聖書箇所;マルコの福音書11章27節~33節
メッセージ題目;「指導者にあるまじき不信仰の理由」
先週私たちは、ディボーション月刊誌「リビングライフ」に従い、新約聖書、使徒の働きの終盤の部分を毎日通読して黙想しました。そこで私たちは、パウロがどんなときにも堂々とイエスさまとその福音を証しした姿に触れました。私たちもこうありたい、主がどうかパウロのような証し人となる力を与えてくださいますように、と、祈らずにはいられなかったと思います。私たちは職場ですとか、地域社会ですとか、同好会ですとか、もしかするとご家庭ですとか、いろいろなところで、イエスさまを知らない人、はなはだしくは、イエスさまとクリスチャンに激しく敵対したり、冷たい態度をとったりする人に囲まれています。そういう人たちを前にしてイエスさまのことを語ることは、並大抵のことではありません。いざ、そういう機会が与えられたとき、私たちは勇気を出して、確信をもって、理路整然と、しかし喜んで、イエスさまのことが語れるでしょうか。
私たち日本に暮らすクリスチャンは、福音が語りにくい同調圧力の中で生活しています。しかしそんな私たちでも、私たちのことをいのちをかけて救ってくださったイエスさまのことを語りたいはずです。なぜならば、神さまご自身が、私たちの神さまであり、また私たちだけではなく、およそ人間であるならばだれひとり例外なく、その人の神さまだからです。知っていただければその人には、永遠のいのちをはじめとした絶大な祝福があることを知るゆえに、私たちは少なくとも、よい行いによって証しを立てることに一生懸命になるのです。
しかし、世の中の人々は必ずしもそんな私たちのことを理解してくれるわけではありません。特に、私たちが信じるお方、私たちのすべてであられるイエスさまのことを理解してくれるわけではありません。むしろ、私たちがよい行いをすれば当然で、逆に私たちが少しでも自分たちの気に入らないことをするならば、私たちのことを激しく攻撃したり、嫌味を言ったりします。そんな世の人たちを相手に主を証しする生き方をするのも骨の折れることですが、私たちはやめるわけにはいきません。私たちの愛の行い、仕える生き方は、いずれの日にか救われる人が起こされることにつながると信じて励んでまいりたいものです。
いずれにせよ、私たちは神さま、イエスさまを証しをする働きに用いていただけます。それは、私たちには全知全能なる万物の主宰者、神さまの権威がともにあるからです。とはいいましても、私たちはこの権威が与えられていることを大っぴらに主張して威張る必要は少しもありません。それはむしろ傲慢な態度というべきで、そのような傲慢な者から果たして、人は福音を聞きたがるでしょうか。その姿から慈愛にあふれたイエスさまを見出すことができるでしょうか。私たちはむしろ、自分にこの絶大な権威が与えられていることを口にする代わりに、その権威に裏打ちされた隣人愛、隣人を愛して仕えることを実践することで、わかる人にはわかる、神の権威を用いさせていただく存在です。
イエスさまを見てみましょう。イエスさまは群衆の目には、パリサイ人のような宗教指導者のようにではなく、権威あるお方と映りました。すなわち群衆はイエスさまのお姿に、単に職業で宗教家をしているような俗物の俗っぽさではなく、神さまご自身の権威を見たのでした。しかしイエスさまご自身は果たして、人々の前で大っぴらに、神の権威が自分にあると主張されたでしょうか。
そうかどうかは今日の本文に示された、イエスさまのお姿から見ることができます。イエスさまはエルサレムに入られ、「宮きよめ」を行われました。すなわち、暴力的とさえ見える手段でエルサレム神殿を商売の場にし、貧しい人や異邦人を食い物にするユダヤ人たちに制裁を加えられました。そしてイエスさまは次の日もエルサレム神殿に入られました。折しもそこには、宮きよめを行われたイエスさまに憤っていたユダヤの政治的指導者、また宗教的指導者たちがいて、イエスさまを待ち構えていました。彼らはイエスさまに言いました。28節です。
彼らは、イエスさまがお答えになるべき答えを知っていました。イエスさまが創造主なる唯一の神の権威によって、神の子、メシアとして振る舞っておられたことを知っていました。しかし彼らは、イエスさまがもし、神の権威によってあらゆる振る舞いをしておられるとお答えになったならば、神の民にふさわしく、その場でイエスさまを信じるでしょうか? 申し訳ありませんでした、あなたさまこそ救い主であると今こそ受け入れます、と、彼らは告白したでしょうか? とんでもないことです。彼らはイエスさまを迫害し、なきものにしようと、虎視眈々と狙っていました。
ここで彼らが、イエスさまの権威の由来を聞いたのは、結論ありきの尋問です。これは誘導尋問、相手に不利になる答えをするように誘導し、陥れるやり方で、現代の刑事裁判では、尋問者が相手に不利になる誘導尋問をすることは禁止されています。
彼らは何をたくらんだのでしょうか? イエスさまなら当然、「権威は神に由来する」とお答えになることを前提として、彼ら指導者たちはこの質問を画策したわけです。しかし彼らはいやしくも神の権威についてだれよりもよく知っているべき立場、神の権威を正しく認めるべき立場にあったわけで、そんな彼らは、いま目の前におられるイエスさまが帯びておられる神の権威を認めないどころか、もしそのようにイエスさまがおっしゃったならば、死刑にしようとさえしているわけです。彼らは神の子を前にして、こうまでも霊の目に覆いがかぶさっていて、神の子が見えなかったことになります。
彼ら宗教指導者はしかし、頑なまでもイエスさまを認めようとしませんでした。かえって、イエスさまを葬り去るために、この手の質問をいくつも用意していました。姦淫の現場でとらえられた女性を連れてきて、さあ、どうする、とイエスさまに迫ったり、カエサルに税金を納めることは律法にかなっていますか、と迫ったり……。しかしそのたびに、どんな反問もできない神の知恵に満ちたイエスさまのお答えに、彼らは沈黙するしかありませんでした。
今回はどうでしょうか? 29節です。イエスさまは、自分は逃げずにこの質問にちゃんと答える準備ができている、ということをお示しになります。しかしそのためには、イエスさまのなさる質問に対し、自分たちの意見をしっかり語ることが条件だ、というわけです。ここでイエスさまは、彼ら指導者たちがどんなことばを語るよりも、どんな態度をしているかを問題にされます。
彼らの態度をあぶりだしにしたイエスさまのご質問はどんなものだったのでしょうか? 30節です。……イエスさまのこの質問は、彼らの問題をあらわにしました。それは彼らの会話を見ると明らかです。31節、32節です。
バプテスマのヨハネは、イエスさまの先駆けとしてこの地に現れた人です。その、彼が人々に施すバプテスマは、パリサイ人やサドカイ人のような宗教指導者たちも大勢受けに来たほど、彼らから一定の霊的権威を認められたものでした。もっとも彼ら宗教指導者たちは、まむしのすえたち、悔い改めにふさわしい実を結べ、と、ヨハネに一喝されています。
ただし、彼らはとにかくバプテスマを受けようとしたことは事実だったわけで、つまり、ヨハネに何らかの霊的権威があったことを認めていたことにはなります。しかしそれならば、ヨハネが指し示すお方である、イエスさまを救い主と信じるべき、少なくとも、イエスさまには父なる神さまに由来する霊的権威があることを認めるべきでした。その点で彼らは、ヨハネのバプテスマは天から来たと言うだけの行動をすでに取っていたにもかかわらず、そのバプテスマが天から来たと言うことは、口が裂けても言えませんでした。
ということは、彼らは、ヨハネのバプテスマが人から出たと言えば、彼らなりに筋が通っていることになります。そうすれば、ヨハネの指し示すイエスさまの権威は、所詮人に由来するものでしかないと言い切れます。しかし、彼らはヨハネを預言者と認め、ヨルダン川に身を沈めてバプテスマを受けることさえした群衆を前にしても、やはりそんなことは言えませんでした。彼らがほんとうに恐れていたのは神ではなく、人だったとも言えるわけで、その点でも彼らは神の民ユダヤの指導者として失格だったということができます。
結局彼らは、何も答えることができず、わかりません、と言うしかありませんでした。イエスさまはそんな彼らには、ご自身の権威がどこから来たかを説明される必要はありませんでした。つまり、イエスさまの権威がどこから来たかわかっているくせに、それをあえて尋ねることでイエスさまを罠にかけようとする者の手に乗る必要はなかった、ということです。またしても彼らは沈黙するのみでした。神の知恵にどんな人の悪知恵もかなうわけがありません。
こうしてイエスさまは、彼ら指導者を退けられましたが、ここで私たちは、彼らが神の民の指導者という立場にありながら、なぜこうまでして、聖書に啓示されたお方であるイエスさまのことが信じられなかったのか、その不信仰の理由を考えてみたいと思います。神さまは人を愛されるお方です。それならば、これほどまでに神さまに献身している人が、もっとも神さまとその愛を知っていてしかるべきです。ところが実際はその逆で、神を知っているはずの者たちががもっとも神から遠かったわけです。
それはなぜでしょうか。まず、彼ら指導者たちは、たしかに神を知っている立場にありましたが、実際はテトスへの手紙1章19節で語られているとおりの人だからです。そしてそのように、神を信じていることを行いで否定するということは、つまり、その行いは「悪い」ということです。このあたりのことについては、ヨハネの福音書3章16節以下をご覧ください。
私たちは、心の中の動機が悪ければ、つまり神に対して不敬虔ならば行いが悪くなる、とつい考えないでしょうか。しかしこのヨハネの福音書のみことばを見ると、行いが悪いから光のもとに引き出されたくなくて、神のもとに行かない、と語っています。ならば私たちが優先的に点検すべきは、心の状態ではなく、行いそれ自体です。
私たちは自分が思うほど、自分の心の状態をわかっているわけではありません。しかし、私たちは自分の行いなら、自分が何をしているかわかるはずです。この行いを見て、私たちは神の前に正しい態度でいるかどうか、イエスさまにお従いしているにふさわしい状態にあるかどうかが見えてきます。
だが、それさえも分からなくなるほど、サタンにくらまされる時というのがあります。彼らは何をしているのかわからないのです。自分がしていることが果たして悪いことかどうか、その判断をつけることさえできないのです。それはそれだけ、悪い行いをすることに慣れすぎてしまって、結果、神を信じない、神から離れるしかない状態です。
しかし、それは私たちみなに言えることではないでしょうか。私たちはどこかで、神さまのご支配に委ねたくない罪人です。神さまが自分の神でありつづけることをどこかで嫌がっている、自己中心の罪人です。このときの宗教指導者たちなど、まさにそのような状態にありました。
しかし、イエスさまはそのような宗教指導者の究極の悪い行いであった、十字架におつきになったときに、なんとお祈りされたでしょうか?「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼ら、神の子を十字架につけるという、宗教指導者にあるまじき行いをする者、行いが悪いゆえに、光なる主のみもとに来ることが決してできなくなった彼ら、そんな彼らは、何をしているのかわからないから、どうか赦していただきたい、と、御父にお祈りされました。
もし、自分が何をしているか知っていたら、彼らはその責任を当然、地獄行きというさばきを受けることによって取るべきでした。しかしイエスさまはそのさばきを、身代わりになって受けてくださいました。このとき、宗教指導者たちが神の子主イエスを知りながらも決して信仰告白をしなかったほど頑なであったように、私たちも頑なであるという点で、ユダヤの指導者と変わるところはありません。いまもなお、自分のしていることがわからない。神のみこころを行いたいと願いながら、それができず、反対のことを行なってしまうほど、自分の行いがわからない。それが私たちではないでしょうか。神さまはその行い、罪の行いの報酬として、当然私たちに、死、すなわち永遠の滅びをお与えになって当然です。
しかしイエスさまはその御父の怒りとのろいを、十字架にくぎづけになった両手を広げて受け止められ、すべての人をかくまってくださいました。彼らはわからずにしているんです、彼らに責任を負わせないでください、その責任はわたしがお引き受けします!
私たちは神を信じながら、なお罪を犯すものです。行いが悪いため、神さまのもとに行くことなどできない者でした。しかしあわれみ豊かな神さまは、私たちに、イエスさまの十字架を信じる信仰を与えてくださり、私たちのことを救ってくださいました。それでも私たちは相変わらず悪い行いをするものです。だからこそ私たちには十字架が必要なのです。あわれみを求めて、イエスさまの十字架を祈りのうちに仰ぐ必要があるものです。その歩みの中で、私たちの行いはきよめられて、キリストにならう者に変えられてまいります。
そして、私たちがクリスチャンだからという理由で迫害する人は、実はイエスさまご自身を迫害している人です。私たちの周りのそんな人たちのことを、私たちはどう思いますでしょうか? イエスさまが十字架の飢えからお祈りされたように、彼らはわからないでそういうことをしている、だから赦していただきたい、と、神さまに執り成してお祈りするならば、私たちは祝福された歩みをしていることになります。私たちがどんなにあわれみをいただいて、ユダヤの指導者と同じ、イエスさまを十字架につけるほどの罪から救っていただいたかを心から思い、主に感謝するなら、私たちはこの祈りがひとりでに口を突いて出る恵みをいただきます。
私たちはイエスさまによって赦されたわが身の幸せを思いましょう。そして、イエスさまの赦しが私たちの周りの人々に及ぶように、私たちもその人々を赦し、愛する力がいただけるように祈りましょう。