落胆しないで生きるために

聖書箇所;コリント人への手紙第二4章16節~18節 メッセージ題目;「落胆しないで生きるために」 7月の礼拝で毎週語ってまいりましたメッセージ、「キリストのからだ」シリーズも、今日で最後となります。私たちが、キリストのからだなる教会のひと枝であるとはどういうことか、いろいろな局面から学んでまいりました。今日は特に、キリストのからだとして生きる私たちは、本来、落胆というものをする存在ではないということについて学びます。 落胆……がっかりするということです。期待して物事に取り組んだが、その結果はよくなかった……そんなとき私たちはがっかりします。子どものときなど特にがっかりすることは多いでしょう。その「がっかり」の積み重ねで、私たちはいろいろなことを悟りながら成長し、やがて大人になります。しかし、大人になっても、がっかりすることというのは多いものです。いえ、がっかり、というより、落胆、ということばのほうがしっくりするものではないでしょうか。予期せぬ病気や事故、事業や資産運用の失敗、家族の中の問題、人間関係のトラブル、人間的にはどうしようもない自然災害……。実に落胆させられることばかりです。 しかし、今日の箇所を見てみますと、パウロはコリント教会の信徒たちに向かって、落胆しない、と語っています。パウロがそう語る最大の理由は、普通に考えるならば問題だらけのコリント教会を前にしても、指導者である自分は落胆していない、ということを、コリント教会の信徒たちにわかってもらうためでした。 落胆ということは複雑な教会の人間関係の中にかぎらず、先ほども申しましたとおり、いつ、どこでも、私たちが生活しているかぎり起こることです。だれであれ体験することです。しかし、私たちクリスチャンは少なくとも、「いつも喜んでいなさい。たえず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい」と語られている存在です。落胆することが私たちにあまりふさわしくないのは、私たちは主の光によって明るく輝く存在だからです。それは、私たちだけが快適に生きればよいからではありません。私たちの主にあるよい行いをとおして、周りの人たちが天におられる私たちの父なる神さまをほめたたえるためです。落胆しないといっても、周りと無関係に楽天的に振る舞いさえすればいいということではありません。 私たちは、「自分は落胆しません」と語るパウロの姿から、教会としても、個人としても落胆しないために、明るく快活に振る舞って主のご栄光を顕すために、どのような態度で生きるべきか、特に、何に注目して生きるべきか、いまお読みしたみことばを一節ずつに分けて、3つのポイントからお話ししたいと思います。 第一に私たちは、内なる人に注目します。 16節をお読みしましょう。……ここでは、「外なる人」と「内なる人」が対比されています。私たちは「外なる人」につい注目します。それは、私たちの目に見えるのも、私たちが実際に感じ、考え、語り、行動するのも、すべてはこの肉体、すなわち「外なる人」を介して行われるものだからです。その、厳然と存在する「外なる人」という制約の中で生活する現実から一切自由になることなく、私たちは生きています。 しかもこの「外なる人」は、つねに衰えます。いや、成長期にある子どもは衰えていないじゃないか、とおっしゃる向きもありましょうが、やがてその成長は止まり、衰えていく一方になります。かく申します私も、49にもなりますとしわや白髪が増え、若い頃ほどは体力的に無理が利かなくなっています。いえ、それ以前に、私は中高生のときに病気になって大きな手術をして、両胸ともに大きな傷跡があります。すでに十代の頃から衰えは始まっていたのでした。 そういう現実の中に生きる私たちですが、衰えるということは同時に、天国に一歩一歩近づいていくということも意味しています。多くの人にとって衰えるということが悲しいことにしかならないのは、その完全な衰え、究極の衰えである「死」の向こうにある、イエスさまの待つ永遠の御国に行く道を、そもそも知らないからです。私たちはそうではありません。私たちは究極の衰えである「死」のその瞬間、御国に移されます。 そうだと知るならば、私たちはまず、外の人の衰えにことさらに目を留めないで生きることが大事になります。外の人は衰え、病み、傷つくことばかりで、それを食い止めるにはどうすればいいか、ということばかりを考えてしまいます。なにも、そのような努力が「悪い」と言いたいわけではありません。よい食事をすることも、運動をすることも、みんな大切です。しかし、所詮それは「食い止める」、ないしは「遅らせる」努力であるだけで、衰えを「解決する」、「根治する」ことにはなりません。ただし、これらの努力には一定の意味はあります。それについてはのちほどお語りします。 私たちが目を留めるべきは、「内なる人」です。この「内なる人」は、外なる人が衰えてもなお依然として存在する、私たちの存在そのものであるのと同時に、イエスさまを信じる信仰によって主に贖われ、天の御国に入れていただく保障をいただいた存在です。私たちクリスチャンは、この「内なる人」という存在があるゆえに、その存在をもって天の御国に入れられ、永遠に生きるものです。 この「内なる人」が主と交わり、主を知る知識で満たされ、主の栄光を顕すという、主に喜ばれることを行いたいと願うものです。しかし、外なる人という現実ばかりが見えてしまっているならば、内なる人の持つ底知れぬポテンシャル、すなわち、全能なる主のみわざを、主の手足となって執り行う、主の愛をもって隣人を愛する、そのようにして主のご栄光を顕す、その生き方が、著しく制限されてしまいます。こんな傷ついた自分になんて、こんな弱い自分になんて、こんな未熟な自分になんて、そう思って、内なる人の、主のご栄光を顕したい、顕したい、そのために霊的に成長したい、成長したい、という、聖なる欲求をがんじがらめにしてしまうのです。 礼拝でみことばに耳を傾けることがなぜ必要なのでしょうか? 聖徒の交わりにおいてみことばを分かち合うことがなぜ必要なのでしょうか? ディボーションと聖書通読で毎日みことばを読むことがなぜ必要なのでしょうか? それは、衰える外なる人ではなく、日々新たにされる内なる人こそが、私たち個人個人にとっても、教会にとっても本当の現実であると知り、その現実の中でこそ私たちが実際に生きるためです。私たちは主と交わることによってはじめて、内なる人が日々新たにされているという、その現実を実感し、それゆえに落胆することがなくなります。個人個人がそうなれば、教会全体がそうなりますし、教会全体がそうなれば、個人個人がそうなります。 それでは、第二のポイントにまいりましょう。第二に私たちは、重い永遠の栄光に注目します。 17節のみことばをお読みしましょう。……この節は、「一時(いっとき)の軽い苦難」がもたらすものは、それとは比べ物にならないほどの「重い永遠の栄光」であると語ります。 私たちはだれしも、苦難を体験します。ここで礼拝をささげている私たちも、現実に今、苦難のただ中にいてとても苦しい思いをしているかもしれません。ところが、その苦難とは、このみことばによれば「軽い」というのです。 どうすればこの苦難を「軽い」ととらえられるようになるのでしょうか? それは、この苦難のすえに私たちがたどり着く「重い永遠の栄光」があることを心から信じることによってです。そもそも、苦難というものは、それが自分の身に起こるたびに「自分は悪くないのになんで自分ばかりこんなひどい目に」という態度でいるならば、私たちはいつまでたっても被害者のポジションから抜けられず、生産的ではない自己憐憫に陥るしかありません。 私たちが身に帯びる苦難というものは、何であれ、私たちに向けられた主のみこころと無関係に存在するものはありません。主は私たちが苦難にあうことをお許しになることによって、私たちをご自身に拠り頼むようにさせ、私たちをあらゆる面で成長させ、強くしてくださいます。また、ご自身の働き、すなわち、神の愛を隣人に対して実践するものとして、私たちのことをふさわしく整えてくださいます。 その、無数のプロセスの果てに、私たちはキリストの満ち満ちた身丈、キリストの似姿に成長させられ、その人生の終わりに、栄光の天国に至るわけです。そのような私たちは、その日、この地上で何をなしてきたか問われることになります。私たちがいかにして主の御国のために労してきたか、時にそのために苦難にあうことも選択してきたか、問われます。そのとき私たちは、恥ずかしくなく主の御前に立つことができるでしょうか? 私はもし、自分の人生が今日にでも終わり、主の御前に立つことになったならば、天国に入れていただける確信を持っています。天国というところはイエスさまを信じる信仰ひとつで入れていただけるところだからです。しかし、天国に入れていただけることは確かでも、私が恥ずかしくなく人生を走りおおせ、イエスさまの御前に立てるかと問われれば、まだまだです。とお答えするしかありません。それはなによりも、イエスさまが十字架を背負って私のために死んでくださったように、私も十字架を背負ってイエスさまのみあとを日々ついていきましたと、確信をもって断言できるとは思えないからです。 十字架を背負う歩みは、ひとりひとりが周りと関係なくするものではありません。この、キリストのからだなる共同体、教会においては、十字架を背負ってイエスさまにお従いするその歩みはそれぞれがしているようで、実はこの共同体にあって「ともに」していることを、私たちは自覚する必要があります。ゆえに私たちは、ほかの兄弟姉妹が今体験している苦難に無関心であってはなりません。それは「私の」問題であるからです。同時に「私の」体験している苦難は、ほかの兄弟姉妹にとっても同じように体験している苦難でもあります。分かち合えることを分かち合うことによって、私たちは重い永遠の栄光に向かう共同体として、ともにいま体験している苦難が、一時の軽いものであるととらえ、忍べるようになります。 また、重い永遠の栄光というゴールがあることを知るならば、いま体験している苦難が「被害者のように苦しまされていること」ではないことがわかります。もちろん、自分の不始末のせいで苦しい目にあっているならば、その責任は苦しい目にあうことで取らなければならないという側面もあるにはありますが、苦難とは必ずしもそういうものとはかぎりません。むしろ、主の栄光のために積極的に生きた結果、苦難を身に帯びることもあるわけで、そうであるならば、私たちは主の恵みの中で、その患難を「選択」する恵みをいただいた、とさえ言えるわけです。そう捉えますと、病気ですとか、災害ですとか、自分ではどうにもならないような領域にも、それらの苦しいことを通じて私たちに目を注がれる主のみこころを認め、感謝できるようになるのではないでしょうか。 私たちはいま体験している苦難がすべてのように思ってはなりません。苦しいときこそ、その果てに永遠の栄光に導いてくださる主の愛に目を留めましょう。ひとりひとりが、というよりも、ともに、目を留め、私たちひとりひとりを苦難のうちにあっても愛してくださる主の愛のすばらしさを、ともに分かち合ってまいりましょう。そうすることで私たちは、落胆することから守っていただけます。 最後に、第三のポイントです。私たちは、永遠に続く見えないものに目を留めます。 18節のみことばです。ここでは、見えるものが一時的であることと、見えないものが永遠に続くことが対比されています。もちろん、私たちの注目すべきは、永遠に続く見えないものです。 信仰というものは、見えないものを確信することです。私たちの信じている神さまは、目に見えるお方ではありません。 しかし私たちは、神さまを信じています。目の前におられる方として、いまここにおられる方として、信じています。これは、私たちに信仰を与えてくださる聖霊なる神さまのなしてくださるわざです。 私たちは信仰によって、このお方、神さまが、永遠のお方であることを信じ受け入れます。限りある私たち人間は、そもそも永遠というものを理解することが許されていません。ただ、永遠なる神さまを信じることにより、私たちは永遠というものを知り、信じることが許されています。 しかし、私たち人間は永遠がわからないと、目の前にあるもの、目の前にある状況が絶対だと思えてしまう弱さを抱えています。いま体験している患難、苦しみがすべて、それがなくなることはない、そう考えるから落胆してしまうわけです。そしてひとたび落胆すると、そのように落胆して当たり前、明るく生きることもできなくなってしまいます。 ふつうはそう生きるもの、そのように目を留めるものです。しかし、少なくとも私たちは、この世の常識や流れにしたがって、ただの人のように歩んで、落胆するのが当たり前のように思ってはなりません。私たちが目を留めるべきは、永遠なるお方、イエスさまです。永遠なるイエスさまはまた、愛なるお方です。ということは、私たちは、永遠の愛によって、永遠に愛されている存在です。イエスさまの十字架は2000年前のエルサレム城外、カルバリの丘での一日にも満たないできごとでしたが、その十字架によって、神さまはどれほど、私たちに対する永遠の愛を明らかにしてくださったことでしょうか。その、わずかの時間の十字架によって、イエスさまは私たちのことを、永遠に罪と死から贖い出し、永遠の神に永遠につなげてくださいました。 そのことを見るのは、信仰によることです。私たちがこうしてここに集い、礼拝をささげているのは、目に見えるのものがすべてではないこと、そして、目に見えない神さまとその愛にこそ目を留めて生きるべく召されていることを、私たちが知っているから、だから、このお方に礼拝をささげるのは当然のことであると私たちが知っているからではないでしょうか。私たちはもはや、現実そのもののようでいて実は過ぎ去っていくものに目を留める存在ではありません。永遠の神さまとその御国、その愛に目を留めて、その中に入れていただくという希望をつねに持つゆえに、一切の落胆から解放されている存在です。 もちろん、このような私たちも時に落胆することもあるでしょう。厳しいことが取り巻く現実を生身の身をもって生きる以上、私たちは傷つきますし、病むこともあるでしょう。しかし私たちは、落胆したままでいることはありません。落ち込んでしまうときこそ、私たちには見上げるべきお方がおられます。このお方を私たちひとりひとりが見上げ、また、教会という共同体で、ともに見上げるのです。そうするとき、私たちは力を受けます。最後に、イザヤ書40章の終わりのみことばをお読みましょう。 見えるものではなく見えないもの、すなわち、日々新たにされる内なる人に注目するならば、永遠の栄光に注目するならば、私たちは落胆することから守られます。この恵みが私たちとともにありますように、主の御名によってお祈りいたします。

弱さを誇るということ

聖書本文;コリント人への手紙第二11章30節 メッセージ題目;キリストのからだの中の弱さ  今年のプロ野球、私がむかしから応援している阪神タイガースは、いまのところ首位をキープしています。しかし、一時期ほどの勢いがないために、ファンとしてもやきもきさせられるところです。  野球のチームにかぎらず、勝つともてはやされ、負けるとけなされるように、「強い」ということが素晴らしいと、普通なら考えます。強いから誇るのです。ライオンという獣が百獣の王ともてはやされるのも、「強い」からです。  今日お読みしたみことばは、そんな「強い」ということに美徳を覚える私たちに、痛烈な一撃を与えるみことばではないでしょうか。自分は弱い、そんな弱い自分を誇る? そんな莫迦な! 普通ならそう思うでしょう。しかし、私たちクリスチャン、キリストのからだなる教会は、弱い自分を誇ってこそ存在する意義があることをみことばは教えます。  まず、パウロが、私は弱さを誇ります、と、コリント教会の信徒たちに高らかに宣言したその背景を、少し見てまいります。パウロの指導の下にあったコリント教会は、忍び込んできたにせ兄弟によって、かき乱されていました。パウロが宣べ伝えた福音に反する教えが伝えられていたのでした。その教えを伝えた者は、ユダヤ人の伝統に根差した自分自身を誇り、さらに、キリストの働き人であると自称して自分を誇る人でした。コリント教会は、そんなにせものの働き人の教えに、すっかり影響を受けてしまい、パウロが宣べ伝えた教え、十字架の福音が無駄になってしまっていました。  パウロはそのように、にせ兄弟に幻惑されていたコリント教会の信徒たちに、そんなにも「スペック」で働き人を判断することをあなたたちが好むならば、私はどうなるのだ、と、第二コリント11章から12章にかけて長い紙面を割いて語ります。  まず、パウロはもともとがユダヤの厳格な律法学者としての教育を受けた立場にありました。ユダヤ人の教師であるという「スペック」を重要視するならば、この私にいちばん言い分がある、というわけです。そして、彼らにせ兄弟、にせ教師たちがキリストの弟子であるというならば、私は狂ったように言いたいが、私こそがキリストの弟子である、と語ります。  そして、自分がキリストの弟子であるゆえに、これまでどれほどたいへんな目にあってきたかということを語ります。これを予備知識なしに読むと、まるで武勇伝のように見えてきます。パウロはこのように自分のことを語ることを、はっきり、自慢話であると語っています。それも、主によって語るのではない自慢話である、とさえ断っています。  もちろん、パウロがこのように自分自身のことを自慢話のように語るのは、それこそ自慢して認めてもらうためではありません。働き人に自己推薦など必要ないことを逆説的に語るためです。彼らにせ兄弟は自分のことを推薦して、それにあなたがたコリント教会はころっといってしまっているが、それと比較してあなたがたが見下げている私パウロはこういう者である、しかし、そんな自慢はむなしいことである、と語っているわけです。  パウロの体験してきたあらゆることを見てみると、主の働き人の末席に連なる者として、私などは恥ずかしくなります。しかし、パウロは、どうだ、こんな私は偉いだろう、と自慢する目的で、このような自慢話を述べているわけではありません。パウロは、そんな自分は実は強い者ではなく、弱い者である、ということを語っています。  一方でパウロは、誇るべき自分の経験を、続く12章の冒頭の部分で語っています。天上の栄光を見ることができた、これはたいへんなことです。ここで、この体験をした人物を、パウロは自分自身であるという語り方はしていませんが、続くことばを読めば、それがパウロであることがわかります。しかし、そのような誇るべき体験をしている者が私パウロであるとはっきり語っていないのは、それがパウロという人物をラベリングする自慢話ととらえてほしくないからです。  その代わりパウロは、この体験をしたことによって、サタンの使い、とげが自分を苦しめるようになったと語ります。パウロを苦しめるこのとげは、一般に肉体的なものであると解釈されています。一説によれば、言語障害、目の病気であると言われていますし、あるいは偏頭痛、てんかんとも言われています。  たしかに、ガラテヤ人への手紙を見てみると、パウロは目に重い病を負っていたように読み取れます。また、コリント教会の信徒の評価によれば、パウロは弱々しいなりをしていたようで、重大な持病を抱えていたことをうかがわせます。ともかく、具体的にその肉体のとげは何か、ということは聖書に明記されていませんが、パウロが弱さを抱えながらの働きをしていることは確かでした。  しかし、パウロにとって、自分が「弱い」ということの本質は、個人的なことにはありませんでした。本日お読みした箇所の直前、28節と29節のみことばをお読みします。……もともとが弱さを抱えているパウロをほんとうに弱くしていたものは、弱さを抱えている教会とその兄弟姉妹のその弱さ、痛みを担っているゆえであると告白します。しかし、続く節、30節において、誇るべきは自分の弱さであるとも語っています。  22節から12章6節までの、言ってみれば「自慢話」は、単に自慢と受け取るならばむなしいものです。しかし、このようなことを体験して弱くなることが、実はパウロのつながっているキリストのからだなる教会と密接にリンクしているならばどうでしょうか。パウロは、それらの体験を誇るのではなく、それらの体験のすえに謙遜にならされるために弱さを与えられたことを誇るようになります。  弱いことが誇れるのはなぜでしょうか。キリストの力が覆うようになるためです。しかし、ただ弱いだけでは、キリストの力が覆うことはありません。パウロにとっての弱さを伴うさまざまな体験は、キリストのからだなる教会が立て上げられるために、どうしても体験しなければならないことでした。兄弟姉妹が病んだり、心を痛めたりしたら祈りますし、必要なことばを送ります。教会内で人間関係のトラブルが起こったら積極的に介入します。次なる働き人を育て、訓練します。まだ福音が宣べ伝えられていない地を開拓し、そこで危険も顧みずに語ります。  そういったことをパウロが積極的に行うのは、キリストのからだなる教会がなお抱える弱さが覆われるためです。しかし、その弱さが覆われる働きは、自分自身が弱さを抱えていては、極めて困難の伴うものですし、しかもそれに取り組めば取り組むほど、ますます弱さを実感することになります。  そんなパウロですが、そのすべてを行うにあたり、何もしないということがあるでしょうか。それでは弱いままです。そうではなく、彼は祈っています。  そして、聖徒たちに祈ってもらっています。神さまはその、パウロと聖徒たちの祈りに応えて、パウロが弱いときにこそ強くしてくださいます。  ゆえにパウロは、自分の弱さを誇るのです。それは、キリストの力が自分を覆って強くしていただけるからであり、つまりは、自分を強くしてくださるキリストを誇っていることになります。ですから、パウロから学べることは、キリストのからだなる教会の中で弱さを自覚し、なお、その弱さを覆ってくださるキリストを誇るというその姿勢です。  パウロの自慢話を装った証しは、このパウロの弱さというものが、キリストのからだなる教会を形づくる働きに献身するゆえに、積極的にあらゆる形で弱さを体験してきた、そして今も弱さを抱えている、ということを示しています。すなわち、パウロの弱さは、まるで「被害者」のような立ち位置で「弱さ」を味わっているわけではないのです。むしろ、積極的に「弱さ」を身に帯び、なおその弱さがキリストの力により「強さ」へと変えられることを体験し、結果としてキリストを誇り、神に栄光を帰しているという、すばらしい結果を生んでいます。パウロは言ってみれば、「弱い」ことを「選択」しているのであり、主体的に「弱さ」の中に飛び込んでいます。しかし、パウロは決して、「弱いことを選択する自分はすごい」と誇っているのではありません。ただ「弱い」ことを誇っているだけです。  そこで、私たちのことを考えたいと思います。私たちもいろいろな「弱さ」を抱えていることと思います。その弱さはパウロのように、主と教会のために選択して身に帯びた「弱さ」とは言えないかもしれません。しかし、「弱い」ということそのものにおいては私たちはパウロと変わるところはありません。  私たちの抱える弱さとは何でしょうか。それは病気かもしれません。あるいは、お仕事の悩みかもしれません。しかし、私たちはここで、自分たちが今味わっている「弱さ」というものが、けっして、自分が意図もしなかったのに無理やり、不条理のようにして味わわされている「弱さ」だと考えないでいただきたいのです。それは、誇るべき弱さです。なぜならば、その弱さはキリストの力によっておおわれるべきものだからです。  そこで私たちは考えたいと思います。私たちはそれぞれの人生を生きているようですが、私たちがキリストのからだのひと枝ひと枝をなす存在である以上、私たちそれぞれの生活ないし人生というものは、教会のほかの兄弟姉妹の生活また人生と無関係に営まれているものではありません。すべて関係してます。ですから、問題があれば、すなわち、弱さを抱えていれば、その問題、弱さ、痛みは、ほかの兄弟姉妹にそのまま波及するものなのです。それでこそ、私たちが教会、キリストにあってひとつとされている証しとなります。  私たちは弱さを抱えるゆえに祈ります。その弱さがキリストの力によっておおわれるように祈ります。しかし、お祈りとは、個人のわざにとどまるものではありません。お祈りとは、どこまでも共同体としての教会のわざです。自分が自分のために祈ること、それはとても大事なことであり、必要なことですが、それは自分のためだけではありません。同じからだをなす、教会という共同体全体の健康のためです。  健康であれ、経済であれ、人間関係であれ、私たちが弱さを抱えるのは、教会全体が弱さを抱えていることであると、どうかとらえていただきたいのです。イエスさまが私たちをひとつからだとして召してくださった以上、私の弱さはほかの兄弟姉妹の弱さ、ほかの兄弟姉妹の弱さは私の弱さであると、どうか自覚していただきたいのです。  だからこそ、お祈りの課題をオープンに分かち合い、互いに祈り合うことが必要となってくるわけです。祈りの課題を出すことは、まだかなっていない自分の野望を宣言し、そんなビジョンを描いている自分はすごいだろうと自慢するためにすることでは決してありません。自分の弱さがキリストによっておおわれるためにお願いすること、それがとりなしの祈りというものです。  私たちは強い存在ならば、そもそもイエスさまのもとに来る必要のなかった存在です。教会とは何でしょうか? 弱い者たちが選ばれて集められた群れです。したがって、自分が弱いという自覚を持ち、その弱さがキリストの御力によって覆われるように祈ることなしには成り立たない群れです。  いま、私たちは祈りましょう。私たちが弱いことを認められるように。しかし、その弱さは自分だけのものではなく、教会全体で共有しているものであり、したがって一人ひとりの弱さの種類で優劣をつけるべきものではないことを認められるように。むしろ、自分の弱さのゆえに祈りましょう。また、お聞きになっているならば、ほかの兄弟姉妹の弱さのためにも祈りましょう。

「弱さを担い合うキリストのからだ」

ローマ人への手紙15章1節~6節 「弱さを担い合うキリストのからだ」    みなさんにはだれしも、長所がある一方で、弱点があると思います。私は今日の礼拝で、ここ水戸第一聖書バプテスト教会での働きがまる9年になりましたが、9年間もみなさんと一緒に過ごしてくると、みなさんの弱点も結構見えてくるものです。でも、ご安心ください。みなさんはみなさんで、私の弱点を相当いろいろ見てこられたのではないかと思います。それでもここまでの信頼関係が保たれ、教会形成にともに励むことができましたことは、ひとえに主の恵みであり、感謝なことです。  6月には列王記第二5章のみことばから、聖書の語るいやしというものについて学んでまいりましたが、今月7月にはその流れから、私たちの健康と主のからだなる教会の健康というものが、密接な関係を持っていることを学んでまいりました。今日も、健康な共同体のあり方をみことばから学びます。今日の箇所は、ローマ人への手紙15章1節から6節です。  まず、この箇所の始まりのみことばである、1節のみことばをお読みします。このように、弱い人のことが語られているのは、直前の14章を見てみればわかりますが、もともとの過度に生真面目なライフスタイルから、肉を食べることができなくて野菜にしか手が出ない人のことを、信仰のスタイルがふさわしくないといってさばくべきではない、ということを扱っています。そしてこの14章では、そのような信仰のスタイルの人を、「信仰の弱い人」と規定しています。  肉というものは食べてよいものです。それは、主のみことばに、肉を食べることがはっきり規定されているからです。しかし、もともとが肉を食べる習慣のなかった人、特に、主義として肉に手をつけることができない人は、それが宗教的な理由であるなしにかぎらず、教会という共同体の中に入ってくることは充分あり得るわけです。あるいはもっと純粋に、健康上の理由や好き嫌いの理由で食べられない人のいるでしょう。だから、自分たちのように肉を食べないからと、まるで信仰がだめな人のように決めつけてさばくのはいけない、というわけです。そういう人のことを大事にしなさい、というわけです。  その流れから15章のみことばに入るわけですが、1節を読めばわかるとおり、教会という共同体は、弱い人がケアされるべき場所です。14章では食生活に現れる「弱さ」が問題にされましたが、私たちにとって「弱い」ということは、いろいろな人に、いろいろな面で現れるものです。病気や障がいを抱えるなど、からだに関する弱さはその最たるものでしょう。目が悪い、ですとか、耳が遠い、ですとか、歩きにくい、ですとか。もっと大きな病気を抱えると、礼拝をささげることそのものも大変になってきます。しかし、そんな私たちは、いやし主なるイエスさまとの交わりを体験し、実際にいやされて、これまで以上に主の働きに用いられるようになるのです。  精神的な弱さもあります。非常に傷つきやすかったり、ひとたび落ち込んだら何日もやる気が出なかったり、そういう人は教会に逃げ込んできます。しかし、いざ教会にやってきても、すぐにパット表情が明るくなるとはかぎらず、暗い表情でいてしまう。でも、そういう弱さを強い人は担いなさい、というわけです。  またちがった弱さもあるでしょう。これは私がかつて、死に物狂いで取り組んだ経験のある課題です。日本のような密なコミュニケーションが要求されるような社会だと、それについていけないで教会に居場所を求めてくるケースもあるわけで、そういう人は押しなべてコミュニケーションが上手ではありません。そういう、関係づくりや会話のやり取りの弱さも、教会では避けて通れない問題です。  経済的な貧しさを抱えている人も、いわば「弱い」ということになるでしょう。先立つものがなければどうしようもありません。教会はそういう人を優先的に助けることがみことばにおいて命じられています。日本の近現代史を振り返ってみても、福祉の働きを優先的に担ってきたのがキリスト教会やクリスチャンだったのは、いわば必然と言えることでした。  そういうふうに、ある人はある面で弱さを抱えているものです。メッセージの冒頭で、だれしも弱点を抱えていると申しましたのはそういうことですが、とすると反対に、ある面で私たちは「強い者」になることができる、ということでもあります。  私たちは、教会という共同体にあって、自分が実は「強い者」であるという自覚に至ることができるならば、その強くされている恵みをもって、弱い人のその弱さを担ってこそ、教会はキリストのからだとしてのその本来の役割を果たします。この1節のみことばにはさらに、「自分を喜ばせるべきではありません」とつづきます。自分が強いという自覚がないならば、弱い自分を笠に着て愛されたいと振る舞うもので、それが「自分を喜ばせる」ということです。教会とは、自分を喜ばせたい人たちにサービスを提供する場ではありません。しかし人間とは弱いもので、たいていの場合は愛されたい、気持ちよくなりたいと願うものです。その愛されたい心理を新興宗教や異端やカルトは巧みに利用して、集まりなどに新しくやってきた人を思いきり歓迎する「ラブシャワー」という手法を用い、歓迎されて気持ちよくなったその人がだんだん、その組織にはまっていくように仕向けますが、私たちがもし、自分たちはまともな教会であるという自覚があるならば、そんなふうにして人を篭絡すべきではありません。  その代わり、やってくる人にはどこか強いところがあることを認め、その強さをもって兄弟姉妹を愛する行動がとれるように、お客様扱いなどしないでどんどん成長を促していくことです。もちろん、そういう人にも一定の弱さはありますから、その弱さをしっかりフォローしながら、ということは鉄則です。しかし、私たちが原則とすべきことは、「人は愛されたいのではなく、愛したいという欲求がある、なぜなら、愛なる神のかたちとして人間だれもが創造されたからだ」ということであり、私たちが弱い人の弱さを担うのは、あくまでその人が「強い」人に変えられて、「弱い」人の弱さを担えるように成長していただくためであることを、私たちは忘れてはなりません。  それは新来会者にかぎらず、すでに教会に定着している人たちも同じことです。人に愛されたい、サービスされたい、居場所がほしい、それは一概に悪いというべきではないのかもしれませんが、それが「愛したい」、「仕えたい」という内的衝動をはるかにしのぐようなら、クリスチャンとして問題があります。成長しないということです。私も子どもが小さかったとき、果たしてちゃんと大きくなるだろうかと心配になることしきりでしたが、今はこうして大きくなっています。そのように、新しく生まれたら大きくなるのが当たり前なのに、こと教会においては、成長することを拒み、いつまでも乳ばかり飲むようだったらどうでしょうか? いちいちおむつを替えてもらうように、人から世話されて当然とばかりに振る舞うようだったらどうでしょうか?  2節をお読みします。人にとってのほんとうの喜びは、霊的に成長することです。それはただ単に聖書を多く読めたとか、聖書の知識が増えたとか、お祈りが長くできるようになったとか、献金の金額が上がったとか、もちろん、それも大事にはちがいありませんが、それよりももっと大事なこと、聖霊なる神さまのお助けによって、聖書のみことばを実践できるようになること、神の愛により愛する人となること、そういう点で成長することこそ、人にとってほんとうの喜びとなることです。先ほどの繰り返しになりますが、人が神のかたちに創造されている以上、愛の人になること、すなわち、神の愛によって人を愛する人となることほど、人にとっての喜びはありません。  そういうふうに、新来会者も含めて兄弟姉妹が成長できるように働きかけること、それが、強いと自覚する人のすることです。こうして、強い人はより強く、弱い人も強くされ、みんなそろって強くなります。弱い人の弱さを担えるほど、みんなして成長します。  3節をご覧ください。先週のメッセージで、教会のかしらはキリストということを学びましたが、私たち教会をなす兄弟姉妹は生涯かけて、キリストにならう者です。キリストにならうには、キリストがどんなお方だったかを私たちはみことばから学ぶ必要がありますが、ご覧ください。    今日のみことばを見てみますと、キリストはご自身を喜ばせる方ではなかった、むしろ、父なる神さまがお受けになる嘲り、すなわち、罪人の分際で不遜にも神さまを冒瀆する者たちのその嘲りを、イエスさまは身に負われた、とあります。  およそ人にとっての罪というものは、まことのさばき主なる御父なる神さまを過小評価することろからはじまるものです。神さまを畏れていたらとてもできないようなことも、こんなことをしたところで大丈夫だ、とばかりに、大胆不敵に行うわけです。そのように、神を馬鹿にする、神を過小評価する、それは人が何と言い訳しようとも、神を嘲ることです。しかしイエスさまは、その嘲りをご自身の身に受けられ、人の罪をことごとく赦してくださいました。そのために、イエスさまは一切、ご自身を喜ばせる生き方をなさいませんでした。生きる目的は神の栄光、神による人間の救い、それを成し遂げるために、実に十字架の死にまで、御父のみこころに従順に従われました。神のみこころを離れた人間イエスの欲求というものなど、どこにも存在しませんでした。  キリストに似たものとなるということは、ただ人が贖われて神のものとなるためだけに、ただ人が主にあって成長するためだけに生きられた、そして今も、御父の右の座で私たちのためにとりなして祈ってくださっている、そのイエスさまのようになる、私たちの人生の目的、そして関心の一切を、そこに置くということです。そうすれば私たちは、イエスさまが私たちのことを愛してくださっているように、愛し合うことができるようになります。  4節のみことばをお読みしましょう。私たちが持つべき希望とは何でしょうか? それは、私たちが聖書の語るとおりの、愛の人、神の愛、キリストの愛によって、人を愛する人として成長するようになる、ということです。私たちは自分の弱さ、至らなさを見ると、こんな自分がキリストの愛により愛せるだろうか、と思うでしょうか? しかし私たちは、自分の弱さを見つづけるべきではありません。私たちが見るべきは、そんな私たちでもキリストの似姿になれる、キリストが愛されるように愛する人になれるという、聖書の約束、そして励ましです。  私たちはこの約束のことば、励ましのことばをつねに聞く必要があります。というのは、私たちを取り巻く環境は、神さまのみことばの価値観以外のものにあふれているからです。テレビや新聞はいいこと、耳に心地よいことを語るでしょうが、その内容は聖書の福音であることなどほとんどありません。インターネットも、私たちのほうから情報を取りにいくぶん、安全だと思うかもしれませんが、案外福音とは関係のない情報を手にしてしまっているものです。そのほかにも人のうわさ話、街を流れる宣伝広告……そう考えると、私たちは意識してでもみことばに耳を傾ける必要があることがわかります。  特に、ひとりで読むだけではなく、みんなしてみことばを語り合うことです。それはまたとない励ましになります。自分が励まされたみことば、自分に約束されたみことばを分かち合うならば、それはみんなにとっての励まし、みんなにとっての約束となり、全員でともに成長できるという希望はいやがうえにも増し加わります。  5節、6節をお読みします。キリストのからだなる教会の最終的な目標は、主にあって一致することで、主の栄光がほめたたえられるようになることです。いったい、自分は敬虔なクリスチャンだと自負する人たちの集団であったとしても、そこに一致もなく、みなが勝手な方向を向いて勝手なことをしているならば、それは果たして、主がひとつからだにしてくださっている教会の姿としてふさわしいでしょうか? まことに、主にあって一致することこそ、麗しい姿です。もちろん、みんな同じように語ったり、みんな同じように振る舞ったりする必要はありません。むしろ、主がそれぞれに与えてくださった賜物に応じて、主の愛によって愛するということを実践する、そういう点で一致していることが、教会として大事なことです。  いや、あんな人とひとつになんてなりたくない! もしかすると、ほかの兄弟姉妹のよくない言動に触れてしまって、そんな思いになってしまうこともあるかもしれません。しかし、そうなっても、やはり私たちに、主にあって一致しなさいというみことばは依然として語られています。  そんなとき私たちは、ほかの兄弟姉妹を変えてくださいとお祈りするのでしょうか? いいえ、むしろ、「私を変えてください」とお祈りする必要があります。問題の言動をする兄弟姉妹は、いわば「弱い」のです。もし、自分が変わる恵みをお祈りをとおしていただくならば、その人は強くなります。その強さで、問題の兄弟姉妹の「弱さ」を担えるようになり、こうしていつの間にか問題は解決し、みなそろって強くなり、教会にも一致がもたらせるという、まことに素晴らしいことになります。  私たちがもし、弱い兄弟姉妹を、弱いという理由で放っておいているならば、そこには神の愛もありませんし、したがって一致もあり得ません。弱い兄弟姉妹を放っておくのは、かかわると面倒だから、せっかくの日曜日くらい教会で羽を伸ばしたいから、でしょうか? それはクリスチャンとして了見が間違っています。それでは自分を喜ばせていることになり、ふさわしくありません。ほかの兄弟姉妹の弱さを積極的に担ってこそ、教会は神の家族、キリストのからだとしての、本来の役割を果たします。また、そのためにも、どうか自分の弱さを明らかにすることを、恥ずかしがらないでいただきたいのです。もちろん、のべつ幕なしに自分の弱さをべらべらしゃべるのは困ります。私たちはこの共同体において、人を愛する、したがって人に過度の重荷を負わせない、ということを自覚して、節度ある言動を心掛けたいものです。しかし、自分の弱さについて何も言わないで強がるべきではありません。教会の兄弟姉妹を信頼しましょう。祈ってくれるのですから。もちろん、その祈りの課題を聞いた以上、私たちは祈りますし、またその弱さを担って助けます。  祈りましょう。イエスさまが私たちの弱さを担ってくださったように、私たちも自分を喜ばせてばかりいることを卒業し、ほかの兄弟姉妹と弱さを担い合う、その愛を実践することで、神の愛において教会が一致できるように、その神の愛の証しを堂々とする共同体として、教会全体が成長するように、その教会の成長に益する歩みを、私たちひとりひとりがしていくように。

「キリストのからだの充満」

聖書箇所;エペソ人への手紙1章15節~23節 メッセージ題目;「キリストのからだの充満」 昨今はガソリンも随分値上がりしてしまいましたが、それでもお店によってはガソリンが安いところがあります。そういうお店に巡り合い、なお、燃料タンクにあまり油が残っていないならば、できればしておきたいこと、それは、ガソリンを「満タン」にすることです。「満タン」にしておけば、当分の間、ガソリン切れを気にしないで走ることができます。 私たちのからだも、満タンの状態が必要です。栄養をちゃんと取って、栄養満タンになる必要もあります。今の季節は熱中症にも気をつける必要がありますから、必要十分な水分を摂る必要もあります。そして何よりも私たちは、御霊に満たされなさい、とみことばに命じられている以上、御霊の満たしをつねに求める必要があります。韓国の教会ではよく、集会の中での賛美で、「聖霊充満、聖霊充満」と歌いますが、聖霊に満たされることは、私たちの信仰生活において必須のことです。 今日のテーマは、「キリストのからだの充満」です。先週も学びましたとおり、教会とはキリストのからだです。キリストのからだなる教会が健康であるために、そのひと枝ひと枝をなす私たちひとりひとりもまた、健康である必要があります。その私たちはまた、キリストのからだの充満にあずかるものとしていただいています。そのことを前提に、今日のみことばを学んでまいりたいと思います。 まず、15節、16節からお読みします。パウロはエペソ教会の信徒たちのために特に祈っていると告白します。パウロに特別に祈ってもらえるとは素晴らしい信仰の群れですが、それは、主イエスさまへの信仰と、すべてのクリスチャンに対する愛がエペソ教会の信徒たちにあると、パウロが聞いていたからでした。エペソ教会は、パウロが直接、3年かけて心血注いで牧会した群れですが、その牧会の結んだ実として、イエスさまへの信仰と兄弟姉妹に対する愛がふさわしく育っていたわけでした。しかしパウロは、それだけ育っていると知ればもう祈らなくていい、とはなりませんでした。むしろ、この愛する群れのためにますます祈ります、と語っています。そして、そのように信仰と愛において育ったエペソの信徒たちのことを覚えて感謝しています。 教会の兄弟姉妹を愛することは、教会がキリストのからだである以上、キリスト・イエスさまを愛することになります。私たちはその、兄弟姉妹に対する愛を、兄弟姉妹のことを覚えて祈ることによって告白します。 それではパウロは、その愛と感謝をどのように、祈りにおいて告白していますでしょうか? 17節から19節です。……ここでパウロは、2つのことを祈り求めています。まず17節です。……このみことばからわかることは、人が神を知るためには、神の霊である御霊が、神を啓示してくださることが必要だということです。 神を知ることがなぜ必要なのでしょうか? それは、ヨハネの福音書17章3節のみことばでイエスさまがおっしゃっているように、神を知ることそのものが、永遠のいのちだからです。 いや、私は神さまを知っているよ、神さまはこれこれこういうお方でね……そんなことをおっしゃいますでしょうか? しかし、ここで私たちは、聖書の語る「知る」ということを、もう少し考えてみたいと思います。たとえば私たちは、何かのきっかけで、テレビのようなメディアに出てくるスターのファンになります。ファンになったら、そのスターのことを知ろうとします。出演する番組は欠かさずチェックします。CDを買ったり、もっと熱心なファンになったら、写真集を買ったりします。さらに熱心なファンになったら、コンサートに足を運んだり、さらにいい席を取るために、ファンクラブに入会したりします。ファンクラブに入会すると、そのスターの単独インタビューの載った会報が送られてきたりして、ますますそうして、そのスターのことを深く知るようになります。 しかし、それでも、そのファンにとっては決定的に足りないことがあります。それは、そのスターのほうが、自分のことを知らない、ということです。それは、直接一対一で会話する機会など皆無だからです。万が一、そういう機会が巡ってきたとしても、そのファンは、スターのマネージャーや、あるいは家族とは比べ物にならないほど、そのスターのことを知っているわけではありません。 神さまを知る、ということは、「神さまを体験して知っている」ということです。単なる頭だけの知識ではありません。考えてみればわかる話で、日本中の学校が聖書のことやイエスさまのことを教えていますが、ということは、学生にしても先生にしても、神さま、イエスさまのことを、知識として知っているわけです。しかし彼ら、学生や先生はだれもが、神さまを知っているのは永遠のいのちだとイエスさまがおっしゃる以上、永遠のいのちを持っていると言えるでしょうか? そう考えると、「神を知る」ということが、単なる知識のレベルではないことがお分かりいただけると思います。 私たちも信仰の経歴を重ねることによって、それまでわからなかった神さまのことがわかるようになった、そうして、自分に与えられた永遠のいのちがどんなに素晴らしいか、さらにわかるようになった、その経験を繰り返していることと思います。聖書は単なる人生の素養のレベルで読むものではなく、そのみことばを、聖霊の御助けによって実践させていただくことで、私たちは神さまを体験し、私たちの日々のわざが、自分の努力だけによるものではない、あるいは偶然ではないことを認め、神さまをほめたたえるものです。 次に祈り求めていることは18節と19節にあるとおりです。ここでは、神を知ることのより具体的な内容について語られています。神さまは私たちを御国とその働きに召してくださっていますが、それゆえに私たちがいただくことのできる恵みに対する希望をいだきつづけることがなければ、私たちの信仰の歩みは長続きしません。見えないものを見えるようにして持ちつづけるものが希望ですが、神さまが私たちのことを召してくださっているという事実、その召しにしたがって私たちのことを用いてくださるという事実、その歩みのすえに永遠の、栄光の天の御国に迎え入れてくださるという事実は、この世にだけ目を向けていてはわからないことであり、この点で私たちは、神さまとそのみことばの約束に対する望みを持つ必要があります。 また私たちは、聖徒たちが受け継ぐものの大いなる栄光を知る必要があります。ここに私たちは、この世界で終わりではないこと、いや、この世界よりもはるかに偉大な天の御国のその栄光を見ながら生きる必要があることを知るものです。私たちは、自分が生きている世界のあまりの悲惨さに絶望するならば、いえ、それ以上に、私たち自身のあまりの不完全さ、罪深さに絶望するならば、そこから贖われたいという飢え渇きが起こされるでしょう。私たちがみことばを読み、やがて受け取る天の御国の栄光を知りつづけるならば、私たちはその飢え渇きを潤していただくことができます。 さらに19節、私たちのうちに働く神さまの力の偉大さを知ることが必要です。繰り返しになりますが、私たちにとっての聖書のみことばに対する信仰は、頭だけの理解で終わるものではありません。御力の偉大さを聖書のみことばから受け取り、それと同じことを神さまはいまもなお、私たちの祈りに応えて、私たちになしてくださると信じ、祈り、その力を認めて、神さまの御名をほめたたえるのです。モーセが杖を伸ばすと葦の海を真っ二つにされた神さまの御業、エリヤが祈ると天から炎を下していけにえを燃やし尽くされた神さまの御業、そのような偉大な神さまの力は、私たちがみことばをお読みするときに、私たちも体験できるものです。その神さまの御力が、いま、私の人生に臨むようにとお祈りするのです。 20節、21節のみことばをお読みします。その、神さまの御力の究極の現れは、イエス・キリストにおいて実現しました。実際、イエスさまのご生涯は、そのみことばにおいても、その御業においても、神さまの御力がどこにおいても現れていたことは、特に四つの福音書のみことばが証しするとおりですが、この20節、21節のみことばにおいては、イエスさまのご復活、そして、昇天、御国にて神の右の座に着座されたことが、神の御力であることを証ししています。 すべての支配、権威、権力、主権の上に、今の世だけではなく次に来る世においても、すべての名の上におられるお方、それがイエスさまだというわけです。私たちはいろいろな力や権威、権力が想像できるでしょう。テレビや新聞を通じて、このよのあらゆる権力や力のせめぎ合いを私たちは見ます。国家ですとか、大企業ですとか、その他いろいろな権力や権威を見るにつけ、多くの市民は自分の無力さを思うものかもしれません。そんな社会に対して、小さな自分は影響など及ぼせないと。 しかし、私たちはどうでしょうか? 私たちのうちにおられるお方、私たちとともにおられるお方の偉大さを思うならば、私たちは自分がこの社会、この世界に対して無力などと思っている場合ではないことがわかります。私たちのうちにおられるキリストほど偉大な存在、権威ある存在、力ある存在は、この世界のどこにもありません。私たちはこの偉大なるキリストとひとつにされている、この偉大なるキリストに特別に選ばれている、この偉大なるキリストにことのほか愛されている、そのようにみことばから受け取るならば、私たちは決してちっぽけな存在ではないことがわかるのではないでしょうか。 22節、23節は、今までお読みしてきたみことばの締めくくりの部分ですが、すべてのものを足の下に従わせられる存在であるキリストを、神さまは教会に、かしらとしてお与えになったと語っています。教会はキリストのからだであることは先週も学んだとおりですが、そのかしらはキリストです。教会は、あらゆる権威の上に立つ権威を持っておられるキリストが、そのかしらとして神さまから与えられている存在です。 あらゆる権威を従える最高の権威。その最高の権威がかしらである、最高の権威なる存在のからだ。それが教会であるならば、私たちが教会に連なるひと枝ひと枝、教会をなすひと枝ひと枝とされているということは、どれほど偉大なことでしょうか。また、どれほど責任のあることでしょうか。しかし、どれほど喜ばしいことでしょうか。どれほど感謝なことでしょうか。 そんな私たちの存在は、「キリストに満ちる」ということをもって証しされます。世界のすべてのものを、すべてのものによって満たす、それが、イエスさまがすべてを司られ、いのちをお与えになる創造主であられるということですが、このお方に満ちるということ、充満するということ、それでこそ、私たちはキリストのからだとしての、本来の生き方を全うすることができます。 それにはまず、私たちのかしらがキリストであるという事実につねに立ち、キリストの指示を仰ぐところからすべては始まります。具体的には、毎日みことばをお読みし、お祈りすることで、イエスさまが願っていらっしゃることを知り、それにお従いします。 しかし、その生き方を全うするには、キリストに満ちる、それが大事です。そのみからだなる教会に満ち満ちておられるキリストを体験する、そのためには、自分がキリストのからだのひと枝であることをとにかく意識し、キリストが満ち満ちておられるそのみからだとしての生き方に、自分自身をささげていくことです。 キリストに満ちる生き方は、私たち個人個人がします。毎日みことばをお読みし、お祈りすることで主にお従いするディボーションの歩みは、人に言われてですとか、人にいちいち指示されてすべきことではありません。私たちが自発的に主の御前に出て、主との個人的な交わりの中でしていくべきことです。 そして、個人個人が交わるだけでも充分ではありません。いまこのように私たちは、教会、キリストのからだという共同体として、主の御前にともに出ていますが、私たちは共同体全体で、キリストの満たしを体験します。それは、ともに礼拝することによって、つまり、ともにみことばの恵みをいただくことによって体験します。また、ともに御霊に導かれ、ともに祈ることによって体験します。ともに、それをもっとも確実に体験できる場は、日々主との交わりの中で教えられているみことばの恵みを集いの中で分かち合う場です。 その満たしにあずかるとき、私たちは個人個人においても、共同体においても、健康になります。キリストの御姿を見て、キリストと交わり、キリストに似たものになることほど、健康になることはありません。健康の究極のかたちとは、完全なキリストであるからです。この世の人々の、肉体的にも精神的にも健康になろう、健康であろうとする涙ぐましいばかりの努力を、私は決して否定するものではありませんが、ほんとうに健康になるためには、完全なモデル、すなわち、究極の健康のモデルである、キリストのからだの部分にされているものにふさわしく、キリストに満ちた生き方を志すことです。 特に私たちは、すべてのものをすべてのもので満たすキリストの充満を、キリストのからだとして振る舞うことによって実現すべく召されています。この世界をご覧ください。まだ、キリストの栄光が、そして、キリストご自身が満ち満ちるには、余地がたくさんあります。この世界がキリストを知る知識で満たされる、すなわち、キリストを知ることで人々が永遠のいのちを得て、この地に神の国が実現するように、私たちは祈り、みことばを宣べ伝えるのです。ことばだけで伝えるのではありません。私たちの日々主にお従いして変えられていく姿をとおして、周りの人にキリストを証しするのです。 私たちがキリストにより満たすものとなるには、まず、私たちがキリストに満ちる必要があります。ひとりひとりが、そして、ともに、キリストに満ちる、教会とはそのような共同体です。ともに取り組み、キリストの充満を体験してまいりましょう。そうすれば私たちはあらゆる点で健康になります。

「キリストのからだにふさわしい健康」

聖書箇所;コリント人への手紙第一12章11節~27節 メッセージ;「キリストのからだにふさわしい健康」 先月、いやしというものについて、列王記第二の5章全体から学びました。いやし、というものがなぜ人に必要なのでしょうか。それは、私たちが健康ならば、主のお働きを充実してこなせるからです。そういう意味では、病気を抱えていても主の働きを大いにこなしていれば、健康といえます。持病を抱えていてもなお多く働いたパウロなどそのいい例でしょう。現代の日本にもそういう人がいまして、天に召されましたが、病弱なからだをおしてたくさんの本を書いた、三浦綾子さんもそういう、主にあって健康な人といえました。 反対に、五体満足、無病息災でも、主のために働きたくない人というのもいるもので、そういう人は外身が健康でも、実際は不健康といえます。私たちはどちらがいいでしょうか? やはり、クリスチャンとして尊敬できるのは、病身をものともせずに、主の働きに歩んでおられる方でしょう。口では立派なことを言っていても、いざとなると主のために働かない人とどちらがいいかと聞かれれば、答えははっきりしています。 とはいえ、私たちがもし主のためにもっと身を入れて働きたいと願いながらも、健康上の理由でそれがかなわないでいるならば、私たちはやはり、いやし主なるイエスさまに、大胆にいやしを求める必要があります。なんといっても、私たちは健康なからだを使わなければ、主のご栄光を顕すことはできないからです。 さて、からだとはなんでしょうか? 今日の箇所を見ると、キリストのからだなる教会がさまざまな働きを担うに際し、そのそれぞれが特別な働きを持っていることを、からだの部分になぞらえて表現しています。しかし、このことはこう考えられないでしょうか? すべての創造主なるキリストは初めからみからだをお持ちであり、そのからだなる教会の部分部分をなす存在として、創造のはじめから私たちは選ばれていたのだと。そう考えると、歴史上存在したすべての主にある人、世界に存在すrすべての主にある人は、創造のはじめから主のからだとして選ばれ、組み合わされた存在であり、したがってとても大事な存在です。もちろん、ここにいます私たちひとりひとりがそういう貴重な存在とされていることは、言うまでもありません。お互いの顔を見ましょう。主のからだとしてつながっている、とても大事な存在です。心からそう思え、喜びをもってそう告白できるならば幸いです。 そう考えると、私たちがなぜ健康でなければならないのかがわかります。それは、イエスさまのからだが健康であるためには、それを形づくる私たちが健康であるべきだからです。私たちが健康なとき、主のからだは健康になります。 今日は、主のからだの健康ということをともに考えたいと思います。そのことを、私たちのからだの健康ということを考えあわせながら、ともに学びましょう。 第一に、からだは部分部分それぞれがお互いを認めることによって、健康が保たれます。 12節のみことばをお読みします。一つのからだに多くの部分がある。その点で、キリストのからだなる教会も、人間のからだも、同じだというわけです。 ということは、人間のからだを見ればキリストのからだなる教会がわかりますし、その反対に、キリストのからだなる教会を見れば、人間のからだがわかるといえます。 その、からだの部分部分はすべて、ひとつの御霊によってバプテスマを受けているとも、一つの御霊を飲んだとも書かれています。実にキリストのからだなる教会とは、一つの御霊によってバプテスマを受け、すなわち、一つの御霊を飲んだ群れです。ちょうど、人がコップ一杯の水を飲むことによって、そのコップ一杯の水がからだの中に入り、五臓六腑に浸透し、人のいのちが保たれるのと同じことです。 御霊は人を生かします。御霊によって人ははじめてイエス・キリストを主と告白することができ、もはや罪人ではなく、神の子ども、聖徒となっているからです。この地上に生きながらにして、死からいのちに移っている、永遠のいのちを生きています。永遠に生きておられるキリストのみからだである以上、私たちは永遠のいのちにあずかっているのです。 そして12節のみことばを見てみると、ユダヤ人もギリシア人も、とあります。もともとが神の民であった者も、異邦人も、キリストを信じる信仰を与えてくださる御霊によってひとつ、というわけです。私たちもそうです。私たちもいろいろな生い立ち、背景を持っていますが、それぞれのところからおひとりの御霊によってキリストを信じる信仰に導かれ、御霊によってひとつとされ、御霊によってともに生かされています。 そんな私たちに必要なのは、まず私たちひとりひとりにとっては、からだの部分部分を大事にすること、そしてキリストのからだとして一つになった教会としての私たちにとっては、ちがっている互いを認め合うことです。 私たちは脳というからだの部分が快楽を感じさえすればいいとばかりに、テレビやスマホばかり見たら、目が悪くなりますし、肩や首の筋肉や骨格がおかしくなります。あるいは、栄養が偏っても好きなものばかり食べたり飲んだりしたら、臓器や血管がやられます。また、手はいろいろな役割をしますが、その手で肌をかきむしったり、にきびをつぶしたりするのもよくありません。からだの部分部分は、ほかの部分をいたわってこそ、健康が保てます。こんなことは当たり前のことなのですが、結構私たちはできていないものです。 同じように、教会の中でも、キリストのからだの自分とちがったほかの部分である、ほかの兄弟姉妹との調和が必要になります。これは3つの次元から理解する必要のあることで、まず第一に15節、16節を見ると、足や耳は、手や目がからだの一部であることを認めてはいますが、自分たちはそうじゃないからからだの一部ではないと言っている、ということで、そんなばかな、というわけです。 これは適用しますと、自分は牧師や教会役員のようなポジションにいないから、教会のことなど関係ない、と振る舞うのはふさわしくない、というような適用が導き出せます。お客様のポジションに自分を置きつづけ、教会という共同体の中でそのひと枝としての責任を果たそうとしないという態度です。こういう状態を放っておいたら、教会は健全かつ健康なキリストのからだとしてふさわしい状態にはない、つまり、病んでしまうわけです。 どうか、ひとはひと、自分は自分というようなことを思わないで、教会で今ともに礼拝をささげている方々はみな大事な兄弟姉妹、キリストのからだの同じひと枝、と、信仰によって受け取って、互いに愛し合っていただきたいのです。その兄弟愛こそが、私たちがキリストの弟子であることを麗しくこの世に証しする力となります。 また、第二の次元として、17節から19節、みんな同じではありません。金子みすゞの詩ではありませんが、みんなちがって、みんないい、それが私たち教会です。みんな牧師だったら、世の中に伍してキリストを証しする働きは極端に弱くなります。反対に、みんな一般の信徒だったら、みことばと祈りをもって仕える導き手は不在になり、やはり教会は立ち行かなくなります。 ひとと同じようになろうとする必要はない、というわけです。もちろん、ほかの信徒を見本として、より神と人の前に愛の人として生きるためということならばいいのですが、そうではなく、ほかの人のいわば「コピー人間」のようになろうとするならば困ります。 カルトな教会形成をしてしまうと、リーダーに思考パターンや、果てはしゃべり方までもが似ている「コピー人間」が生み出されるものですが、それは主が願われる教会形成ではありません。 そして、第三の次元として、21節、ほかの信徒を、自分とちがうからと、この共同体にいてはいけない、ということのできる資格は、だれも持っていません。例外として、深刻な罪を犯した人を「戒規」という形で教会の共同体から除名するケースがありますが、それにしても「さばき」のためではなく、「懲らしめ」のため、すなわち、その人がそのようなことを経て悔い改め、健全な信仰とライフスタイルを回復して共同体に戻ってくるためです。いわば、病んだ臓器にメスを入れて、痛い思いをしてでも治療し、健康にするようなものです。 いわんや健康な部分ならば、自分との違いに目を留めて、そんなあなたは必要ない、と言うことはできません。私たちは、主にあって保たれるべき共同体の調和を乱さないかぎり、多少の違いは個性として受け入れ合うべきです。 さて、その場合、その人が特に「弱い」ということが個性のようにして際立っている場合はどうなのでしょうか? そういう存在がいる場合、どのようにしたら健康が保たれるのでしょうか? そこで第二のポイントです。第二に、からだは弱い部分が尊ばれることによって、健康が保たれます。22節です。……「なくてはならない」とさえ言っています。多くの場合、弱い存在は、「足手まとい」呼ばわりされて、邪魔な存在として忌み嫌われたり、のけ者にされたりします。 しかし、からだはそうなってはならない、というわけです。たとえば、胃が弱かったら、人は胃をいたわって食べ物に気をつかったり、ストレスをためないようにしなりします。肌が弱くてもそうでしょう。弱い部分が弱いからと切り捨てるわけにはいきません。その部分はからだにとって絶対に必要だからと、大事に、大事にすることで、からだの健康を保てます。 私たち、教会の中の「弱い」人も、それと同じだというのです。弱い人は時に、問題の行動を起こします。元暴力団員から牧師になられた金沢泰裕先生の本にもありましたが、教会に連なったもと暴力団の人が、懲りずに覚せい剤に手を出してしまったのを、金沢先生や教会のひとたちは何度も忍耐しながら、ふさわしい方向に導こうと努力するわけです。覚せい剤ほど極端でなくても、私のかつていた教会では、あたりかまわず奇天烈な言動をする子どもがいましたし、シンナーに手を出した暴走族出身の女の子がいました。認知症が進んでまともにコミュニケーションのとれない人もいました。しかし、そういう人がそうだからと、教会の交わりからいなくなってもらう、ということはしないのです。そういう人の存在こそが必要、それが教会です。 そういう人たちの弱さが覆われ、強くされるためには、どうする必要があるでしょうか? 23節から25節です。重いやけどを負ったら、見えないところの健康なほかの皮膚を移植するようなものです。健康な兄弟姉妹が、弱い兄弟姉妹のその弱さをあえて愛をもって覆うことで、その人はいやされ、力づけられ、強くされます。 そういう人たちの存在をとおして、私たちはイエスさまの愛を学びます。私がたびたび申し上げていることですが、私たちは「愛されたい」のではありません。「愛したい」のです。なぜなら、私たちは愛なる神のかたちに創造されているからです。イエスさまが愛してくださったように、私たちは愛するのです。私たちの共同体に弱い人がいるならば、私たちはその存在を愛することによって、イエスさまの愛により愛することを学び、また実践します。こうして私たちはキリストの似姿に変えられ、また、主に用いられます。そうすることで、私たちはさらに、自分の弱さを知り、こんな弱い自分のことをイエスさまがどんなに愛してくださっているかを知り、主の愛に感謝するようになります。 弱い存在が大事にされる。弱い存在がいつくしまれる。これこそ、教会がこの世界に存在する意義です。これは保守バプテスト同盟の牧会者の勉強会、チームワークミーティングで、同志社大学教授の木原先生という方から学んだことですが、日本では現在、福祉というものは当たり前のように行政が主導していますが、本来福祉というものは、キリスト教会が担ってきたものでした。キリスト教会こそ弱者に注目し、弱者をいたわる役割を果たす存在でした。しかし、こんにちの教会は、なかなかそのような、弱い存在に対する実践が弱いようです。その共同体としての弱さが、教会内部にまで及んでいて、ほんとうに弱い人を顧みることができないとしたら、私たちは反省すべきです。 しかし、私たちにそんな自覚があるならば、ペテロのことばを思い出したいものです。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエスの名によって歩きなさい。」人をほんとうに強くする、すなわち、キリストのからだの部分をほんとうに強くするのは、ナザレのイエスの御名です。それは、全能なる神さまの御力そのものです。その御力に満たされて強くなれば、からだ全体、そう、ひとりひとりのからだも、キリストのからだなる教会も、強くなります。強くされる恵みをともに受け取る、そのような教会となりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。 第三に、からだは一つの部分の喜びや苦しみを全体で共有することによって、健康が保たれます。 26節です。これはほんとうのことです。自分のからだのことを考えれば確かです。あの、足の小指をどこかにぶつけただけで、めちゃくちゃに痛い、それは言ってみれば、からだ全体で痛いと思っているわけです。虫歯の痛みもそうでしょう。それだけで全身がダウンするようなものです。 反対に、たとえばきれいな花を見ただけでどうでしょうか。幸せになります。その香りを鼻でかいだだけでどうでしょうか。幸せになります。目や鼻というからだの一部の反応でも、からだ全身が喜んでいるわけです。 同じことで、ひとりの人の痛みが教会全体の痛みとなってこそ、教会はキリストのからだとして本来の役割をしていて、あるいは、ひとりの人の喜びが全体の喜びとなってこそ、やはり教会はその本来の姿を保っています。だから、私たちはもし自分がどこかからだの不調を覚えていたり、職場や家庭など生活の中で問題を抱えていたりするならば、それを隠すことはありません。話したら悪い、みんなに心配をかける、そんなことはどうか、こと教会という共同体においては、考えないでいただきたいのです。 自分のからだのことを考えてみましょう。もし、どこかの臓器が致命的に傷んでいて、それなのに痛みや違和感のような信号を一切発しなかったならば、放っておくと取り返しのつかないことになるわけで、そういう意味では、からだが痛むことはあながち悪いことではない、と言えるわけです。同じように、私たちがもし問題という痛みを抱えながら、それを教会という共同体の中でシェアしていないならば、その共同体には取り扱われないままに問題がありつづけることになるわけです。それこそ問題です。私たちは兄弟姉妹を信頼して、問題をシェアできるくらいに成熟したいものです。恥ずかしがらないでいただきたいのです。 また反対に、私たちは喜びがあれば、それを分かち合うことで全体が喜べるようにしたいものです。自分ばかり喜んでいることを悪く思われたらどうしよう、なんて考えないでいただきたいです。よいものはよい、喜ばしいことは喜ばしい、ならば私たちは、隠さないで分かち合うことで、キリストのからだを喜びに満たし、健康に保ちたいものです。 最後に、27節を一緒にお読みしましょう。……キリストのからだの健康は、その部分部分である私たちの健康です。逆に、私たちの健康は、その組み合わされたキリストのからだの健康です。切っても切れない関係にあるこの両者、教会と、私たちひとりひとり、その健康をつねに保つために、いつもみことばと祈りをもって御霊に満たされ、御霊の導きによって生きる、そのような私たちとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。