「無理解の罪」

聖書箇所;マルコの福音書12章35節~44節 メッセージ;「無理解の罪」 私の小学生のときの担任の先生がよくおっしゃっていたことですが、「無知は罪悪である」。いろいろなことを教えてくださる、尊敬すべき先生だっただけに、そのおことばには説得力がありました。もともとは「無知は罪なり」というソクラテスのことば、知らなかった、わからなかった、習っていないと開き直ることや、知ろうとしない、学ぼうとしないことは無知であり、それ自体が罪であるということです。 聖書ではこのことを何と語っていますでしょうか? ヨハネの福音書の1章5節、有名な「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」というみことばの、「闇は光に打ち勝たなかった」は、聖書の訳によっては「暗闇は光を理解しなかった」とあります。この訳を比べてみると、なるほど、と思います。相手が強すぎて、高尚すぎて、とても理解できない、ゆえに負けるしかない。サタンの率いる暗闇の勢力は、イエスさまという光が理解できないゆえに、負けるのです。 ソクラテスのことばを援用すれば、イエスさまに対する無知がサタンを罪に定めるといえましょう。もしイエスさまがほんとうにお従いすべき神の御子であると知っていたら、サタンはただちに自分の王権を取り下げ、イエスさまに従うことを選ぶはずです。しかしサタンはそのようにイエスさまのことを理解しないので、相変わらず王様のようにふるまい、結局は滅んでしまいます。 そういう、無知。イエスさまというお方、そしてイエスさまの教えを知ろうとしないことが、どれほどの罪の弊害をもたらすかということが、さきほどお読みしたみことばに如実に表れています。一見関係のない3つのできごと、しかし、これらすべては、律法学者の無知の罪、無理解の罪という共通点を持っています。それでは見てまいりましょう。 まず、35節から37節、律法学者は、キリストに対して無理解でした。 35節、イエスさまはひとつの問題を提起されます。それは、律法学者が、キリストはダビデの子であると主張している、ということです。 しかし、私たちは思いませんでしょうか? 福音書のほかの箇所を読んでみると、目の見えない人が「ダビデの子よ」とイエスさまに呼ばわり、イエスさまはそれをよしとしてその人を見えるようにしてくださいました。キリストはダビデの子孫としてこの世にお生まれになることは、旧約に預言されているとおりですし、新約においても、マタイの福音書のはじめから、キリストがダビデの子孫としてこの世界にお生まれになったことがはっきり書かれています。それならキリストのことを「ダビデの子」、つまり「ダビデの子孫」とお呼びすることは何が問題なのでしょうか? イエスさまがお語りになっている36節のみことばは、旧約聖書の詩篇110篇1節のみことばです。これはダビデ自身が語ったことばであり、最初の「主」は父なる神さま、次の「私の主」は子なるキリストです。ダビデはこのように、唯一なるお方にもこのように「位格」があったことを認めています。そしてダビデのこの詩が、立派にみことばとして聖書に採録され、これは律法学者たちにとっても聖典として信じ受け入れるべきみことばとなっているわけです。したがって律法学者たちは、ダビデにとってキリストは、実はダビデがこの世に生まれるはるか以前、永遠のむかしからおられる主であることを認める必要がありました。 それにつづく37節のみことば……これは一見すると、私たちが中学生・高校生のときに国語の「古文」の授業で習った、「反語」ではないだろうか、と思いませんでしょうか?「どうしてキリストがダビデの子なのでしょう、いや、そうではない」などと。しかし、これは日本語の反語ではありません。イエスさまのおことばは、キリストはダビデの子では「ない」と言っているのではありません。ダビデの子ではあるのだが、それだけの理解では充分ではない、ということです。ダビデにとって主であるように、キリストは主である、すなわち神の子である、神である、という理解が必要でした。 イエスさまがこのようにおっしゃるのも、当時律法学者たちが民に説いていた教えは、キリストはダビデの子としてここユダヤに来て、ユダヤをローマの圧政から救い出す王として統べ治める、という、政治的、この世的なメシアとして理解せよというものであったからです。そこには律法学者の鼻持ちならない選民思想が透けて見えてこないでしょうか。それ以上に、このように教えては、イエスさまに出会う道が閉ざされてしまいます。キリストについて民に正しく教えない、そのために、キリストに出会う道を閉ざしてしまう、ということは、律法学者のもたらす弊害といえました。 もっともイエスさまは、ご自身がダビデの子であることを堂々と公言されて民衆を率いるようなことはなさいませんでした。人からはしがない大工の子と思われていたお方です。出身地も旧約の預言にあるとおり、また私たちが福音書を読んで知っているとおり、ベツレヘムだと知られていたわけではありません。ガリラヤのナザレ、何のよいものが出るだろうと人から軽蔑されていた地域のご出身と思われていて、そのようなお方が家系においてもダビデの子孫だったことはほんとうなのにもかかわらず、人々の目には隠されていました。 いわんやイエスさまが、神の子キリストであることは、どれほど隠されていたことでしょうか。律法学者たちはその時代において、もっともよく聖書を調べ、研究していた人たちではなかったでしょうか。ところが彼らは目の前に、その預言の成就も成就、キリストご本人がいても、わからなかったのです。いや、彼らは少しへりくだれば、わかったはずなのに、一切認めようとしない、無知な自分のしがみついたために、キリストに出会う、キリストに献身する大きな機会を逃しました。それどころか、このお方を十字架送りにしました。無知の罪はここに極まったのでした。 しかし、キリストがこのように、人間的な家系においても、それ以上に神であるということにおいても、みことばにおいて証しされているお方であり、このキリストはイエスさまであるということを知ることができたのは、神さまの一方的な恵みとあわれみによることでした。立派なことを教える律法学者ではなく、このような異教社会の異邦人の中からイエスさまへの信仰を持ち、イエスさまに献身するようになれたのは、私たちが何かすぐれていたからではありません。神さまが一方的に私たちのことを選び、救いに定めてくださったからでした。 したがって、私たちのことを誇ることなどできません。もし私たちが自分のことを誇ったりするならば、それでは律法学者たちと同じです。人よりも自分が優れている、神に認められている、霊的ステージが高い、こんなことを考えるようでは、神さまを誇っている、賛美していることになってはいません。 私たちは日々、ふさわしいキリスト理解に導かれることで、キリストをとおして与えられた永遠のいのちを生きる者となっていきます。永遠のいのちのすばらしさは、私たちはまだまだ分からないところだらけで、しかしそれを知れば知るほど、私たちは神さまに献身する恵みの中に入っていこうと祈りつつ努めるでしょう。ご覧ください。彼ら群衆はイエスさまの教えを聞いて、どんなに喜んでいたことでしょうか。それはこのお方をとおして永遠のいのちに入れられる恵みがあることを、彼らは知ったからでした。イエスさまを知る恵み、その恵みがいつも私たちとともにありますようにお祈りします。 次に39節、40節です。律法学者は、律法の精神である愛に対して無理解でした。 よい衣を着て歩き回りたがる、広場であいさつされたがる、会堂の上席に座りたがる、宴会の上座に座りたがる……これが当時の律法学者が当たり前に取っていた態度でした。 人にほめられたがる、ひとからちやほやされたがる、それは、いやしくも主のしもべであるならば、もっとも取ってはならない態度でした。イエスさまはちやほやされたい動機で振る舞われるお方ではありませんでした。それなのに人は、いざ宗教的な指導職に立ったら、なんと人からかしずかれたいと思ってしまうことでしょうか。 それだけではありません。彼ら律法学者は「やもめの家を食いつぶす」とあります。当時、寡婦はきわめて厳しい立場に置かれていました。こんにちにおいてたいへんな思いをされているシングルマザーの方々のようです。具体的には、こういうことだったそうです。①資格もなしに寡婦に法的な助けや助言をして、過剰にお金をとる、②寡婦たちの不動産の後見人のようにふるまって詐欺を働く、③厚かましく寡婦のもてなしを受ける、④寡婦の不動産を正しく管理しないで経済的な損失を与える、⑤彼らのために長々と祈ってお金を取る、⑥返せない借金のために苦労している寡婦の家を抵当に入れて財産を食いつぶす、そういうことを、律法学者たちは宗教指導者であることをいいことに、堂々と行なっていたというわけです。 宗教指導者がである律法学者がこうも振る舞えたのは、ユダヤの信仰共同体における自分の立ち位置を勘違いしていたからです。間違っても彼らは、上に立つにふさわしい待遇を主張できるような立場にはありませんでした。 ボタンの掛け違い、ということばがあります。最初のボタンを掛け違うと、あとはすべて掛け違うことになります。彼らがこうも振る舞っていたのは、まず、キリストを認める信仰に至っていなかったところにあります。キリストを正しく認めていれば、目の前におられるこのお方、イエスさまこそキリストであるとわかったはずです。そうなったら彼らは、偉そうに振る舞うのをやめ、自分もキリストにお仕えするしもべとして振る舞うことができるようになったはずです。その信仰がなかったから、彼らは恥知らずにも人に仕えるどころか、人からむしり取るような生き方をやめなかったのでした。 先週も学びましたとおり、律法の精神は愛です。神を愛し、人を愛する、これこそ律法の精神です。しかしイエスさまは、律法学者は口では偉そうなことを言っていても、行いでは律法を否定してはばかるところを知らない、それは、愛していないからだ、ということを見抜いておられました。神の愛がある人が、寡婦を食い物にできるでしょうか? さあ、尊敬しなさい、とばかりに、人々の前で偉そうに振る舞えるでしょうか? 私たちは少なくとも、キリストのしもべであると自分のことを思うならば、律法学者のようであってはならないと思うでしょう。では、そうならないために、どうすればよろしいでしょうか。それには、王の王なるイエスさまがどう振る舞われたかを知ることです。ピリピ人への手紙2章、3節から8節をお読みしましょう。 まさに、へりくだることこそ天にます王なる証しです。へりくだることを知らない者、威張るような者は、高い地位がもっともふさわしくありません。しかし、人は神さまの基準から極めて遠い罪人です。ほめられたいし、大事にされたいし、愛されたい。しかし、へりくだる道は、人からけなされようと、粗末にされようと、嫌われようと、なおキリストに従うゆえに人をほめ、人を大事にし、人を愛する歩みです。それは、真にへりくだられたイエスさまの姿から学ぶことができます。 それでこそ私たちは、律法学者をしのぐ働き人にしていただけます。イエスさまは少なくとも、律法学者に対して、その教えていることをあなたがたは守り行うべきだ、と、一定の評価を与えていらっしゃいます。それなら私たちは何をもってイエスさまの評価をいただくことができるでしょうか? 律法学者にないものがあるとしたら、それは何でしょうか? 律法学者は偉ぶった態度を取って弱い者によって自分を支えるという、間違った姿勢で神の民の共同体の中で生きていました。 神の民の共同体において働き人は、高いところにいてはいけないのです。いるべき場所はいちばん下のしもべの場です。しかし、しもべの場にてしもべとして振る舞う人を、たとえ人は評価しなくても、神さまは「よくやった。よい忠実なしもべだ」と評価してくださいます。 私たちは人の評価が聞きたいでしょうか、それとも神さまの評価をお聞きしたいでしょうか? 神さまに認められるしもべとして振る舞う私たちとなりますようにお祈りします。 最後に41節から44節、まずお読みします。 これは、律法学者と関係があるのでしょうか? 関係あります。というのも、まさにこの寡婦に苦しい思いをさせていたのは、律法学者であったからです。 律法学者は何に対して無理解だったのでしょうか? 律法学者は、礼拝の実践に対して無理解でした。この寡婦がささげた献金は、金額的に見ればほんとうにわずかでした。ほかの礼拝者たちと比較するなら、みじめになるような献金額でしょう。みんなが見て、見ろ、この女はこれっぽっちしか献金してないぞ、と笑いものにしたかもしれません。そこまであからさまでなくても、少なくとも心の中でさばくぐらいのことはしたでしょう。 しかし、イエスさまは彼女の恥をそそがれました。金持ちよ、聞くがいい。この女性はだれよりも多く献金したのである。生活の手立てをすべてささげたのだから。 イエスさまのこのおことばは、同時に、彼女たちを苦しめて恥じるところのない律法学者たちに対する、痛烈な批判にもなっていました。おまえたちはこれほどまでに彼女のことを貧乏な立場に留め置き、何のケアもしていない。そんな彼女が実に素晴らしい信仰で神の前に出ている。おまえたちはこれを見て恥ずかしくならないのか。いったい、おまえたちのしていることは何だ。 この寡婦は、神の国を受け入れることにおいて、まるで幼子のようです。幼子は大金など持っていません。ただ純粋に、まっすぐに神さまのもとに行くだけです。そこには計算などありません。それに引き換え、妙に大人じみた信仰者の、なんといやらしいことでしょうか。手元に自分の取り分を取っておき、表面的に敬虔な信仰者のふりをして生きる。アナニアとサッピラはそんな献金をしたばかりに夫婦して神のさばきを受けて死にましたが、私たちもアナニアとサッピラの夫婦と五十歩百歩ではないでしょうか。 彼女はまた、宗教指導者に苦しめられていることを、献金をささげないことの言い訳にはしませんでした。どんな宗教指導者のもとにいようとも、ちゃんとおささげしていました。それだけに、寡婦のこの純粋な信仰を利用して好き放題をしている宗教指導者たちには、神の怒りが下るのです。その怒りは、イエスさまを十字架送りにするほどにイエスさまが見えなくなっていた、という形で実現したのでした。 さて、誤解してはならないのですが、神さまは「金額」ではなく「収入に対する率」を見ておられるのではありません。以前、この箇所から、そういうメッセージを堂々と牧師が述べる場面に出くわしたことがありますが、その教会はパワハラ、セクハラのオンパレードで、信徒は多額の献金をささげることを強要されていた群れでした。この牧師の言っていることは理屈としては通っているように見えるかもしれませんが、理屈は理屈でも律法学者の理屈です。 もし、収入に対する率が高い献金をしたとしても、それは自己満足の宗教行為に過ぎない、ということは充分あり得ます。しかし、それは献金としてふさわしくありません。反対に、私たちの献金にささげものとしての心が込められているならば、主はその心を評価してくださいます。聖歌にあるとおり「すべてをささげ/むなしきわれに/御名のためいま/満ちさせたまえ」とあるとおりの、御霊の満たしを不思議なことに私たちは体験します。 献金はだれか人の目を意識してすることではありません。どこまでも神さまとの関係の中で行うことです。人を意識したら、献金が少なかった恥ずかしくなり、多かったら傲慢になります。 しかしそれはどちらも間違っています。第二コリント9章6節をもし、献金を人を意識するものという前提で受け取ったら悲惨きわまることになります。重要なのはそのあとの7節です。主との関係でおささげすることによって私たちには平安が与えられます。 主にある愛がないことも、礼拝をもって神さまと正しく関係が築けないことも、すべてはイエスさまのことを救い主と理解できるだけの信仰がないことによります。私たちにその信仰が与えられていることに感謝しましょう。この信仰は神さまの選びの中で与えられているものですから、神さまにすべてのご栄光をお帰しします。

あなたは神の国から遠くない

聖書箇所;マルコの福音書12章28節~34節 メッセージ題目;あなたは神の国から遠くない 映画のような娯楽で好んで取り上げられる題材に「道場破り」というものがあります。腕に覚えのある者がいきなり他の流派の道場に乗り込んでいって、そこの師範代など主だった門弟をはじめ、すべて倒し、道場の看板を持ち去ったりする、というものです。もちろん、失敗することもあるわけですが、道場破りが現れたら血が騒ぐ、というような道場主や門弟もいたのだろうか、と、想像力をたくましくします。私がむかし好んで投稿していた週刊朝日の「山藤章二の似顔絵塾」というコーナーでも、単純な似顔絵ではなく、信じられないような描き方をする投稿者が老若男女、日本のあちこちから投稿してきて、塾長の山藤画伯はそういう人のことを「道場破り」と呼んでいました。そのような「道場破り」は、やがてプロの絵描きさんになった人も多く、山藤画伯はそういう人たちのことを、頼もしく、また誇らしく思っていたのではないかと思います。 しかし、「わたしが道である」とおっしゃったイエスさまに、あたかも道場破りのように立ち向かうならばどうでしょうか。今日の箇所に登場する律法学者は、一種の「道場破り」のたぐいと言えるかもしれません。パリサイ人やヘロデ党、サドカイ人の「刺客」にも似た者たちを次々と論破するのを見て、それなら、と立ち上がったのが彼でした。イエスさまは彼との対話を通じて、イスラエルの人たちにとって、というより、私たち人間にとって何がいちばん大事なことか、教えてくださいました。 28節のみことばです。……この律法学者はどのような動機があって、イエスさまにお尋ねしようと思ったのでしょうか。ほぼ同じことが書いてあるマタイの福音書22章によれば、この人はイエスさまを試みよう、試そうとしてやってきた、とあります。イエスさまがサドカイ人たちのことを黙らせたと聞いたパリサイ人たちが話し合って、そのひとりを送った、ということです。もし、このパリサイ人と、今日の箇所に登場する律法学者が同じ人物ならば、彼の目的はイエスさまを試みることにありました。 しかし、今日の箇所の全体のトーンを見てみると、彼はイエスさまをやり込める態度満々ではなかったようです。そのことはあとでお話ししますが、ともかく、イエスさまはほぼ、律法学者たちに対して厳しかった中で、例外的に、この律法学者に関しては認め、受け入れることさえなさっています。 話の流れからすると、マタイの福音書のパリサイ人とこの箇所の律法学者は同じ人物と判断できますので、その前提でお話してまいりますが、パリサイ人の集団は、イエスさまを試みて、あわよくば当局に引き渡してやろうという、どす黒い野望を持っていました。しかし、この律法学者の代表選手に関しては、たしかにイエスさまを試みよという命(めい)を受け、それに従って行動しようとしてはいたものの、イエスさまのみことばを受け入れる下地はあった模様です。 この律法学者は、すべての戒めの中で最も大事な戒めは何ですか、と、お尋ねしました。イエスさまは、律法学者たちからしてみれば、きよめの洗いについてですとか、安息日を守ることについてですとか、あまりに急進的な律法の解釈をしているように見えました。何とかしてイエスさまのラディカルな聖書解釈をあげて罠にかけよう、という、パリサイ人たちの謀略があったのかもしれないことが、この質問から透けて見えます。 もっとも、この律法学者がこの質問をした意図は、パリサイ人たちの考えとはまったくちがうところにあった可能性もあります。彼はこの質問を投げかけることで、イエスさまが何を大切にすべきかということが結果的に教えていただける、そこまで考えて質問したとも言えます。 人はときに、私たちクリスチャンに意地悪な質問をしてくるように思える時があります。しかし、そういう質問をする人は、案外、真理とは何かを知りたくて、そのように一見意地悪に思える問いを投げかけることもあると考えるべきです。意地悪な質問を恐れてはなりません。聖霊なる神さまは。いざというそのとき、私たちに最も素晴らしい知恵を授けてくださり、神の真理をその人の前で解き明かさせてくださいます。恐れないで信じて行動していただきたいのです。 律法学者たちは、聖書から導き出して、合わせて613にもなる戒めを集大成していました。これは、248の「しなさい」という戒めと、365の「してはならない」という戒めから成り立っています。「しなさい」の248は、成人の人間の関節の数、365はもちろん、一年365日を意味します。これは、毎日、神さまがしてはならないとおっしゃった戒めを覚え、神さまが命じられたことを全身で守り行う、という意味があります。しかし、これだけたくさん戒めがあると、律法の軽さ、重さに優劣をつけるようになります。そういうことからも、すべての戒めの中でどれがいちばん大切か、という問いは、律法学者たちにとっても、とても大事なものでした。 しかし一方で、あれだけ普段からラディカルな教えを語っておられるイエスさまのことです。パリサイ人たちは、イエスさまがお答えになるその内容次第で、イエスさまをしょっぴいていける、と計算したとも言えます。その点で、なかなか難しいところを攻めた、と、彼らはこの問いを考え出して、得意になっていたことでしょう。 しかし、さすがはイエスさまです。このような彼らの意図に関係なく、私たちのお従いすべき真理を堂々と教えてくださいました。29節、30節です。……「聞け、イスラエルよ。」に始まるこのみことばは、申命記6章4節と5節のみことばです。聞け、は、ヘブライ語では「シェマー」であり、この申命記6章4節、5節に始まる「シェマーの祈り」というものを、敬虔なユダヤ人は朝と晩の一日に2回唱和します。今もそうです。それほど、このみことばはユダヤ人にとって大切なみことばです。 だから、このみことばこそ第一の大切な戒めだということは、さすがのパリサイ人も反論できません。まず、主は唯一のお方です。唯一の神さまだから、このお方のほかに神があってはなりません。それ以外のものを神とするならば、それは「偶像」です。 それなら、人はこのまことの神さまをどうしなければならないのでしょうか?「愛する」のです。それも、「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして」愛するのです。あらゆる意志と行動を動員して、主なる神さまを愛するのです。したがって、頭の中や感情の次元で神さまを愛するのでは充分ではなく、ひたすらに行動して、神さまを愛するのです。 それでは具体的に、どのようにして神さまを愛するのでしょうか? それは「神さまの戒めを守る」、つまり「神さまのみことばを守り行う、実践する」ことによって、神さまを愛するのです。神さまをほんとうに愛しているならば、神さまが私たちに「せよ」と命じられたことを守り行い、「してはならない」とおっしゃったことはしない、そうなれるはずです。 それでは、みことばを守り行うことは、具体的に何をすることによって実践するのでしょうか? イエスさまは続けて、第一の戒めだけではなく、第二の戒めについても語っていらっしゃいます。31節です。……神さまが「せよ」と命じられたこと、また「してはならない」と命じられたことは、人との関係において実践されるものです。人に対して「せよ」、人に対して「してはならない」、これがすべて、神を愛することと同じだというわけです。 それゆえ、何を人に対してしてもよく、何をしてはいけないのか、私たちはみことばから学び、身につける必要があります。しかし、そういうことは、訓練によらなければ身につけることはできません。学校でも家庭でも、子どもは人を大切にするための教育を受けて大きくなります。しかし、私たちが神を愛することを、人を愛することによって身につけることは、一生ものです。ある牧師先生がうまいことをおっしゃっていました。教会は学校です、それも、一生卒業のない学校です。まことにそのとおりです。 なお付け加えれば、私たちはこの「学校」から帰り、また集まるまでの一週間、「学校」から出される課題としての「宿題」をこなします。聖書を読み、お祈りし、そうして教えていただいたことを、人を愛することにおいて、普段の生活の中で実践するのです。 さて、それでは私たちは、どのように人を愛するのでしょうか?「自分を愛するように」、そのようにイエスさまはおっしゃっています。よほど病んでいる人でもないかぎり、人は自分のことを大切にします。自分のことを大切にするのは当たり前のことです。悪口を言われるとか、貸したものを返してもらわないとか、されたら嫌なことというものが、人にはあります。そういうことを他人にはしない、これも立派に「愛する」ことです。また逆に、私たちはおいしいものを食べたいですし、もてなしを受けたり、プレゼントをもらったりすればうれしいものです。だから人にごちそうし、人をもてなし、贈り物をする、そうして、私たちは人を愛するのです。 自分を愛するように、ということは、自分のことしか考えない、ということではありません。というより、正反対のことです。自分を大切にできる人は人のことも大切にできますし、逆に、人のことを大切にできる人は自分のことを大切にしている人です。一方で、自分のことしか考えない人は、人のことなど大切にできませんし、結局は自分のことも大切にできていないのです。 わかりやすいたとえを使いましょう。おいしいからとジャンクフードやコーラやジュースばかりを食べたり飲んだりして、怠けてばかりいたら、からだをおかしくします。その結果、人にも迷惑をかけることになります。これは、このみことばが言う「自分を愛する」こととはちがいます。しかし、自分を大切にする人は、みことばをお読みし、お祈りし、賛美することで、つねに御霊の満たしをいただき、霊的な健康を保ちます。肉体においても、きちんと栄養のあるものを食べ、睡眠も適切にとり、運動もきちんとします。趣味を持ってリラックスすることでストレスをためません。そうして霊肉ともに健康を維持することで、人の役に立つ行動ができるようになります。これがほんとうの意味で自分を愛することで、結果として人を愛することです。 さて、そうなると「だれが隣人か」ということになります。実は、この律法学者と同じような問答をイエスさまと交わした律法学者のことが、ルカの福音書の10章に出てきます。そのときイエスさまは、あなたがたにとっての隣人とは、ひとつの例話をお用いになり、半殺しの目にあって倒れているユダヤ人を親身になって助けたサマリア人のことだ、とおっしゃいました。ユダヤ人にとっては受け入れがたい存在、軽蔑の対象、そんなサマリア人が隣人だなんて! しかし、このサマリア人と同じように振る舞うこと、少なくとも宗教的けがれを気にして瀕死のユダヤ人に一切手を差し伸べなかった宗教指導者のようにならないことがまことのいのちの道であると、イエスさまはおっしゃいました。 イエスさまはまた、山上の垂訓において、あなたの敵を愛しなさい、とおっしゃいました。これはただごとではない命令です、言ってみれば、いま、イスラエルの人に向かってハマスを愛しなさいと言うようなものではないでしょうか。ウクライナの人に対して、ロシアを愛しなさいと言うようなものではないでしょうか。身近なケースを見ても、インターネットには中国や北朝鮮、そして韓国を憎悪することばにあふれています。しかし、憎っくき隣人でも、愛しなさい、というのが、神さまのみこころ、この律法のことばのほんとうに語ることであるというのです。 私たちにとっても、顔も見たくない人がひとりやふたりは必ずいると思います。いない、とおっしゃるなら、その人はきっと天使です。私にも正直、会いたくない人はいます。それでも、愛しなさい、と言われたら、私たちは苦しくなるでしょう。あるいは反発を覚えるでしょうか。しかし、覚えておいていただきたいのですが、「愛する」ということは「好きになる」ということでは、ありません。おわかりでしょうか? 「好きになる」というのは感情の問題です。しかし、「愛する」ということは、「神さまが敵を愛するように命じられた」という「事実」に対し、信仰によってお従いするという「意志」と「選択」の伴うことであり、「好き」という感情とはまったく別の次元のことです。 さらに言えば、たとえその人に対してどうしても「好き」という感情がわかなくても「愛する」ことはできるのです。私たちはその人のことを「好き」になる必要はありません。好きでもない人を好きになろうとすると苦しくなりますし、好きでもないのにその人のことを好きだということは、嘘をついていることになります。しかし、「愛する」ことはできます。なぜならば「愛する」ことは主の命令だからであり、ということは、主は私たちに「愛する」力をくださるということだからです。できもしないことを主はお命じなりません。 もっとも、私たちは愛せないことの限界を突きつけられ、自分の自己中心を思い知らされます。そんなとき私たちは落ち込むか、抵抗したりするでしょう。しかし、そんな私たちのすることは、それほどまでの自己中心の罪人である私のことを、イエスさまは十字架にかかってくださるほどに愛してくださった、その愛を思うことです。そうすればイエスさまは、私たちに「愛する」力をくださいます。 「愛する」選択をした結果、その人のことが「好き」になるかどうかは置いておいて、私たちはまず「愛する」ことから始めたいものです。うまくいけば今までの「嫌い」「苦手」という感情が「好き」という感情に代わるかもしれませんが、そうでなかったとしても、私たちに求められていることは「愛する」という意志です。そこから、良きサマリア人のように行動が実を結ぶ祝福がありますようにお祈りします。 さて、この律法学者はイエスさまにお答えします。32節です。……彼は、主が唯一の方であることが、主こそ愛するお方であるということの、大前提であることを理解していました。また33節、隣人愛こそが究極のいけにえ、ささげ物であることを、彼は旧約聖書のいくつものみことばから理解していました。サムエル記第一、箴言、ホセア書に、まことのすぐれたいけにえとは何か、それは形式的な宗教行為ではないことがほのめかされていますが、この律法学者は、それをわかっていたのでした。あるいは、イエスさまのみことばによって、それこそがふさわしいみことばの解釈であるという導きをいただき、そのとおりに告白した、と言えます。まさにイエスさまをとおして、彼は正しいみことばの理解、そして信仰告白に導かれたのでした。 イエスさまはそんな彼に対し、なんとおっしゃったのでしょうか? 34節です。……「あなたは神の国から遠くない。」この律法学者は、イエスさまを亡き者にしようとするパリサイ人の群れの者でした。しかしイエスさまは、彼はそんな反キリストのパリサイ人だから、などと、彼のことをラベリングすることはなさいませんでした。イエスさまはひとりひとりのことを見ていらっしゃいます。 この私たちからしてもそうだったのではないでしょうか? 宣教師の墓場と言われている日本、家という家に仏壇や神棚があり、お寺や神社に霊的に縛られて生きるのが当たり前の日本人は、はた目から見れば、福音が伝わることが絶望的に見えます。私は日本の外に合わせて6年住んだから実感しますが、外から日本を見ると、ほんとうにそのように見えるのです。 しかし神さまは、日本という異教の国の民として私たちのことをご覧にならず、永遠のご計画の中で私たちを救ってくださいました。イエスさまはこの律法学者に「あなたは神の国から遠くない」とおっしゃいましたが、私たちもまた、神の国から遠くなかったのです。しかし、これこそが神の国の福音であるという理解もまた、神さまの恵みによって与えていただいたものです。ゆえに私たちは、誇れるものは何もない、ただイエスさまの十字架を誇るのみで、神さまにすべてのご栄光をお帰しするものです。 最後に、ローマ人への手紙の12章1節のみことばをお読みしましょう。みことばの実践こそ最高のいけにえ、それも霊的ないけにえです。それは私たちが、人を愛することによって、それも、到底愛せない人のことを愛しますと決断することによって、意味を持つようになります。 しばらく祈りましょう。私たちは愛する人になれますように。今はまだ、愛する行動がとれなくても、愛することを選び取るという、その第一歩の行動に踏み出せますように。そうして、神の国の民としてふさわしく歩みますように。

神は生きている者の神

聖書箇所;マルコの福音書12章18節~27節 メッセージ題目;「神は生きている者の神」 私たちがクリスチャンであると公にして生きると、いろいろ煩わしいことに巻き込もうとする人がいます。なかでも、私たちがちゃんと説明したところで神さまを信じるつもりもないのに、私たちにとって答えにくい質問を吹っかけて悦に入るタイプの人など、その典型でしょう。私も学生時代から、自分がクリスチャンであることを周りに明らかにして生きてきましたので、興味本位の質問や議論を吹っかけられることがたまにありました。みなさまにもそんな経験はありませんでしょうか? ただ、そういう議論をクリスチャンではない人がしてくるなら、それでも福音を宣べ伝える機会にはなるので、意味がないとは言えないでしょう。問題は、聖書に啓示されている神さまを信じていると言いながら、私たちのことを意味のない議論に持ち込もうとする人たちです。いったい、彼らは何を思ってそんなことを言ってくるのでしょうか? 私たちのことを論破したつもりになって、そんなに楽しいのでしょうか? 今日の本文を見ますと、そのようなタイプの議論家がイエスさまに議論を吹っかける場面となっています。出てくるのは、おなじみのパリサイ人ではなく、サドカイ人です。サドカイ人、サドカイ派は、エルサレム神殿を中心とした祭司の家系に属する裕福な上流階級で、民衆の宗教的指導者として、パリサイ派の宗教指導者、パリサイ人と、政治や宗教をめぐる主導権争いをしました。 彼らの特徴として、モーセ五書、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記に最終的権威を置いていました。彼らは復活や死後のいのちというものを認めませんでしたが、それは、彼らにとっての聖典というべきモーセ五書に、それらのことが明記されていなかったからと推測されます。また、彼らは政治指導者としての側面も持っていましたが、だからというべきか、彼らは現実主義者で、世俗には関心を持っても、真の霊的な関心というものを彼らは持っていませんでした。 その前提で今日の箇所を読んでいただければ、サドカイ人がなぜこのような議論を吹っかけ、それに対してイエスさまがこのようなお答えをなさったかがわかります。のちほど順を追って説明しますので、まずは本文を見てみましょう。 18節、サドカイ人が来ました。ここで「復活はないと言っている」と、但し書きがついています。イエスさまはおっしゃいました。「わたしはよみがえりです。いのちです。」まことのいのち、よみがえりそのものでいらっしゃるイエスさまに議論を吹っかけるのですから、彼らのたくらみは無謀と言えるものです。 イエスさまを指し示した働き人であるバプテスマのヨハネは、パリサイ人とサドカイ人をまとめて、「まむしのすえども」と糾弾しています。おまえたちは宗教家のなりをした悪魔の子だ、というわけです。聖書を読んでも、彼らがバプテスマのヨハネの糾弾のことばを聞いて、悔い改めた形跡はありません。すなわち、パリサイ人がイエスさまに敵対していたように、サドカイ人もまた、神の子であるイエスさまを受け入れることろには到底達していませんでした。だから彼らは真理を求めてイエスさまに質問したのではありません。言いがかりをつけてイエスさまを罠にかけ、あわよくば失脚させようとたくらんだわけです。この点、対立する相手のパリサイ人と同じことをしていたことになります。 彼らがそういうことを念頭に置いていたという前提で、あらためて19節から23節を読みましょう。 まず、19節のみことば、これは申命記25章5節に書かれているみことばがもとになっていて、「レビラート婚」という、律法に定められた結婚形態の根拠となっています。これそのものはもちろん、みこころにかなっていることであり、亡くなったイスラエルの民の名を記憶させる、また、その財産を一族で守るという意義があります。ルツ記に登場する、ルツをめとったボアズは、この「レビラート婚」の原則にしたがって行動し、ルツとの結婚を果たしました。あとでおうちに帰られたら、ぜひ「ルツ記」をお読みください。短い1章ずつの全部で4章の、とても短くて美しいみことばです。 その「レビラート婚」の原則はモーセ五書である申命記にあるわけで、サドカイ人の信仰の根拠、というより宗教的判断の根拠となっているのももっともですが、問題はその次です。長男夫婦に子どもがないまま、長男が死んだ。その長男には弟が6人いて、次男が長男を継いでその妻と結婚、しかし次男が死んだ、そこで三男が継いで結婚、でも死んだ、そこで四男が継いで結婚、でも死んだ、そこで五男が継いで結婚、でも死んだ、そこで六男が継いで結婚、でも死んだ、そこで七男が継いで結婚、でも死んだ、そして妻も死んだ。 このように言うと、サドカイ人がどれほどめちゃくちゃ、ナンセンスなことを言っているかわかると思います。これは、レビラート婚はそれほど大事なものだからしっかり守るべきである、という前提で話しているというよりも、何が何でもイエスさまの粗探しをしてやる気満々で、こんなことを言っていると見るべきでしょう。 しかし、そうは言いましても、可能性としては限りなくゼロに近いですが、完全なゼロとは言い切れません。そういう可能性もありますよ、さあ、あなたならどうお答えになるのですか、これはほかならぬ、みことばの語っていることなのですよ、と迫っているわけです。 しかし、彼らサドカイ人がこのような例話を用いた意図が、23節ではっきりします。彼らは復活を信じない前提でこのようなことを言っているわけですが、彼らはこう言いたいわけです。もし復活というものがあったら、婚姻関係はめちゃめちゃになるでしょうが……。したがって、復活というものはありません。先生、あなたは嘘つきです。そういうふうに、彼らはイエスさまに喧嘩を売っているわけです。 私たちにとっても、しばしば答えにくい問いというものがあります。特に、聖書の一か所を取り上げて、聖書のほかの箇所と照らし合わせると矛盾ではないですか、さあ、どう考えますか、というたぐいのものです。これは、聖書を誤りなき神のみことばと信じ告白する私たちからすると、一生ついて回る課題です。逃げたくなるでしょうか。そんな問いをする人に対して逆切れでもして、うるさい! と一喝するでしょうか。 しかし、イエスさまはそのどちらでもありませんでした。このような者たちに対しても、懇切丁寧にお話しになりました。まず、イエスさまは、あなたがたサドカイ人は聖書という神のみことばも神の力も知らない、とおっしゃいました。ゆえに、あなたがたは思い違いをしている、ということです。 およそ神に属する者にとっては、聖書という神のみことばに根差し、聖霊なる神の御力を祈りのうちにつねに体験することは必須のことであり、生命線です。いわんや彼らは祭司の一門に属する立場にあります。みことばを知ることもせず、神の力を体験することもしないで、ユダヤの宗教指導者として君臨するなど、あってはならないことでした。まさにヨハネが「まむしのすえども」と糾弾した時から、彼らは変わっていなかったのでした。宗教家のなりをした俗物でした。 しかし、人の振り見て我が振り直せ、です。私たちはみことばと祈りにおいて神と交わり、人々の前に神を証しし、聖徒の交わりをする者として、広い意味で祭司です。まさに、第一ペテロ2章9節に「あなたがたは王である祭司」と書いてあるとおり、また、宗教改革者ルターが私たちすべての聖徒を指して「万人祭司」と主張したとおりです。私たちがその祭司としての役割を果たすには、毎日みことばをお聞きし、毎日祈ることで神さまと交わることは必須です。こうしないと、私たちは思い違いをすることになります。 思い違い。それは、みことばと御霊の啓示から外れることで、私たちが「信じたい」方向に動かされてしまうことから生じることです。私たちの教会が毎週「バプテスト教理問答書」から学んでいるのは、それは先人たちが緻密に聖書を研究した結果のエッセンスであり、そこから外れては教会があらゆる点で不健全になるからです。信仰告白、教義、神学、ほんとうに必要です。それを外れるならば、それはもはやキリスト教と呼ぶことはできません。 イエスさまはなんとお語りになっているのでしょうか? 25節です。そうです。婚姻というものは、第一に「産めよ、増えよ、地を満たせ」というご命令を人間が遂行するために、男性と女性で結び合わさって成り立つ制度です。しかし、御国においては、もはや出産ということはありえず、したがって出産の大前提になる「結婚」ということもありえません。この神さまのみこころは、永遠のいのちというものをこの世的な発想でしか理解できないサドカイ人には、到底理解できないものでした。 そして、イエスさまはさらに、彼らが後生大事にしているモーセ五書から、実は神さまが復活ということをお語りになっていることを明らかにされます。26節です。これは、出エジプト記で、荒野で羊を飼っていたモーセの目の前に、火で燃えているのに燃え尽きない不思議な柴の中から、神さまがモーセにお語りになった、という箇所であり、モーセ五書をなによりも大切にしているサドカイ人にとっては、原点そのものというべきみことばです。イエスさまは彼らサドカイ人に「読んだことがないのですか」とおっしゃっていますが、当然彼らは読んでいます。しかし、その意味するところを、彼らは悟っていませんでした。彼らはイエスさまのおっしゃるとおり、たいへんな思い違いをしていたわけです。 しかし、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と主がおっしゃったことが、なぜイエスさまのおっしゃるように、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です」ということになるのでしょうか? 不思議に思いませんか? まともな答えになっているのでしょうか? それが、これこそ正解中の正解なのです。それは、こういうことです。神さまがアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、ということは、神さまがアブラハム、イサク、ヤコブの三代と契約を結ばれたということであり、その契約はその子孫であるイスラエルに不変である、ということです。 彼らは確かに、地上での生涯は終えていました。墓もあります。しかし、そのはるかのちの時代にモーセが神の御声をお聴きした、それも「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という神さまご自身の自己紹介をこめて、これは、アブラハムもイサクもヤコブもなお生きていることが前提です。というのは、契約は当事者が死んでしまったら無効になるからです。しかし、この契約はいまなお生きていて、サドカイ人も含むイスラエル人、ユダヤ人も、契約の民としてみことばに生きる特権にあずかっています。だからこそ彼らサドカイ人はみことばを根拠に、レビラート婚の原則を受け入れて生活していたわけです。 となりますと、この契約がサドカイ人を含めて今なお有効ということは、2つのことを示しています。すなわち、契約を結ばれた当事者である神さまは変わることのないお方であること、そしてもうひとつ、もう一方の契約を結んだ当事者であるアブラハム、イサク、ヤコブはこの地上にはいなくても、それは彼らの肉体が朽ちたというだけのことで、彼らは霊においてなお生きている、そして、やがて復活して、主と結ばれた契約は最終的に成就する、ということです。 というわけで、サドカイ人がユダヤ人としてモーセ五書を大事にしているのならば、いかに律法のみことばに書かれていなかろうとも、彼らは復活、永遠のいのちということを受け入れていてしかるべきでした。それを受け入れられない彼らは聖書もわからず、神の力も体験できないので、不幸としか言いようのない存在でした。 しかし、この永遠の復活ということは、実際に見たことのない人には理解を絶するものでした。見えるものがすべての俗物だったサドカイ人などまさにそうです。しかし、見ずに信じる者になり切れない点で、私たちもまたサドカイ人と五十歩百歩の存在ではないでしょうか。イエスさまはそんな罪人である私たち、神を見ず、神を認めない罪人の私たちのために、十字架におかかりになり、その死をもって私たちを罪から贖い、救ってくださいました。 そして、イエスさまは復活してくださいました。当時のユダヤ人たちはこの論より証拠の復活を見て、イエスさまを信じました。 まことに、復活は神の力です。また、モーセ五書に始まるみことば全体の成就です。イエスさまの復活にあずかって、私たちも復活します。アブラハム、イサク、ヤコブも復活するのは、イエスさまによって成就した神の契約のゆえです。マタイの福音書8章11節をご覧ください。時が来て私たちは、異邦人の身分であったのにイエスさまを信じる信仰のゆえに神の民に接ぎ木された身分で、アブラハム、イサク、ヤコブととともに、天の御国の交わりに加えられます。イエスさまを信じなかった者は、たとえ血筋では彼らを先祖としているようでも、イエスさまの復活を受け入れているゆえに彼らの復活を受け入れているわけではないので、復活のいのちから除外されます。12節にあるとおりです。このときのサドカイ人は悔い改めないかぎり、マタイ8章12節のさばきが臨む立場にありました。 私たちがイエスさまを信じるということは、復活と永遠のいのちにあずかっているということです。地上の幕屋なる肉体が朽ちても、永遠のいのちが与えられ、やがて朽ちない永遠の、御霊に属する栄光のからだによみがえらされます。 私たちはこの地上に目を留めると、がっかりさせられることばかりかもしれません。しかし、そんなときこそ、わたしはよみがえりです、いのちです、わたしを信じる者は死んでも生きるのです、と言ってくださった、イエスさまの御顔を仰ぎ、力をいただく必要があります。 先週も学びました。主を仰ぎ見る者は輝くのです。私たちはこの世の過ぎ去るものに捕らえられていては輝けません。ただ、主との交わりの中で、永遠のいのち、栄光のいのちがあたえられていることを信じ受け入れつづけることによって、私たちは変わることなく輝くことができるのです。 私たちを輝かせてくださるお方は、昨日も今日も、いつまでも変わることがありません。アブラハム、イサク、ヤコブと結んでくださった契約は、信仰をもって神さまを受け入れた私たちには変わることなく有効で、私たちは信仰ゆえに神の子としていただきました。それゆえ、私たちはこの世においても神さまの助けをいただいて、雄々しく、勝利の人生を歩んでまいりましょう。復活のイエスさまはともにいてくださいます。

聖書の語る「輝く」ということ

聖書本文;マタイの福音書5章16節 メッセージ題目;聖書の語る「輝く」ということ 毎週、礼拝が始まるにあたり、私たちは「導入賛美」というものを歌います。いろいろな歌を歌いますが、多くは「ワーシップ」と呼ばれるたぐいの、現代的な音楽です。歌詞も多岐にわたっていますが、その中にはときに、「輝く」ことを訴えている賛美があります。「輝け主の栄光地の上に」ですとか「さあ輝け闇を照らせ夜が明けるまで」ですとか「輝かせよあなたがたの光を」ですとか。そういうわけで、私たちにとって「輝く」ことは大事です。 今年の年間テーマは「主を仰ぎ見て輝く」です。輝くことは主のみこころと、みことばからお受け取りしてそのようにつけさせていただきました。しかし、「輝く」ということは、なぜ主のみこころなのだろうか? 今週のメッセージは、そのふと生まれた疑問から備えさせていただきました。 私たちの使っている、新改訳聖書2017では、「輝く」の「輝」という漢字が出てくる節は、なんと135節にもなります。その135節における「輝く」ということはいくつかに分類することができますが、大きく分けてそれは「神に属する輝き」と「人に属する輝き」です。 まず「神に属する輝き」から見てまいりましょう。神さまは栄光そのもののお方でいらっしゃいます。私たちの世界は太陽という天体ひとつで明るく照らされ、暗い夜も朝や昼になってしまいますが、神さまというお方は太陽とは比べ物にならないほど輝いておられるお方です。まことに輝きとは、神さまの本質そのものです。まさに、ヨハネの黙示録21章23節が語っているとおりです。 神さまがそのような輝かしいお方なので、神さまに属する存在もそれ相応に輝きます。神さまを礼拝するために用いる道具が輝いている必要があるのは、神さまが栄光に輝くお方だからです。また、「冠」が輝く、というみことばも聖書のところどころに登場しますが、これは、冠が人に栄光を授けて輝かせる存在である、ということです。 また、輝くといえば太陽や月や星のような天体の輝きを外せませんが、もちろん聖書にも天体の輝きが出てまいります。これは、神の栄光を顕す被造物の輝き、と言えるでしょう。そればかりかヨブ記を見てみると、レビヤタンという、こんにちでは恐竜のことではないかとも言われている獣が歩いたあとが「輝く」ともありますが、これはそのような、第一の獣として神さまが創造された存在が、生きていること、存在することそのもので、神のご存在の栄光を現している、ということもできるわけです。 それでは、「人に属する輝き」を見てみましょう。サムエル記第一を見てみますと、野蜜を口にしたヨナタンの目が輝いた、とあります。ヨナタンの目が輝いたことは、食べ物を口にするものは殺されなければならないと神かけて誓ったサウルの誓いがみこころにかなわないことをほのめかしています。また、神さまと顔と顔を合わせて語り合ったモーセは、民の前に出たとき、顔の肌が光を放っていました。まさに、神の栄光に照らされた、ということです。 一方で、神さまのとその民イスラエルに敵対する、アッシリア、モアブ、ツロ、またペルシアの宰相(さいしょう)ハマン、ダニエル書に登場するバビロンの王にも、「輝く」の字が用いられています。これは、その権勢をほしいままにしたその栄光の輝きが取り去られる、という文脈で用いられていて、つまりこの輝きとは、有限な人の輝きです。 しかし、人の輝きは偶然なくなるわけではなく、これらのものに対する「輝き」は神さまがお与えになるものであり、神さまの摂理の中で消されていくことが、これらのみことばにほのめかされています。 なお、このほかに、人を堕落へと誘惑する「ぶどう酒が輝く」という表現が箴言に登場します。これは神さまの栄光とは直接の関係がないばかりか、その輝きをもって人を神から遠ざけるわけです。 これは、この世の権力が「輝く」、しかしその「輝き」がやがて取り去られるという意味の「輝く」に分類できるでしょう。 要するに、どんな輝きも実際のところは、神の栄光のうちに輝くことが許されている、ということです。ゆえに私たちは、もし自分が輝きの中にあるならば、そのことを誇ってはなりません。また、だれかわが世の春を謳歌しているような人がいたとしても、その人を見てうらやむ必要もありません。すべては主の許しのうちに行われていることであり、私たちはへりくだる必要があります。 実際、いくつかのみことばを見てみますと、神が人の輝きとなられる、という箇所もありますし、神が人に輝きを与えられる、という箇所もあります。つまり、人の輝きは、神さまと無関係に存在する者ではない、ということです。 ゆえに私たち人間にとって、自分が輝くことを神さまに求めることは、たいへん、みこころにかなっていることであり、何にもましてすべきことである、というわけです。なにも、演技みたいにしてわざとらしく明るくしなさい、ということではありません。神の民、クリスチャンは、すべからく明るくするべきです。ヤコブの手紙には「嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい」と、輝かないことを奨励するような表現が出てきますが、それはこの世の偽りの輝きで輝くのをやめなさい、つまり、その輝きを捨て去って、主の輝きでほんとうに輝きなさい、という意味です。私たちは主にあって輝くのです。 しかし、私たちが明るくするには、どうすればいいのでしょうか。そのためには、私たちが何者かということを、いつも心に留める必要があります。 ここまで「神に属する輝き」、そして「人に属する輝き」について見てまいりました。すると、「神が人となられたイエスさまの輝き」はどうなのだろう、と思いませんでしょうか? 実は、それがとても重要なのです。 まず、イエスさまと輝き、の関連でいえば、イザヤ書53章2節のみことばを外すことはできません。イエスさまは人として、苦難のしもべとしてこの地に来られるとき、「輝き」がないお方であられる、とすでに預言されていました。 しかし、それは輝きをあえて「消して」おられた歩みというべきです。イエスさまのご本質はどこまでも、「輝く」お方でした。それはパウロの書簡やヘブル人への手紙でも解き明かされているところですが、イエスさまの公生涯においても、変貌山において御顔や御衣が大いに輝くお姿で現れました。ヨハネの黙示録に登場するイエスさまのお姿も、「輝く」という表現が用いられています。本来イエスさまは輝きそのものでいらっしゃいます。 このお方を心に宿しているゆえに、私たちは輝くのです。人間的な方法で輝こう、明るくなろうとしても限界がありますし、またそれは、必ずしも神の栄光を顕していることとイコールではありません。私たちのすることは、心のうちにある光を升の下に隠すのではなく、燭台の上に掲げて輝かせることです。 イエスさまは、「あなたがたは世の光です」とおっしゃっています。「あなたがたは世の光に『なります』」ではありません。「世の光に『なるでしょう』」でもありません、「世の光『です』」なのです。なぜ私たちは「世の光『です』」と言っていただけるのでしょうか。それは、まことの光なるイエスさまを宿しているからです。それゆえ、私たちはすでに光だからです。 しかし、光は「輝いて」こそその価値があります。私たちがもし「輝いて」いないならば、せっかく「世の光」にしている意味がありません。私たちが世の光として輝くために必要なのは、まず、イエスさまとの交わりの中にとどまり、自分自身が「世の光」であるという自覚を確かに持つことです。イエスさまを見ることができていれば、私たちは必ず輝きます。 もし、それでも自分が光であるということがわからないでいるならば、私たちがどこを見ているかを考える必要があります。まことの光がイエスさまである以上、イエスさま以外のものを見ていたならば、私たちが輝くことができないのは当然のことです。 いまこそ、イエスさまとの交わりを取り戻すときです。私たちはみことばによってイエスさまに出会い、祈りのうちにイエスさまの御顔を仰ぐ必要があります。そのようにして、イエスさまとの交わりにとどまれば、私たちは必ず明るく輝きます。 私たちは、心落ち込んでいていいことは何一つありません。イエスさまを仰ぎ、光り輝きましょう。ほかの兄弟姉妹も暗さの中にいると知ったならば、ともに御顔を仰ぎ、光を得て、輝きましょう。 さあ、私たちは何を見ているために輝けないでいるのでしょうか? 自分の過去の忌まわしい記憶でしょうか? いま私たちを煩わせている人間関係でしょうか? お金の心配でしょうか? 老後のことでしょうか? もし、そのようなものばかり見えてしまっているならば、それはイエスさまが見えていない、ということです。いまこそ、すべてのすべてであられる主イエスさまを見ましょう。ではお祈りします。