「弱さを担い合うキリストのからだ」

ローマ人への手紙15章1節~6節 「弱さを担い合うキリストのからだ」    みなさんにはだれしも、長所がある一方で、弱点があると思います。私は今日の礼拝で、ここ水戸第一聖書バプテスト教会での働きがまる9年になりましたが、9年間もみなさんと一緒に過ごしてくると、みなさんの弱点も結構見えてくるものです。でも、ご安心ください。みなさんはみなさんで、私の弱点を相当いろいろ見てこられたのではないかと思います。それでもここまでの信頼関係が保たれ、教会形成にともに励むことができましたことは、ひとえに主の恵みであり、感謝なことです。  6月には列王記第二5章のみことばから、聖書の語るいやしというものについて学んでまいりましたが、今月7月にはその流れから、私たちの健康と主のからだなる教会の健康というものが、密接な関係を持っていることを学んでまいりました。今日も、健康な共同体のあり方をみことばから学びます。今日の箇所は、ローマ人への手紙15章1節から6節です。  まず、この箇所の始まりのみことばである、1節のみことばをお読みします。このように、弱い人のことが語られているのは、直前の14章を見てみればわかりますが、もともとの過度に生真面目なライフスタイルから、肉を食べることができなくて野菜にしか手が出ない人のことを、信仰のスタイルがふさわしくないといってさばくべきではない、ということを扱っています。そしてこの14章では、そのような信仰のスタイルの人を、「信仰の弱い人」と規定しています。  肉というものは食べてよいものです。それは、主のみことばに、肉を食べることがはっきり規定されているからです。しかし、もともとが肉を食べる習慣のなかった人、特に、主義として肉に手をつけることができない人は、それが宗教的な理由であるなしにかぎらず、教会という共同体の中に入ってくることは充分あり得るわけです。あるいはもっと純粋に、健康上の理由や好き嫌いの理由で食べられない人のいるでしょう。だから、自分たちのように肉を食べないからと、まるで信仰がだめな人のように決めつけてさばくのはいけない、というわけです。そういう人のことを大事にしなさい、というわけです。  その流れから15章のみことばに入るわけですが、1節を読めばわかるとおり、教会という共同体は、弱い人がケアされるべき場所です。14章では食生活に現れる「弱さ」が問題にされましたが、私たちにとって「弱い」ということは、いろいろな人に、いろいろな面で現れるものです。病気や障がいを抱えるなど、からだに関する弱さはその最たるものでしょう。目が悪い、ですとか、耳が遠い、ですとか、歩きにくい、ですとか。もっと大きな病気を抱えると、礼拝をささげることそのものも大変になってきます。しかし、そんな私たちは、いやし主なるイエスさまとの交わりを体験し、実際にいやされて、これまで以上に主の働きに用いられるようになるのです。  精神的な弱さもあります。非常に傷つきやすかったり、ひとたび落ち込んだら何日もやる気が出なかったり、そういう人は教会に逃げ込んできます。しかし、いざ教会にやってきても、すぐにパット表情が明るくなるとはかぎらず、暗い表情でいてしまう。でも、そういう弱さを強い人は担いなさい、というわけです。  またちがった弱さもあるでしょう。これは私がかつて、死に物狂いで取り組んだ経験のある課題です。日本のような密なコミュニケーションが要求されるような社会だと、それについていけないで教会に居場所を求めてくるケースもあるわけで、そういう人は押しなべてコミュニケーションが上手ではありません。そういう、関係づくりや会話のやり取りの弱さも、教会では避けて通れない問題です。  経済的な貧しさを抱えている人も、いわば「弱い」ということになるでしょう。先立つものがなければどうしようもありません。教会はそういう人を優先的に助けることがみことばにおいて命じられています。日本の近現代史を振り返ってみても、福祉の働きを優先的に担ってきたのがキリスト教会やクリスチャンだったのは、いわば必然と言えることでした。  そういうふうに、ある人はある面で弱さを抱えているものです。メッセージの冒頭で、だれしも弱点を抱えていると申しましたのはそういうことですが、とすると反対に、ある面で私たちは「強い者」になることができる、ということでもあります。  私たちは、教会という共同体にあって、自分が実は「強い者」であるという自覚に至ることができるならば、その強くされている恵みをもって、弱い人のその弱さを担ってこそ、教会はキリストのからだとしてのその本来の役割を果たします。この1節のみことばにはさらに、「自分を喜ばせるべきではありません」とつづきます。自分が強いという自覚がないならば、弱い自分を笠に着て愛されたいと振る舞うもので、それが「自分を喜ばせる」ということです。教会とは、自分を喜ばせたい人たちにサービスを提供する場ではありません。しかし人間とは弱いもので、たいていの場合は愛されたい、気持ちよくなりたいと願うものです。その愛されたい心理を新興宗教や異端やカルトは巧みに利用して、集まりなどに新しくやってきた人を思いきり歓迎する「ラブシャワー」という手法を用い、歓迎されて気持ちよくなったその人がだんだん、その組織にはまっていくように仕向けますが、私たちがもし、自分たちはまともな教会であるという自覚があるならば、そんなふうにして人を篭絡すべきではありません。  その代わり、やってくる人にはどこか強いところがあることを認め、その強さをもって兄弟姉妹を愛する行動がとれるように、お客様扱いなどしないでどんどん成長を促していくことです。もちろん、そういう人にも一定の弱さはありますから、その弱さをしっかりフォローしながら、ということは鉄則です。しかし、私たちが原則とすべきことは、「人は愛されたいのではなく、愛したいという欲求がある、なぜなら、愛なる神のかたちとして人間だれもが創造されたからだ」ということであり、私たちが弱い人の弱さを担うのは、あくまでその人が「強い」人に変えられて、「弱い」人の弱さを担えるように成長していただくためであることを、私たちは忘れてはなりません。  それは新来会者にかぎらず、すでに教会に定着している人たちも同じことです。人に愛されたい、サービスされたい、居場所がほしい、それは一概に悪いというべきではないのかもしれませんが、それが「愛したい」、「仕えたい」という内的衝動をはるかにしのぐようなら、クリスチャンとして問題があります。成長しないということです。私も子どもが小さかったとき、果たしてちゃんと大きくなるだろうかと心配になることしきりでしたが、今はこうして大きくなっています。そのように、新しく生まれたら大きくなるのが当たり前なのに、こと教会においては、成長することを拒み、いつまでも乳ばかり飲むようだったらどうでしょうか? いちいちおむつを替えてもらうように、人から世話されて当然とばかりに振る舞うようだったらどうでしょうか?  2節をお読みします。人にとってのほんとうの喜びは、霊的に成長することです。それはただ単に聖書を多く読めたとか、聖書の知識が増えたとか、お祈りが長くできるようになったとか、献金の金額が上がったとか、もちろん、それも大事にはちがいありませんが、それよりももっと大事なこと、聖霊なる神さまのお助けによって、聖書のみことばを実践できるようになること、神の愛により愛する人となること、そういう点で成長することこそ、人にとってほんとうの喜びとなることです。先ほどの繰り返しになりますが、人が神のかたちに創造されている以上、愛の人になること、すなわち、神の愛によって人を愛する人となることほど、人にとっての喜びはありません。  そういうふうに、新来会者も含めて兄弟姉妹が成長できるように働きかけること、それが、強いと自覚する人のすることです。こうして、強い人はより強く、弱い人も強くされ、みんなそろって強くなります。弱い人の弱さを担えるほど、みんなして成長します。  3節をご覧ください。先週のメッセージで、教会のかしらはキリストということを学びましたが、私たち教会をなす兄弟姉妹は生涯かけて、キリストにならう者です。キリストにならうには、キリストがどんなお方だったかを私たちはみことばから学ぶ必要がありますが、ご覧ください。    今日のみことばを見てみますと、キリストはご自身を喜ばせる方ではなかった、むしろ、父なる神さまがお受けになる嘲り、すなわち、罪人の分際で不遜にも神さまを冒瀆する者たちのその嘲りを、イエスさまは身に負われた、とあります。  およそ人にとっての罪というものは、まことのさばき主なる御父なる神さまを過小評価することろからはじまるものです。神さまを畏れていたらとてもできないようなことも、こんなことをしたところで大丈夫だ、とばかりに、大胆不敵に行うわけです。そのように、神を馬鹿にする、神を過小評価する、それは人が何と言い訳しようとも、神を嘲ることです。しかしイエスさまは、その嘲りをご自身の身に受けられ、人の罪をことごとく赦してくださいました。そのために、イエスさまは一切、ご自身を喜ばせる生き方をなさいませんでした。生きる目的は神の栄光、神による人間の救い、それを成し遂げるために、実に十字架の死にまで、御父のみこころに従順に従われました。神のみこころを離れた人間イエスの欲求というものなど、どこにも存在しませんでした。  キリストに似たものとなるということは、ただ人が贖われて神のものとなるためだけに、ただ人が主にあって成長するためだけに生きられた、そして今も、御父の右の座で私たちのためにとりなして祈ってくださっている、そのイエスさまのようになる、私たちの人生の目的、そして関心の一切を、そこに置くということです。そうすれば私たちは、イエスさまが私たちのことを愛してくださっているように、愛し合うことができるようになります。  4節のみことばをお読みしましょう。私たちが持つべき希望とは何でしょうか? それは、私たちが聖書の語るとおりの、愛の人、神の愛、キリストの愛によって、人を愛する人として成長するようになる、ということです。私たちは自分の弱さ、至らなさを見ると、こんな自分がキリストの愛により愛せるだろうか、と思うでしょうか? しかし私たちは、自分の弱さを見つづけるべきではありません。私たちが見るべきは、そんな私たちでもキリストの似姿になれる、キリストが愛されるように愛する人になれるという、聖書の約束、そして励ましです。  私たちはこの約束のことば、励ましのことばをつねに聞く必要があります。というのは、私たちを取り巻く環境は、神さまのみことばの価値観以外のものにあふれているからです。テレビや新聞はいいこと、耳に心地よいことを語るでしょうが、その内容は聖書の福音であることなどほとんどありません。インターネットも、私たちのほうから情報を取りにいくぶん、安全だと思うかもしれませんが、案外福音とは関係のない情報を手にしてしまっているものです。そのほかにも人のうわさ話、街を流れる宣伝広告……そう考えると、私たちは意識してでもみことばに耳を傾ける必要があることがわかります。  特に、ひとりで読むだけではなく、みんなしてみことばを語り合うことです。それはまたとない励ましになります。自分が励まされたみことば、自分に約束されたみことばを分かち合うならば、それはみんなにとっての励まし、みんなにとっての約束となり、全員でともに成長できるという希望はいやがうえにも増し加わります。  5節、6節をお読みします。キリストのからだなる教会の最終的な目標は、主にあって一致することで、主の栄光がほめたたえられるようになることです。いったい、自分は敬虔なクリスチャンだと自負する人たちの集団であったとしても、そこに一致もなく、みなが勝手な方向を向いて勝手なことをしているならば、それは果たして、主がひとつからだにしてくださっている教会の姿としてふさわしいでしょうか? まことに、主にあって一致することこそ、麗しい姿です。もちろん、みんな同じように語ったり、みんな同じように振る舞ったりする必要はありません。むしろ、主がそれぞれに与えてくださった賜物に応じて、主の愛によって愛するということを実践する、そういう点で一致していることが、教会として大事なことです。  いや、あんな人とひとつになんてなりたくない! もしかすると、ほかの兄弟姉妹のよくない言動に触れてしまって、そんな思いになってしまうこともあるかもしれません。しかし、そうなっても、やはり私たちに、主にあって一致しなさいというみことばは依然として語られています。  そんなとき私たちは、ほかの兄弟姉妹を変えてくださいとお祈りするのでしょうか? いいえ、むしろ、「私を変えてください」とお祈りする必要があります。問題の言動をする兄弟姉妹は、いわば「弱い」のです。もし、自分が変わる恵みをお祈りをとおしていただくならば、その人は強くなります。その強さで、問題の兄弟姉妹の「弱さ」を担えるようになり、こうしていつの間にか問題は解決し、みなそろって強くなり、教会にも一致がもたらせるという、まことに素晴らしいことになります。  私たちがもし、弱い兄弟姉妹を、弱いという理由で放っておいているならば、そこには神の愛もありませんし、したがって一致もあり得ません。弱い兄弟姉妹を放っておくのは、かかわると面倒だから、せっかくの日曜日くらい教会で羽を伸ばしたいから、でしょうか? それはクリスチャンとして了見が間違っています。それでは自分を喜ばせていることになり、ふさわしくありません。ほかの兄弟姉妹の弱さを積極的に担ってこそ、教会は神の家族、キリストのからだとしての、本来の役割を果たします。また、そのためにも、どうか自分の弱さを明らかにすることを、恥ずかしがらないでいただきたいのです。もちろん、のべつ幕なしに自分の弱さをべらべらしゃべるのは困ります。私たちはこの共同体において、人を愛する、したがって人に過度の重荷を負わせない、ということを自覚して、節度ある言動を心掛けたいものです。しかし、自分の弱さについて何も言わないで強がるべきではありません。教会の兄弟姉妹を信頼しましょう。祈ってくれるのですから。もちろん、その祈りの課題を聞いた以上、私たちは祈りますし、またその弱さを担って助けます。  祈りましょう。イエスさまが私たちの弱さを担ってくださったように、私たちも自分を喜ばせてばかりいることを卒業し、ほかの兄弟姉妹と弱さを担い合う、その愛を実践することで、神の愛において教会が一致できるように、その神の愛の証しを堂々とする共同体として、教会全体が成長するように、その教会の成長に益する歩みを、私たちひとりひとりがしていくように。