから学びたいと思います。また、今日の箇所は、その働き人が悲惨な結末を迎える場面で終わっていますが、それに対して私たちがどのように理解することがふさわしいか、ともに見てまいります。
ナアマンはツァラアトがいやされ、まことの神さまへの信仰をしっかり持ってアラムへと帰っていきました。ところがそれを見て、エリシャの従者であったゲハジはたいへん残念がり、また憤慨しました。ゲハジは何と考えたのでしょうか。20節です。
ゲハジはまず、エリシャがナアマンからなにも受け取らなかったことに怒りました。そして自分は何としてでも、ナアマンからもらってこよう、と思い立ちました。
ここで、一つの注目すべきことばをゲハジはひとりごちています。「主は生きておられる。」これは、誓いのことばですが、単なる慣用句のレベルのことばではなく、生きておられる聖なる主に対する信仰に自分の全存在をかけて誓う、物凄いことばです。実はこのことばは、14節にあるとおり、エリシャがナアマンに対し、贈り物は絶対に受け取らないときっぱり誓った際、口にしたことばでした。神の人エリシャが「主は生きておられます」と口にした以上、ナアマンのその贈り物はどんなことがあっても受け取ることはできなかったのでした。
しかし、ゲハジはまったく反対のこと、すなわちナアマンからはどんなことがあっても贈り物を受け取るべきだという考えをいだくにあたって、やはり「主は生きておられる」と考えたわけです。これいかに? といったところです。
ゲハジは、エリシャの従者として、エリシャをとおして働かれる神さまのみわざを間近で体験するポジションにいました。言い換えれば、神さまご自身とそのみわざをだれよりも体験する立場にあった者でした。それだけに、自分は神さまのことをよく知っていて、神さまはそんな自分の味方であると考えたりしたのでしょう。だが、ゲハジのこの信仰は、神さまがエリシャに働かれたことに対しては完全に無視を決め込んだものであり、とてもまともな信仰とは言えませんでした。
聖書の教え、神さまの教えというものは、長いキリスト教会の歴史の中で形づくられていく中で、ほんとうに健全なもの、ほんとうに聖書的なものが生き残る流れとなって今日に至っています。
クリスチャンそれぞれに聖霊が働かれ、その個性に合わせてみわざを行われる、それは確かにそうなのですが、先人に与えられた知恵とまったく違ったことを語るようになったらどうでしょうか。その人は正統の信仰から外れていることになります。それが突き進むと「異端」だの「カルト」だのになり、そこには救いがなくなります。
ゲハジはすでに、エリシャに働かれた神さまのみこころを認めないで、自分こそが神の人であるかのように大きな勘違いをしていました。ゲハジの転落はここから始まります。欲に目がくらんだゲハジはナアマンの一行のいるところまで、かなりの距離を追いかけていきました。
急いで追いかけてくるゲハジを見て、ナアマンは戦車から降りて彼を迎えました。ナアマンはやはり、まことの神さまへの信仰をもってへりくだる人になっていて、神の人のしもべのに対しても丁重に接しました。
ナアマンは「何か変わったことでも」と尋ねました。「安心して行きなさい」とエリシャに言われて、リンモンの神に対する信仰を持つアラムの主君のもとに帰るうえでの不安を持った身を励ましてもらい、送り出されただけに、この予期せぬゲハジの登場にはかなり不安になったのではないでしょうか。自分は何かしくじったのか?
すると、ゲハジはこう言いました。22節です。……もちろん、こんなことはありません。いま、バプテスト教理問答の学びでは、十戒について学んでいますが、ゲハジの発言は、十戒の第九戒に違反していますし、さらに言えば、第十戒にも違反しています。ついでに言えば、エリシャがナアマンから財物を受け取らなかったのは、それは私のものではなく、あなたのものです、と言ったに等しいことであり、そのナアマンのものを盗ろうとした、と考えると、第八戒にも違反しています。これだけでも相当に、神さまのみこころを犯していて、もはや神の働き人、神のしもべなどと呼べたようなものではありませんでした。
しかし、ゲハジの犯した罪は、そんなレベルではないほどに大きな罪でした。ナアマンは、いえ、エリシャ先生がそうおっしゃったということは、私はそれをお渡しすることはみこころではないと理解していますので、と答えるかもしれませんでした。また、本来のナアマンならば、ゲハジを格下に見て、この無礼者、と一喝し、さっさと追い返しているところでしょう。ところがゲハジには、ナアマンはきっとそういう反応はしないだろうという計算がありました。果たしてナアマンは、ゲハジが要求したよりももっと多くのものを渡しました。こうしてゲハジは、ナアマンから財物をせしめました。
この罪はきわめて大きなものでした。それは、このことによって、神の恵みはただではない、という、まったく間違ったメッセージをナアマンに与える結果となったからでした。イエスさまもおっしゃっているように、神の国の拡大に伴うしるしと不思議は「ただで与えられる」べきものです。ところがこれではただではありません。
ゲハジは、ナアマンの善意につけこんで、十戒の第八戒、第九戒、第十戒を犯しただけではありません。ナアマンが本来しっかり持つべき神さまに対する信仰、そう、それこそ、イエスさまがおっしゃったように、「ただで受けたゆえにただで与える」その麗しいみわざに用いられる恵みが、これで完全に奪われたことになります。ただではないものを、どうしてただで与えることができるでしょうか。
ナアマンがこうして贈り物を差し出したことは、エリシャのことを嘘つきにもしました。嘘つきではないとしたら、前言をやすやすと撤回する信頼のおけない人にしました。そのような軽薄な人物の献身する神に献身することなど、果たしてどこまで本気になれるというのでしょうか。ゲハジのやったことは、かくも罪深いものです。
24節を見ると、ゲハジは用意周到に財物を自分のところに運び込んでいます。そして25節。ゲハジは何食わぬ顔をしてエリシャの前に立っています。しかし、エリシャがかけたことばをご覧ください。
「ゲハジ。お前はどこへ行って来たのか。」連想する聖書のみことばがないでしょうか? そうです。創世記3章9節です。神さまがアダムにおっしゃったことば、「あなたはどこにいるのか」。アダムは神さまのこのおことばに、くどくどと自分の事情を述べて、必死に、自分は悪くない、と取り繕いました。そんなアダムはさばきを受けることになりました。アダムはここで、悔い改めるべきでした。しかし、神さまのことばに悔い改めることをせず、結局はさばかれました。ゲハジもエリシャのこのことばに、申し訳ありません、私は間違っていました、とお答えすべきでした。しかし、ゲハジはここでも噓をつきました。エリシャをだませると思ったわけです。そんな彼は「主は生きておられる」とうそぶき、ナアマンから財物をせしめる行為に手を染めたわけですが、こうなると十戒の第三戒の「主の御名をみだりに唱えてはならない」という戒めにも悖ることになったわけです。
しかし、ゲハジがこうして見くびっていたエリシャの霊性は、ただものではありませんでした。まるで監視カメラがゲハジのあとをついていったように、エリシャはゲハジが何をしていたかすべてお見通し、いや、それ以上に、ゲハジがどんな動機でそんな行動に出たか、すべてお見通しでした。そんなゲハジは自分自身が十戒の十の戒めのうち、実に4つもの戒めを破ったこと、いや、それ以上に、愛なる神さまのその愛に反する行いをナアマンに対して働いたことのゆえに、ナアマンに代わってツァラアトを病むという、恐ろしいお仕置きを受けることになりました。
神さまの働きをする人がツァラアトに冒されたということは、聖書を読むとこのほかにも、モーセの姉のミリアム、ユダ王国のウジヤ王にも起こっていることです。ミリアムの場合は、モーセが神の人であるにもかかわらず落ち度をあげつらって責めたという、身の程知らずの越権行為が神さまの怒りに触れたゆえ、ウジヤの場合は、本来聖別された祭司の役割である、神殿において香を焚くということを、自分がしようとしたゆえ、どちらも越権行為を引き起こす高ぶり、神さまとの関係に起因することでした。
しかし、ゲハジのしたことは本来、どれくらい重大なことだったのでしょうか? それは、マルコの福音書9章42節に書かれているとおりです。どれほどのさばきでしょうか? 本来このように、その罰として苦しんで苦しんで、二度とこの地上に上がってこられない、そんなさばきをうけるにふさわしい、何も知らない異邦人の純粋な信仰心を踏みにじったのだから……。
それでも、列王記第二を読み進めてみますと、ゲハジはそれからあとも、エリシャの従者としての働きをしていることがわかります。しかも、イスラエルの王に会って、エリシャのことを話しています。つまり神さまは、エリシャをとおしてゲハジにもう一度チャンスをお与えになり、その後用いられた、ということを意味します。
私たちは聖書を読んで、ツァラアトというものが絶望的な病、特に神さまから下されたさばきとのろいの象徴であることを受け取っています。それだけに、ゲハジの迎えた結末は絶望的なお仕置きと思えるでしょう。ところが神さまはそのゲハジを、その後もお用いになったのです。列王記第二8章4節をご覧ください。彼はエリシャの従者として王の前に立ち、立派に主に用いられています。
ここに私たちは慰めをいただくことができます。私たちも病みます。病の中にはヨブのように、何の悪いこともしていないのに自分の身に起こったこと、というものもあるので、病はすべて罪の結果というわけではありません。しかし、病というものは時に、罪の結果として現れることがあるものです。神さまとの交わりよりも暴飲暴食ですとか夜更かしなどで心を安定させようとして、結果、心やからだの健康を害することになったならば、厳しい言い方をしますが、それは「罪」の結果です。
かく申します私も、十数年の牧師生活の中で燃えつきを何度も経験してまいりました。しかしそれは、頑張った自分が偉いと、自分をほめることなのではなく、むしろ、自分は土の器にすぎないことを謙遜に認めるべきなのに、自分を過信して頑張る全能感という、言い換えれば高ぶりの罪、傲慢の罪のただ中に自分がいた、その報いをそういう懲らしめとして受けたのであるとも言えるわけです。そういう点ではやはり私は罪を犯していました。
しかし、そういう弱い自分であることを認め、頑張ることだけがみこころではないことをへりくだって受け入れるところから、私のいやしと回復は始まりました。そこにはどうしても、罪の結果の懲らしめを受けて悔い改めるというプロセスが必要でした。
ゲハジはどうでしょうか。たしかにゲハジは、神の前にも人の前にも大きな罪を犯しました。そのお仕置きとして、あまりにも大変な目にあいました。しかし、イエスさまのおことばによれば、ナイーブな異邦人のナアマンに間違った神認識を与え、すなわちつまずかせた、つまり、石臼を首に結わえ付けられて湖の底で死ぬべき罪を犯したというのに、また、それこそ、ヨシュア記のアカン、使徒の働きのアナニアとサッピラのようなケースを見ても、みこころに反するやり方で財物を手に入れることは死に値するというのに、ツァラアトで済んだのです。
私たちもイエスさまを信じたのちも、罪を犯してしまうものです。しかし、その罪を悔い改めるならば、赦され、罪に病む身はいやされ、さらに用いていただけるのです。私たちに必要なのは、罪を犯してしまったとき、それをイエスさまの前に告白し、悔い改め、罪赦された者としてふさわしく、きよく生きることです。人にほめられて悦に入るための品行方正の生き方をするのではありません。赦された身そのままに、人を愛することです。私たちがみことばを学ぶのは、また、お祈りするのは、人を愛するためです。ゲハジはツァラアトに病んだ身ではありましたが、王の前に立って主に用いられる人となり、その意味で彼は心とたましいは充分いやされ、回復をいただいたと言えるでしょう。エリシャが彼を受け入れ、王の前に立てるほどにしたことが、彼が悔い改めた証拠です。
いちばんいけないのは、罪を犯した自分を受け入れないで、いつまでもうじうじ、自分を責めることです。そういうのは悔い改めとは言いません。自分を責める人の最大の問題は、心がイエスさまに一切向かっていないことです。さばき主なる神さまを意識しているかもしれませんが、少なくともすべての罪を赦してくださった、イエスさまの十字架は見えていません。きつい言い方をしますが、そんなのは自分を悪者にすることで、自分に酔っているだけです。そこにはイエスさまとの交わりはありません。
ゲハジがその後悔い改めの実としてツァラアトをいやしていただいたかどうかは、聖書は沈黙しています。しかし、これだけは言えます。彼はたとえツァラアトがいやされていなかったとしても、いやされたのです。それは、彼がイスラエルのため、言い換えれば、神の栄光のために用いられたことからも明らかです。ひょっとするとツァラアトを病んだ身そのままに、王の前に立ったかもしれません。しかしゲハジは悔い改めの実を結びました。だからこそ用いられました。ほんとうのいやしは、病気がきれいさっぱりなくなること以上に、神さまに用いられることです。
パウロをご覧ください。彼は肉体のとげが自分から去るように3度も祈りましたが、それはいやされませんでした。パウロの病はトラコーマともてんかんとも言われていますが、しかし、パウロはその肉体のとげをものともせず、ほかのどの使徒よりも多く働いたと自ら告白するほど、用いられました。主の栄光のために用いられることが最終的な目標であり、肉体のいやしであれ、たましいのいやしであれ、すべてはその最終的な目標のために通り過ぎるべきプロセスです。
振り返りましょう。私たちは神さまのご栄光を顕すうえで、何に病んでいますでしょうか? 病んでいるために神の栄光を顕せないならば、それをいやしていただきましょう。ゲハジが神の栄光を顕すチャンスが与えられたのは、彼の罪に病んだたましいがツァラアトという懲らしめを経ていやされたからです。私たちは何がいやされる必要があるか、聖霊なる神さまに示していただきましょう。