「輝く安息日」
聖書箇所;イザヤ書58章1節~14節 メッセージ題目;「輝く安息日」 今年の教会のテーマは『主を仰ぎ見て輝こう」であるが、私たちは果たして、この年間テーマほど輝くことができただろうか? 輝くためには何が必要だろうか? どのようにすればみこころにかなって輝けるかのヒントは聖書のあちこちから見出せるが、今日の箇所は特に、こうすれば輝ける、ということが述べられている。特に強調されていることは、見せかけの宗教的な断食ではなく、みこころにかなった断食をすること、そして、安息日をしっかり守ること。私たちはどうだろうか? 今日お話ししたいことは、このみことばに集約されているとおり、「主のみこころを実践しましょう」、「安息日を守りましょう」、これに尽きるが、それはどういう論理で語られていることなのか、せっかくの主日礼拝なので居眠りしないで聞いていただきたい。 1節。ヤコブの家とは神の民イスラエルのこと。イザヤの預言を聴くべき民は、大声で警告されなければならない状況にあった。 国と民族にとってもっとも警戒すべきことは、神のご命令に国と民族を挙げて背くことである。それは、大声をあげてでも阻止しなければならないこと。神の民は、神に背くこと以上に警戒しなければならないことはない。ヤコブ以来、民族全体がいのちの契約を結んでいる以上はそうなのである。 大声をあげて警告すべき状況に置かれている場合、その声に聴き従うか否かの選択は、国と民族に任されている。この警告を真剣に受け止め、真剣に悔い改める者は幸いである。神の民は神に聴き従っていないと、いとも簡単に全体が神のみこころから外れてしまう。そんなとき、みこころはこれだと指し示してくれる人がいることは、どんなにありがたいか。 韓国のキリスト教会の歴史において起こった最初のリバイバルは、1907年のことだった。この年、韓国は日本との間に保護条約を結ばせられ、国が日本に吸収合併させられるまさに瀬戸際にあった。そのとき主は、クリスチャンたちを立ち上がらせられた。全国的、全民族的な悔い改め運動、早天祈祷運動、聖書研究運動が展開され、多くの人が主に立ち帰った。国難ともいえる危機を前にして、主は民を目覚めさせてくださったのである。 もちろん、日本にもそういう、まるで預言者のような働き人がいなかったわけではない。しかし多くの者は耳を傾けたわけではなかった。それがいまに至るまで、日本のキリスト教会が、福祉面や文化面や教育面はさておき、少なくとも霊的面において、日本にさしたる影響を与えられていない現実につながってはいないだろうか? 聖書の本文に戻ろう。では、神の民は何を警告されているのか? それは信仰生活の態度だ。2節を見よう。立派だ。はたから見れば百点満点だ。しかし神さまの御目にはそうではない。3節のかぎかっこを見よう。このように、人は宗教行為によって神さまに充分に認めていただけたと、自分で思いたがる。特に、断食という宗教行為は、食べるべきものを口にしない分、苦しい。なんだか、霊的になった気分である。しかし、神さまはそういう自己満足に浸ることを霊的と見なしてはくださらない。イスラエルは言うだろう。「なんでですか! あなたさまのためにこんなに頑張っているんですよ! なぜ認めてくださらないんですか!」しかし神さまは、肉体の苦行という自己満足に浸ることは断食の意味をはき違えている、とお叱りになる。 彼ら神の民は、断食をしながら好き勝手なことをする。弱い人をこき使う。喧嘩をする。こんなことをしながら断食という宗教行為をしようとも、神さまはそれをお認めにならない。5節の民の姿は、いかにもしおらしく、また宗教的で、こうまでしているのだから神さまは認めてくださる、許してくださる、と思っているだろうが、神さまはお許しにならない。 神さまは、悟らない民に、正しい断食とは、ということを教えてくださる。6節。人を束縛し、こき使い、搾取することが当たり前の社会において、神さまは画期的なことをおっしゃった。人を自由にしなさい。解放しなさい。痛めつけるのをやめなさい。貧しい人に食べさせなさい、雨露しのげる場所を提供しなさい。着せてあげなさい、そして肉親を顧みなさい。 そのように、顧みるということを実践する者に、神さまはどんな祝福を与えられるか? 8節。今年のテーマは「主を仰ぎ見て輝く」だが、主を仰ぎ見て輝くのは宗教行為に手を染めさえすれば、ということではない。主が特別に目を留めておられる、貧しい人、虐げられている人を顧みることによって、はじめて輝くことができる、いやしと回復をいただくことができるのである。 9節、10節、ここで語られている祝福は、主と一対一の交わり、豊かな交わりを持てるということ。それは、主の願っておられることを具体的に実践することで体験できる喜びである。 11節を見てみよう。潤された園は人を憩わせるためにあり、枯れない水源は人を潤すためにある。人を祝福し、その必要を満たすことこそ、私たちにとっての祝福である。また、12節を見よう。荒れた社会をよくする、破れ口ができてしまった社会のほころびを繕うがごとく、この社会をよくするために仕える、その働きに用いられることも、私たちにとって祝福である。決して、自分さえ祝福されればそれで充分、というのは、ほんとうの祝福ではないのである。 少し前になるが、吉永小百合と大泉洋が主演した映画『こんにちは、母さん』を観た。進駐軍のかまぼこ兵舎を利用した礼拝堂をいまに遺す教会が東京の墨田区にあり、その礼拝堂が登場するというので観に行ったのだが、特にスポットが当てられていたのは、寺尾聡演じる牧師とその教会の活動である、隅田川沿いに暮らすホームレスへの給食伝道である。その活動にいそしむ牧師に、吉永小百合演じる主人公の老婦人は恋をするのだが、この映画は、一般の日本人はキリスト教会というものに対してこのようなイメージ、福祉のボランティア活動に力を入れる善良な人々、というイメージを持っていることを教えてくれる。 いや、物語の話だけではない。現実の教会も、最近では子ども食堂の活動をしている教会も多くなっているように、ちゃんとやるべきことをやっている。神さまから受けた祝福を、必要なところに「流す」ことをしているわけである。私たちはどうだろうか? まだまだ少ない群れだが、そのような群れでも何か主に喜ばれることができないか、具体的に話し合い、できることから実践しはじめてみてはいかがだろうか。 もっとも、私は、教会はすべけらくボランティア活動に精を出すべき、と申し上げたいわけではない。ボランティア活動そのものが教会活動の目的となっても困る。例の映画は、私が牧師の立場でつい見てしまうからそう思うことは百も承知だが、牧師に惚れたその老婦人の、イエスさまに対する信仰が伝わってこなかった。 まあ、この映画は、ノンクリスチャンの山田洋次監督の作品だから仕方がないのだが、それにしても、と思った。せっかく仲良くなれた牧師が北海道に赴任することになり、遠く離れることになったら、老婦人は、新しく来る牧師は外国人だからいやだ、もう礼拝なんか行くものか、とかなんとか駄々をこねて、お酒を飲んで寝てしまう。これは、神さまとの関係の中で歩んでいたのではなく、ボランティア活動に精を出させることで生きがいを与えてくれた人に惚れていたに過ぎなかった、ということである。それにしても牧師が転任したくらいでお酒をあおって、もう教会に行かないなんて言おうとは……。私は山田監督に、日本のクリスチャンはそんなやわじゃありませんよ! と抗議をしたくなったが、しばらく考えているうちに、案外こういう弱さは、日本の「真面目な」クリスチャンが抱えているものなのかもしれないと思い直した。 このように、奉仕のほうを神さまへの礼拝よりも優先させることで宗教的満足を得ようとするクリスチャンの傾向を、私は「マルタ・シンドローム」とお呼びしたい。これは、特に真面目な傾向の強い日本人クリスチャンの陥りやすい罠ではないかと考える。そうなっても私たちクリスチャンはほかの人々を助ける働きをすべきなのではないことは、当然である。 では、私たちが不満だらけの「マルタ」にならないためには、どうすればいいだろうか? 具体的にどうすることが、イエスさまにその姿勢を認められた「マリア」のようになることだろうか? 13節と14節。これがもっとも今日お話ししたかったことである。私たちがこの日に最も集中してとどまるべきところは、主の宮なる教会である。 ほかのところに出歩くのは、主の御名のおかれた宮に気持ちが集中していない、すなわち、主に意識が集中していないからである。自分の好むこととは何だろうか? 神さまのみこころと関係のないこと、より具体的には、教会の徳を立て、教会を形づくることとはまるで関係のないことばかりすることである。 また、「無駄口」とある。安息日は、自分の言いたい放題をしゃべる日ではない。ことばを慎むうちに主の語りかけに耳を傾けられるようになり、たましいが養われ、枯れない泉のようになる。そうしてこそ私たちは人を潤す備えができ、結果として祝福を受けられるようになる。地の高いところとは、天におられる主に近づく祝福の場ということであり、そのように俗世を離れ、主のみそばで養われるという、大いなる祝福をいただく。 人を養うことそのものも祝福だが、その祝福はまず、私たちが安息日を大切にするという形で、主のみことばに従順にお従いし、時間を主にささげる祝福を毎週体験しつづけることから始まる。私たちはこの日に光を受けることなくして、いかにしてこの世で輝くことができるだろうか? 世の光とされた者にふさわしく振る舞うことができるだろうか? 光を受けずして私たちは光として振る舞えない。私たちが世の光なのは、主の光を受けていることが大前提で、私たちにとっての安息日なる主の日は、復活のイエスさまの栄光を受けるすばらしい日なのである。 私はこれまで、みなさまに何らかの事情があったら仕方がない、とばかりに、主日礼拝を欠席することを黙認してきた。ご病気だったらさすがに仕方がないが、何かのイベントを優先させなければならない、という方の選択を認めることもしてきた。しかしそれは間違いだった。 病院に入院した患者は、どんなことがあっても栄養を取らなければならない。ちゃんと食べようと思えば食べられるのに、あれこれ理由をつけて病院食を食べなければ看護師さんに怒られてしまう。それは患者の身を案じてのことである。 私も同じように取り組むべきだった。あれこれ理由をつけて主日礼拝を休むことが癖になってしまうと、私たちは著しい栄養失調に陥り、それを取り返すには並の努力ではどうしようもない。ほんとうに私たちの生活を支えるのはこの世ではない。主の御前である。 …