神のものを神に返す

聖書箇所;マルコの福音書12章13節~17節 メッセージ題目;「神のものを神に返す」  私が神学生時代に奉仕した韓国ソウルのサラン教会では、主日ごとの礼拝の締めくくりに、教会全体の信仰告白として「共同体告白」というものをしていました。礼拝のたびに、会衆はそろってこんな告白を毎週していました。「私たちは世から呼び出された神の民です。そして、世に遣わされたキリストの弟子です。」  まことにそのとおりです。私たちは教会という共同体で、神の民として礼拝し、みことばを学び、ともに祈り、ともに賛美し、交わりを持ち、奉仕します。しかし、私たちの信仰生活はそれで終わりません。この世界に出て行って、神の民、キリストの弟子として、具体的な生活をとおして神の栄光を顕すように召されています。  私たちがみことばを学ぶことには、神の栄光を現実の生活において具体的に顕すため、という意味もあります。しかし、私たちはときに、みことばをどのように具体的に自分の生活に適用したものか、迷ったりすることがないでしょうか?  今日の箇所は言うまでもなく、イエスさまを罠にかけようとした悪だくみに満ちた質問が打ち破られるという内容です。私たちクリスチャンはイエスさまのこの痛快なおことばに、快哉を叫びたくなりますが、このみことばでイエスさまが語っておられることは、私たちがこの世において神のみことばにお従いするうえで、きわめて大事な基準となっています。  それでは本文を見てみましょう。13節、「彼ら」というのは、祭司長、律法学者、長老の群れです。ユダヤを牛耳る者たち。しかし彼らは、イエスさまに議論を仕掛けたら論破され、そればかりか、聖書の語る主に敵対する者はあなたたちだ、という意味のことをイエスさまに指摘され、それも群衆が見守る前で指摘され、怒り心頭、イエスさまを殺そうとしました。そこで彼らはさらに卑怯な手段を使います。  彼らは、パリサイ人、すなわち宗教指導者の群れ、そしてヘロデ党、すなわちローマの任を受けてガリラヤを治める指導者に就く、政治的勢力をけしかけます。彼らは本来ならば、けっして仲がいいとはいえない、普段からお互いうまくやっているとはいえない関係でした。しかし、イエスさまをなきものにするためならば、彼らは手を組むこともいといませんでした。  なぜ、イエスさまをなきものとするために、このように仲のよくないどうしが手を組むことがありえるのでしょうか? それは、彼らはどちらも、神のみこころに反する、頑なな存在だからです。  彼らが自分たちの宗教的信念、政治的信念にしたがって行動すればするほど、皮肉なことに、彼らはますます、神さまがみことばにおいて啓示され、そしていまや時至ってこの世にお送りになったキリストに敵対する道を行くようになりました。  これは、この世を生きる私たちにとっても同じことです。私たちを取り囲む社会は、神々を拝む偶像礼拝であったり、あるいは無神論の唯物論であったりします。しかし、そのどちらもが、キリストを認めず、ゆえにキリストに敵対することもいといません。日本という国に住むということは、そのような反キリストの勢力が束になって襲いかかってくる生活をしているということです。いみじくもイエスさまがおっしゃったとおりです。「いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すように、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。」  私たちは羊であるとイエスさまはおっしゃいます。周りはそんな弱い羊を隙あらば食い尽くそうという、獰猛な者たちで満ちています。それが私たちの生きている現実だから、素直であるのとともに、蛇のような賢さを備えなさい、とイエスさまはおっしゃるわけです。その道は、みことばを神のことばとして素直に受け入れることです。そうすれば神さまは私たちに、冷徹にこの世を見分ける知恵を授けてくださいます。  さて、イエスさまもいま、蛇に身をやつしたサタンに対抗すべく、アロンの杖の蛇がエジプトの魔術師の杖の蛇を呑み込んだがごとき知恵を動員すべきときが来ていました。ユダヤの指導者たちは何と言ってきたでしょうか? まず14節の彼らのことばの前半を見てみましょう。  これはもちろん、彼らが心底そのようにイエスさまのことを高く評価していたわけではなく、お世辞にすぎません。しかもこのお世辞は、きわめて底意地の悪いいことばです。なぜならば、このことばには、ある意味が隠されているからです。「あなたはあなたなりに真実な人として、だれにも遠慮しないで物事を語っていますね? あなたが教えておられる神の道は、あなたなりの真理にもとづいていて、それゆえ人の顔色を見ませんね? しかし、果たして、それは神の道ですかな? 真理ですかな? 私たちこそ神の道の専門家、真理の専門家ですが、長年のイスラエルの伝統のお墨付きをいただいてる私たちの宗教的権威にかなうほど、あなたの語る神の道とやらは真理なのですかな? そんなに人の顔色を見ないならば、宗教的権威が神さまら与えられている私たちに歯向かうことなどできますかな?」  そうです。彼らがそういう意識でイエスさまに質問を仕掛けてきたことは、そのあとの彼らのことばではっきりします。……カエサルというのは、ローマ帝国において神のごとく君臨する存在であり、ローマに税金を納めるとはカエサルに税金を納めることである以上、カエサルに税金を納めることは見ようによっては、カエサルに「献金」することに等しいとも言えるわけです。  だから、ユダヤの人は、カエサルに税金を納めることには耐えがたい屈辱を覚えることでもありました。現に、これは使徒の働きにも記録されている歴史的なできごとですが、ユダという者が紀元前6年に暴動を起こしたのは、ローマに税金を納めることに反対してのものでした。  つまり、イエスさまがユダヤの霊的な指導をする立場にある者として、カエサルに税金を納めることは律法にかなっていない、という回答を引き出そうという意図が彼らにあったわけです。しかし、それなら、「律法にかなっていない」というべきだったのでしょうか? そうなると今度は、その発言はローマの統治を否定するものと捉えられ、ローマへの反逆者として当局に引き出されるしかありませんでした。つまり、律法にかなっている、と答えたら失脚、かなっていない、と答えても失脚、実にうまくできた質問をこしらえたもので、敵ながらあっぱれ、といったところでしょうか。  しかし、ほんとうにあっぱれなのはイエスさまです。彼らがイエスさまから律法を勉強して生活を改めるためではなく、イエスさまを罠にかけるためにそのような質問をしたことを、イエスさまは見抜いておられました。イエスさまは彼らの普段の生活がどういうものか、彼らに認めさせながら、神の真理を説くという離れ業を演じられました。  イエスさまは彼らに、デナリ銀貨を用意させました。このデナリ銀貨はカエサルの肖像が刻まれていて、しかも、「神であり祭司」ということばも同様に刻まれていました。したがって、神を神とし、ローマを毛嫌いするユダヤ人たちからしたら、到底容認できることではなく、このような硬貨を使うことは屈辱的なことでした。それで、普段の生活では、ユダヤで通用する銅貨を用いて物の売り買いなどをしていました。  貨幣はあらゆる物に価値を与える存在であるため、とにかく大事、だから、その貨幣に肖像画を刻んだり、刷り込んだりすることは、特別な意味を持ちます。北朝鮮はキム・イルソンの肖像画を紙幣に印刷していますが、この肖像画の部分を折りたたんで財布に入れると厳罰が待っています。国家が権力者の顔を貨幣に刷り込むことは特別な意味を持つゆえんです。  ユダヤでも、経済活動から出た税はカエサルのものになるように、経済を含む国のすべてはカエサルが掌握しています。カエサルの許しのもとに宗教を含むあらゆる活動は成り立っています。これは、罪人にすぎない人間がそんな権限を持っているなんて、と言ったところで、仕方のないことです。神さまは社会をそういう構造にされることで、ご自身の民が地上でご自身にお仕えすることをよしとされているわけです。  地上のお金は国家が管理しています。それを象徴するのがカエサルの肖像です。それをカエサルに返すことが法律で定められている以上、それに従いなさい、とイエスさまはお教えになりました。  しかし、それで終わりません。「神のものは神に返しなさい。」私たちが生きている世界は、確かに国家のような世俗の権力に支配されていて、それを支えることは、神さまによってこの世界に送り出されている者として果たすべき責任です。  しかし、その国家に統治権という、究極の責任を与えられたお方はどなたでしょうか? 神さまです。だから私たちは、この世の統治者に税金を納めるなどして忠誠を誓うことで責任を果たしきるのではなく、究極のお仕えすべきお方、おささげすべきお方である、神さまを認め、神さまにおささげし、神さまにお仕えするのです。  私たちにとって「カエサル」にあたるものは、日本国や茨城県、それぞれお住まいの市町村にかぎりません。私たちの上にあって私たちのことを従わせる存在はみなそうでしょう。ご家庭のお父さん、お母さんもそうですし、職場の上司もそうでしょう。町内会の会長さんや所属するサークルの代表かもしれません。私たちはときに、そういう存在の理不尽な言動に反発を覚えることもあるかもしれませんが、その場にいることが主のみこころにかなうと信じていらっしゃるならば、私たちのすることは、その「権威」を認め、従うことで、しもべとしてのアイデンティティを果たすことです。それは主に喜ばれます。  しかし、私たちは同時に「神のものを神に返す」生き方をしなければなりません。イエスさまがそうおっしゃられたとき、彼らははっとしました。カエサルに返すことと神にお返しすることを対立するもの、相容れないものと捉えていた自分たちは愚かだった、そう気づかされたのでした。もちろん、彼らユダヤ人は実の民として、神にお返しすべきものをお返しすることは、いうまでもないことでした。  さて、私たちは、神のものを神に返すとはどういうことか、よく考える必要があります。神のものを神に返す、というと、私たちが真っ先に思い浮かべるものは、献金ではないでしょうか。もちろん、それはそうです。しかし、献金ももちろんそれはそうなのですが、それだけではなく、それぞれ置かれた場において、キリストの弟子としての振る舞いを確かにすることが大事です。献金はもちろん大事ですが、献金さえささげればいいというものではありません。  たとえば、職場に神棚が飾ってあり、職員がみんなそれを拝むのが習わしでも、「いや、これはカエサルに返すことだから……」などと、拝むことに妥協するならば、返すべき「神のもの」とはいったい何でしょうか。町内会などでも、おまつりに経済面でも、労働面でも、いろいろ奉仕を求めてくる場合、それに対して「神のものを神に返す」態度をはっきりさせることに、どうか取り組んでいただきたいのです。コロナが明けてお葬式に行く機会も増えてきたと思いますが、そのような場での振る舞いも神の御前に問われるところです。  私たちは考えてみましょう。私たちはカエサルのごときこの世の権力に対して主にあって振る舞う、仕えることをもって普段彼らから受けている恵みをお返しするために、どんなことを具体的にしますでしょうか? しかし、そんな彼らの間にあって、彼らの存在を超え、いつも変わることなくともにおられるイエスさまにお従いするために、どんな行動を取りますでしょうか? しばらく祈りつつ考えましょう。

悔い改めが迫られたとき

聖書箇所;マルコの福音書12章1節~12節 メッセージ題目;「悔い改めが迫られたとき」    このところ、日本の芸能界に長年絶大な影響を及ぼしてきた芸能事務所があっという間に崩壊させられるという、以前の芸能界を知る者には信じられないようなことが起きています。しかし、その芸能事務所のボスがしてきたことはいわば公然の秘密とも言えることで、それまでにもそのボスの悪行を告発した人はいなくはなかったのですが、その事務所から多大な利益を得ていたマスコミをはじめ世間はこぞって黙殺し、その人は泣き寝入りを強いられる羽目になりました。  権力者、そしてその権力者を支える絶大な存在、その陰で泣かされる弱者というものは、いつ、どこの時代にもいるものでしょう。イエスさまの時代のユダヤがまさにそうでした。ユダヤという宗教社会は、宗教指導者が実際の権力はもちろんのこと、民衆の精神面、霊的な面に至るまで大いに支配していました。その時代に彼らによって泣かされる弱者がどれほどいたことでしょうか。イエスさまはそのような、宗教を笠に人間的な権力をほしいままにする者たちをおさばきになるお方として、この世界に来られたお方です。  今日の箇所は、前回学びました11章の終わりからそのまま続いていますが、イエスさまのご質問にぐうの音も出なかったユダヤの指導者たちに対し、今度はイエスさまがその問題を指摘されます。ただし、イエスさまはストレートに彼らの問題を指摘されるというよりも、たとえで婉曲的に彼らの問題に気づかされます。  具体的に、イエスさまはどんなことをお語りになったのでしょうか。それがぶどう園のたとえです。ぶどう園は旧約聖書の預言書にも表れているとおり、神の民イスラエルを象徴しています。イエスさまのこのお話は宗教指導者だけではなく、エルサレム神殿に集まっていた群衆も耳を傾けていたので、群衆の中にも、イエスさまのお語りになっていることにピンと来た者もいたことでしょう。  ということは、このぶどう園の主人、オーナーは、父なる神さまです。そのぶどう園が自前の酒ぶねや見張りやぐらを用意できるほど大規模だったことも、イスラエルという国と民族を丸ごと持っておられる神さまを象徴するのに充分でしょう。  収穫の時が来ます。神の民はぶどうの実を結ぶように、神の栄光を顕すという実を結ぶものです。御父はその生き方をとおして、ご自身ご栄光をお受けになります。ぶどう園は労働者が働き、主人の命を受けたしもべがその収穫の分け前を取りに行くように、御父の命を受けた預言者たちはイスラエルへと遣わされていきます。  しかし、旧約聖書を読んでみますと、主のみこころを語った預言者たちはとても不遇な生き方をさせられていました。彼らの言うことをイスラエルの指導者たちは聞きませんでした。そればかりか、たいへんに侮辱的な扱いを受けたりしました。中には殺されるものもありました。  今日の本文の、3節から5節をお読みください。読み進めるほどに、ぶどう園の労働者たちの振る舞いがエスカレートしているのがわかります。殴ったり袋叩きにしたりというのが、殺すことさえしているわけです。それはまさに、イスラエルがそれまで神さまのみこころを伝える働き人に対してなしてきた振る舞いそのものでした。  御父を象徴するぶどう園の主人は、この労働者たちに対して圧倒的な権原を持っていました。そうだとすると、自分の大事なしもべがこんな目にあい、さらには殺されることにまでなろうとも、なおあきらめなかったのは、どれほど忍耐したということでしょうか?  「これでもか、これでもか」ということばがありますが、ぶどう園の主人が労働者たちを思う思いは、まさしく「これでもか、これでもか」の愛といえるでしょう。その「これでもか」は、ついに頂点を迎えます。それは、自分の息子を送るということです。しもべなら敬わないからそんな真似ができようが、よもや息子にはそんな真似などできまい。しかし、労働者たちは何を考えたのでしょうか。7節です。  しかし、これはよく考えるとおかしくはないでしょうか。ぶどう園は依然として主人のものであり、そんな真似をすればどんな制裁が自分たちを待っているか、分かっていないはずはなかったからです。だが、彼らは陰謀をめぐらしたとおり、跡取り息子を殺し、ぶどう園の外に投げ捨てました。こんなことをする労働者はどんな目にあうでしょうか? 9節にあるとおりです。みな容赦なく滅ぼされ、ぶどう園はほかの者たちの手に渡ります。  ぶどう園の主人がイスラエルの神である御父ならば、その跡取り息子はイエス・キリストです。イエスさまはご自身がその跡取り息子であることを語っておられるわけです。してみるとこの労働者は、宗教指導者のことであり、宗教指導者は御子イエスさまを殺し、その報いとして滅ぼされ、イスラエルの牧者としての権限を取り去られる、ということをイエスさまはお語りになったわけです。  そしてイエスさまはだめを押すように、詩篇118篇のみことばを引用されます。建物は礎の石があってこそ建つわけで、何よりも大事です。しかしその石を粗末にし、捨てるような家つくりは、家つくりという職業にありながら、家というものも、それにふさわしい材料というものも、まったく理解していないことになります。それと同様、宗教指導者たちは、イエスさまというお方に「いらない」とノーを突きつけて捨てることをする以上、宗教指導者にふさわしい態度で、神の御子イエスさまに接していない、そればかりか「捨てる」ことさえしているというわけです。  イエスさまがここまでおっしゃったら、さすがの宗教指導者たちも気づかざるを得ません。というよりも、イエスさまをまことの救い主と認める勘のいい群衆たちの前で、自分たちの正体をばらされたも同然でした。彼らは大恥をかかされました。そこで彼らは何をしようとしたのでしょうか。イエスさまを捕らえようとしました。捕えて、殺すためです。そうしなかったのは、群衆を恐れたからでした。  そうです。彼ら宗教指導者たちは、まさにイエスさまがたったいまお語りになったとおりのことをしようとしたのでした。イエスさまが彼らの罪をお示しになったのは当然のことです。彼らはそうすることで、自分たちこそ神にお仕えする者であると誇ろうとするわけです。だが、彼らはここまで自分たちの罪が明らかにされても、イエスさまのみことばそのものを信じて、悔い改めることをしませんでした。もし信じていたならば、イエスさまがおっしゃるおことばを聞いたならば、そのさばきの対象に自分が入っていることを認め、どうか助けてください、いのちだけは取らないでください、と、必死に悔い改め、命乞いをしたはずです。しかし彼らのしたことは、かえってイエスさまを殺そうとすることでした。そして彼らの思いは、イエスさまを十字架につけることによって遂げられました。彼らは最後まで悔い改めることをしなかったのです。その結果、彼らの支配するユダヤはどうなったでしょうか? ローマ軍に攻め入られ、散り散りになってしまいました。そして、御父を神とする民は血筋のイスラエルを越えて、全世界に広がり、もはやイエスさまを神とも王とも認めない宗教指導者たちの手を完全に離れました。  いま私たちは、本来彼ら神の民が受けるべき、神の子としての特権を受けています。それはまさに恵みによることで、私たちの誇るべきことでは決してありません。そんな私たちが、この宗教指導者たちを反面教師として学ぶべきことは何でしょうか。  私たちはパリサイ人に代表される宗教指導者の姿を聖書をとおして眺めて、いろいろ思うところがあるかもしれません。しかし、もしかしたらこんなことを思ってはいないでしょうか。  「彼らは律法を守り行うことによって救われようとする律法主義者だ。しかし自分たちは恵みによって救われている。パリサイ人のようにならなくてよかった。」もし、そんなことを考えているならば、危ないです。それはすでに、恵みというものを私たち人間のの側に属する資格のように勘違いしはじめている証拠かもしれません。  福音書にはなぜ、これほどまでにパリサイ人たち宗教指導者の、イエスさまに対する敵対的な言動が、これでもか、と登場するのでしょうか? 私たちがそれを読んで、ああよかった、自分たちはそんな人間じゃなくて、と安心するためでしょうか? 決してそうではありません。それは、私たちに対する警告が、それほどの紙面を割くほどに必要だからではないでしょうか? ありていに言ってしまえば、パリサイ人とは、私たちなのです。  そんな、ひどい! と思いますか? うそだ! と思いますか? しかし、今日のみことばに現れた、宗教指導者たちの態度をどうかよく考えていただきたいのです。聖書はときに私たちに、耳の痛いことを語ります。中には主にある兄弟姉妹が、みことばにしたがってそのような耳の痛い忠告をすることもあるでしょう。いえ、兄弟姉妹ではなくても、家族や一般の職場で、もし私たちに耳の痛い忠告をする人がいて、その忠告がみこころと一致していたとすれば、それはその未信者を通じて主が語ってくださったと言えなくもないわけです。そんなことばを聞いたとき、私たちはどのように反応しますでしょうか?  耳が痛い、と申しましたが、耳が痛ければとっさに手で押さえるでしょう。しかし、耳を手で押さえては、せっかくの忠告も聞くことができません。それほどまでの私たちは自己防御的、保身に走る、自己中心の存在です。それでも、私たちにもし、主のみこころにかなった柔和な心が与えられているならば、そのような耳の痛い忠告も、そうです、そのとおりです、と耳を傾け、悔い改めに至ることができるはずです。耳が痛くても手でふさがず、あえて耳を傾ける、柔和ならばそれができます。  旧約聖書にもそのモデルが出てきます。まさに今日のマクチェイン式聖書通読の箇所、サムエル記第二の13章、預言者ナタンに罪を指摘され、即、悔い改めたダビデの姿、これぞまさに柔和な者、主のみこころにかなう者の姿勢です。ダビデのしたことは人妻を寝取り、その夫を戦死を装って殺し、それからその人妻を自分のものにしてしまうという、とんでもないものでした。普通に考えるならば、そんなことをした者は死刑だ! とだれだって言いそうなことをしたわけです。そういうダビデはそれゆえ、その罪の責任を残る生涯でたっぷり取らされることになりましたが、しかし罪そのものはダビデが神さまに立ち返ることにより、赦していただきました。こうしてダビデはいのち救われたのでした。  警告されても悔い改めないケースも聖書には登場します。代表的なのは、ささげものを受け入れられたアベルに嫉妬したカインのケースでしょう。神さまは、戸口で待ち伏せしているように間近にある罪を治めよ、とカインに忠告されたというのに、カインは罪を治めきれず、アベルを殺しました。新約聖書にも、アナニアとサッピラのケースが登場します。彼らが献金をごまかしたときも、ペテロは彼らに質問を投げかけ、彼らがしでかしたことを認め、悔い改める余地を与えましたが、彼らは最後まで悔い改めることをせず、うそをつきました。しかし、それは人ではなく神を欺いたことであり、それゆえに彼らは立てつづけに神のさばきを受け、いのちを落としました。  この宗教指導者たちも、イエスさまに迫られていました。イエスさまが語るぶどう園の労働者が自分たちのことだということにも気づいていました。しかし、彼らはそれが単なる当てこすりとしかとらえられず、イエスさまに怒りを燃やすことしかできませんでした。これが、かたくなということです。  ヘブル人への手紙4章7節のかぎかっこの中のみことばを読みましょう。もともとがダビデをとおして語られたみことばと考えると、ダビデがこのみことばによって立っていたとおり、御声を聞くなら心を頑なにしない者の幸いに生きていたことは確かなことで、このみことばの語るとおり、私たちもその幸いに生きるべく召されています。  自分たちはパリサイ人のようではないから大丈夫だ、と思ったならば、すでに私たちは頑なになりはじめています。福音書に登場する、イエスさまがパリサイ人をお責めになったあまたのみことばは、まさしく私たちを悔い改めに導くべく語られているみことばです。今日の箇所などどうでしょうか。私たちが悪いことをついしてしまうとき、そこにイエスさまにいてほしくない、と思うならば、私たちは宗教指導者を象徴するぶどう園の労働者のように、御子をいらないものとしていることにならないでしょうか? それは、御子を十字架につけることです。  しかし、こうも言えます。私たちが罪を犯すことは、御子を十字架につけること、しかし、そのように御子イエスさまが十字架についてくださることによらなければ、私たちの罪はほかのどんなことによっても赦されません。私たちは罪を犯してしまいますが、そんな私たちを完全に赦してくださるイエスさまの十字架のほうが絶対です。だから私たちが罪を犯してしまうとき、もっといい人になるように努力しようとするのではなく、イエスさまの十字架にすがる、これがもっとも必要なことです。  いちばんいけないのは、罪が示されたとき、頑なになってイエスさまとそのみことばを無視することです。それでは宗教指導者と同じです。そんなとき私たちは、悔い改めることができるかどうかが問われるところです。私たちがそんなとき、悔い改めて主の赦しと回復のみわざを体験することができますように、主の御名によって祝福してお祈りします。

子どもを受け入れる

聖書箇所;マタイの福音書18章1節~10節 メッセージ題目;「子どもを受け入れる」 人をほめることばにもいろいろあります。かわいい、ですとか、かっこいい、ですとか。いろいろなことばがありますが、「偉い」というのも、立派なほめことばでしょう。人は、偉いと言われたい、そのためにも偉くなりたい、出世するのも、そのために勉強するのも、その理由として「偉くなりたいから」、「偉い人として振る舞いたいから」という動機は外せません。ほめられるということは、人に尊敬されるということですが、それだけではありません。偉くなればお金も入ってきて、楽な暮らしができるようになります。だからとにかく、偉くなりたい。 そんな思いは、イエスさまの弟子たちも持っていたようです。イエスさまがまことのイスラエルの王、天の御国の王になられることを、弟子たちは信じて従っていました。そうなると弟子たちは何を気にしたでしょうか? 自分たちもイエスさまとともに偉くなることでした。イエスさまが王になったら、われこそは右大臣、とか、左大臣、とか、いやいや太政大臣、ですとか。 そんな偉い人になりたい。それで彼らは、イエスさまに尋ねました。天の御国では、だれがいちばん偉いのでしょうか。このような問いを発する弟子たちのことを、私たちはどう思いますでしょうか。何を言っているのか、天の御国ではみな平等だ、人より偉い人などいるものか、そう思いますでしょうか。 イエスさまは、彼らの思いを否定されることはありませんでした。というのは、天の御国においては、確実に偉い人、それも、いちばん偉い人というのはいるからです。それは、子どもです。それもイエスさまは、子どもを彼ら弟子たちの真ん中に立たせて、注目までさせて、子どもがいちばん偉いのであると強調されたのでした。 普通なら、よほど変わった人でもないかぎり、子どもがいちばん偉いなどとは言いません。しかし、すべての創造主であり、私たちの主であるイエスさまは、子どもがいちばん偉いとはっきりおっしゃいました。弟子たちはおそらく、意表を突かれたのではないでしょうか。私たちならば、イエスさまのこのおことばを、どのように受け止めるべきでしょうか? イエスさまが、子どもがいちばん偉いとおっしゃったのには、2つの理由があります。まず3節と4節にあるとおり。あなたがたは子どものように、神の国を受け入れなさい、と、弟子たちにお教えになるためでした。ほんとうに偉いのは、子どものように神の国を受け入れた人だよ、と。 私たちの信仰生活を、一般的に「キリスト教」といいます。しかし、私たちがだれかにイエスさまを伝えようとするとき、人は「キリスト教の話は結構」という反応を示さないでしょうか? 理由はいろいろ考えられるでしょうが、無視できない理由として考えられることに、「難しい話は聞きたくない」というものがあるのではないでしょうか。 「キリスト教」を難しくするのは、子どものようにイエスさまを信じ、イエスさまを王とする天の御国を信じ受け入れればいいのに、それにいろいろ付け加えて、小難しい理屈をいろいろ言うせいではないでしょうか。そうするところから、いつの間にか子どものような単純な信仰は、「キリスト教」という「宗教」、すれた大人のものになってしまうのです。 子どもは、いろいろ考えることはしません。いいと思ったら受け入れ、悪いと思ったら離れます。そして、神さま、イエスさまは絶対的に「よい」お方なのですから、イエスさまが大好きになるしかありません。子どものようになるのに理屈などいりません。ただ、愛すればいいのです。ただ、好きになればいいのです。難しいことなどありません。 子どもはまた、疑いません。学問としての「キリスト教」の発達は、いろいろなことを疑うことで発展してきた模様ですが、少なくとも、イエスさまが主でいらっしゃること、聖書は誤りなき神のことばであることは、疑うべきではなく、また、疑う必要のないことです。疑わずに素直に受け入れるのが、子どもらしい信仰です。 イエスさまが子どもを彼らの真ん中に立たせられ、注目させられたことには、もう一つ理由がありました。それは、このような小さな子どもを受け入れることは、イエスさまを受け入れることであるからです。 これも理屈はいりません。イエスさまがそうおっしゃる以上、私たちはあれこれ考えないで、子どもを受け入れることをするしかありません。 子どもを受け入れてみると、それがイエスさまを受け入れることであることを実体験できます。パウロが、自分の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができようか、と語っていますが、パウロがそれだけのことを語る大きな理由として、主にあって子育てをしているならば、イエスさまを受け入れるとはどういうことか、実際に体験している分、イエスさまを主と受け入れている共同体、神の教会を世話する素質を備えている、ということが挙げられるでしょう。 6節のみことばを見てみましょう。「受け入れる」の反対は「つまずかせる」です。大人たちの姿を見て、「イエスさまなんて信じるもんか!」と思ったならば、その子はどうなるでしょうか? 永遠の救いに至るはずが、永遠の滅びに至ります。私たち大人がよかれと思ってしていることが、子どもたちを排除し、子どもたちを神の恵みから除外しているならば、それは「つまずかせて」いることです。 そんな者は石臼を首に結わえつけられ、湖に沈められ、そこで溺れ死ぬほうがましだと、イエスさまはすごいことをおっしゃっています。しかも、よく見てみましょう。イエスさまは、そういう悲惨な死に方でも、そんな死に方をするほうが「まし」だとおっしゃるのです。それほど、子どもをつまずかせることは呪わしいことだとおっしゃるわけです。では、そういう者にふさわしい制裁は何でしょうか? それはすこしあとのみことばにほのめかされていますが、まず7節から見てみましょう。 イエスさまは、つまずきを与える存在が「この世」であるとおっしゃいます。私たちはこの世における教育、報道、それ以前に人々を支配する常識……それらのものによってどれほど、つまずかせられていることでしょうか。家々には仏壇や神棚があって神仏を拝むのは当たり前の美徳とされ、それを拒否するという選択肢は考えつかないようになっています。そうかと思えば、進化論を中心とした唯物論ですべては説明され、そこに創造主なる神さまのご存在とみわざを語る余地を与えようとしません。それなのに、占いやお守り、おまじないのようなオカルトはきわめて身近に存在します。悪魔や魔法にスポットのあたった音楽や文学、映画が人気です。どこもかしこも、つまずかせるもので満ちている、それがこの世というもので、イエスさまはそんなこの世を、わざわいだ、とおっしゃっています。 しかし、イエスさまは一方で、つまずきが起こるのは避けられないともお語りになっています。それは、人間は不完全な存在であり、考えや態度、ことばや行いにおいて、罪を犯してしまうものだからです。よかれと思ってしたことで、人がつまずいてしまう、ということは往々にして起こることです。 それでも、イエスさまは、つまずきを起こす者を容赦されません。特に、子どもという、疑うことを知らない純粋無垢な存在をつまずかせ、信仰を持てなくさせてしまうならば、それはどんなに大きな罪でしょうか。私たちの中に、子どもを排除してしまう思いがないか、よくよく点検してまいりたいものです。逆に、子どもをつまずかせないで受け入れるにはどうしなければならないか、ともに考えていただきたいのです。そのためにも、礼拝に子どもが来られる環境づくりに、一緒に取り組んでいただきたいのです。今日の午後の礼拝はその取り組みの一環です。時間的に協力してくださるのが難しいならば、せめて覚えてお祈りしていただけたらと思います。 8節、9節のみことばも過激なほどに厳しいおことばです。ここでは、もし人がつまずいたならば、地獄に落とされて永遠にさばかれる、という、恐ろしい警告がなされています。手も、足も、目も、みんなからだの一部であり、失ってはならないものです。それを切って捨てよ、えぐり出して捨てよ、とは、それだけ、自分のからだの一部のように自分にとって絶対なものでも、捨てなければつまずくよ、つまずいたら地獄行きだよ、というわけです。 私たちにしても、悪い習慣、悪い人間関係、悪い趣味、悪い番組やインターネットサイトの視聴……そういったものに貴重な時間を費やすことで、神さまとの交わりに弊害が出ているならば、それをやめさせてくださいと祈るべきです。祈ろうとしない、祈れないならば、それはそれだけ自分のからだの一部のように固着してしまい、大事なもの、捨てられないものと思っているからで、かなり深刻です。そんなときこそより真剣に祈る必要があります。まさに、切って捨てれば永遠のいのちに行けます。 子どもとの関係においてはどうでしょうか? 私は幼い頃、よく周りの大人たちから、大人は大人の世界で線引きをされて、そこから先に行けないような疎外感を味わっていました。むかしはそれをしかたがないものとあきらめていましたが、今、当時の大人たちの年齢をはるかに追い越したから言えることですが、彼ら大人たちは子どもを排除することで、自分たちだけで楽しんでいたのでした。そんなことを私たちクリスチャンがもししているならば、それで子供をつまずかせることになっていないか、よくよく省みる必要があります。いや、大人たちだけで時間を持つことは必要だ、と堅く信じているその考えも、もしかしたら、切って捨てるべきからだの一部のようなものかもしれません。 さて、8節、9節、繰り返し登場するゲヘナの火、これが、子どもをつまずかせる者が、石臼を結わえつけられて湖の深みに沈められるよりもよりふさわしい刑罰だ、ということです。すなわち、子どもをつまずかせるならば地獄のさばきがふさわしい、とさえいえます。 しかし、こんなことを言うと、ある方はおっしゃるかもしれません。いえ、イエスさまの十字架を信じているならば、私は地獄に落ちることはありません、何がゲヘナですか、脅かすのもたいがいにしてください。まあ、そりゃそうです。しかし考えていただきたいのです。私たちが救われるために、十字架にかかって身代わりにいのちを投げ出してくださったイエスさまのその切なる願い、子どもを受け入れなさい、つまずかせてはいけません、その願いを、私たちがイエスさまによって救われているならば、真っ先に考えるべきではないでしょうか? どうすれば子どもたちをつまずかせず、主にあって受け入れられるか、真剣に考えるようになりはしないでしょうか? その点で私たちは、子どもに関心を寄せることにおいて、まだまだな存在です。それでもどうか、恵みの主に拠り頼んで、少しでも子どもをつまずかせないように成長させていただきたいと祈れるならば幸いです。 私たちのことばの一言一言、一挙手一投足、浮かべる表情や雰囲気、見られていないようで、子どもはみんな見ています。それでつまずかせているとしたらと考えると恐ろしくなります。大人は、仕方ないよね、何か事情があるんでしょう、と忖度してくれます。しかし子どもはそうはいきません。さらに言えば、そのような言動の背後にある私たちの心の中まで見透かします。まさに神さまのようです。子どもが忖度しないように、神さまも罪に関して忖度される方ではいらっしゃいません。しかし、子どもを前にして持つべき態度が、神さまを前にした時の態度のようだと意識することがどれほどあるでしょうか。私たちは自分の態度を悔い改めるべきです。 最後に10節のみことばを見ますと、イエスさまは、子どもたち、とおっしゃらず、子どものひとり、とおっしゃっています。子どものひとりひとりに目を留める必要があります。子どもは群れになっていると、ついひとりひとりに目を留めることがおろそかになってしまわないでしょうか。しかし、イエスさまは、子どもの一人に目を留めなさい、とおっしゃっています。それは、彼ら子どもの御使いは、御父の御顔をいつも見ているからだというわけです。御父の御顔をしっかり見ることのできる、みこころにかなった御使いが、子どもをいつも守り、御父の御顔を仰げるように子どもの霊に仕えます。 大人はどうでしょうか? いつしかこのような御使いではなく、サタンの顔を見る悪霊を引き連れるような嫌味な存在に成り下がっています。そんな自覚を持つならば、私たちはまず主に近づき、そして、悪魔よ、悪霊よ、ナザレのイエスの名によって離れよ、と、しっかり命じ、離れさせる必要があります。それでこそ私たちは、子どものたましいに仕えることができます。 子どものたましいに仕えることは、神に近づく恵みの味わえることです。子どもに聖書を教えてやろう、という、偉ぶった態度ですべきことではありません。イエスさまのみことばに従えば、偉いのは教える側の大人ではなく、むしろ子どもではないですか。もちろん、偉いからと子どもを甘やかしたり、つけあがらせたりすることが主のみこころだと言いたいのではありません。子どもがしっかり主の御顔を仰ぎ、主のみことばに従えるようにすること、それが子どものたましいに仕えるということなのです。 うちの教会にも、少しずつですが子どもが送られてきています。子どもとともにみことばをの恵みをいただき、神を礼拝する、そのようにして子どものたましいに仕える働きに教会全体が用いられるならば、どんなにかすばらしいことでしょうか。今日から始まる午後の礼拝、そしてそのほかのあらゆる子どもの働きを、主が祝福してくださいますようにお祈りいたします。