「弟子訓練の3つの理由」

聖書箇所;マルコの福音書3:13~15 メッセージ題目;「弟子訓練の3つの理由」    きょうは今年最後の礼拝。しかし、明日になると、新年最初の礼拝が控えている。2日続けて礼拝の祝福! 今日は、明日から始まる2024年につづく一年間の歩みへと導く話をしたい。  私は弟子訓練に献身した牧師である。なぜ私は、これほどまでに弟子訓練というものを強調しているのだろうか? それは、はじめて出会ったクリスチャンがどういう人だったか、その原体験に由来している。中学2年、1987年のとき、母が英語の勉強をしに通いはじめた、浦和の洋館、煙突のついたおしゃれな家には、世界各国から集まった宣教師の若者たちが共同生活をしていた。私はそこに住む外国人の若者たちとの交わりを通して、クリスチャンというのは、こうして海外にやってくるほど熱心な人たちだ、という第一印象を持った。  彼ら、ユース・ウィズ・ア・ミッションは弟子訓練を強調していて、のちに私は彼らと関係の深いアーサー・ホーランド宣教師の影響を受けて、アーサーの所属するキャンパス・クルセードに所属することになったが、キャンパス・クルセードはユース・ウィズ・ア・ミッション同様、伝道とともに弟子訓練を活動の柱にしていた。私は、とにかくみことばに従順であるように弟子訓練を受けているキャンパス・クルセードの若者たちに、たまらない魅力を覚えた。自分の彼らのようになりたいと思った。  しかし、しばらく彼らのことを観察していると、彼らの多くは、日曜日ごとに出席する教会生活に満足できないで、キャンパス・クルセードのような超教派のムーブメントに居場所を求めている人たちだった。私もやはり教会生活に満足できないでいた。私もそんな若者の一人として、キャンパス・クルセードで受けているような弟子訓練を教会で実践できるならばどんなに素晴らしいだろう、と思い、実際、韓国の神学校に入り、東都教会、サラン教会という素晴らしいモデル教会に出会い、その思いがますます強くなった。  私は長らく、弟子訓練を「受ける」立場であり、「導く」立場ではなかった。弟子訓練を導く経験は多くないが、しかし、弟子訓練を受ける立場から、どのような弟子訓練がよくて、どのようならよくないか、ということは、人一倍語れると自負している。  ここ数年意識していることは、うちの教会がなぜ、韓国の神学校で学び、また、韓国の教会から弟子訓練の牧会を学んできた私のことを牧師として招聘してくださったか、ということである。私は純粋に日本人の会衆を対象に牧会する経験がなかったこともあり、最初は様子見だったことを正直に告白する。しかし、私がこの教会で牧師としての責任を果たすことは、主が私に与えられた弟子訓練の召命に忠実に生きることだと、今なら確信をもって告白できる。  思えば、イエスさまの弟子たちも、ペテロやヨハネを見ても、素晴らしい働き人ではあるが、大前提としてイエスさまの弟子訓練を受けた人である。自分が弟子訓練を受けているから、イエスさまが訓練してくださるように、人をふさわしく訓練することができるわけである。私たちはだれもが訓練を施すリーダーにはならないかもしれない。しかし、イエスさまを主と告白する導きをいただいている以上、訓練を受ける人たちなのは間違いがなかろう。  今日の箇所は、弟子として訓練を受ける道に入るべく召された人々は、どのような理由で召されたのか、そのことを如実に語っている。この箇所から学ぶならば、私たちは主の弟子としてよりふさわしい歩みに踏み出すことができるであろう。  13節を見よう。イエスさまのもとにやってきた者たちは、「ご自分が望む者たちを呼び寄せられると」とあるとおり、自分からイエスさまのもとに来たのではなく、イエスさまが呼び寄せてくださった存在である。ヨハネ15章16節をご覧いただきたい。私たちもまた、こうしてイエスさまの御前にいるのは、イエスさまが呼び寄せてくださったからである。  私たちは自分が選んで、あるいは好き嫌いでここにいるわけではない。イエスさまが呼び寄せてくださった、それが私たちであり、すなわち私たちは主の弟子である。弟子である以上、師匠であるイエスさまの訓練を受けるように導かれている。牧師である私も、みなさまと一緒にイエスさまの訓練を受ける立場である。  そんな私たちは、行って、イエスさまが結ばせてくださる実を残す使命が与えられている。信仰の先輩たちは、この地によい行いを通してよい実を結び、またその実を残してきた。歴史を見てみよう。人権が保障されるようになり、女性や子どもや障碍者の地位が向上したこと、奴隷が解放されたこと、戦争が抑止されるようになったこと、多くの貧しい人たち、困窮している人たちが顧みられる社会になったこと、その背後にはどれだけ多くのキリスト者たちの努力があったことだろうか。こんにちも私たちは、クリスチャンとして生きるということは、自分の救いの達成に努めるのはもちろんのこと、この世界をみこころにかなうきよい地、よい地にする使命が与えられているということである。私たちの弟子としての歩みは、隣人を自分のように愛する数々の行いの実を結び、確実にこの世界をよい世界にすることにつながる。  みことばに戻ろう。呼び寄せられると、彼らはみもとに来た、とある。イエスさまの弟子とは、イエスさまに呼び寄せられたらそれに素直に従い、みもとに来る人である。呼ぶ声に素直に従う、小学校の優等生のような。人が成長して大人になるとこの素直さが損なわれてしまいがちだが、私たちは少なくとも、子どものように、イエスさまの御声に従順な者でありたい。イエスさまに素直に従う者には素晴らしい祝福がある。  その祝福とは、神さまの栄光のために用いていただく、ということ。それは具体的にどういうことだろうか? 14節、15節は、3つのことを述べている。それぞれ見ていこう。  第一に、「彼らをご自分のそばに置くため」とある。よく読んでいただきたい。「ご自分のそばに置く」という弟子訓練の目的を果たすのは、イエスさまのほうである。私たちがそばに行く前に、イエスさまがそばに置いてくださるのである。弟子訓練とは何だろうか? イエスさまに、みそば近くに置いていただく訓練である。  こういうことを訓練と言ってもいい。それは、幼稚園のような教育の現場を見ればわかる。先々週の土曜日、うちの教会のクリスマス礼拝の前日、ミシェルさんのコンサートが水戸市にある「あさひ幼稚園」を会場に開催された。その場にじっとさせるために、園長の高橋泉先生はかなり努力していらっしゃったが、静かに座ることだけでも、子どもたちには立派な「訓練」である。私たちもそのように、イエスさまのみそばに導かれているならば、そのみそばを離れないようにする「訓練」を受けることになる。  私たちがもし、この世の影響を受けすぎてしまっているならば、イエスさまのそばにいながらも、心はイエスさまとともにいないことを選びがちになってしまう。たとえば、今。私たちはちゃんと、みことばに集中しているだろうか? 余計なことを考えていないだろうか?「この礼拝、早く終わってほしい」とか「早くスマホが見たい」などと考えているならば、そんな私たちには、自分は今、イエスさまのそばに置いていただき、じっとみことばに耳を傾ける訓練の中にあることを、どうか思い出していただきたい。サタンは、私たちクリスチャンが、イエスさまのそばに置いていただく訓練の中にあることを、とにかく忘れようとさせる。  前にも申し上げた。この世がサタンと対決する「攻撃」の実践であるならば、そのために武装するには、単純に見積もってこの世に踏み出す分の「5倍」の主との交わりが必要である。みことばの剣に対し、真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の備えの履物、信仰の盾、救いのかぶと……。攻撃の武器に対する5倍の防御が必要なわけである。    充分な武装をしないならば、生兵法は大怪我の基。私たちはこの世と調子を合わせることになってしまうか、この世を支配するサタンに敗北することになってしまう。サタンは私たちが神の子、キリストの弟子であるゆえに、いろいろな形で執拗に攻撃を加えてくる。サタンの執拗な攻撃に勝利するには、それだけ私たちが霊的に武装している必要がある。  忘れないでいただきたい。私たちがイエスさまのみそばに置かれることは、イエスさまのみこころである。私たちは時に、考えでも態度でもことばでも、もしかしたら行いでも罪を犯す。しかし、そうなったとき、私たちはイエスさまの御前から逃げようと思ってはいけない。  こんな罪深い者だからこそ、救いが必要だと考え、即、イエスさまの御前に行って悔い改め、イエスさまとの関係を回復していただくことである。イエスさまはそんな私たち、砕かれた悔いたいけにえのことを、決してさげすまれない。私たちはみそばに置いていただけるのである。  さて、そうしてみそばに置いていただいたら、人はどうなるだろうか? ヨハネの福音書15章、1節から11節。みそばに置かれるならば、実を結ぶ。私たちの欲しいものが、みこころにかなうものへと整えられていく。それは、イエスさまのみこころを守り行いたいという飢え渇きである。  結ぶ実はいろいろあろう。しかしそれはみな、マルコの福音書3章14節に照らせば、イエスさまによって遣わされて宣教をすること、すなわち、イエスさまの救いを人々に宣べ伝えることにつながる。私たちがよい人格を備え、よい態度をして、よいことばを語り、よい行いをするのは、人と無関係に自分さえよければの思いでそうなるものではない。  私たちはあらゆる点でキリストに似た者となることで、私たちを救ってくださったキリストの栄光を人々の前で輝かせる。火のともったろうそくは升の下に入れない。そんなことをしたら照らされないし、ともし火は消えてしまう。ろうそくの火は燭台の上に掲げるものである。そうすれば、この暗闇の世の中は主の光に照らされ、明るくなり、素晴らしくなる。そう、主の栄光を私たちが顕すことは、宣教という理解の中で語られるべきである。  しかし、宣教というものは、イエスさまというまことのぶどうの木にとどまることがなければ、到底できないものである。私の友達に、ぶどう農園をしている人がいるが、彼に聞くと、断ち落としたぶどうの枝は、ほんとうに何の役にも立たないらしい。寒い日に集めて火をつけても、暖を取れるたき火さえできないほど、燃えないとのこと。何の役にも立たない。同じように私たちも、イエスさまを離れたら霊に燃えることもできないし、宣教など夢のまた夢である。  だから私は、宣教しなさい、とか、伝道しなさい、とか言う前に、主のみそばにとどまることをまずお奨めしたい。主のみそばにとどまるなら、主のすばらしさを大いに味わい、人々に主が伝わるだけの人格の変化、ことばの変化、行動の変化が実現していき、結果として主のみことばが宣べ伝えられていくことになる。だから、ことばで福音提示する伝道の方法を身につけることは大いに奨励したいものの、それさえできていればいいとは決して申し上げたくない。イエスさまにとどまることが先である。イエスさまにとどまりつづけるなら、どのように筋道立てて伝道すべきかも学びたくなるだろうし、その動機づけがあってこそ、私たちの救いについて説明を求める人に語ることばはふさわしく備えられる。  来年はヤコブの手紙を学ぶ時間を持つ。それは、救いの裏づけのあるよい行いは、主のご栄光を顕すわざ、宣教につながるからである。来年私たちは、「宣教する弟子」であることをともに追求してまいりたい。そのために私たちはみな、すべからく主の弟子としてふさわしく振る舞いつづけるべきである。そうすれば私たちは、生活の中で結ばれるあらゆる実が、ことごとく宣教に結びつく。  さて、このマルコの福音書のみことばによれば、宣教とは何であると定義されているだろうか? そう、「悪霊を追い出す権威を行使すること」である。これは、悪霊に取りつかれて霊的にも精神的にもおかしくなっている人をまともにすることと限定してはならない。これは、主の弟子とされている人ならば、だれにでもできることであり、また、だれもがすべきことである。  どういうことかというと、この世界はサタンの支配下にある。それは、サタンがイエスさまを誘惑したとき、この世界のあらゆる栄えを見せて、そのすべてが自分に任されている、これが欲しければ私を拝め、と言ったことからも明らかである。この世界を見ていただきたい。ひどいいじめを苦に自殺する子どもたち、大人たちから虐げられ、放っておかれた子どもたち、その子どもたちを取り巻く、薬物中毒のような非行に走らせる大人たち、夜の街に繰り広げられる淫乱と搾取、高齢者を食い物にする特殊詐欺、走る電車に飛び込む人々……もっと大きな規模になれば、不正に手を染める政治家たち、国と人を破壊するテロ、戦争……こういったことが横行するこの世は、悪魔が支配しているとしか言いようがないのではないか。  その霊的環境を神のものへと変えるには、サタンを滅ぼされたイエスさまの十字架と復活をわがこととして生きる、主の弟子として、私たちひとりひとりが振る舞うしかない。そして私たちは、この世の君に捕らえられている人々を、私のことを自由にした福音によって自由にするのである。そうすることで確実に、この世界から悪霊は追い出される。  しかし、そのためには、ヤコブの手紙4章7節をお読みいただきたい。まず、神に近づく。それから、悪魔に対抗するのである。私たちの証しの生き方は、いわばこの世の君である悪魔に対し、みことばの剣をもって戦いを挑むことと言えるが、その大前提として、神の近づくのが先である。私たちはいつもサタンの攻撃にさらされているので、つい私たちはサタンとの対決を優先的に考えてしまうが、順番を間違えてはならない。まず、神に近づくのである。それから、悪魔に対抗するのである。それもなしにサタンと対決したら、スケワの子どもたちのようになってしまう(使19:11~16)。  今年という年を振り返っていただきたい。私たちは世の光として輝けるほど、光なるイエスさまとの交わりを大切にできただろうか? 今年充分でなかったとしても、来年こそは主との交わりを大切にしたい。2024年は祝福されている。今日このメッセージを聴いたら、明日からその生活を始めるにふさわしく、礼拝ができる。  お祈りしよう。今年、あなたさまに近づけて感謝します、という方も、充分にお近づきできないで悔い改めます、という方も。イエスさまは私たちすべてを、喜んでみそば近くに置いてくださる。そこから始まるすべての訓練を喜ぼう。

馬小屋に生まれた主イエス

聖書箇所;ルカの福音書2章1節~7節 メッセージ題目;馬小屋に生まれた主イエス    今日はクリスマス、言うまでもなく、イエス・キリストの誕生をお祝いする日。なぜ、世界はキリストの誕生をお祝いするのだろう? それは、神の御子イエス・キリストが、私たちの受けるべき罪の罰を身代わりに十字架でその死をもって受けてくださり、しかし、三日目によみがえってくださったと信じる人は、だれでも救われるからである。救われるとは、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っていることであると、聖書のみことばは語る。    そのような素晴らしい救い主、イエス・キリストのお誕生であるならば、多くの人、偉い人に祝われたのだろうか? さにあらず。そのお誕生はきわめてひそかな場所でのできごとであり、しかもそれは、お世辞にも清潔とは言えない馬小屋のできごとだった。    天地万物を創造した神の子なら、きらびやかな王宮に、みなにかしずかれて生まれるものというイメージがあろう。しかし神は、御子イエスの生まれる場所を、よりにもよって、悪臭ふんぷんたる馬小屋とされた。赤ちゃんの主イエスが寝かされたのも、馬のよだれと食べかすの残る飼葉桶。    それは、神は貧しい者、自分はきたないと悩み苦しむ者の味方でいてくださるというメッセージにほかならない。そんな主を迎えるクリスマスを、私たちはどう祝うのだろうか? 世の人たちは、これ幸いとケーキやチキンを食べ、スパークリングワインを飲んで騒ぐ。デートをする。それが一概によくないと言うつもりはないが、せめて私たち、こうして教会に集う者は、なぜクリスマスがめでたいのか、そのめでたいクリスマスは私とどんな関係があるだろうか、ちょっと考えてみていただきたい。    私たちは、自分は正しい、きよい、などと考えるだろうか? しかし、主イエスは、ご自身を医者になぞらえ、医者を必要とするのは健康な人ではなく病人である、わたしは正しい人ではなく、罪人を招くために来たとおっしゃった。ああ、自分なんてだめだ、自分には何の価値もない、もし、私たちがそのように悩むならば、イエスさまはそんな私たちのことを招いておられる。自分は正しいと思うだろうか、それとも、自分は罪に病んでいると思うだろうか?    そもそも、クリスマスのできごとからしてそうではないか。人は便利な生き方を追求して、馬に乗って移動するなら、当然、馬を繋ぎ止める馬小屋が必要であり、その馬小屋は暗くて汚い。そのように、人は生きるかぎり、どこかで自分のきたなさをあらわにして生きてしまう。それは、私たちは暗く、汚い存在であるということである。私たちの心の中に満ちるもの、それはとても他人に見せられないだろう。それはとても汚くて恥ずかしい。    私たちがその汚さ、暗さを自覚するならば、汚くて暗い馬小屋に生まれてくださったイエスさまは、そのように、汚い、暗いと悩む私たちの心に住まってくださることを、どうか思い出していただきたい。  聖書は語る。私たちの心には人を迎え入れるための扉があり、イエスさまは私たちの心のその扉をノックしておられる。むりやりこじ開けて入ることはなさらない。私たちの側で開けるまではお入りにならない。    しかし、私たちがイエスさまの「開けてください!」という声を聞いて心の扉を開けるなら、イエスさまは私たちの心の中に入って、私たちとともに食事をしてくださる、と聖書は語る。もちろん、その食事は、コロナ下でなかば強制された「黙食」ではない。同じ食卓を囲んで語らう、実に楽しく、また意義深い食事である。    この食事は、現代に生きる私たちにもできる。毎日、聖書を開いて読み、お祈りすることで、ちょうでイエスさまと一緒に食事をするような語らいを楽しみ、味わうことができる。    それが必要なのは、自分がパンのような目に見える食事だけで養われる者ではなく、神の口から出るひとつひとつのことばである聖書のみことばなしには生きていけないほど、自分が罪深く、弱く、飢え渇いていることを自覚しているため。もし、私たちにその自覚があり、そんな自分の心にイエスさまをお迎えしたいと願うなら、どうか今からともに祈っていただきたい。イエスさまとともに歩む祝福の歩みを、ともに歩んでいただきたい。

二人の胎児

聖書箇所;ルカの福音書1:39~45 メッセージ題目;「二人の胎児」    妻が上の娘を妊娠したとき、産婦人科で体内の様子を超音波で撮影していただいた。すると驚いたことに、まだ妊娠がわかったばかりだというのに、もう赤ちゃんの姿がはっきり見えていた! やはり、お母さんのおなかの中にいるときから立派に人だ。それ以来、子どものためにとにかく祈ったし、のちに、まだ予定日まで3か月あるのに切迫早産となってしまったとき、この子が何としても無事にこの世に生まれてくるように、と、ありったけの力で祈ったものだった。  クリスマスとは、イエスさまがお生まれになったことをお祝いする日だが、ということは、救い主イエスさまが「赤ちゃん」であることに特にスポットが当たる。羊飼いや、東方の博士たちがイエスさまにまみえたことがクリスマスのできごととして語られるが、そのイエスさまはというと、「赤ちゃん」であった。人の中でもこの上なく無力な存在。しかし、わかる人にはこの赤ちゃんが救い主、神の子だとわかっていた。ゆえに、この赤ちゃんの前に惜しみなくひれ伏した。  さて、赤ちゃんだったということは、その前に、お母さんのおなかの中にいた、ということになる。神の子だからと、いきなり天から降りてきた、などということはない。お母さんが身ごもり、産みの苦しみをして生み出した、そのようにして生まれたのが、赤ちゃんのイエスさまだったのである。  今日は、イエスさまが身ごもったことを知ったマリアが、ただちにどのような行動をとり、その結果どうなったかをお話しして、それが私たちとどのような関係があるのかを考えてみたい。  39節、40節のみことば。マリアは、ザカリアの家に行ってエリサベツを訪ねた。なぜエリサベツのもとに行ったのだろうか? まず、エリサベツはマリアにとって親類であったから。しかしそれ以上に、エリサベツが高齢になって身ごもっていることを、御使いガブリエルが特別に知らせてくれたから。このことを特別にマリアに御使いが明かしたということは、エリサベツとその身ごもっている子どもとも、マリアの身ごもっている「イエス」と深い関係があることを教えられた、ということであり、まずこのことは、エリサベツにこそ報告すべきだとなったわけだった。  36節のみことばにあるように、エリサベツが不妊であったのが妊娠している、それも男の子を宿している、ということを、御使いがマリアに告げたのはなぜだろうか? それは、その男の子、バプテスマのヨハネもまた、奇蹟によって主が授けられたいのちである、ということを教えるためだった。そのとおり、ヨハネはその生きた目的が、のちに来られる方であるイエスさまを指し示す働きそのものとなった。  さて、マリアがいと小さきイエスさまを宿した状態でエリサベツのもとに来たとき、エリサベツの胎内には当然、ヨハネがいたわけである。そのとき、何が起こっただろうか? 41節。……そう、まだ生まれていないヨハネは躍ったのである。まだ生まれていなくても、人には感情も備わっているし、なによりも、主にまみえて喜ぶ霊性が備わっていることが、このみことばからもはっきりしている。うちの教会は毎年「小さないのちを守る会」に献金を送り、ニュースレターを掲示してこの会のためにお祈りしているが、それは、どんなプロセスで身ごもられた胎児であれ、胎児となった以上、生まれていなくてもすでに神のかたちである、したがってそのいのちは大事にしなければならないということを、私たちはみことばから示されているからである。  ただし、胎児という存在は、その胎児を身ごもる母親あっての存在であることが、つづく43節、44節のエリサベツのことばにほのめかされている。まず、エリサベツはマリアを迎えることで、マリアの姿を見ている。この喜びの知らせ、奇蹟のおとずれを告げ知らせたいという表情に満ちたマリアの姿である。そして、そんなマリアを迎えたということは、マリアをハグするなど、ボディタッチをしてもいるわけである。そのようにしてエリサベツはマリアの存在を、目で、そしてからだで感じた。その上、エリサベツはマリアのあいさつする声を聞いた。  こうしてエリサベツは、自分にとっての主であられるお方キリストの「母」が来たことを、全身で喜んだ。その喜びは、マリアのあいさつの声を聞いたときに最高潮に達する。胎の実であるヨハネが喜び躍り、ああ、マリアこそ主の母として選ばれた人だったのか! と、感動に満ち満ちたが、それは逆に言えば、母エリサベツが霊的にも感情的にも感動に満ち満ちたその喜びが胎内のヨハネに伝わり、ヨハネが感極まって躍り上がった、とも言えるのかもしれない。  続く45節も合わせてお読みする。これはだれのことかというと、マリアのことであり、エリサベツのことである。そんな、ありえないようなことが起こるなんて、しかし、神さまがそう導かれた以上は、必ず起こる、そういう人こそ幸いであるとエリサベツ自身告白するとおり、マリアも、そしてエリサベツも、イエスさま、そしてバプテスマのヨハネをこの世に送り出す主の器として選ばれるにふさわしく幸いであった。  エリサベツは「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は幸いです」と告白した。その前提として必要なことは、「主によって語られたことは実現した」と信じる信仰である。エリサベツとマリアが「主によって必ず実現すると信じた」とおりにイエスさまはお生まれになった。それも、いと高き神の子として、永遠に神の国を治める王として。イエスさまがこのようなお方、神の御子キリストとしてお生まれになったことを受け入れることが、その「幸い」の第一歩である。そして、そのことを信じ受け入れるならば、イエスさまの十字架も復活も昇天も、そして、やがてこの世界に来られてさばきをなされ、救われた者に永遠の御国を与えられることも受け入れる必要がある。なぜなら、それらすべてが神のみことばである聖書に啓示されているからである。  そのように、聖書のみことばが事実であり、実現したことの記録である以上、胎内にイエスさまを宿したマリアに会って、胎内で踊ったヨハネのことを考えていただきたい。この2人の胎児、主はどれほど目を注いでいらっしゃっただろうか。詩篇139篇13節から16節を見ていただきたい。人は胎児の人権など取るに足りないかのように振る舞うが、主はそうではない。すでに主の器として召され、それにふさわしく成長させられているのである。  妻が昨年から取り組んできた「エステル祈祷運動」は、その働きの一環として、堕胎の合法化に反対する運動も展開している。その運動を垣間見て思ったことだが、声を上げられない弱いたましいのために力になることがどれほど大事なことか、ということである。マリアの夫になったヨセフは寛容かつ従順な人だったからイエスさまのいのちは守られたが、婚約中でもまだ一緒にならないうちに妊娠となったら、石打ちの目に遭うのが当時の社会だった。子どももろともいのちを失ってしまう。しかも、その子どもにはいっさいの主張が許されない。どれだけ理不尽だろうか?  イエスさまは、そのような危険と隣り合わせの「胎児」となられたのであった。イエスさまが人になられたということは、私たちと同じようになられたということだが、より正確に言えば、「弱い人と同じようになられた」ということであって、「強い人と同じようになられた」ということではない。  マタイの福音書25章31節から40節のみことばを見てみよう。この箇所は、弱い立場にある人とはイエスさまのお姿そのものだと考えるべきであると、私たちにチャレンジを突きつけている。そうやって周囲を見渡してみると、私たちのそばにはどれほど弱い立場の人が多いことだろうか? 私はこの教会に赴任して、はじめて児童養護施設や少年院といった場所に行き、社会のひずみを一身に受けてしまった子どもたちの姿を見せられてきた。そのような子どもたちのために働くことも教会の大事な働きであることを知ったのだが、それでもまだ、行き届いていない領域が多すぎて、もどかしいところである。せめて精一杯、目の前にいる、イエスさまの似姿とも言える人たちのために奉仕して、やがて来られるイエスさまの御前に恥ずかしくなく立てるようになりたいところ。  イエスさまが胎児だったことは、イエスさまがそののち救い主としてお生まれになることが、完全に母マリアにかかっていたほどに、イエスさまは弱いお立場におられたということである。それは、弱い人たちに寄りそうため。ヘブル人への手紙4章15節のみことばをお読みしよう。  私たちと同じようになるために、イエスさまはこの世界にお生まれになった。そのことに感謝するのがクリスマスの本来の祝い方であると、私は声を大にして申しあげたい。しかし、そのためには、自分がどんなに弱いか、自分がどんなに罪深いか、よく自覚する必要がある。  そのためにも、イエスさまを思おう。胎児……なんと小さな存在だろうか。見えないところのとても小さな弱い存在。それほどにへりくだられたイエスさまは、私たちの味方である。イエスさまは、自分はちっぽけ、弱い、そのように嘆く私たちと同じようになられた、私たちをどこまでもわかってくださるお方である。今日もイエスさまは私たちとともに歩んでくださる。感謝しよう。

恵まれたマリア

聖書箇所;ルカの福音書1:26~38 メッセージ題目;恵まれたマリア    今日は、クリスマスに先駆けまして、マリアという人物にスポットを当てます。マリアは、イエスさまを身ごもり、出産するひととして神さまに選ばれた女性ですが、何といってもマリアは「処女懐胎をした」人でした。  「処女懐胎」……おそらく、多くの未信者にとってつまずきとなってしまうのが、聖その中のこの「処女懐胎」の記述ではないかと思います。こんなことはありえない! こんなことが書いてある聖書など、しょせん神話だ! 宗教書だ!   しかし、2000年にわたっていのちを懸けてキリスト教会を形づくってきた代々(よよ)の聖徒たちは、聖書を事実として受け入れ、すべてを懸けてそのみことばに従ってきた人たちです。そのきよい生き方、神さまと人の前に徹底した生き方は、聖書が正しいことを証ししています。当然それは、マリアの処女懐胎を事実と受け入れた上の話です。  人は自分の感性で聖書を読むようになってしまうと、はっきり聖書の宣言しているメッセージを正しく受け取ることができなくなります。創世記1章1節の「はじめに神が天と地を創造された」というみことばを事実として受け入れると、あらゆる聖書のみことばを受け入れるようになり、その結果、さばきや地獄まで肯定しなければならなくなる、人をさばくだなんて、それでは、神が愛だなんて嘘ではないか……このように解釈してしまうのは、読み手がそもそも「神の愛」というものを正しく受け取っていないためですが、聖書を読むときの基本は、「先入観なしに読む」ということです。  マリアの処女懐胎についてもこれと同じことが言えます。もし、マリアの処女懐胎を「ありえない」からと排除して、否定してかかって読んでしまうならば、聖書のどんな箇所も否定してよいことになってしまいます。それとも、ある部分は肯定して、ある部分は否定してもいいのでしょうか? もしそうならば、その基準はどこにあるというのでしょうか? それは、しょせん人間である自分自信が聖書を判断する基準になってしまっているということになるわけです。とにかくいちばんいいのは、先入観なしに聖書を読むこと、つまり、マリヤの処女懐胎にしても、「神さまの起こしてくださった奇蹟として実際に起こったこと」として受け取って聖書を読むことが必要になります。  さあ、そのように聖書を読む準備ができましたら、さっそく本文に入りたいと思います。26節です。……先週の礼拝で、バプテスマのヨハネの親となったザカリヤとエリサベツのことを学びました。エリサベツは身ごもり、5か月の間引きこもりました。そして、その次の月、エリサベツが妊娠して6か月目になったこのとき、以前ザカリヤに受胎告知をした御使いガブリエルが、こんどはガリラヤのナザレに住むひとりの処女のところに来ました。27節です。  このナザレの娘マリアは、12歳くらいだったと考えられます。12歳にしてすでに結婚相手が決められていました。日本の学年でいえば、小学6年か中学1年くらいです。私たちの常識では、結婚はおろか、まだまだ恋愛に踏み出すのも早い年頃です。しかしマリアには、その齢にしてすでにヨセフという許嫁がいました。もっとも婚約中といっても、マリアとヨセフは当然のこととして、純潔を保っていました。  さて、その婚約相手のヨセフですが、「ダビデの家系」とあります。これはとても大事なことです。それは、救い主キリストは、イスラエル王ダビデの子孫から生まれることが、旧約の昔から預言されていたからです。しかし、ダビデの血統が王族だったのははるか昔のことで、その子孫であるヨセフは、今は一庶民になっていました。日本も、家系図を紐解くと、清和源氏とか、桓武平氏にさかのぼる人は結構いますが、貴族のような生活をしていない人がほとんどなのと同じです。ヨセフもまた、先祖がダビデであるという事実の中に生きてはいたものの、だからといってその事実は、現実の生活の豊かさを保証するものでは決してなく、一庶民としてエルサレムから遠く離れたガリラヤのナザレに暮らすのみでした。  その、庶民の男の許嫁になった少女マリア……彼女には何が起こったのでしょうか?28節です。……御使いガブリエルはまず、マリアに「おめでとう」と告げて、祝福しました。おめでとう……素晴らしいことばです。受験に合格しておめでとう、結婚しておめでとう、赤ちゃんが生まれておめでとう……祝福されるほうだけではなく、祝福するほうも喜びに満ちることばです。  実際、ギリシヤ語の原語で、この「おめでとう」と訳されたことばは「カイレ」といいますが、これは喜びの伴ったあいさつを意味します。御使いガブリエルは喜んでいます。そしてこの喜びはもちろん、なによりも、天のお父さまなる神さまの喜びです。おめでとう、恵まれた方。そうです、天のお父さまは喜びをもってマリアを恵んでおられます。それにつづくことば、主があなたとともにおられます、そうです、主は喜びをもって、ともにいてくださるのです。  しかし、当のマリアはどうだったでしょうか? 29節です。神が喜ばれ、御使いも喜んでいるこのとき、当のマリアは喜ぶどころではありませんでした。いやむしろ、ひどくとまどいました。考え込みました。  これは、私たちの信仰生活にはよくあることです。私たちは聖書を読むことをとおして神のみことばに接するとき、しばしば、受け入れがたいみことばや、難解なみことばに出会うことがあります。そういうとき、私たちはひどくとまどい、考え込んでしまうものです。これまで自分の信じていた常識と大きくかけ離れたみことばの語りかけをいただくときなど、特にそうです。しかし、そういう悩みに陥った場合、方法があります。それは、続けてみことばに耳を傾けることです。  幸いマリヤは、続けてみことばを聴く用意ができていました。「出てって!」などと言うことはありませんでした。御使いガブリエルはことばを続けます。30節です。  ガブリエルはまず、突然の語りかけに怖れていたマリアにやさしく、「こわがることはない」と語りかけます。そうです。私たちのことを愛してくださっている主の語りかけは、恐いはずがありません。聖書を読んでいるときにひどくとまどうような語りかけがあったとしても、怖がらないで、主の愛を確かめていただきたいのです。  では、なぜ怖がる必要がないのでしょうか?……あなたは神から恵みを受けたのです。……みこころを地上に実現してくださる器として、神さまはマリアを特別に選んでくださいました。特別な選び。そう、ほかのだれでもない、自分に与えられた選び。しかし、マリアは、何か人よりも素晴らしかったからとか、人よりも秀でていたから選ばれたわけではありません。神さまの一方的な恵みの選び、この選びはまさに「恵み」です。主が特別に恵んでおられるならば、何を恐がる必要があるでしょうか?  私たちも、救い主イエスさまに出会わせていただいているということは、「恵まれている」ということです。何か素晴らしいから選ばれたわけではなく、ただ神さまの一方的なあわれみによって、この罪人である自分が「選んで」いただいたのです。私たちも神さまに、その愛をもって「選んでいただいて」いる以上、恐れることは何もありません。  しかし、ガブリエルは驚くべきことをマリアに告げます。31節です。ありえないことが起こります。そればかりではありません。男の子。生まれる子どもの性別が告げられています。今から2000年前に、胎児の性別を判別する技術など、あるわけがありません。神さまが創造主の主権によって超自然的に知らせてくださったというわけです。さらに、どんな名前をつけるべきかも知らされています。  先週のメッセージでも扱いました、バプテスマのヨハネのケースも同じです。そのときも親になるザカリヤには、胎児の性別とともに、名前をヨハネとつけるべきことがガブリエルによって知らされました。そのヨハネに「主はいつくしみ深い」という意味が込められているように、イエスという名前にも、意味が込められています。「主は救いである」という意味です。その名のとおり、イエスさまはその身をもって主の救いを実現されたお方でありましたが、御使いをとおして神さまがマリアに告げられたことは、これほどまでに徹底していました。  ガブリエルのことばは続きます。32節と33節です。大いなる者。この「大いなる」は原語で「メガス」といいますが、これは、神としての偉大さ、また、神の救いのみわざにおいて重要な役割を果たす意味での偉大さを表しています。この男の子は、偉大なる救い主となる、と預言しているのです。  いと高き方。天のお父さまです。その御名を口にすることも許されていないほど偉大なるお方の、子と呼ばれる、何という栄光に満ちた存在でしょうか。  また、御父はイエスさまに、父ダビデの王位をお与えになると語っています。これはどういうことでしょうか? これは、かつて神さまがダビデ王と結ばれた契約の成就です。サムエル記第二、7章の12節から16節をお読みしましょう。  ……このみことばが与えられたゆえに、ダビデは神殿の建築を、自分ではなく、後継ぎとなる王に託すことがみこころと受け取りました。そう、この預言は、ソロモン以降連綿と続くダビデ王朝のことを、直接的には意味しています。しかし、14節のみことばにあるとおり、ソロモンは晩年、主から心が離れてしまう罪を犯し、その結果、息子レハブアム王の代になって王国が分裂する懲らしめが下されました。その後も王たちの偶像礼拝の罪により、イスラエルが領土を失い、のちにユダも領土を失い、王統は途絶えました。  しかしこのダビデに与えられた預言は、もうひとつの、さらに重要な意味を持っていました。とこしえまでも堅く立つ御国を立てる王をダビデの子孫の中から起こされる、という約束は、時至って、イエスさまのお誕生によって成就するのでした。  ダビデは、この王なる救い主の存在を知っていたのでしょうか? もちろん知っていました。イエスさまが語っておられます。ルカの福音書20章41節から44節をご覧ください。……ダビデの末として生まれる救い主は、そういうわけで、世のはじめからおられる神の御子であられたのです。こうして、ダビデに語られたみことばは成就し、神の御子なる救い主キリストはダビデの子孫として地上に生まれることになりました。  さて、ルカの福音書1章に戻りまして、33節の「ヤコブの家」についても見てみましょう。ヤコブとは旧約聖書の創世記に登場するヤコブのことで、のちにヤコブは神から「イスラエル」という名前を賜っています。したがって「ヤコブの家」とは「イスラエル」という意味になります。  では、何が人を「イスラエル」ならしめるのでしょうか? それは神さまと契約を結び、神の子どもとされているという点にあります。イエスさまを信じる信仰を神から与えていただいた、ということによって、私たちは異邦人であってもイスラエルに接ぎ木され、その民としていただけます。ヨハネの福音書1章12節と13節にあるとおりです。  そのようにして、イエスさまを主と告白する者たちを、とこしえに統べ治めてくださるお方……このお方がお生まれになるということでした。  しかし、マリアはどう反応すればよかったでしょうか? 34節です。……この告白は、マリヤが未婚であり、純潔である、したがって子を宿す可能性はまったくありえないことを示しています。生まれてくる子どもが約束の救い主である、ということを喜ぶ以前に、ありえないことにとまどうしかなかったのでした。  ガブリエルはそのようなマリアに語ります。35節です。救い主イエス・キリストがマリアの胎に宿るのは、聖霊なる神のみわざによることを告げています。これは人間のわざによるものではなく、神が直接なしてくださることであるわけです。ゆえに生まれるお方は聖なるお方であり、神の子です。  ガブリエルのことばは続きます。36節と37節です。マリアが全能の主のわざにより身ごもることは、不妊の人であったエリサベツが身ごもったことによって、充分あり得ることではないか、というわけです。マリアは、親類のエリサベツが、不妊の人であり、それに年を取って、すでに子どもを産める可能性がまったくなかったことをよく知っていました。  それが妊娠して、もう五か月だというのです。それは、神にとって不可能なことは一つもないからだというわけです。マリアはこの事実の前に、すべてを受け入れる決心をしました。38節です。その語ったことばのとおり、つまり、主のみこころのとおりに、自分の身に実現するように……マリアはそう告白したのでした。 しかし、マタイの福音書1章のヨセフの記述と合わせてよく考えてみてください。ヨセフはいったい、マリアが聖霊によりみごもり、救い主キリストを産むことなど、信じることができるでしょうか? マリアは衆人環視の中、石打ちに遭うしかありません。ヨセフはそうならないように、ひそかにマリアのことを離縁しようと心に決めていました。いのちを失うか、ヨセフと生き別れになるか……神の子を宿すということは、そのような定めになることを意味していました。 だがマリアは、すべてを主にゆだねました。人間的に行動して、すべてをご破算にする愚を犯すことは、決してしませんでした。私たちの救い主イエスさまがこの地上に生まれてくださり、私たちに神の国を伝えてくださり、私たちの罪のために十字架にかかってくださった、その背後には、マリアの完全な献身、完全な信仰があったことを、クリスマスを前にしたこのとき、私たちはもう一度思い起こしたいものです。 ガブリエルがマリアのことを「恵まれた方」と呼んだのはなぜでしょうか? 神の子の母として選ばれたこと、それももちろん「恵まれている」理由ではありますが、何といっても、これほどまでの信仰告白を主の御前にささげ、実際に、それこそすべてをゆだねることができた信仰の歩みをなすことができたからではないでしょうか? このマリアの姿は、私たちの模範です。 私たちの生きる世の中は、混迷と矛盾、不条理に満ちています。そのような世の中に生きる私たちは、聖書の説く基準と世の中の説く基準のはざまで揺れ動き、葛藤することもあるでしょう。しかし私たちは、マリアの姿をともに模範にしたいものです。どんな苦難が襲いかかることが予想されようとも、主に委ねきり、主のみわざが現れるのを忍耐して待ち望む、そういう歩みをともにしてまいりたいものです。 もちろん、この歩みはひとりで孤独にできるものではありません。世の波風は時にとてもきびしいものです。私たち主のからだなる教会の友はともに助け合い、一緒に、主に委ねてみわざを待ち望むことをしてまいりましょう。主はそのような私たちを、恵まれた者たち、と呼んで祝福してくださいます。信じてまいりましょう。

「喜びのおとずれ」

聖書箇所;ルカの福音書1章5節~25節  メッセージ題目;「喜びのおとずれ」   去年はまだコロナ下の重苦しさがどこかに残っていたクリスマスも、今年はようやく「例年どおり」となっている雰囲気。私たち教会は、町がそんなロマンチックな雰囲気であるなしにかかわらず、救い主イエスさまのお誕生をお祝いする、ほんとうのクリスマスの時を迎える。このときこそ、私たちは教会に、まだイエスさまのことを知らない人、教会には興味があってもなかなか足を踏み入れる勇気がないという人をお迎えしたい。  今日の箇所は、イエスさまがこの世に来られる先駆けの役割を果たしたバプテスマのヨハネが、どのように生まれることになるかという内容である。バプテスマのヨハネ。気の早いお正月の話をするが、あの箱根駅伝、チームが一丸となってたすきをつないでいく姿に人々は感動を覚える。かつてイスラエルは歴代の預言者たちが、キリストの誕生を告げながら後代にたすきをつないでいった。ヨハネは、その受け継がれたたすきをかけて走り、最終走者といえるイエスさまにたすきを手渡す、極めて重要な役割をした人であった。5節から7節までは、そのヨハネの両親ザカリヤとエリサベツのことを紹介している。  ユダヤの王ヘロデの時代、とあるが、どんな人物がその世に君臨しているかで、その世相はどのようなものかということがわかる。ヘロデとはどんな人物か? やがてイエスさまはお生まれになるが、その存在を激しくいとい、まだ幼子のイエスさまを殺すために、ベツレヘム周辺の2歳以下の男の子を皆殺しにした王。残忍にして、赤ん坊さえ敵とみなすような小心者。そういう王が治めていたように、ユダヤは霊的に非常に暗い時代だった。  アビヤの組、とあるが、歴代誌第一24章を見ると、その1000年ほどむかし、ダビデの時代に神殿で仕える祭司たちが、24の組に組分けされたという記事がある。アビヤの組は第8の組で、ザカリヤはこの組に属し、この箇所において、このアビヤの組が当番になっていた。ザカリヤはアロンの子エルアザルの子孫にあたる。妻エリサベツもアロンの子孫であるから、夫婦ともに、レビ族の中でも生粋のアロンの子孫ということになる。  命令と掟を落ち度なく行っていた。神の前に正しい人、とあるが、これは、神の要求に従って行動する、という意味である。この、命令と掟は、以前の聖書では戒めと定め、と訳されていた。神の前に正しい人となるためには、神が人に対してお求めになること、すなわち、してはならないこと(戒め)と、しなければならないこと(定め)が何かということをよく知り尽くし、それを落ち度なく行う従順な態度と実践力が必要である。このザカリヤの性格を、よく覚えておいていただきたい。  一方でエリサベツには子がなかった。子がないまま老年を迎えた、ということは、もはや跡を継ぐ人は現れないことを意味する。そのような人に対し、当時の社会の目は冷たかった。そのような人は神の祝福を受けていない人と見なされ、また、この家系から祝福する人は生まれない、ということにもなる。そのような現実の中でザカリヤと妻のエリサベツはけなげに主の働きに当たっていた。  主の御前に徹底して生きたのである。主が選ばれた人は、悲しみを抱えていた人、しかしそれでも主に従順に生きた人であった。  8節と9節。その日はザカリヤの属するアビヤの組が当番に当たっており、さらにくじを引いたらザカリヤに当たった。くじ引きというものはなかなかどうして、主のみこころの色濃く反映される手段である。日本だと、あみだくじとか、神社のおみくじとか、軽々しい感覚で行うものというイメージがあるだろうが、聖書の世界ではたとえばヨナ書のみことばや、使徒の働き1章で欠員の出た十二使徒を充当する場面などを見てもわかるとおり、きわめて厳かで霊的なものである。  ゆえに、ザカリヤが主の先駆けの人ヨハネの父として、また、その啓示を受ける人として選ばれたことには、すでに主のみこころが大きくかかわっていた。10節では、大ぜいが外で祈っていたとあるが、ユダヤの民の心をひとつにした祈りが主に向けられ、その代表としてザカリヤは聖所に入って行ったのである。これ以上ないほど、主のみわざが起こされる準備は整っていた。  11節と12節。するとこの聖所に、主の御使いが現れた。香はなぜたくのか? それは詩篇141篇2節にあるように、祈りを表しているからである。その香壇の煙は天におられる主に立ち上っている祈りを象徴しているわけだが、その香壇の右に御使いが現れたということは、主が天から義なる右の御手で御使いを、そのみことばを伝えるしもべとしてザカリヤのもとに送り届けられたということだろう。しかしザカリヤは心の準備ができていなくて、ただ恐れるのみだった。  それはそうだ。聖書は、人が幻を見る記述や主が奇蹟を起こされる記述にあふれているが、それがわざわざ記録されているのは、あくまでそういうことはそうしょっちゅう起こらないことが前提となっているからであり、特別なことだからである。  だから奇蹟であり、幻であるわけだが、とにかくここでは、恐るべきこと、御使いがはっきり出現するということが起こった。特別な瞬間である。  13節から17節は、本日の箇所のハイライトである。この老年の夫婦から生まれるヨハネという人物はどんな人か、御使いは伝えてくれている。まず13節だが、エリサベツが男の子を生むという、驚くべき奇蹟の予告にはじまる。そして、何という名前をつけるべきかも御使いは命じた。ヨハネ。これは、主は恵み深い、という意味である。  名は体を表す、ということわざがあるが、特に聖書の登場人物の中でも、神さまからどういう名前をつけるべきか示された場合は、このことわざのとおり、名前を見るとその人がどういう人に成長させられるかがわかる。ヨハネはその名のとおり、主の恵み深さを宣べ伝える人とされた。  14節、このヨハネによって、老いたザカリヤは喜び楽しみ、また、多くの人もその誕生を喜ぶことを告げている。この時代、せっかく生まれた子どもも、幼くして死ぬことは珍しくなかった。そんな中で、ちゃんと生まれ、ちゃんと育ち、立派な大人になることまで保証しているのである。これが第一の喜びのおとずれである  15節、ヨハネが主の御前に大いなる者になると告げられる。大いなる者、つまり偉大な者ということだが、どう偉大なのか? まず、ぶどう酒も強い酒も飲まない。世と一線を画した主の人として生きることを意味する。母の胎内から聖霊に満たされている。主が心の中心にいつもおられる生き方を、初めからする人であるという。  16節、イスラエルの多くの子らを、その神に立ち帰らせる。当時、神の民は苦しんでいた。形式的に宗教行為を行えばそれでよしとする一方、その宗教行為を不当に重い義務にしていた宗教指導者の搾取を受けて苦しんでいた。そんな民を、神さまへと立ち帰らせる働きを、ヨハネはその預言どおりにすることとなったのである。  17節、エリヤの霊と力で主に先立って歩む。エリヤは、たとえその相手が王であっても、ひるむことなくその偶像礼拝の罪を激しく非難した。エリヤがそのような霊的指導者であったように、ヨハネも、宗教指導者たちの罪を堂々と指摘し、ついにはヘロデ王の罪を糾弾して投獄され、死刑にされるまでになった。そのような宣教の働きをもって、主イエスさまに先立って歩む、すなわち、イエスさまをお迎えする道備えをした。  父の心を子に向けさせる、とあるが、これは旧約聖書のいちばん最後のことば、マラキ書4章5節と6節のことば。御使いはこれを語ったのである。民の心を神に向かって備えさせる。これが先駆けとなる者の役割である。具体的にどうやって備えるか、というと、主に反逆する者に対して、正しい人、すなわち絶対的に正しいお方である主のみこころにかなった心を与える、ということである。そのようにして準備のできた民を、主のために用意する。  18節、ザカリヤはしるしを求めた。ザカリヤは、旧約最大の預言者エリヤの役割を果たすもっとも偉大な働き人を、いわんやこの齢になって生みだすことになるなどと、どうしても信じることができなかった。  19節と20節、御使いはここで初めて、自分の名前を明かした。それは、神の御前に立つ者としての責任にかけてこのみことばを伝えたということである。私は神に霊的権威を託された、天使の霊的立場をもって告げる。あなたは信じなかったが、しるしを与えよう。それは、そのときが起こるまで、口がきけなくなる、ということだ。  そのとおりに、21節から23節にあるとおりに、ザカリヤは口がきけなくなった。主のお取り扱いの御手が伸びたのである。それは、彼がほんとうの意味で砕かれ、主に従順になるための措置であった。ザカリヤは神のしもべであり、しかも相当な老年であった。ベテランの働き人、酸いも甘いもかみ分けた老境に達してもなお、人は神のお取り扱いの中、悔い改めと従順の歩みをするように導かれる。しかし、これはつらい歩みではなく、恵みの歩みである。  ザカリヤが口がきけるようになるのは、人々が反対する中、御使いに告げられたとおり、「彼の名はヨハネ」と人々に示したことをとおしてであった。不信仰ではなく、従順によって、主はみわざを顕される。パウロもイエスさまに出会って目が見えなくなったが、ダマスコのアナニヤのもとに赴き、そこで祈ってもらったとき、目が見えるようになった。これも従順のなせる働きだった。  24節と25節。やはりエリサベツにとっては、子がないことは恥だったのである。それがこうして雪(そそ)がれた。これもよきおとずれ。喜びのおとずれ。しかし、単に老年で子どもが与えられる祝福以上のよきおとずれ。それは、救い主キリストがほんとうに乞られることが告げ知らされるという、最高のよきおとずれだった。  今日のタイトルは「喜びのおとずれ」である。しかし、だれにとっての喜びのおとずれであるかを考えていただきたい。  ザカリヤとエリサベツにとってヨハネの誕生が喜びだったように、ユダヤの人々にとってもその誕生は喜びだった。この家族に起こったことは65節、66節にあるとおり、ユダヤの山地全体、つまりそこら中に伝えられるほどのできごとであった。それほどの喜びのおとずれだった。  しかしこの喜びのおとずれはヨハネが生まれることにとどまらない。イエスさまが来られることが、さらにこの喜びの本質である。私たちにとってこのできごとが喜びのおとずれとなるのは、イエスさまを救い主と信じ、心に受け入れて、永遠の救い、永遠のいのちをいただくからである。  そんな私たちは、喜びなるイエスさまを心に宿す以上、心からイエスさまのご存在とその愛が人々に現されてしかるべきである。言い換えれば、ヨハネの存在、イエスさまの存在が喜びのおとずれであるように、私たちの存在そのものが喜びのおとずれである。 私たちの存在は、喜びなるイエスさまが人の主となる道備えをするゆえに、イエスささまを知る人たちにとっても喜びのおとずれとなる。私たちもイエスさまを喜び、その喜びを伝える器として用いられよう。