子どもを受け入れる

聖書箇所;マタイの福音書18章1節~10節 メッセージ題目;「子どもを受け入れる」 人をほめることばにもいろいろあります。かわいい、ですとか、かっこいい、ですとか。いろいろなことばがありますが、「偉い」というのも、立派なほめことばでしょう。人は、偉いと言われたい、そのためにも偉くなりたい、出世するのも、そのために勉強するのも、その理由として「偉くなりたいから」、「偉い人として振る舞いたいから」という動機は外せません。ほめられるということは、人に尊敬されるということですが、それだけではありません。偉くなればお金も入ってきて、楽な暮らしができるようになります。だからとにかく、偉くなりたい。 そんな思いは、イエスさまの弟子たちも持っていたようです。イエスさまがまことのイスラエルの王、天の御国の王になられることを、弟子たちは信じて従っていました。そうなると弟子たちは何を気にしたでしょうか? 自分たちもイエスさまとともに偉くなることでした。イエスさまが王になったら、われこそは右大臣、とか、左大臣、とか、いやいや太政大臣、ですとか。 そんな偉い人になりたい。それで彼らは、イエスさまに尋ねました。天の御国では、だれがいちばん偉いのでしょうか。このような問いを発する弟子たちのことを、私たちはどう思いますでしょうか。何を言っているのか、天の御国ではみな平等だ、人より偉い人などいるものか、そう思いますでしょうか。 イエスさまは、彼らの思いを否定されることはありませんでした。というのは、天の御国においては、確実に偉い人、それも、いちばん偉い人というのはいるからです。それは、子どもです。それもイエスさまは、子どもを彼ら弟子たちの真ん中に立たせて、注目までさせて、子どもがいちばん偉いのであると強調されたのでした。 普通なら、よほど変わった人でもないかぎり、子どもがいちばん偉いなどとは言いません。しかし、すべての創造主であり、私たちの主であるイエスさまは、子どもがいちばん偉いとはっきりおっしゃいました。弟子たちはおそらく、意表を突かれたのではないでしょうか。私たちならば、イエスさまのこのおことばを、どのように受け止めるべきでしょうか? イエスさまが、子どもがいちばん偉いとおっしゃったのには、2つの理由があります。まず3節と4節にあるとおり。あなたがたは子どものように、神の国を受け入れなさい、と、弟子たちにお教えになるためでした。ほんとうに偉いのは、子どものように神の国を受け入れた人だよ、と。 私たちの信仰生活を、一般的に「キリスト教」といいます。しかし、私たちがだれかにイエスさまを伝えようとするとき、人は「キリスト教の話は結構」という反応を示さないでしょうか? 理由はいろいろ考えられるでしょうが、無視できない理由として考えられることに、「難しい話は聞きたくない」というものがあるのではないでしょうか。 「キリスト教」を難しくするのは、子どものようにイエスさまを信じ、イエスさまを王とする天の御国を信じ受け入れればいいのに、それにいろいろ付け加えて、小難しい理屈をいろいろ言うせいではないでしょうか。そうするところから、いつの間にか子どものような単純な信仰は、「キリスト教」という「宗教」、すれた大人のものになってしまうのです。 子どもは、いろいろ考えることはしません。いいと思ったら受け入れ、悪いと思ったら離れます。そして、神さま、イエスさまは絶対的に「よい」お方なのですから、イエスさまが大好きになるしかありません。子どものようになるのに理屈などいりません。ただ、愛すればいいのです。ただ、好きになればいいのです。難しいことなどありません。 子どもはまた、疑いません。学問としての「キリスト教」の発達は、いろいろなことを疑うことで発展してきた模様ですが、少なくとも、イエスさまが主でいらっしゃること、聖書は誤りなき神のことばであることは、疑うべきではなく、また、疑う必要のないことです。疑わずに素直に受け入れるのが、子どもらしい信仰です。 イエスさまが子どもを彼らの真ん中に立たせられ、注目させられたことには、もう一つ理由がありました。それは、このような小さな子どもを受け入れることは、イエスさまを受け入れることであるからです。 これも理屈はいりません。イエスさまがそうおっしゃる以上、私たちはあれこれ考えないで、子どもを受け入れることをするしかありません。 子どもを受け入れてみると、それがイエスさまを受け入れることであることを実体験できます。パウロが、自分の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができようか、と語っていますが、パウロがそれだけのことを語る大きな理由として、主にあって子育てをしているならば、イエスさまを受け入れるとはどういうことか、実際に体験している分、イエスさまを主と受け入れている共同体、神の教会を世話する素質を備えている、ということが挙げられるでしょう。 6節のみことばを見てみましょう。「受け入れる」の反対は「つまずかせる」です。大人たちの姿を見て、「イエスさまなんて信じるもんか!」と思ったならば、その子はどうなるでしょうか? 永遠の救いに至るはずが、永遠の滅びに至ります。私たち大人がよかれと思ってしていることが、子どもたちを排除し、子どもたちを神の恵みから除外しているならば、それは「つまずかせて」いることです。 そんな者は石臼を首に結わえつけられ、湖に沈められ、そこで溺れ死ぬほうがましだと、イエスさまはすごいことをおっしゃっています。しかも、よく見てみましょう。イエスさまは、そういう悲惨な死に方でも、そんな死に方をするほうが「まし」だとおっしゃるのです。それほど、子どもをつまずかせることは呪わしいことだとおっしゃるわけです。では、そういう者にふさわしい制裁は何でしょうか? それはすこしあとのみことばにほのめかされていますが、まず7節から見てみましょう。 イエスさまは、つまずきを与える存在が「この世」であるとおっしゃいます。私たちはこの世における教育、報道、それ以前に人々を支配する常識……それらのものによってどれほど、つまずかせられていることでしょうか。家々には仏壇や神棚があって神仏を拝むのは当たり前の美徳とされ、それを拒否するという選択肢は考えつかないようになっています。そうかと思えば、進化論を中心とした唯物論ですべては説明され、そこに創造主なる神さまのご存在とみわざを語る余地を与えようとしません。それなのに、占いやお守り、おまじないのようなオカルトはきわめて身近に存在します。悪魔や魔法にスポットのあたった音楽や文学、映画が人気です。どこもかしこも、つまずかせるもので満ちている、それがこの世というもので、イエスさまはそんなこの世を、わざわいだ、とおっしゃっています。 しかし、イエスさまは一方で、つまずきが起こるのは避けられないともお語りになっています。それは、人間は不完全な存在であり、考えや態度、ことばや行いにおいて、罪を犯してしまうものだからです。よかれと思ってしたことで、人がつまずいてしまう、ということは往々にして起こることです。 それでも、イエスさまは、つまずきを起こす者を容赦されません。特に、子どもという、疑うことを知らない純粋無垢な存在をつまずかせ、信仰を持てなくさせてしまうならば、それはどんなに大きな罪でしょうか。私たちの中に、子どもを排除してしまう思いがないか、よくよく点検してまいりたいものです。逆に、子どもをつまずかせないで受け入れるにはどうしなければならないか、ともに考えていただきたいのです。そのためにも、礼拝に子どもが来られる環境づくりに、一緒に取り組んでいただきたいのです。今日の午後の礼拝はその取り組みの一環です。時間的に協力してくださるのが難しいならば、せめて覚えてお祈りしていただけたらと思います。 8節、9節のみことばも過激なほどに厳しいおことばです。ここでは、もし人がつまずいたならば、地獄に落とされて永遠にさばかれる、という、恐ろしい警告がなされています。手も、足も、目も、みんなからだの一部であり、失ってはならないものです。それを切って捨てよ、えぐり出して捨てよ、とは、それだけ、自分のからだの一部のように自分にとって絶対なものでも、捨てなければつまずくよ、つまずいたら地獄行きだよ、というわけです。 私たちにしても、悪い習慣、悪い人間関係、悪い趣味、悪い番組やインターネットサイトの視聴……そういったものに貴重な時間を費やすことで、神さまとの交わりに弊害が出ているならば、それをやめさせてくださいと祈るべきです。祈ろうとしない、祈れないならば、それはそれだけ自分のからだの一部のように固着してしまい、大事なもの、捨てられないものと思っているからで、かなり深刻です。そんなときこそより真剣に祈る必要があります。まさに、切って捨てれば永遠のいのちに行けます。 子どもとの関係においてはどうでしょうか? 私は幼い頃、よく周りの大人たちから、大人は大人の世界で線引きをされて、そこから先に行けないような疎外感を味わっていました。むかしはそれをしかたがないものとあきらめていましたが、今、当時の大人たちの年齢をはるかに追い越したから言えることですが、彼ら大人たちは子どもを排除することで、自分たちだけで楽しんでいたのでした。そんなことを私たちクリスチャンがもししているならば、それで子供をつまずかせることになっていないか、よくよく省みる必要があります。いや、大人たちだけで時間を持つことは必要だ、と堅く信じているその考えも、もしかしたら、切って捨てるべきからだの一部のようなものかもしれません。 さて、8節、9節、繰り返し登場するゲヘナの火、これが、子どもをつまずかせる者が、石臼を結わえつけられて湖の深みに沈められるよりもよりふさわしい刑罰だ、ということです。すなわち、子どもをつまずかせるならば地獄のさばきがふさわしい、とさえいえます。 しかし、こんなことを言うと、ある方はおっしゃるかもしれません。いえ、イエスさまの十字架を信じているならば、私は地獄に落ちることはありません、何がゲヘナですか、脅かすのもたいがいにしてください。まあ、そりゃそうです。しかし考えていただきたいのです。私たちが救われるために、十字架にかかって身代わりにいのちを投げ出してくださったイエスさまのその切なる願い、子どもを受け入れなさい、つまずかせてはいけません、その願いを、私たちがイエスさまによって救われているならば、真っ先に考えるべきではないでしょうか? どうすれば子どもたちをつまずかせず、主にあって受け入れられるか、真剣に考えるようになりはしないでしょうか? その点で私たちは、子どもに関心を寄せることにおいて、まだまだな存在です。それでもどうか、恵みの主に拠り頼んで、少しでも子どもをつまずかせないように成長させていただきたいと祈れるならば幸いです。 私たちのことばの一言一言、一挙手一投足、浮かべる表情や雰囲気、見られていないようで、子どもはみんな見ています。それでつまずかせているとしたらと考えると恐ろしくなります。大人は、仕方ないよね、何か事情があるんでしょう、と忖度してくれます。しかし子どもはそうはいきません。さらに言えば、そのような言動の背後にある私たちの心の中まで見透かします。まさに神さまのようです。子どもが忖度しないように、神さまも罪に関して忖度される方ではいらっしゃいません。しかし、子どもを前にして持つべき態度が、神さまを前にした時の態度のようだと意識することがどれほどあるでしょうか。私たちは自分の態度を悔い改めるべきです。 最後に10節のみことばを見ますと、イエスさまは、子どもたち、とおっしゃらず、子どものひとり、とおっしゃっています。子どものひとりひとりに目を留める必要があります。子どもは群れになっていると、ついひとりひとりに目を留めることがおろそかになってしまわないでしょうか。しかし、イエスさまは、子どもの一人に目を留めなさい、とおっしゃっています。それは、彼ら子どもの御使いは、御父の御顔をいつも見ているからだというわけです。御父の御顔をしっかり見ることのできる、みこころにかなった御使いが、子どもをいつも守り、御父の御顔を仰げるように子どもの霊に仕えます。 大人はどうでしょうか? いつしかこのような御使いではなく、サタンの顔を見る悪霊を引き連れるような嫌味な存在に成り下がっています。そんな自覚を持つならば、私たちはまず主に近づき、そして、悪魔よ、悪霊よ、ナザレのイエスの名によって離れよ、と、しっかり命じ、離れさせる必要があります。それでこそ私たちは、子どものたましいに仕えることができます。 子どものたましいに仕えることは、神に近づく恵みの味わえることです。子どもに聖書を教えてやろう、という、偉ぶった態度ですべきことではありません。イエスさまのみことばに従えば、偉いのは教える側の大人ではなく、むしろ子どもではないですか。もちろん、偉いからと子どもを甘やかしたり、つけあがらせたりすることが主のみこころだと言いたいのではありません。子どもがしっかり主の御顔を仰ぎ、主のみことばに従えるようにすること、それが子どものたましいに仕えるということなのです。 うちの教会にも、少しずつですが子どもが送られてきています。子どもとともにみことばをの恵みをいただき、神を礼拝する、そのようにして子どものたましいに仕える働きに教会全体が用いられるならば、どんなにかすばらしいことでしょうか。今日から始まる午後の礼拝、そしてそのほかのあらゆる子どもの働きを、主が祝福してくださいますようにお祈りいたします。