神のものを神に返す

聖書箇所;マルコの福音書12章13節~17節 メッセージ題目;「神のものを神に返す」  私が神学生時代に奉仕した韓国ソウルのサラン教会では、主日ごとの礼拝の締めくくりに、教会全体の信仰告白として「共同体告白」というものをしていました。礼拝のたびに、会衆はそろってこんな告白を毎週していました。「私たちは世から呼び出された神の民です。そして、世に遣わされたキリストの弟子です。」  まことにそのとおりです。私たちは教会という共同体で、神の民として礼拝し、みことばを学び、ともに祈り、ともに賛美し、交わりを持ち、奉仕します。しかし、私たちの信仰生活はそれで終わりません。この世界に出て行って、神の民、キリストの弟子として、具体的な生活をとおして神の栄光を顕すように召されています。  私たちがみことばを学ぶことには、神の栄光を現実の生活において具体的に顕すため、という意味もあります。しかし、私たちはときに、みことばをどのように具体的に自分の生活に適用したものか、迷ったりすることがないでしょうか?  今日の箇所は言うまでもなく、イエスさまを罠にかけようとした悪だくみに満ちた質問が打ち破られるという内容です。私たちクリスチャンはイエスさまのこの痛快なおことばに、快哉を叫びたくなりますが、このみことばでイエスさまが語っておられることは、私たちがこの世において神のみことばにお従いするうえで、きわめて大事な基準となっています。  それでは本文を見てみましょう。13節、「彼ら」というのは、祭司長、律法学者、長老の群れです。ユダヤを牛耳る者たち。しかし彼らは、イエスさまに議論を仕掛けたら論破され、そればかりか、聖書の語る主に敵対する者はあなたたちだ、という意味のことをイエスさまに指摘され、それも群衆が見守る前で指摘され、怒り心頭、イエスさまを殺そうとしました。そこで彼らはさらに卑怯な手段を使います。  彼らは、パリサイ人、すなわち宗教指導者の群れ、そしてヘロデ党、すなわちローマの任を受けてガリラヤを治める指導者に就く、政治的勢力をけしかけます。彼らは本来ならば、けっして仲がいいとはいえない、普段からお互いうまくやっているとはいえない関係でした。しかし、イエスさまをなきものにするためならば、彼らは手を組むこともいといませんでした。  なぜ、イエスさまをなきものとするために、このように仲のよくないどうしが手を組むことがありえるのでしょうか? それは、彼らはどちらも、神のみこころに反する、頑なな存在だからです。  彼らが自分たちの宗教的信念、政治的信念にしたがって行動すればするほど、皮肉なことに、彼らはますます、神さまがみことばにおいて啓示され、そしていまや時至ってこの世にお送りになったキリストに敵対する道を行くようになりました。  これは、この世を生きる私たちにとっても同じことです。私たちを取り囲む社会は、神々を拝む偶像礼拝であったり、あるいは無神論の唯物論であったりします。しかし、そのどちらもが、キリストを認めず、ゆえにキリストに敵対することもいといません。日本という国に住むということは、そのような反キリストの勢力が束になって襲いかかってくる生活をしているということです。いみじくもイエスさまがおっしゃったとおりです。「いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すように、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。」  私たちは羊であるとイエスさまはおっしゃいます。周りはそんな弱い羊を隙あらば食い尽くそうという、獰猛な者たちで満ちています。それが私たちの生きている現実だから、素直であるのとともに、蛇のような賢さを備えなさい、とイエスさまはおっしゃるわけです。その道は、みことばを神のことばとして素直に受け入れることです。そうすれば神さまは私たちに、冷徹にこの世を見分ける知恵を授けてくださいます。  さて、イエスさまもいま、蛇に身をやつしたサタンに対抗すべく、アロンの杖の蛇がエジプトの魔術師の杖の蛇を呑み込んだがごとき知恵を動員すべきときが来ていました。ユダヤの指導者たちは何と言ってきたでしょうか? まず14節の彼らのことばの前半を見てみましょう。  これはもちろん、彼らが心底そのようにイエスさまのことを高く評価していたわけではなく、お世辞にすぎません。しかもこのお世辞は、きわめて底意地の悪いいことばです。なぜならば、このことばには、ある意味が隠されているからです。「あなたはあなたなりに真実な人として、だれにも遠慮しないで物事を語っていますね? あなたが教えておられる神の道は、あなたなりの真理にもとづいていて、それゆえ人の顔色を見ませんね? しかし、果たして、それは神の道ですかな? 真理ですかな? 私たちこそ神の道の専門家、真理の専門家ですが、長年のイスラエルの伝統のお墨付きをいただいてる私たちの宗教的権威にかなうほど、あなたの語る神の道とやらは真理なのですかな? そんなに人の顔色を見ないならば、宗教的権威が神さまら与えられている私たちに歯向かうことなどできますかな?」  そうです。彼らがそういう意識でイエスさまに質問を仕掛けてきたことは、そのあとの彼らのことばではっきりします。……カエサルというのは、ローマ帝国において神のごとく君臨する存在であり、ローマに税金を納めるとはカエサルに税金を納めることである以上、カエサルに税金を納めることは見ようによっては、カエサルに「献金」することに等しいとも言えるわけです。  だから、ユダヤの人は、カエサルに税金を納めることには耐えがたい屈辱を覚えることでもありました。現に、これは使徒の働きにも記録されている歴史的なできごとですが、ユダという者が紀元前6年に暴動を起こしたのは、ローマに税金を納めることに反対してのものでした。  つまり、イエスさまがユダヤの霊的な指導をする立場にある者として、カエサルに税金を納めることは律法にかなっていない、という回答を引き出そうという意図が彼らにあったわけです。しかし、それなら、「律法にかなっていない」というべきだったのでしょうか? そうなると今度は、その発言はローマの統治を否定するものと捉えられ、ローマへの反逆者として当局に引き出されるしかありませんでした。つまり、律法にかなっている、と答えたら失脚、かなっていない、と答えても失脚、実にうまくできた質問をこしらえたもので、敵ながらあっぱれ、といったところでしょうか。  しかし、ほんとうにあっぱれなのはイエスさまです。彼らがイエスさまから律法を勉強して生活を改めるためではなく、イエスさまを罠にかけるためにそのような質問をしたことを、イエスさまは見抜いておられました。イエスさまは彼らの普段の生活がどういうものか、彼らに認めさせながら、神の真理を説くという離れ業を演じられました。  イエスさまは彼らに、デナリ銀貨を用意させました。このデナリ銀貨はカエサルの肖像が刻まれていて、しかも、「神であり祭司」ということばも同様に刻まれていました。したがって、神を神とし、ローマを毛嫌いするユダヤ人たちからしたら、到底容認できることではなく、このような硬貨を使うことは屈辱的なことでした。それで、普段の生活では、ユダヤで通用する銅貨を用いて物の売り買いなどをしていました。  貨幣はあらゆる物に価値を与える存在であるため、とにかく大事、だから、その貨幣に肖像画を刻んだり、刷り込んだりすることは、特別な意味を持ちます。北朝鮮はキム・イルソンの肖像画を紙幣に印刷していますが、この肖像画の部分を折りたたんで財布に入れると厳罰が待っています。国家が権力者の顔を貨幣に刷り込むことは特別な意味を持つゆえんです。  ユダヤでも、経済活動から出た税はカエサルのものになるように、経済を含む国のすべてはカエサルが掌握しています。カエサルの許しのもとに宗教を含むあらゆる活動は成り立っています。これは、罪人にすぎない人間がそんな権限を持っているなんて、と言ったところで、仕方のないことです。神さまは社会をそういう構造にされることで、ご自身の民が地上でご自身にお仕えすることをよしとされているわけです。  地上のお金は国家が管理しています。それを象徴するのがカエサルの肖像です。それをカエサルに返すことが法律で定められている以上、それに従いなさい、とイエスさまはお教えになりました。  しかし、それで終わりません。「神のものは神に返しなさい。」私たちが生きている世界は、確かに国家のような世俗の権力に支配されていて、それを支えることは、神さまによってこの世界に送り出されている者として果たすべき責任です。  しかし、その国家に統治権という、究極の責任を与えられたお方はどなたでしょうか? 神さまです。だから私たちは、この世の統治者に税金を納めるなどして忠誠を誓うことで責任を果たしきるのではなく、究極のお仕えすべきお方、おささげすべきお方である、神さまを認め、神さまにおささげし、神さまにお仕えするのです。  私たちにとって「カエサル」にあたるものは、日本国や茨城県、それぞれお住まいの市町村にかぎりません。私たちの上にあって私たちのことを従わせる存在はみなそうでしょう。ご家庭のお父さん、お母さんもそうですし、職場の上司もそうでしょう。町内会の会長さんや所属するサークルの代表かもしれません。私たちはときに、そういう存在の理不尽な言動に反発を覚えることもあるかもしれませんが、その場にいることが主のみこころにかなうと信じていらっしゃるならば、私たちのすることは、その「権威」を認め、従うことで、しもべとしてのアイデンティティを果たすことです。それは主に喜ばれます。  しかし、私たちは同時に「神のものを神に返す」生き方をしなければなりません。イエスさまがそうおっしゃられたとき、彼らははっとしました。カエサルに返すことと神にお返しすることを対立するもの、相容れないものと捉えていた自分たちは愚かだった、そう気づかされたのでした。もちろん、彼らユダヤ人は実の民として、神にお返しすべきものをお返しすることは、いうまでもないことでした。  さて、私たちは、神のものを神に返すとはどういうことか、よく考える必要があります。神のものを神に返す、というと、私たちが真っ先に思い浮かべるものは、献金ではないでしょうか。もちろん、それはそうです。しかし、献金ももちろんそれはそうなのですが、それだけではなく、それぞれ置かれた場において、キリストの弟子としての振る舞いを確かにすることが大事です。献金はもちろん大事ですが、献金さえささげればいいというものではありません。  たとえば、職場に神棚が飾ってあり、職員がみんなそれを拝むのが習わしでも、「いや、これはカエサルに返すことだから……」などと、拝むことに妥協するならば、返すべき「神のもの」とはいったい何でしょうか。町内会などでも、おまつりに経済面でも、労働面でも、いろいろ奉仕を求めてくる場合、それに対して「神のものを神に返す」態度をはっきりさせることに、どうか取り組んでいただきたいのです。コロナが明けてお葬式に行く機会も増えてきたと思いますが、そのような場での振る舞いも神の御前に問われるところです。  私たちは考えてみましょう。私たちはカエサルのごときこの世の権力に対して主にあって振る舞う、仕えることをもって普段彼らから受けている恵みをお返しするために、どんなことを具体的にしますでしょうか? しかし、そんな彼らの間にあって、彼らの存在を超え、いつも変わることなくともにおられるイエスさまにお従いするために、どんな行動を取りますでしょうか? しばらく祈りつつ考えましょう。