聖書本文;マタイの福音書5章16節
メッセージ題目;聖書の語る「輝く」ということ
毎週、礼拝が始まるにあたり、私たちは「導入賛美」というものを歌います。いろいろな歌を歌いますが、多くは「ワーシップ」と呼ばれるたぐいの、現代的な音楽です。歌詞も多岐にわたっていますが、その中にはときに、「輝く」ことを訴えている賛美があります。「輝け主の栄光地の上に」ですとか「さあ輝け闇を照らせ夜が明けるまで」ですとか「輝かせよあなたがたの光を」ですとか。そういうわけで、私たちにとって「輝く」ことは大事です。
今年の年間テーマは「主を仰ぎ見て輝く」です。輝くことは主のみこころと、みことばからお受け取りしてそのようにつけさせていただきました。しかし、「輝く」ということは、なぜ主のみこころなのだろうか? 今週のメッセージは、そのふと生まれた疑問から備えさせていただきました。
私たちの使っている、新改訳聖書2017では、「輝く」の「輝」という漢字が出てくる節は、なんと135節にもなります。その135節における「輝く」ということはいくつかに分類することができますが、大きく分けてそれは「神に属する輝き」と「人に属する輝き」です。
まず「神に属する輝き」から見てまいりましょう。神さまは栄光そのもののお方でいらっしゃいます。私たちの世界は太陽という天体ひとつで明るく照らされ、暗い夜も朝や昼になってしまいますが、神さまというお方は太陽とは比べ物にならないほど輝いておられるお方です。まことに輝きとは、神さまの本質そのものです。まさに、ヨハネの黙示録21章23節が語っているとおりです。
神さまがそのような輝かしいお方なので、神さまに属する存在もそれ相応に輝きます。神さまを礼拝するために用いる道具が輝いている必要があるのは、神さまが栄光に輝くお方だからです。また、「冠」が輝く、というみことばも聖書のところどころに登場しますが、これは、冠が人に栄光を授けて輝かせる存在である、ということです。
また、輝くといえば太陽や月や星のような天体の輝きを外せませんが、もちろん聖書にも天体の輝きが出てまいります。これは、神の栄光を顕す被造物の輝き、と言えるでしょう。そればかりかヨブ記を見てみると、レビヤタンという、こんにちでは恐竜のことではないかとも言われている獣が歩いたあとが「輝く」ともありますが、これはそのような、第一の獣として神さまが創造された存在が、生きていること、存在することそのもので、神のご存在の栄光を現している、ということもできるわけです。
それでは、「人に属する輝き」を見てみましょう。サムエル記第一を見てみますと、野蜜を口にしたヨナタンの目が輝いた、とあります。ヨナタンの目が輝いたことは、食べ物を口にするものは殺されなければならないと神かけて誓ったサウルの誓いがみこころにかなわないことをほのめかしています。また、神さまと顔と顔を合わせて語り合ったモーセは、民の前に出たとき、顔の肌が光を放っていました。まさに、神の栄光に照らされた、ということです。
一方で、神さまのとその民イスラエルに敵対する、アッシリア、モアブ、ツロ、またペルシアの宰相(さいしょう)ハマン、ダニエル書に登場するバビロンの王にも、「輝く」の字が用いられています。これは、その権勢をほしいままにしたその栄光の輝きが取り去られる、という文脈で用いられていて、つまりこの輝きとは、有限な人の輝きです。
しかし、人の輝きは偶然なくなるわけではなく、これらのものに対する「輝き」は神さまがお与えになるものであり、神さまの摂理の中で消されていくことが、これらのみことばにほのめかされています。
なお、このほかに、人を堕落へと誘惑する「ぶどう酒が輝く」という表現が箴言に登場します。これは神さまの栄光とは直接の関係がないばかりか、その輝きをもって人を神から遠ざけるわけです。
これは、この世の権力が「輝く」、しかしその「輝き」がやがて取り去られるという意味の「輝く」に分類できるでしょう。
要するに、どんな輝きも実際のところは、神の栄光のうちに輝くことが許されている、ということです。ゆえに私たちは、もし自分が輝きの中にあるならば、そのことを誇ってはなりません。また、だれかわが世の春を謳歌しているような人がいたとしても、その人を見てうらやむ必要もありません。すべては主の許しのうちに行われていることであり、私たちはへりくだる必要があります。
実際、いくつかのみことばを見てみますと、神が人の輝きとなられる、という箇所もありますし、神が人に輝きを与えられる、という箇所もあります。つまり、人の輝きは、神さまと無関係に存在する者ではない、ということです。
ゆえに私たち人間にとって、自分が輝くことを神さまに求めることは、たいへん、みこころにかなっていることであり、何にもましてすべきことである、というわけです。なにも、演技みたいにしてわざとらしく明るくしなさい、ということではありません。神の民、クリスチャンは、すべからく明るくするべきです。ヤコブの手紙には「嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい」と、輝かないことを奨励するような表現が出てきますが、それはこの世の偽りの輝きで輝くのをやめなさい、つまり、その輝きを捨て去って、主の輝きでほんとうに輝きなさい、という意味です。私たちは主にあって輝くのです。
しかし、私たちが明るくするには、どうすればいいのでしょうか。そのためには、私たちが何者かということを、いつも心に留める必要があります。
ここまで「神に属する輝き」、そして「人に属する輝き」について見てまいりました。すると、「神が人となられたイエスさまの輝き」はどうなのだろう、と思いませんでしょうか? 実は、それがとても重要なのです。
まず、イエスさまと輝き、の関連でいえば、イザヤ書53章2節のみことばを外すことはできません。イエスさまは人として、苦難のしもべとしてこの地に来られるとき、「輝き」がないお方であられる、とすでに預言されていました。
しかし、それは輝きをあえて「消して」おられた歩みというべきです。イエスさまのご本質はどこまでも、「輝く」お方でした。それはパウロの書簡やヘブル人への手紙でも解き明かされているところですが、イエスさまの公生涯においても、変貌山において御顔や御衣が大いに輝くお姿で現れました。ヨハネの黙示録に登場するイエスさまのお姿も、「輝く」という表現が用いられています。本来イエスさまは輝きそのものでいらっしゃいます。
このお方を心に宿しているゆえに、私たちは輝くのです。人間的な方法で輝こう、明るくなろうとしても限界がありますし、またそれは、必ずしも神の栄光を顕していることとイコールではありません。私たちのすることは、心のうちにある光を升の下に隠すのではなく、燭台の上に掲げて輝かせることです。
イエスさまは、「あなたがたは世の光です」とおっしゃっています。「あなたがたは世の光に『なります』」ではありません。「世の光に『なるでしょう』」でもありません、「世の光『です』」なのです。なぜ私たちは「世の光『です』」と言っていただけるのでしょうか。それは、まことの光なるイエスさまを宿しているからです。それゆえ、私たちはすでに光だからです。
しかし、光は「輝いて」こそその価値があります。私たちがもし「輝いて」いないならば、せっかく「世の光」にしている意味がありません。私たちが世の光として輝くために必要なのは、まず、イエスさまとの交わりの中にとどまり、自分自身が「世の光」であるという自覚を確かに持つことです。イエスさまを見ることができていれば、私たちは必ず輝きます。
もし、それでも自分が光であるということがわからないでいるならば、私たちがどこを見ているかを考える必要があります。まことの光がイエスさまである以上、イエスさま以外のものを見ていたならば、私たちが輝くことができないのは当然のことです。
いまこそ、イエスさまとの交わりを取り戻すときです。私たちはみことばによってイエスさまに出会い、祈りのうちにイエスさまの御顔を仰ぐ必要があります。そのようにして、イエスさまとの交わりにとどまれば、私たちは必ず明るく輝きます。
私たちは、心落ち込んでいていいことは何一つありません。イエスさまを仰ぎ、光り輝きましょう。ほかの兄弟姉妹も暗さの中にいると知ったならば、ともに御顔を仰ぎ、光を得て、輝きましょう。
さあ、私たちは何を見ているために輝けないでいるのでしょうか? 自分の過去の忌まわしい記憶でしょうか? いま私たちを煩わせている人間関係でしょうか? お金の心配でしょうか? 老後のことでしょうか? もし、そのようなものばかり見えてしまっているならば、それはイエスさまが見えていない、ということです。いまこそ、すべてのすべてであられる主イエスさまを見ましょう。ではお祈りします。