「主のおしえに潤される幸い」
聖書箇所;詩篇1:1~6 メッセージ題目;「主のおしえに潤される幸い」 私は9年前に当教会に赴任して以来、一貫して聖書通読とディボーションを強調してきた。しかし、みなさまはディボーションについてどれほどご存じだろうか? しっかり実践しておられるだろうか? それ以前に、やり方を知っておられるだろうか? テキストを毎月購読しておられる方も、その日の箇所の解説や関連するエッセイはさすがにお読みになっていると思うが、ご自身ではどれくらい、ディボーションに取り組めているだろうか? 今日からしばらく、ディボーション・ライフの実際について分かち合ってまいりたい。 そこで今日の箇所、詩篇1篇から学びたい。詩篇1篇の特徴は、神のみこころにかなう「幸いな人」と、みこころにかなわない「悪しき者」を対比させているという点である。このところ箴言を通読していて、お気づきのことがあるだろう。「神のみこころにかなう人」と、「みこころにかなわない人」を徹底して対比しているという点である。今朝お読みになった箇所にも例えばこのようにある。32節、「訓戒を無視する者は自分自身をないがしろにする。叱責を聞き入れる者は良識を得る。」このように両者を対比させることで、私たちは「悪しき者」にならないで「幸いな人」になろうとするわけだが、それはこの詩篇1篇に顕著である。 さっそく1節から見てみよう。幸いなことよ、ということばから始まっている。これは、イエスさまの山上の垂訓、そのはじまりの部分の、「心の貧しい者は幸いです』に始まる8つの幸いをほうふつとさせる。あれはもともと、イエスさまが大きく口を開かれ、「ああ、幸いなるかな!」と語っておられるみことばである。この詩篇もそう。「幸いなことよ」! この詩を聴く人は、これこそ幸いなことか! と、心を掴まれることになる。 では、何が幸いなのか? それは1節から3節、この詩篇の前半で語られているが、その中でもまず1節では、幸いな人のことを「○○ではない人」という定義の仕方をしている。……3つのことが述べられている。「悪しき者のはかりごとに歩まない」、「罪人の道に立たない」、「嘲る者の座に着かない」。この中でも「悪しき者」、「罪人」が、主のみこころにかなわない悪い存在であることはおわかりだろう。残る一つの「嘲る者」も、聖書の中ではしばしば、罪人、悪人の代名詞として用いられていることばである。きよい神さま、そして神さまの側に立つ人を嘲るのは、罪人、悪人に決まっている。 悪しき者のはかりごとに歩まない、つまり、悪人が考える悪い考えに染まり、その悪い考えのとおりに悪い行動をしない、罪人の道に立たない、つまり、罪人らしく振る舞うようなことをしない、嘲る者の座に着かない、つまり、神さまや神さまにつく人を嘲る立場に立って、嘲ることば、そしることばを口にするようなことをしない……生き方の姿勢においても、ことばにおいても、行いにおいても、罪人として罪を犯すことのないことは幸いである、ということである。 私たちは堕落した世に生きている。普段交わすことば、テレビやインターネットから流れ込んでくる情景、子どもや大人の触れているマンガやゲームのようなメディア、あらゆる場面で教えられる価値観……それらのものはきたない表現を使うこともいとわず、聖書的なきよい価値観、きよい生き方を容赦なくあざ笑い、反対のことをするように私たちを誘惑する。しかし、私たち人間も罪人であり、私たちが罪を犯すのは、周りの環境が悪いからではなく、罪を犯したくてたまらない性質が私たちの中にあるからである。私たちはいつでも、悪しき者のはかりごとに歩み、罪人の道に立ち、嘲る者の座に着く人間になりかねない。 主はそのような人間、そのような私たちのことを憐れんでくださった。私たちがどのように生きればよいかを教えてくださった。それが2節に書かれている。……主のおしえ、これは聖書全体。第二テモテ3章16節は聖書全体とは何かを定義しているが、それはまず神の霊感によって書かれたものであり、次に、教えと戒め、矯正と義の訓練のために有益であると述べられている。そのおしえを「喜ぶ」、これが大事。 聖書は薄い紙で字が細かい、しかも分厚い本である。外見が似ている本があるとすれば、それは英和辞典や国語辞典のような「辞書」であろう。しかし、聖書を辞書のように用いてはいけない。聖書はちゃんと通読しながら読み進めるべきもの。何度もこの講壇で言っているとおり、聖書は神さまが私たちにくださった「ラブレター」である。私も妻に出会い、結婚するまでの1年8か月の間、ずいぶん手紙をもらったが、なにしろこちらは日本、あちらは韓国と、1000キロ以上も離れて暮らしていたので、ラブレターを宝物のようにしてためつすがめつして読んだものだった。みなさまにもそんな経験はないだろうか? それほどまでして読んだのは、読むことが「喜び」だったからにほかならない。 では、どうすることが主のおしえを喜んでいることのしるしとなるだろうか? それは、「昼も夜もその教えを口ずさむ」こと。昼は、起きて活動している時間だが、そのときにもみことばを心に留める。夜は、眠る前の安らぎの時間だが、その時間にもみことばを読んで一日の恵みに感謝し、次の日に備える。また、昼も夜も、ということばには、一日中どんな時も、という意味もある。 こうしておしえをつねに口ずさむほどに喜ぶならば、そのおしえは今の自分にとってどんな意味があるのか、考えるようになる。また、今の自分だったらそのおしえを受けて、どんなふうに考え、どんな態度を取り、どんなことばを語り、どんな行動に出ることが神さまのみこころにかないますかと、祈ってお伺いするようになる。ディボーションとは、このことの繰り返しである。聖書解説や関連エッセイを読むのももちろんいいけれども、このように「おしえ」を受けることを欠いては、せっかくのディボーションの恵みがもったいないことになる。 さて、主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ人は、どのように「幸い」なのだろうか? 3節。この詩が口ずさまれた地域、イスラエルは雨季と乾季がはっきりしていて、つねに潤っている日本からは想像がつきにくいが、水に潤されることは大いなる祝福である。しかし、潤されて栄える祝福を享受するのは、その栄えを独占し、自分だけが祝福を受けるためでは断じてない。流れのほとりに植えられた木は、見るからに爽やかな緑の葉を茂らせ、流れのほとりにからだを休ませに来た人々に木陰を提供して憩わせる。イスラエルは乾季になると木々は葉をつけない荒涼たる景色となるが、この木は枯れずに青々とした葉をつけつづける。人々をよい気持ちにする麗しさが途切れることなく続く。 そして、実を結ぶ。ただし、時が来ると、とある。木に水をやったらすぐに実を結ぶわけではないのと同じように、つねにみことばのおしえに潤されつづけることによって、神さまの時にしたがって実を結ぶようになる。同じように、ディボーションは一日やって恵まれたから、と、間を空けてさぼったりしていてはいけない。それでは潤されていないことになる。ディボーションは毎日続けることで、ようやく時が来て実を結ぶもの。だから、すぐに実が結ばれないからと、あきらめたりしてはいけない。時が来れば必ず実を結ぶと信じて、あきらめずに主の教えを受けつづけよう。 さて、実というものは、たわわに実らせて自慢するためにあるのではない。その実を食べさせ、人々を心地よくし、また、栄養を供給するために、木が実を結ぶように、私たちが実を結ぶのは、自分のためではない。ほかの兄弟姉妹に祝福をもたらす働きに、用いていただくためである。私たちクリスチャンの結ぶ実といえば、ガラテヤ人への手紙5章22節と23節にはっきり書かれているが、これらのことは、そういう実を結んでいるあなたは立派ですね、とほめられてうぬぼれるために身につけるものではない。その性質を身に着けて、人を愛し、人に仕えることで、神の栄光を顕すためである。キリストのからだなる教会のため、また、周りのまだイエスさまを知らない人たちのため、そういう人たちに隣人愛を実践するために、これらの実を結ぶのである。 聖書を単なる素養のためとか、知識を増し加えていい気分になるために読むようでは、実を結ぶことも、いわんやその結んだ実で人々を愛する実践をして神の栄光を顕すこともおぼつかない。だからといって、むりやり何かの行動をする前提でみことばを読み、そのみことばとその日に取るべき行動をこじつけるようなディボーションをしてもいいということではない。みことばに教えられ、そこから行動の慣れるまではある程度の練習が必要だが、御霊の導きがあるかぎり、必ずできるようになるから、あきらめないで毎日取り組んでいただきたい。 さて、4節から6節はおもに、この「幸いな人」と対照的な、「悪しき者」の特徴を述べている。もちろん、あなたがた神の人はこういう者になってはいけませんよ、ということを教えているわけである。まず4節、悪しき者はそうではない。つまり、流れのほとりに植えられた木のように、繁らせる青葉によって人を憩わせる祝福、結ぶ実によって人を養う祝福などない、ということ。あたかもその姿は、風に吹き飛ばされる籾殻のようだというのである。 このあいだ韓国に行ったとき、コンベンションの会場となった平澤大光教会の教会員の経営するお蕎麦屋さんに行く機会があった。平澤大光教会の裵先生のお気に入りのお店である。このお店はおいしく、からだによいものだけを使ってつくるので評判がよい。最大の特徴であるそば粉も自家製で、韓国に2台しかないという特殊な碾き臼もお店の一角にあり、店長さんは粉づくりを実演してくれた。そばの実を機械に入れ、ゆっくり臼で碾くうちに良質のそば粉が出てくる。臼で碾く前段階で、そば殻を取り除くのだが、取り除かれたそば殻がたっぷり入った入れ物のところに書いてある説明書きに目が行った。「そば殻は食べられません。」 そういえばそうだ。そば殻は枕に入れて使うのが関の山で、食べるものではない。籾殻は穀物の一部のようでいて、実際は人に栄養を供給することができないから取り除かれて、捨てられるしかない部分。色といい形といい大きさといい、中身の粉よりも立派に見えるが、所詮外見だけ。だれのことも養えない。しかも、吹けば飛ぶように軽いし、むなしい、中身がない。神のみことばの教えに潤されていないと、そのように中身がなく、何かあったら吹き飛ばされてしまう、いわんやだれのことも養えない悪い人間になってしまいますよ、ということが警告されているわけである。 そのようにむなしい存在はどうなってしまうというのだろうか? 5節。悪しき者はさばきの前に立てない。ひとつとして義が認められず、神のさばきに服するしかない。それなら、正しくあるようにしなければならないのだが、正しい者の集いに足を向けようともしない。彼らは神のさばきを嘲笑い、神が正しいとしてくださった者たち、すなわち、神が救ってくださった者たちの群れである教会に足を向けることをしない。馬鹿らしいと思うわけだが、実際はその集いの中で自分の罪が明らかになり、さばかれることを恐れているだけである。 6節。正しい者の道を主が知っておられるということは、主のみこころにかなう正しい人がどんなにふさわしい道を歩んでいるかを、主がご存じで、認めてくださっている、ということである。そして、私たちが心に留めるべきは、主はこの正しい者の行くべき道を、私たちにみことばのおしえをもって示してくださっている、ということである。 これに対して、悪しき者の道は滅び去る。あってある方なる主のみこころにかなわない者が行く道は、滅んで当然である。しかし、私たちはこの世界で悪の勢力が栄えるリアルな現実を前にして、果たしてこのみことばはほんとうだろうか、と、疑わしくなったり、むなしくなったりしないだろうか? だからこそ私たちはみことばの教えにつねに潤され、みことばこそが現実であり、目に見えている世界はやがて過ぎ去る虚構であることをつねに心に留めながら生きる必要がある。それが神の民に必要なことである。 詩篇1篇のみことばは、私たちがどんなにみことばの教えに潤される必要があるか、潤されて、人々を憩わせ、人々を養うことに用いられる祝福をいただく必要があるかを教えている。私たちはどうだろうか? 日々みことばに潤されよう。その日々いただくみことばの恵みによって、互いを潤し合おう。LINEの分かち合いコミュニティをぜひ活用していただきたい。 https://www.youtube.com/watch?v=srHZmlqKPR4