みことばで武装して養われよう
聖書箇所;マタイの福音書4章1節~11節 メッセージ題目;みことばで武装して養われよう 聖書は古今東西読み継がれてきた書物なので、そのぶん、イエスさまのことばも一般に有名なものが多い。「右のほほを打たれたら左のほほも向けなさい」など、とても有名である。しかし、有名ではあっても、本来の意味とかけ離れて解釈されてしまっているものもある。「人はパンのみにて生きるにあらず」など、とくに有名だが、みんなこのみことばのほんとうに言いたいことがわかっているのだろうか?「人はパンのみにて生きるにあらず」なんて、もったいぶって文語で言うのもどうかと思うが、ともかく、そのことばのあとには、もっと精神的なものも人は必要としている、くらいにしか考えないで、「神の口から出るひとつひとつのことばで生きる」という、イエスさまがもっともおっしゃりたかったことがはしょられているのは、クリスチャンとしてとても残念に思えることである。 そこで今日の箇所。イエスさまが「人はパンのみにて生きるにあらず」と喝破されたのは、ご自身を誘惑しにかかった悪魔に対してであった。この箇所を、特に「人は……神の口から出るひとつひとつのことばで生きる」という、イエスさまのおっしゃったみことばから解き明かし、私たちにとって肉の糧のみならずみことばという糧がなぜ必要なのか、学んでまいりたい。 私たちにみことばという糧が必要な理由。第一に、私たちの生きる世界は、悪魔の試みに絶えずさらされる荒野のようであるからである。 1節以下、イエスさまは悪魔の試みを受けるように、御霊によって荒野に導かれた。イエスさまは公の生涯に入られ、神の国を大々的に宣べ伝える前に、悪魔の試みをお受けになる、というプロセスをお通りになった。 イエスさまがそこで体験された試みは、マタイの福音書、また、並行して同じことが書かれれているルカの福音書に記録されているものにかぎっても、3つ。しかし、どれもたいへんな試みではなかろうか? 空腹が襲いかかったイエスさまに、石がパンになるように命じなさい、という試み。みことばを示してまでして、神殿の頂から飛び降りてごらんなさい、という試み。サタンをひれ伏して拝むなら、世界のすべての栄華を与えよう、という試み。 イエスさまはこれらの誘惑をすべて退けられたわけだが、聖書が淡々とこのできごとを記述しているのを読むと、イエスさまが悪魔とのこの闘いをどれだけ熾烈に展開されたか、つい読み落としてしまわないだろうか? 私たちに置き換えればわかるだろう。私たちは一日でも断食することをためらってしまうだろう。おなかがすいたらからだがどうなってしまうかわからない、とか。また、自分を示して人から賞賛されたいという自分の思いに勝てるだろうか? そして、いろいろな富が与えられると思うならばそれを欲しがらずにいられようか? もっとも、最後の誘惑に関しては、別の解釈も成り立つ。世界の栄華の背後にあるあらゆる虐待、搾取、不正……こういう世界にならないようにと、古今東西さまざまな王や政治家が志を持って社会の改革に挑んだ。しかし、私たちが知っているとおり、ひとつとして成功したものはなかった。社会を掌握する者がいかに崇高な意志を持っていようとも、所詮罪人であり、どこかで悪魔に魂を売って腐敗に手を染め、結果として社会は依然として悪魔の支配下に置かれるのである。だからイエスさまは悪魔の誘惑に屈せず、主を礼拝し、主にのみ仕えることがすべての答えだ、と悪魔に突きつけられた。 私たち人間は、このような悪魔の試みがうようよする社会に生きている。しかし、驚くことに、これだけサタンが私たちをつけ狙って、神さまのみことばに従わず、罪を犯すように誘惑しているというのに、そのようなサタンの誘惑や攻撃に対して、私たちはあまりにも丸腰ではないだろうか? それゆえ私たちは、サタンの攻撃や誘惑につねに勝てるように、身を備える必要がある。 そのモデルはやはりイエスさまである、イエスさまは、これらすべての試みに打ち勝たれた。すべて、みことばをお示しになることによってである。これらのみことばがたちどころに出てきたのは、それだけ、イエスさまがみことばに通じておられた証拠。 今から80年ほどむかし、だからそれほど前ではない時代にも、まったく同じと言っていい実例がある。アン・イスクという女性で、クリスチャンとして神社参拝に反対した音楽教師の人だが、彼女は逮捕されて刑務所で過ごす間、当然聖書を手にして読める状況でなかった中、彼女を支えたのはこれまで暗唱してきた数々の聖書のみことばだった。詳しくは教会図書にある『たといそうでなくても』を読んでいただきたいが、みことばがいかにクリスチャンをして悪魔の攻撃と誘惑に大いに勝たしめるかがこの本を読むとよくわかる。アン先生はまさに、悪魔をみことばによって退けられたイエスさまの御姿に倣っておられたわけである。 私たちがみことばを毎日読む必要があるのは、私たちを取り巻くこの社会は敵だらけだからである。橋田寿賀子のドラマは「渡る世間に鬼はない」のことわざをもじって「渡る世間は鬼ばかり」だったが、その言い方のほうが聖書的に見て正しくこの世というものを捉えている。 私たちを取って食おうとする鬼、サタンと悪霊どもがうようよするこの世間を渡るには、それなりに武装している必要がある。 イエスさまが試みを受けられたのは、ヘブル人への手紙4章15節にあるとおり。私たちの弱さに同情できるだけの立場をお持ちになるためであった。試みを受けられたイエスさまは、試みにあって苦しむ私たちに寄り添ってくださる、私たちの味方。神であられるイエスさま、試みにあわれてもなお罪を犯すことがなかったきよいお方なるイエスさまが私たちの味方である以上、だれも私たちに敵対することはできない。サタンがどんなに強くても、私たちに敵対することはできない。 それでも執拗にサタンは襲ってくる。そんなとき、私たちは自分がキリストのものであることを忘れてはならない。だから私たちはみことばを毎日読んで、この社会に遣わされていくのである。一日の働きを始める前にみことばを読んで黙想すること。それで私たちは武装できる。エペソ6章13節から17節、神のすべての武具はまず5つの防具を身につけてから、それから最後に攻撃のためのみことば。しかし、5つの防具もよく読むとみなみことばであることに気づく。みことばで充分な武装をして、つまり、神に近づいて、それからサタンにみことばで斬りかかるのである。この順番を間違えると痛い目にあう。私はかつて、リバイバルを叫んで宣教活動に精を出していた若者たちがつまずき、信仰から離れていったケースをほんとうにたくさん見てきた。それを防ぐには、戦う前に「5倍」神さまと交わることではないだろうか。 サタンは強いから侮れない。しかし、私たちはサタンに勝てる。なぜならば、イエスさまが十字架の上で勝利を取ってくださったからである。そのイエスさまのみことば、神さまのみことばを日々いただくことで、私たちは武装し、サタンとの闘いに出ていける。まさに日々の営みはサタンとの闘いの連続。その闘いに、みことばをもって大いに勝利するように祈る。 私たちにみことばという糧が必要な理由。第二に、人の霊的な空腹は神さまがみことばを語ることによって満たしてくださるからである。 礼拝の冒頭でもお話しした、サタンとイエスさまの問答。3節と4節。40日40夜何も口にしないなど、想像を絶する話である。いま、韓国のプンダンという町に「プンダン・ウリ教会」という教会を開拓し、韓国教会で素晴らしく用いられているイ・チャンス先生という方は、お父さまも牧師だったが、そのお父さまは40日断食祈祷をするように導かれ、祈祷院で祈っていたところ、それが果たせないで召されてしまったという。私の友達にも豊村くんという、リバイバルを渇望する好青年がいたが、彼も断食祈祷院で祈っていて帰らぬ人となった。断食祈祷はとてもすばらしいもので、それにまつわるすばらしい証しもたくさん聞いているが、断食して祈り通せるのは特別な恵みであって、もし40日断食祈祷ができたからといっても、それを誇ることなどできないはずである。 なぜこのようなことを言うかというと、40日の断食のあとにイエスさまに襲いかかった空腹の苦しみは、並大抵のものではなかったと想像できるからである。目の前の荒野に転がる石ころがパンに見えてきてしまう、そんな幻覚に襲われるような空腹……情けない話だが、私は少しでも食べなかったらくらくらしてしまうので、イエスさまのこの空腹の苦しみは想像を絶する。 そこをサタンにつけこまれたとき、イエスさまは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」という、申命記のみことばをもって返された。イエスさまはその全能のみわざをもって石をパンに変え、それを召しあがる、ということを決してなさらなかったのである。この箇所をお読みすると、イエスさまはなんとこのみことばを口にされることによって、40日の断食の果ての壮絶な肉体の空腹にさえ打ち勝たれたようでさえある。ということは、ほんとうに人にとって問題となる空腹は、実は肉体の空腹、食べ物を口にしないゆえの空腹ではなく、霊の空腹、みことばをいただかないことによる空腹であった、ということになる。 人はパンのような肉の糧を食べて生きる。神さまがそのように人間をおつくりになった以上、人間は食べることでいのちを保つ。しかし食べていのちを保つだけでは、人間は凡百の動物と同じことになってしまう。神さまが動物と人間を別個の存在としておつくりになった、そのしるしは、人間には神さまのいのちの息が吹き込まれている、ということである。いのちの息、これは霊であるが、人間は霊を持つゆえに霊なる神さまと交われる。動物には霊はない。お祈りをしたり、みことばを読んだりする動物はいない。人間が動物とちがって神さまと交われるのは、霊が与えられているからである。 私たちの肉体は水や穀物や野菜、果物や肉のような、物質的な糧を口にしないと空腹で衰える。しかし、ほんとうに警戒しなければならないのは、「霊的な空腹」である。「人はパンのみにて生きるにあらず」ということばが多くの人に好まれたのは、肉の糧だけで人は生きられないことにみな気づいているからだろう。その点では正解だが、ほんとうの正解は、「神の口から出る一つ一つのことば」を得ることによって、はじめて人は霊の空腹を満たし、霊の衰えから免れる、ということである。 神さまは、ご自身の霊を吹き込んでくださったほど大事な存在である私たち人間を養いたいと願っておられる。私たちの霊を、ご自身がひとことひとことお語りになることによって満たし、養いたいと願っておられる。わたしはあなたを養いたいんだ! あなたが養われるために、わたしは神のことばをあなたに語りたいんだ! この神さまのみこころがお分かりだろうか? 私たちはこの社会で活動するために、当然のように食事をとる。食事も家族で食べたり、職場の同僚と食べたりもするだろう。それだけ食事の時間は大事だと認識しているわけである。では、みことばをお読みする時間は、そこまで大事にしているだろうか? ディボーションと聖書通読は、毎日養われて、霊が満たされ、育つ時間だから必須である。ところが私たちが神から遠ざかっていると、実は私たちが霊がとても空腹だったことにさえ気づかなくなってしまっていることになる。私たちはだから意識してでもみことばをお読みする必要がある。忙しい日々が続いても、毎日三度三度のご飯を抜いてまでして働くことはさすがにしないだろう。それと同じことで、私たちはどこかでみことばを補給しないと、ガタが来る。 ディボーションと聖書通読が個人的な「食事」なら、教会における礼拝、またみことばの学びは「会食」。コロナ下はそういうことも堂々とできなかっただけに日本の教会はずいぶん弱体化したが、とても感謝なことに、うちの教会はコロナ下でも礼拝を休むべきではないという複数の信徒の方のご意見があって、礼拝はしっかり守られて今日まで来た。私たちはやはり衰えたと思うだろうか? いまこそディボーションと聖書通読という原点に立ち帰り、毎日みことばによって武装し、養われてこの世で雄々しく戦ってまいりたい。そして、そのいただいたみことばの恵みを分かち合い、ともに強くなっていこう。 https://www.youtube.com/watch?v=srHZmlqKPR4