指導者にあるまじき不信仰の理由

聖書箇所;マルコの福音書11章27節~33節 メッセージ題目;「指導者にあるまじき不信仰の理由」 先週私たちは、ディボーション月刊誌「リビングライフ」に従い、新約聖書、使徒の働きの終盤の部分を毎日通読して黙想しました。そこで私たちは、パウロがどんなときにも堂々とイエスさまとその福音を証しした姿に触れました。私たちもこうありたい、主がどうかパウロのような証し人となる力を与えてくださいますように、と、祈らずにはいられなかったと思います。私たちは職場ですとか、地域社会ですとか、同好会ですとか、もしかするとご家庭ですとか、いろいろなところで、イエスさまを知らない人、はなはだしくは、イエスさまとクリスチャンに激しく敵対したり、冷たい態度をとったりする人に囲まれています。そういう人たちを前にしてイエスさまのことを語ることは、並大抵のことではありません。いざ、そういう機会が与えられたとき、私たちは勇気を出して、確信をもって、理路整然と、しかし喜んで、イエスさまのことが語れるでしょうか。 私たち日本に暮らすクリスチャンは、福音が語りにくい同調圧力の中で生活しています。しかしそんな私たちでも、私たちのことをいのちをかけて救ってくださったイエスさまのことを語りたいはずです。なぜならば、神さまご自身が、私たちの神さまであり、また私たちだけではなく、およそ人間であるならばだれひとり例外なく、その人の神さまだからです。知っていただければその人には、永遠のいのちをはじめとした絶大な祝福があることを知るゆえに、私たちは少なくとも、よい行いによって証しを立てることに一生懸命になるのです。 しかし、世の中の人々は必ずしもそんな私たちのことを理解してくれるわけではありません。特に、私たちが信じるお方、私たちのすべてであられるイエスさまのことを理解してくれるわけではありません。むしろ、私たちがよい行いをすれば当然で、逆に私たちが少しでも自分たちの気に入らないことをするならば、私たちのことを激しく攻撃したり、嫌味を言ったりします。そんな世の人たちを相手に主を証しする生き方をするのも骨の折れることですが、私たちはやめるわけにはいきません。私たちの愛の行い、仕える生き方は、いずれの日にか救われる人が起こされることにつながると信じて励んでまいりたいものです。 いずれにせよ、私たちは神さま、イエスさまを証しをする働きに用いていただけます。それは、私たちには全知全能なる万物の主宰者、神さまの権威がともにあるからです。とはいいましても、私たちはこの権威が与えられていることを大っぴらに主張して威張る必要は少しもありません。それはむしろ傲慢な態度というべきで、そのような傲慢な者から果たして、人は福音を聞きたがるでしょうか。その姿から慈愛にあふれたイエスさまを見出すことができるでしょうか。私たちはむしろ、自分にこの絶大な権威が与えられていることを口にする代わりに、その権威に裏打ちされた隣人愛、隣人を愛して仕えることを実践することで、わかる人にはわかる、神の権威を用いさせていただく存在です。 イエスさまを見てみましょう。イエスさまは群衆の目には、パリサイ人のような宗教指導者のようにではなく、権威あるお方と映りました。すなわち群衆はイエスさまのお姿に、単に職業で宗教家をしているような俗物の俗っぽさではなく、神さまご自身の権威を見たのでした。しかしイエスさまご自身は果たして、人々の前で大っぴらに、神の権威が自分にあると主張されたでしょうか。 そうかどうかは今日の本文に示された、イエスさまのお姿から見ることができます。イエスさまはエルサレムに入られ、「宮きよめ」を行われました。すなわち、暴力的とさえ見える手段でエルサレム神殿を商売の場にし、貧しい人や異邦人を食い物にするユダヤ人たちに制裁を加えられました。そしてイエスさまは次の日もエルサレム神殿に入られました。折しもそこには、宮きよめを行われたイエスさまに憤っていたユダヤの政治的指導者、また宗教的指導者たちがいて、イエスさまを待ち構えていました。彼らはイエスさまに言いました。28節です。 彼らは、イエスさまがお答えになるべき答えを知っていました。イエスさまが創造主なる唯一の神の権威によって、神の子、メシアとして振る舞っておられたことを知っていました。しかし彼らは、イエスさまがもし、神の権威によってあらゆる振る舞いをしておられるとお答えになったならば、神の民にふさわしく、その場でイエスさまを信じるでしょうか? 申し訳ありませんでした、あなたさまこそ救い主であると今こそ受け入れます、と、彼らは告白したでしょうか? とんでもないことです。彼らはイエスさまを迫害し、なきものにしようと、虎視眈々と狙っていました。 ここで彼らが、イエスさまの権威の由来を聞いたのは、結論ありきの尋問です。これは誘導尋問、相手に不利になる答えをするように誘導し、陥れるやり方で、現代の刑事裁判では、尋問者が相手に不利になる誘導尋問をすることは禁止されています。 彼らは何をたくらんだのでしょうか? イエスさまなら当然、「権威は神に由来する」とお答えになることを前提として、彼ら指導者たちはこの質問を画策したわけです。しかし彼らはいやしくも神の権威についてだれよりもよく知っているべき立場、神の権威を正しく認めるべき立場にあったわけで、そんな彼らは、いま目の前におられるイエスさまが帯びておられる神の権威を認めないどころか、もしそのようにイエスさまがおっしゃったならば、死刑にしようとさえしているわけです。彼らは神の子を前にして、こうまでも霊の目に覆いがかぶさっていて、神の子が見えなかったことになります。 彼ら宗教指導者はしかし、頑なまでもイエスさまを認めようとしませんでした。かえって、イエスさまを葬り去るために、この手の質問をいくつも用意していました。姦淫の現場でとらえられた女性を連れてきて、さあ、どうする、とイエスさまに迫ったり、カエサルに税金を納めることは律法にかなっていますか、と迫ったり……。しかしそのたびに、どんな反問もできない神の知恵に満ちたイエスさまのお答えに、彼らは沈黙するしかありませんでした。 今回はどうでしょうか? 29節です。イエスさまは、自分は逃げずにこの質問にちゃんと答える準備ができている、ということをお示しになります。しかしそのためには、イエスさまのなさる質問に対し、自分たちの意見をしっかり語ることが条件だ、というわけです。ここでイエスさまは、彼ら指導者たちがどんなことばを語るよりも、どんな態度をしているかを問題にされます。 彼らの態度をあぶりだしにしたイエスさまのご質問はどんなものだったのでしょうか? 30節です。……イエスさまのこの質問は、彼らの問題をあらわにしました。それは彼らの会話を見ると明らかです。31節、32節です。 バプテスマのヨハネは、イエスさまの先駆けとしてこの地に現れた人です。その、彼が人々に施すバプテスマは、パリサイ人やサドカイ人のような宗教指導者たちも大勢受けに来たほど、彼らから一定の霊的権威を認められたものでした。もっとも彼ら宗教指導者たちは、まむしのすえたち、悔い改めにふさわしい実を結べ、と、ヨハネに一喝されています。 ただし、彼らはとにかくバプテスマを受けようとしたことは事実だったわけで、つまり、ヨハネに何らかの霊的権威があったことを認めていたことにはなります。しかしそれならば、ヨハネが指し示すお方である、イエスさまを救い主と信じるべき、少なくとも、イエスさまには父なる神さまに由来する霊的権威があることを認めるべきでした。その点で彼らは、ヨハネのバプテスマは天から来たと言うだけの行動をすでに取っていたにもかかわらず、そのバプテスマが天から来たと言うことは、口が裂けても言えませんでした。 ということは、彼らは、ヨハネのバプテスマが人から出たと言えば、彼らなりに筋が通っていることになります。そうすれば、ヨハネの指し示すイエスさまの権威は、所詮人に由来するものでしかないと言い切れます。しかし、彼らはヨハネを預言者と認め、ヨルダン川に身を沈めてバプテスマを受けることさえした群衆を前にしても、やはりそんなことは言えませんでした。彼らがほんとうに恐れていたのは神ではなく、人だったとも言えるわけで、その点でも彼らは神の民ユダヤの指導者として失格だったということができます。 結局彼らは、何も答えることができず、わかりません、と言うしかありませんでした。イエスさまはそんな彼らには、ご自身の権威がどこから来たかを説明される必要はありませんでした。つまり、イエスさまの権威がどこから来たかわかっているくせに、それをあえて尋ねることでイエスさまを罠にかけようとする者の手に乗る必要はなかった、ということです。またしても彼らは沈黙するのみでした。神の知恵にどんな人の悪知恵もかなうわけがありません。 こうしてイエスさまは、彼ら指導者を退けられましたが、ここで私たちは、彼らが神の民の指導者という立場にありながら、なぜこうまでして、聖書に啓示されたお方であるイエスさまのことが信じられなかったのか、その不信仰の理由を考えてみたいと思います。神さまは人を愛されるお方です。それならば、これほどまでに神さまに献身している人が、もっとも神さまとその愛を知っていてしかるべきです。ところが実際はその逆で、神を知っているはずの者たちががもっとも神から遠かったわけです。 それはなぜでしょうか。まず、彼ら指導者たちは、たしかに神を知っている立場にありましたが、実際はテトスへの手紙1章19節で語られているとおりの人だからです。そしてそのように、神を信じていることを行いで否定するということは、つまり、その行いは「悪い」ということです。このあたりのことについては、ヨハネの福音書3章16節以下をご覧ください。 私たちは、心の中の動機が悪ければ、つまり神に対して不敬虔ならば行いが悪くなる、とつい考えないでしょうか。しかしこのヨハネの福音書のみことばを見ると、行いが悪いから光のもとに引き出されたくなくて、神のもとに行かない、と語っています。ならば私たちが優先的に点検すべきは、心の状態ではなく、行いそれ自体です。 私たちは自分が思うほど、自分の心の状態をわかっているわけではありません。しかし、私たちは自分の行いなら、自分が何をしているかわかるはずです。この行いを見て、私たちは神の前に正しい態度でいるかどうか、イエスさまにお従いしているにふさわしい状態にあるかどうかが見えてきます。 だが、それさえも分からなくなるほど、サタンにくらまされる時というのがあります。彼らは何をしているのかわからないのです。自分がしていることが果たして悪いことかどうか、その判断をつけることさえできないのです。それはそれだけ、悪い行いをすることに慣れすぎてしまって、結果、神を信じない、神から離れるしかない状態です。 しかし、それは私たちみなに言えることではないでしょうか。私たちはどこかで、神さまのご支配に委ねたくない罪人です。神さまが自分の神でありつづけることをどこかで嫌がっている、自己中心の罪人です。このときの宗教指導者たちなど、まさにそのような状態にありました。 しかし、イエスさまはそのような宗教指導者の究極の悪い行いであった、十字架におつきになったときに、なんとお祈りされたでしょうか?「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼ら、神の子を十字架につけるという、宗教指導者にあるまじき行いをする者、行いが悪いゆえに、光なる主のみもとに来ることが決してできなくなった彼ら、そんな彼らは、何をしているのかわからないから、どうか赦していただきたい、と、御父にお祈りされました。 もし、自分が何をしているか知っていたら、彼らはその責任を当然、地獄行きというさばきを受けることによって取るべきでした。しかしイエスさまはそのさばきを、身代わりになって受けてくださいました。このとき、宗教指導者たちが神の子主イエスを知りながらも決して信仰告白をしなかったほど頑なであったように、私たちも頑なであるという点で、ユダヤの指導者と変わるところはありません。いまもなお、自分のしていることがわからない。神のみこころを行いたいと願いながら、それができず、反対のことを行なってしまうほど、自分の行いがわからない。それが私たちではないでしょうか。神さまはその行い、罪の行いの報酬として、当然私たちに、死、すなわち永遠の滅びをお与えになって当然です。 しかしイエスさまはその御父の怒りとのろいを、十字架にくぎづけになった両手を広げて受け止められ、すべての人をかくまってくださいました。彼らはわからずにしているんです、彼らに責任を負わせないでください、その責任はわたしがお引き受けします! 私たちは神を信じながら、なお罪を犯すものです。行いが悪いため、神さまのもとに行くことなどできない者でした。しかしあわれみ豊かな神さまは、私たちに、イエスさまの十字架を信じる信仰を与えてくださり、私たちのことを救ってくださいました。それでも私たちは相変わらず悪い行いをするものです。だからこそ私たちには十字架が必要なのです。あわれみを求めて、イエスさまの十字架を祈りのうちに仰ぐ必要があるものです。その歩みの中で、私たちの行いはきよめられて、キリストにならう者に変えられてまいります。 そして、私たちがクリスチャンだからという理由で迫害する人は、実はイエスさまご自身を迫害している人です。私たちの周りのそんな人たちのことを、私たちはどう思いますでしょうか? イエスさまが十字架の飢えからお祈りされたように、彼らはわからないでそういうことをしている、だから赦していただきたい、と、神さまに執り成してお祈りするならば、私たちは祝福された歩みをしていることになります。私たちがどんなにあわれみをいただいて、ユダヤの指導者と同じ、イエスさまを十字架につけるほどの罪から救っていただいたかを心から思い、主に感謝するなら、私たちはこの祈りがひとりでに口を突いて出る恵みをいただきます。 私たちはイエスさまによって赦されたわが身の幸せを思いましょう。そして、イエスさまの赦しが私たちの周りの人々に及ぶように、私たちもその人々を赦し、愛する力がいただけるように祈りましょう。

いちじくの木の教え

聖書本文;マルコの福音書11章12節~25節 メッセージ題目;いちじくの木の教え 神さまの創造の不思議というものに、私たちはときどき出会います。たとえば、人のように見えるもの。それは、木ではないでしょうか。教会の駐車場に生えているような、植物の木。幹は胴体、太い枝は腕、そして、上のほうで茂る枝葉は全体が人の頭のように見えないでしょうか? ときどき絵本などで見ませんか、人のように顔があって、ことばをしゃべる木を。 逆に、これは以前学んだマルコの福音書のみことばにありましたが、イエスさまに目をいやしていただいた盲人が、最初人を見たとき、人が木のようです、と言っています。人の姿はぼんやり見ていると、木に似ているというわけです。 そういうわけで、神さまは人に似たものとして、木というものを創造されました。そういう木に囲まれて生活している私たちですから、たとえば春になると満開の花を咲かせるさくらの木が、寿命が来てこのままだと倒れて危ないからと、電動のこぎりなどで切り倒す現場に出くわすと、私たちはどこか心が痛みます。そんな私たちが何の予備知識もなく、今日の箇所を読んだらどう思うでしょうか? お尋ねしたいのですが、みなさまが最初この箇所を読んだとき、どんな印象をお持ちになりましたか? イエスさま、おなかがすいているからって、何もそこまでしなくても、などと思いませんでしたか? 正直に申しまして、私は最初そう思ってしまいました。 イエスさまは貧しい人や、からだの不自由な人をお心に留めてくださる、やさしいお方です。そんなイエスさまが時に、暴力的とさえ思えるような行動に出られるのを福音書で目にしたら、私たちは戸惑いませんでしょうか? 今日お読みしたみことばでは、イエスさまは木を枯らされただけではありません。エルサレム神殿の中で暴れ回っておられます。こんなイエスさまのお姿はあまり見られないだけに、目を丸くしてしまわないでしょうか? だからこそ私たちは、このようなイエスさまの行動から学ぶために、聖書を深く知る必要があるわけです。聖書に書かれていることを表面的に受け取り、かわいそう、とか、ひどい、とか、感情的に反応したら、下手をするとつまずき、信仰がそれ以上成長しなくなる危険があります。つまずかないために、主のみことばは愛に満ちた誤りなき神のことばであると受け取りつつ、謙遜に学ぶ姿勢が必要です。 さて、朝になってエルサレム城外のベタニアからエルサレムに入られるイエスさまは、その途上、おなかがすいておられました。折しも、遠くにいちじくの木が見えました。しかしその木は、葉が茂っているばかりで、何の実もついていませんでした。イエスさまはこのいちじくの木を呪われ、今後おまえの実をだれも食べることのないように、とおっしゃいました。 しかし、この13節のみことばを見てみますと、「いちじくのなる季節ではなかった」からいちじくの実はなっていなかったということが書かれています。それなら、実がなっていないのはしかたがないのではないでしょうか? イエスさまはそれをご存じなかったのでしょうか? イエスさまはひどいのでしょうか? 私も長いこと、この謎がわからずにいました。しかし、私がこの教会にやってきて、前任者だった宇佐神実先生にいただいた本、『聖書の世界が見える・植物編』という、もともとが漢方のお医者さんで、現在はイスラエルで宣教師をしておられるリュ・モーセ先生という方がお書きになった本を読んで、長年の疑問が氷解しました。今からお話しする、いちじくに関するお話は、その本を参考にお話しすることです。 多くの人はこのできごとを合理的に説明しようと試みて、大きく分けて2種類のことを言います。ひとつは、イエスさまがあまりにおなかがすいていて、いらだちのあまり呪われた、もうひとつは、十字架の死を前にして、瞬間的に理性を失われた。とくに後者の解釈は、かのシュバイツァー博士も採用しているものです。 しかしもちろん、そういう軽薄な理由でイエスさまがこのような行動をお取りになったわけではありません。そのために理解すべきことは、イスラエルにおいていちじくがどのように実を結ぶかということです。イスラエルは地中海の気候で、4月から10月までの乾季と、その残りの期間の雨季に分かれます。6か月の雨季の冬の間、葉のない枯れ枝のまま冬を過ごしたいちじくの木は、過越が近づくにつれ、わずかな葉とともに最初の実をつけ、その後長い夏の間に、5回にわたって実をつけます。じつは、初なりのいちじくを指すヘブル語と、夏の間に実るいちじくを指すヘブル語は、別のことばなのです。初なりのいちじくは「パーグ」、そのあとのいちじくは「テエナ」です。 つまり、これはヘブル語の原語に忠実に解釈すると、イエスさまが探されたのは「パーグ」、すなわち「初なりのいちじく」であり、しかし「テエナ」の季節ではなかった、ということです。過越の時期に葉ばかりが茂って初なりのいちじく「パーグ」がついていない木は、明らかに問題がありました。こんな木は夏になっても「テエナ」の実を結ばないことは明らかでした。 イスラエルにおいて果物とは基本的に夏のもので、冬には果物は実を結びません。初なりのいちじくとは、まさにイスラエルの民が待ち焦がれている甘いもの、滋味豊かなものであり、神さまがイスラエルの民に注がれるそのおこころは、この待ち望まれているもの、初なりのいちじくに例えられます。 義人が消え去ってしまった南ユダ王国の時代の預言者ミカ、偶像礼拝がはびこったヤロブアム二世の時代の北イスラエル王国の預言者ホセアが、神さまのその御思いを語りましたし、一方で南ユダの預言者イザヤは、その活動していた時代にアッシリアによって滅ぼされた北イスラエルを、はかなく食べられてしまう初なりのいちじくになぞらえました。 このように、いちじくの実は神の民の状態を象徴していましたが、同時にいちじくの木は、季節の訪れを告げました。特に、夏の訪れを告げます。マタイの福音書24章23節と24節のみことばに注目しましょう。イエスさまが終末のしるしについてお語りになっているとき、唐突にいちじくの木の話が出てまいります。これは、イスラエルにおいては秋が一年の四季の始まりであり、秋、冬、春と来て、最後が夏、すなわち、夏という季節は、イスラエルの人たちにとっては終末を意識させるものだからです。 その終末に、滋味豊富で、イスラエル民族にとっては最高の果実ともいえるいちじくの実のような実りがないならば、そのような者は木が枯らされるように、神の国から放り出されてしまいます。このイエスさまのみわざは、マタイの福音書ではひとつづきのように書かれていますが、時系列で理解するならおそらくマルコの福音書の順番どおりです。すなわち、イエスさまがいちじくの木を呪われたらすぐにたちまち木が枯れたというよりも、イエスさまが呪われたあとになってもう一度その木を見ると、枯れていた、ということです。たった一日で枯れたわけですから、マタイの福音書の表現、たちまち枯れた、ということばも、あながち間違っていないことになります。 ともかく、いちじくの木が枯れたことがわかるまでには間があるわけですが、その間何があったのでしょうか? そのできごとから何をお教えになるため、イエスさまはいちじくの木を枯らされたのでしょうか? それは、いわゆる宮きよめでした。イエスさまがエルサレム神殿にお入りになると、そこにはいけにえにする鳩を売ったり、両替をしたりして儲ける者たちがいました。要するに、神殿を世俗的な商売の場としていたわけです。 もし、彼らに言い分があるとすれば、礼拝者の献金は両替してやらなければならないじゃないか、いけにえを用意できない人もいるじゃないか、とでもなるでしょうか。 しかし、イエスさまはお許しになりませんでした。それは、神への礼拝さえも肉的な利得の手段とするほどに堕落した、過ぎ越しにふさわしい初なりの実を結ぶことから程遠い、神の民のなれの果てでした。イエスさまは暴力的とさえ思えるような手段を用いてさえ、彼らに制裁を加えました。 イエスさまは彼らのしていることに対し、本来、御父の家、すなわち祈りの家と呼ばれるべき神殿を、おまえたちは「強盗の巣」にした、となじっておられます。神殿は単なる宗教施設ではなく、神の民が祈りというつながりをもって神を父とする家庭を築く「家」です。神の民は祈りによって父とつながり、お互いが神という父を介してつながる家族です。それが実現する究極の場所が神殿です。そういう生き方をすることによって、やがて世をさばくさばき主としてこの地に来られるイエスさまにまみえることに、神の民たる者はともに備えるべきなのです。 ところが彼らのしていることは、そんな神の民とは似ても似つかない姿です。いえ、およそ人に生まれたならば、その創造主なるイエスさまの再臨に備えて、つねに父なる神さまと祈りをもって交わり、ものの売り買いを介してではないとつながれないようなドライかつ世俗的な関係ではなく、主にあってほかの人たちと愛にあふれた交わりを持つ共同体を形づくるべきです。つまり、彼らは人でさえありません。家ではなく、「巣」に住むようなけだものにも等しい者ども、そして、いけにえにするには鳩しかささげられないような貧しい者たち、巡礼に来ていてなけなしのお金を差し出そうとする人たちさえ利得の手段にするような彼らユダヤ人は、強盗だとおっしゃっているわけです。人のものを奪う、すなわちそうすることで、神のものを奪う彼らは、祈りの家に居座る強盗どもです。 過越とは、神のさばきと贖いの告げ知らされる大事なときです。このときイエスさまは、十字架におかかりになり、過越における究極の子羊のいけにえとなられました。しかし、その子羊によって贖われるべき肝心のユダヤ人は、御父の家、祈りの家を弱者から搾取してむさぼる利得の手段にして恥じることをしない、強盗どもと化していました。そんな彼らはうわべだけを誇る、過越の季節にふさわしくなく、まるで真夏のように葉ばかり青々と茂らせても、イエスさまを満足させる小さな実ひとつ結べない者たちでした。イスラエルの夏に象徴される終末が現に臨んでいようとも、そんなことはお構いなしの傲慢きわまる態度です。 ただ、イエスさまはいちじくの木を枯らされたことに対して驚いている弟子たちに対して、そのような霊的な奥義を説明される代わりに、信じて祈る者の祈りを神さまは聞いてくださる、山に向かって動いて海に入れ、と祈っても、そのとおりになる、と、すごいことをお語りになりました。 イエスさまのこのおことばを表面的に受け取るならば、そうか、そんな不可能と思えるようなことでも、信じて祈れば聞いていただけるのか、という理解で終わってしまいます。これは前に、岡野俊之先生という牧師先生のメッセージでお聴きしたことですが、岡野先生はまだ若者だったとき、この箇所から解き明かされたメッセージを聴いてイエスさまを信じ、家に帰ってノンクリスチャンのお父さまに興奮してお話しになったそうです。「お父さん、イエスさまを信じるってすごいよ! イエスさまを信じて祈るならば、山も動かせるんだよ!」すると、お父さまはこうお答えになったそうです。「馬鹿だなあ。おまえは自分の寝ていた布団ひとつ動かせないじゃないか。」要するにお父さまは、布団の上げ下ろしもできない者が、何が祈りの力だ、とおっしゃりたかったわけです。だから、ここでイエスさまがおっしゃりたかったことを、クリスチャンは祈れば必ず全能の力が与えられる、というレベルで捉えないことが大事になります。 これは、イエスさまがなぜいちじくの木を枯らされたか、そのことで弟子たちに何をお教えになろうとしたか、を考えることで理解すべきことです。海とは何でしょうか。神なき暗黒の世界の象徴です。しかし終わりの日、天国が実現したら、以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはやそこには海がないとみことばは語ります。それでもそうなる前に、エルサレムという山の町がもろとも海に投げ込まれるがごとく、主の時の訪れを無視しつづけて神の領域を強盗のごとく占拠しつづける、名ばかりの神の民のつかさたちは、海に投げ込まれるがごとく、火と硫黄の池に投げ込まれます。 その主の正義のさばき、御怒りの報復の日は必ず起こる、と信じて祈ることが、あらゆる祈りの基礎となります。その中には、人間的に考えたら不可能と思えることさえ含まれるでしょう。その祈りが聞かれることで主のご栄光が広くたたえられ、主の御国が拡大し、主の再臨が確実に近づくからです。 そう、私たちにとっていちばん信じるべきことは、主が必ずこの世界をさばき、天国を実現してくださるということです。しかし、あらゆる宗教や唯物論が常識となる一方で、再臨のイエスさまのご存在を頑として受け入れないこの世界において、このことを事実と信じて祈る求めることには、並大抵ではない信仰が必要とされます。何よりも、いちじくをたちまち枯らされたほどのイエスさまがどれほど全能なお方であり、また主権者であられるかを心の底から認める謙遜さ、敬虔さが必要とされます。イエスさまなど再臨するものかという間違ったこの世の常識に、どんなことがあっても負けない、いえ、むしろ私たちの祈りの力によって、再臨を確実に実現していただく、そのように信仰を働かせてまいりたいものです。 ただし、そのように全能の御手を伸ばしてくださる信仰を私たちが働かせるにあたって、イエスさまが命じておられることがあります。それは、兄弟姉妹を赦す、ということです。私たちは神さまから見ればあまりに罪が多く、神に敵対する歩みを意識するしないにかかわらずしている罪人です。そんな私たちはしかし、イエスさまの十字架によって、完全に罪なきものと見なしていただきました。しかし、そのように罪を赦していただいただけの私たちが、もしほかの兄弟姉妹の罪に目を留めて、怒ったり、さばいたりして、赦さなかったらどうでしょうか? よくもそんなことをしてくれたな、と、呪ったりしたらどうでしょうか? 神さまはそんな私たちのことをお赦しになりません。そんな怒りとのろいをいだくものは、天国にふさわしくないからです。 しかし、私たちはそう簡単に怒りを手放せません。しかしこのままでは、終わりの日に神さまが実現してくださる天国に入れません。ならば私たちは、天国を実現する全能の御業をなしてくださいという祈りを手控えるべきなのでしょうか? そうなってはなりません。むしろ私たちは、天国がわが身にも完全に実現するために、怒りを手放し、兄弟姉妹を赦す決断をする必要があります。それがもし極めて難しいこと、不可能なこととさえ思えるならば、そこにこそ私たちは、全能の御手を求めましょう。主は、不動の山のように居座る私たちの怒りさえも手放せるように、全能の御業をなしてくださいます。 ともに祈りましょう。私たちはひとりの例外なく、さばき主なる主の御前に立つ日が来ます。しかし、私たちはさばかれません。なぜなら、イエスさまの十字架によって罪を赦していただいているからです。この罪の赦しが、私たちの愛する人、まだイエスさまに出会っていないけれども私たちの愛している人に実現すること、それによって神の怒りからその方が免れられるようにと願いましょう。そして私たちは、人間的にはありえないことのように見えるイエスさまの再臨を、心から信じて求めましょう。

主の弟子への招き

聖書箇所;ルカの福音書5章1節~11節 メッセージ題目;「主の弟子への招き」    本日は礼拝においてバプテスマが執り行われます。まことに嬉しい、喜びに満ちたひとときを、私たち教会はともに迎えます。私もお祝いする気持ちで、祈りつつ聖書本文を探しまして、今日の本文に行きつきました。今日はバプテスマも主の晩さんも行われますので、いつもより短い時間でメッセージしたいと思います。  イエスさまを信じるということは、同時に、イエスさまの弟子に招かれる、ということです。イエスさまの弟子になるということは、難しいことではありません。厳しい修行を積まなければイエスさまの弟子になれない、という性質のものではありません。聖書を見てみますと、イエスさまがご自身のメッセージを聴きに集まった群衆に、たとえで神の国について説明された後、そのたとえの意味を尋ねる弟子たちに、その意味を解き明かされた内容が収録されています。この解き明かしが、弟子ではなければお聴きできなかった内容であったことを考えると、それが聖書に収録されている以上、聖書を読む人はみな、イエスさまの弟子に招かれている、ということが言えるわけです。聖書は一般の書店でも簡単に手に入る書物であるわけで、つまり、イエスさまの弟子になる道は、実はとても広く開かれているわけです。  それだけではありません。使徒の働き6章1節を読んでみますと、教会の群れに日に日に増し加わった人々のことを、はっきり「弟子」と呼んでいます。その人々はもちろん、イエスさまを信じ受け入れ、バプテスマを受けることによって教会の一員となっていったわけですから、イエスさまを信じてバプテスマを受けるならば、即、弟子に召されると言えるわけです。  今日の箇所、ペテロがイエスさまの弟子に正式に招かれた箇所も、難解かつ秘密の書物ではなく、聖書の読者である私たちに開かれているみことばです。ペテロは特別だと思いますでしょうか? いえ、みことばをもって弟子に招かれているということにおいて、ペテロも私たちも変わるところはありません。  今日の箇所、ルカの福音書5章のシーンをざっと見てみます。ゲネサレ湖で……ガリラヤ湖のことですが……ゲネサレ湖という湖で夜通し漁をしたけれども、何も獲れなかったシモン・ペテロの舟にイエスさまがお乗りになって、舟の上から湖岸に集まった大勢の群衆に教えを語られました。それからイエスさまはペテロに、深みに漕ぎ出して網を下ろしなさい、そうすれば魚が獲れるから、とおっしゃいました。ペテロがそのおことばのとおりに網を下ろすと、舟も沈みそうになるほどの魚が獲れ、ペテロがイエスさまの御前にひれ伏します。そんなペテロにイエスさまは、あなたは人間を取る漁師になります、とおっしゃいました。そのおことばを受けて、ペテロもアンデレも、その網を引きげるのを手伝ったヤコブもヨハネも、何もかも老いてイエスさまに従っていきました。  そのように、今日の箇所はイエスさまのお招きにペテロたちがお応えしたという内容ですが、主の弟子への招きとそれへの応答というものは、イエスさまが一方的に嫌がるペテロたちを引っ張っていったわけではなく、イエスさまとペテロの共同作業のようにしてなされたものだということがわかります。  福音書を読み比べてみると分かりますが、実を言いますと、シモン・ペテロは今日の本文、ルカの福音書5章のシーンでイエスさまに初めて出会ったわけではありません。その前に、すでに出会っています。その場面はヨハネの福音書1章に描かれていますが、もともとがバプテスマのヨハネの弟子だったアンデレが、自分の兄弟のことをイエスさまのもとに連れていきます。その兄弟がシモン・ペテロです。アンデレは一日、イエスさまと過ごしてから、シモンのもとに行ったわけですが、この時点ですでにアンデレは、イエスさまのことをキリストと認めています。  シモンがイエスさまのもとに行くと、イエスさまはシモンに対し、あなたはケファ、すなわちペテロと呼ばれよう、と、出会ってそうそう、名前をつけられ、シモンとの個人的な関係を築かれました。  そういう背景があったうえで、イエスさまはゲネサレ湖畔にて、シモン・ペテロの舟から群衆に対して教えを宣べられたわけです。いきなり面識もないペテロの舟に乗られたわけではなかったわけです。ともかく、ペテロは夜通しの漁で疲れていたことでしょう。そればかりか何も獲れないで、むなしささえ覚えていたはずです。しかし、なんと、その朝に、目を凝らすとイエスさまがやってきます。後ろにはぞろぞろと群衆がついてきています。そのイエスさまが、群衆を教えるにあたり、ペテロの船着き場、そしてペテロの舟という場所をお選びになったわけです。実に、ペテロは選ばれていました。なんという光栄でしょう。  それだけではありません。ペテロがこぎ出した舟にイエスさまがお乗りになり、そこからお教えになったということは、ペテロはだれよりもイエスさまのそばで、そのメッセージを直接お聴きするという恵みにあずかったことになります。選ばれて、みそばでイエスさまのみことばをお聞きする、すでにイエスさまの弟子としてお従いする準備ができていました。  そのイエスさまが、深みに漕ぎ出して魚を獲りなさい、とおっしゃるわけです。ペテロとしては、夜通し漁をしても何も取れなかった……先週私たちは、落胆、ということをメッセージで扱いましたが、こういう時こそペテロは落胆していたことでしょう。それに、何も獲れなかったなんて、漁師としてのプライドにかかわることでもありました。  しかしペテロは、「でも、おことばどおり、網を下ろしてみましょう」とお答えします。いえいえ、何も獲れないんです! 私は疲れているんです! そんなことは言いませんでした。ペテロは、そばでメッセージをお語りになるイエスさまのそのおことばに、心動かされたわけです。このお方が一緒ならばできる、このお方がおっしゃるならばできる、そう信じ、深みに漕ぎ出して網を下ろしました。すると何ということでしょう。まったく獲れなかった魚が、舟も沈まんばかりに大漁!  このように、主が召され、導かれるとおりに従順にお従いするならば、主はすばらしい祝福を約束してくださると、みことばは語ります。まずは、みことばがまことであると信じることです。主が祝福をもたらしてくださる恵みは、そこから始まります。  ペテロもアンデレも、その仲間のヤコブもヨハネも、イエスさまのこのみわざに、大きな恐れを覚えました。人間的にどんなに努力してもかなわないことを、従順に従うならば主は十二分にかなえてくださる。そんな全能なるお方。  このお方こそ王の王、主の主、もう、ひれふすしかありません。しかしイエスさまは、そのように恐れに震える彼に対し、「今から後、あなたは人間を獲る漁師になります」とおっしゃいました。漁師ひとすじに生きてきたペテロ、そしてアンデレやヤコブやヨハネに、新しい生き方、主ご自身がお導きになる生き方をお授けになりました。主の弟子となって、主のもとに人々をお導きするという、素敵な生き方。こうなったら彼らのすることは、その生き方をするために、イエスさまにお従いすることだけでした。  ペテロたちがそうしたように、私たちも主の弟子としてお従いする祝福を知って、イエスさまについていく存在です。人は言うかもしれません。弟子として生きるなんておよしなさい。しかし、天地万物をおつくりになった神さまご自身の招きです。これを拒否さすることがどんなに人生にとって損失か、わかっているのです。反対に、すべてを捨てて主にお従いすることならば、この世においては捨てた分の何倍も受け、のちの世では永遠のいのちの大きな祝福を受けることを知っているのです。その祝福を、だれかに言われたからと手放すだなんて! だれが何と言おうと、主の弟子としてイエスさまにお従いすることはやめられません。  でも、弟子としてお従いするのは楽しい道です。ペテロはそれから、そのリーダーシップを発揮する一方でおっちょこちょいな性格のゆえに、弟子共同体の生活の中で何度もしくじりましたが、最終的にはすばらしい働き人として整えられました。私たちはイエスさまのそばに置いていただいているから、必要十分のみことばをお読みできるから、お祈りすればイエスさまにいつでも聴いていただけるから、私たちは「弟子」です。  今日、姉妹はイエスさまの弟子としてキリスト教会においても、この世においてもデビューしようと、バプテスマをお受けになるという、素晴らしい決断をなさいました。繰り返し申します。イエスさまの弟子として生きることは楽しいです。なぜならば、その喜びを分かち合える信仰の友、弟子の仲間が、こうしてともにいるからです。ペテロが兄弟のアンデレ、漁師仲間のヤコブやヨハネと一緒に召され、共同体となって孤独じゃなかったのと同じことです。みなさん、姉妹と一緒に励まし合いながら、弟子の歩みをしてまいりましょう。その弟子の歩み、愛の歩みは、人間の力では決してできないけれども、全能なるイエスさまに働いていただくことではじめてできる、人がたくさんイエスさまのもとに送られてくるという、その実を結びます。そのために用いられるべく、日々ともに主の弟子として訓練を喜んで受け、お従いしていく、そのような私たちとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。