「キリストのからだの充満」
聖書箇所;エペソ人への手紙1章15節~23節 メッセージ題目;「キリストのからだの充満」 昨今はガソリンも随分値上がりしてしまいましたが、それでもお店によってはガソリンが安いところがあります。そういうお店に巡り合い、なお、燃料タンクにあまり油が残っていないならば、できればしておきたいこと、それは、ガソリンを「満タン」にすることです。「満タン」にしておけば、当分の間、ガソリン切れを気にしないで走ることができます。 私たちのからだも、満タンの状態が必要です。栄養をちゃんと取って、栄養満タンになる必要もあります。今の季節は熱中症にも気をつける必要がありますから、必要十分な水分を摂る必要もあります。そして何よりも私たちは、御霊に満たされなさい、とみことばに命じられている以上、御霊の満たしをつねに求める必要があります。韓国の教会ではよく、集会の中での賛美で、「聖霊充満、聖霊充満」と歌いますが、聖霊に満たされることは、私たちの信仰生活において必須のことです。 今日のテーマは、「キリストのからだの充満」です。先週も学びましたとおり、教会とはキリストのからだです。キリストのからだなる教会が健康であるために、そのひと枝ひと枝をなす私たちひとりひとりもまた、健康である必要があります。その私たちはまた、キリストのからだの充満にあずかるものとしていただいています。そのことを前提に、今日のみことばを学んでまいりたいと思います。 まず、15節、16節からお読みします。パウロはエペソ教会の信徒たちのために特に祈っていると告白します。パウロに特別に祈ってもらえるとは素晴らしい信仰の群れですが、それは、主イエスさまへの信仰と、すべてのクリスチャンに対する愛がエペソ教会の信徒たちにあると、パウロが聞いていたからでした。エペソ教会は、パウロが直接、3年かけて心血注いで牧会した群れですが、その牧会の結んだ実として、イエスさまへの信仰と兄弟姉妹に対する愛がふさわしく育っていたわけでした。しかしパウロは、それだけ育っていると知ればもう祈らなくていい、とはなりませんでした。むしろ、この愛する群れのためにますます祈ります、と語っています。そして、そのように信仰と愛において育ったエペソの信徒たちのことを覚えて感謝しています。 教会の兄弟姉妹を愛することは、教会がキリストのからだである以上、キリスト・イエスさまを愛することになります。私たちはその、兄弟姉妹に対する愛を、兄弟姉妹のことを覚えて祈ることによって告白します。 それではパウロは、その愛と感謝をどのように、祈りにおいて告白していますでしょうか? 17節から19節です。……ここでパウロは、2つのことを祈り求めています。まず17節です。……このみことばからわかることは、人が神を知るためには、神の霊である御霊が、神を啓示してくださることが必要だということです。 神を知ることがなぜ必要なのでしょうか? それは、ヨハネの福音書17章3節のみことばでイエスさまがおっしゃっているように、神を知ることそのものが、永遠のいのちだからです。 いや、私は神さまを知っているよ、神さまはこれこれこういうお方でね……そんなことをおっしゃいますでしょうか? しかし、ここで私たちは、聖書の語る「知る」ということを、もう少し考えてみたいと思います。たとえば私たちは、何かのきっかけで、テレビのようなメディアに出てくるスターのファンになります。ファンになったら、そのスターのことを知ろうとします。出演する番組は欠かさずチェックします。CDを買ったり、もっと熱心なファンになったら、写真集を買ったりします。さらに熱心なファンになったら、コンサートに足を運んだり、さらにいい席を取るために、ファンクラブに入会したりします。ファンクラブに入会すると、そのスターの単独インタビューの載った会報が送られてきたりして、ますますそうして、そのスターのことを深く知るようになります。 しかし、それでも、そのファンにとっては決定的に足りないことがあります。それは、そのスターのほうが、自分のことを知らない、ということです。それは、直接一対一で会話する機会など皆無だからです。万が一、そういう機会が巡ってきたとしても、そのファンは、スターのマネージャーや、あるいは家族とは比べ物にならないほど、そのスターのことを知っているわけではありません。 神さまを知る、ということは、「神さまを体験して知っている」ということです。単なる頭だけの知識ではありません。考えてみればわかる話で、日本中の学校が聖書のことやイエスさまのことを教えていますが、ということは、学生にしても先生にしても、神さま、イエスさまのことを、知識として知っているわけです。しかし彼ら、学生や先生はだれもが、神さまを知っているのは永遠のいのちだとイエスさまがおっしゃる以上、永遠のいのちを持っていると言えるでしょうか? そう考えると、「神を知る」ということが、単なる知識のレベルではないことがお分かりいただけると思います。 私たちも信仰の経歴を重ねることによって、それまでわからなかった神さまのことがわかるようになった、そうして、自分に与えられた永遠のいのちがどんなに素晴らしいか、さらにわかるようになった、その経験を繰り返していることと思います。聖書は単なる人生の素養のレベルで読むものではなく、そのみことばを、聖霊の御助けによって実践させていただくことで、私たちは神さまを体験し、私たちの日々のわざが、自分の努力だけによるものではない、あるいは偶然ではないことを認め、神さまをほめたたえるものです。 次に祈り求めていることは18節と19節にあるとおりです。ここでは、神を知ることのより具体的な内容について語られています。神さまは私たちを御国とその働きに召してくださっていますが、それゆえに私たちがいただくことのできる恵みに対する希望をいだきつづけることがなければ、私たちの信仰の歩みは長続きしません。見えないものを見えるようにして持ちつづけるものが希望ですが、神さまが私たちのことを召してくださっているという事実、その召しにしたがって私たちのことを用いてくださるという事実、その歩みのすえに永遠の、栄光の天の御国に迎え入れてくださるという事実は、この世にだけ目を向けていてはわからないことであり、この点で私たちは、神さまとそのみことばの約束に対する望みを持つ必要があります。 また私たちは、聖徒たちが受け継ぐものの大いなる栄光を知る必要があります。ここに私たちは、この世界で終わりではないこと、いや、この世界よりもはるかに偉大な天の御国のその栄光を見ながら生きる必要があることを知るものです。私たちは、自分が生きている世界のあまりの悲惨さに絶望するならば、いえ、それ以上に、私たち自身のあまりの不完全さ、罪深さに絶望するならば、そこから贖われたいという飢え渇きが起こされるでしょう。私たちがみことばを読み、やがて受け取る天の御国の栄光を知りつづけるならば、私たちはその飢え渇きを潤していただくことができます。 さらに19節、私たちのうちに働く神さまの力の偉大さを知ることが必要です。繰り返しになりますが、私たちにとっての聖書のみことばに対する信仰は、頭だけの理解で終わるものではありません。御力の偉大さを聖書のみことばから受け取り、それと同じことを神さまはいまもなお、私たちの祈りに応えて、私たちになしてくださると信じ、祈り、その力を認めて、神さまの御名をほめたたえるのです。モーセが杖を伸ばすと葦の海を真っ二つにされた神さまの御業、エリヤが祈ると天から炎を下していけにえを燃やし尽くされた神さまの御業、そのような偉大な神さまの力は、私たちがみことばをお読みするときに、私たちも体験できるものです。その神さまの御力が、いま、私の人生に臨むようにとお祈りするのです。 20節、21節のみことばをお読みします。その、神さまの御力の究極の現れは、イエス・キリストにおいて実現しました。実際、イエスさまのご生涯は、そのみことばにおいても、その御業においても、神さまの御力がどこにおいても現れていたことは、特に四つの福音書のみことばが証しするとおりですが、この20節、21節のみことばにおいては、イエスさまのご復活、そして、昇天、御国にて神の右の座に着座されたことが、神の御力であることを証ししています。 すべての支配、権威、権力、主権の上に、今の世だけではなく次に来る世においても、すべての名の上におられるお方、それがイエスさまだというわけです。私たちはいろいろな力や権威、権力が想像できるでしょう。テレビや新聞を通じて、このよのあらゆる権力や力のせめぎ合いを私たちは見ます。国家ですとか、大企業ですとか、その他いろいろな権力や権威を見るにつけ、多くの市民は自分の無力さを思うものかもしれません。そんな社会に対して、小さな自分は影響など及ぼせないと。 しかし、私たちはどうでしょうか? 私たちのうちにおられるお方、私たちとともにおられるお方の偉大さを思うならば、私たちは自分がこの社会、この世界に対して無力などと思っている場合ではないことがわかります。私たちのうちにおられるキリストほど偉大な存在、権威ある存在、力ある存在は、この世界のどこにもありません。私たちはこの偉大なるキリストとひとつにされている、この偉大なるキリストに特別に選ばれている、この偉大なるキリストにことのほか愛されている、そのようにみことばから受け取るならば、私たちは決してちっぽけな存在ではないことがわかるのではないでしょうか。 22節、23節は、今までお読みしてきたみことばの締めくくりの部分ですが、すべてのものを足の下に従わせられる存在であるキリストを、神さまは教会に、かしらとしてお与えになったと語っています。教会はキリストのからだであることは先週も学んだとおりですが、そのかしらはキリストです。教会は、あらゆる権威の上に立つ権威を持っておられるキリストが、そのかしらとして神さまから与えられている存在です。 あらゆる権威を従える最高の権威。その最高の権威がかしらである、最高の権威なる存在のからだ。それが教会であるならば、私たちが教会に連なるひと枝ひと枝、教会をなすひと枝ひと枝とされているということは、どれほど偉大なことでしょうか。また、どれほど責任のあることでしょうか。しかし、どれほど喜ばしいことでしょうか。どれほど感謝なことでしょうか。 そんな私たちの存在は、「キリストに満ちる」ということをもって証しされます。世界のすべてのものを、すべてのものによって満たす、それが、イエスさまがすべてを司られ、いのちをお与えになる創造主であられるということですが、このお方に満ちるということ、充満するということ、それでこそ、私たちはキリストのからだとしての、本来の生き方を全うすることができます。 それにはまず、私たちのかしらがキリストであるという事実につねに立ち、キリストの指示を仰ぐところからすべては始まります。具体的には、毎日みことばをお読みし、お祈りすることで、イエスさまが願っていらっしゃることを知り、それにお従いします。 しかし、その生き方を全うするには、キリストに満ちる、それが大事です。そのみからだなる教会に満ち満ちておられるキリストを体験する、そのためには、自分がキリストのからだのひと枝であることをとにかく意識し、キリストが満ち満ちておられるそのみからだとしての生き方に、自分自身をささげていくことです。 キリストに満ちる生き方は、私たち個人個人がします。毎日みことばをお読みし、お祈りすることで主にお従いするディボーションの歩みは、人に言われてですとか、人にいちいち指示されてすべきことではありません。私たちが自発的に主の御前に出て、主との個人的な交わりの中でしていくべきことです。 そして、個人個人が交わるだけでも充分ではありません。いまこのように私たちは、教会、キリストのからだという共同体として、主の御前にともに出ていますが、私たちは共同体全体で、キリストの満たしを体験します。それは、ともに礼拝することによって、つまり、ともにみことばの恵みをいただくことによって体験します。また、ともに御霊に導かれ、ともに祈ることによって体験します。ともに、それをもっとも確実に体験できる場は、日々主との交わりの中で教えられているみことばの恵みを集いの中で分かち合う場です。 その満たしにあずかるとき、私たちは個人個人においても、共同体においても、健康になります。キリストの御姿を見て、キリストと交わり、キリストに似たものになることほど、健康になることはありません。健康の究極のかたちとは、完全なキリストであるからです。この世の人々の、肉体的にも精神的にも健康になろう、健康であろうとする涙ぐましいばかりの努力を、私は決して否定するものではありませんが、ほんとうに健康になるためには、完全なモデル、すなわち、究極の健康のモデルである、キリストのからだの部分にされているものにふさわしく、キリストに満ちた生き方を志すことです。 特に私たちは、すべてのものをすべてのもので満たすキリストの充満を、キリストのからだとして振る舞うことによって実現すべく召されています。この世界をご覧ください。まだ、キリストの栄光が、そして、キリストご自身が満ち満ちるには、余地がたくさんあります。この世界がキリストを知る知識で満たされる、すなわち、キリストを知ることで人々が永遠のいのちを得て、この地に神の国が実現するように、私たちは祈り、みことばを宣べ伝えるのです。ことばだけで伝えるのではありません。私たちの日々主にお従いして変えられていく姿をとおして、周りの人にキリストを証しするのです。 私たちがキリストにより満たすものとなるには、まず、私たちがキリストに満ちる必要があります。ひとりひとりが、そして、ともに、キリストに満ちる、教会とはそのような共同体です。ともに取り組み、キリストの充満を体験してまいりましょう。そうすれば私たちはあらゆる点で健康になります。