「喜びのおとずれ」

聖書箇所;ルカの福音書1章5節~25節  メッセージ題目;「喜びのおとずれ」   去年はまだコロナ下の重苦しさがどこかに残っていたクリスマスも、今年はようやく「例年どおり」となっている雰囲気。私たち教会は、町がそんなロマンチックな雰囲気であるなしにかかわらず、救い主イエスさまのお誕生をお祝いする、ほんとうのクリスマスの時を迎える。このときこそ、私たちは教会に、まだイエスさまのことを知らない人、教会には興味があってもなかなか足を踏み入れる勇気がないという人をお迎えしたい。  今日の箇所は、イエスさまがこの世に来られる先駆けの役割を果たしたバプテスマのヨハネが、どのように生まれることになるかという内容である。バプテスマのヨハネ。気の早いお正月の話をするが、あの箱根駅伝、チームが一丸となってたすきをつないでいく姿に人々は感動を覚える。かつてイスラエルは歴代の預言者たちが、キリストの誕生を告げながら後代にたすきをつないでいった。ヨハネは、その受け継がれたたすきをかけて走り、最終走者といえるイエスさまにたすきを手渡す、極めて重要な役割をした人であった。5節から7節までは、そのヨハネの両親ザカリヤとエリサベツのことを紹介している。  ユダヤの王ヘロデの時代、とあるが、どんな人物がその世に君臨しているかで、その世相はどのようなものかということがわかる。ヘロデとはどんな人物か? やがてイエスさまはお生まれになるが、その存在を激しくいとい、まだ幼子のイエスさまを殺すために、ベツレヘム周辺の2歳以下の男の子を皆殺しにした王。残忍にして、赤ん坊さえ敵とみなすような小心者。そういう王が治めていたように、ユダヤは霊的に非常に暗い時代だった。  アビヤの組、とあるが、歴代誌第一24章を見ると、その1000年ほどむかし、ダビデの時代に神殿で仕える祭司たちが、24の組に組分けされたという記事がある。アビヤの組は第8の組で、ザカリヤはこの組に属し、この箇所において、このアビヤの組が当番になっていた。ザカリヤはアロンの子エルアザルの子孫にあたる。妻エリサベツもアロンの子孫であるから、夫婦ともに、レビ族の中でも生粋のアロンの子孫ということになる。  命令と掟を落ち度なく行っていた。神の前に正しい人、とあるが、これは、神の要求に従って行動する、という意味である。この、命令と掟は、以前の聖書では戒めと定め、と訳されていた。神の前に正しい人となるためには、神が人に対してお求めになること、すなわち、してはならないこと(戒め)と、しなければならないこと(定め)が何かということをよく知り尽くし、それを落ち度なく行う従順な態度と実践力が必要である。このザカリヤの性格を、よく覚えておいていただきたい。  一方でエリサベツには子がなかった。子がないまま老年を迎えた、ということは、もはや跡を継ぐ人は現れないことを意味する。そのような人に対し、当時の社会の目は冷たかった。そのような人は神の祝福を受けていない人と見なされ、また、この家系から祝福する人は生まれない、ということにもなる。そのような現実の中でザカリヤと妻のエリサベツはけなげに主の働きに当たっていた。  主の御前に徹底して生きたのである。主が選ばれた人は、悲しみを抱えていた人、しかしそれでも主に従順に生きた人であった。  8節と9節。その日はザカリヤの属するアビヤの組が当番に当たっており、さらにくじを引いたらザカリヤに当たった。くじ引きというものはなかなかどうして、主のみこころの色濃く反映される手段である。日本だと、あみだくじとか、神社のおみくじとか、軽々しい感覚で行うものというイメージがあるだろうが、聖書の世界ではたとえばヨナ書のみことばや、使徒の働き1章で欠員の出た十二使徒を充当する場面などを見てもわかるとおり、きわめて厳かで霊的なものである。  ゆえに、ザカリヤが主の先駆けの人ヨハネの父として、また、その啓示を受ける人として選ばれたことには、すでに主のみこころが大きくかかわっていた。10節では、大ぜいが外で祈っていたとあるが、ユダヤの民の心をひとつにした祈りが主に向けられ、その代表としてザカリヤは聖所に入って行ったのである。これ以上ないほど、主のみわざが起こされる準備は整っていた。  11節と12節。するとこの聖所に、主の御使いが現れた。香はなぜたくのか? それは詩篇141篇2節にあるように、祈りを表しているからである。その香壇の煙は天におられる主に立ち上っている祈りを象徴しているわけだが、その香壇の右に御使いが現れたということは、主が天から義なる右の御手で御使いを、そのみことばを伝えるしもべとしてザカリヤのもとに送り届けられたということだろう。しかしザカリヤは心の準備ができていなくて、ただ恐れるのみだった。  それはそうだ。聖書は、人が幻を見る記述や主が奇蹟を起こされる記述にあふれているが、それがわざわざ記録されているのは、あくまでそういうことはそうしょっちゅう起こらないことが前提となっているからであり、特別なことだからである。  だから奇蹟であり、幻であるわけだが、とにかくここでは、恐るべきこと、御使いがはっきり出現するということが起こった。特別な瞬間である。  13節から17節は、本日の箇所のハイライトである。この老年の夫婦から生まれるヨハネという人物はどんな人か、御使いは伝えてくれている。まず13節だが、エリサベツが男の子を生むという、驚くべき奇蹟の予告にはじまる。そして、何という名前をつけるべきかも御使いは命じた。ヨハネ。これは、主は恵み深い、という意味である。  名は体を表す、ということわざがあるが、特に聖書の登場人物の中でも、神さまからどういう名前をつけるべきか示された場合は、このことわざのとおり、名前を見るとその人がどういう人に成長させられるかがわかる。ヨハネはその名のとおり、主の恵み深さを宣べ伝える人とされた。  14節、このヨハネによって、老いたザカリヤは喜び楽しみ、また、多くの人もその誕生を喜ぶことを告げている。この時代、せっかく生まれた子どもも、幼くして死ぬことは珍しくなかった。そんな中で、ちゃんと生まれ、ちゃんと育ち、立派な大人になることまで保証しているのである。これが第一の喜びのおとずれである  15節、ヨハネが主の御前に大いなる者になると告げられる。大いなる者、つまり偉大な者ということだが、どう偉大なのか? まず、ぶどう酒も強い酒も飲まない。世と一線を画した主の人として生きることを意味する。母の胎内から聖霊に満たされている。主が心の中心にいつもおられる生き方を、初めからする人であるという。  16節、イスラエルの多くの子らを、その神に立ち帰らせる。当時、神の民は苦しんでいた。形式的に宗教行為を行えばそれでよしとする一方、その宗教行為を不当に重い義務にしていた宗教指導者の搾取を受けて苦しんでいた。そんな民を、神さまへと立ち帰らせる働きを、ヨハネはその預言どおりにすることとなったのである。  17節、エリヤの霊と力で主に先立って歩む。エリヤは、たとえその相手が王であっても、ひるむことなくその偶像礼拝の罪を激しく非難した。エリヤがそのような霊的指導者であったように、ヨハネも、宗教指導者たちの罪を堂々と指摘し、ついにはヘロデ王の罪を糾弾して投獄され、死刑にされるまでになった。そのような宣教の働きをもって、主イエスさまに先立って歩む、すなわち、イエスさまをお迎えする道備えをした。  父の心を子に向けさせる、とあるが、これは旧約聖書のいちばん最後のことば、マラキ書4章5節と6節のことば。御使いはこれを語ったのである。民の心を神に向かって備えさせる。これが先駆けとなる者の役割である。具体的にどうやって備えるか、というと、主に反逆する者に対して、正しい人、すなわち絶対的に正しいお方である主のみこころにかなった心を与える、ということである。そのようにして準備のできた民を、主のために用意する。  18節、ザカリヤはしるしを求めた。ザカリヤは、旧約最大の預言者エリヤの役割を果たすもっとも偉大な働き人を、いわんやこの齢になって生みだすことになるなどと、どうしても信じることができなかった。  19節と20節、御使いはここで初めて、自分の名前を明かした。それは、神の御前に立つ者としての責任にかけてこのみことばを伝えたということである。私は神に霊的権威を託された、天使の霊的立場をもって告げる。あなたは信じなかったが、しるしを与えよう。それは、そのときが起こるまで、口がきけなくなる、ということだ。  そのとおりに、21節から23節にあるとおりに、ザカリヤは口がきけなくなった。主のお取り扱いの御手が伸びたのである。それは、彼がほんとうの意味で砕かれ、主に従順になるための措置であった。ザカリヤは神のしもべであり、しかも相当な老年であった。ベテランの働き人、酸いも甘いもかみ分けた老境に達してもなお、人は神のお取り扱いの中、悔い改めと従順の歩みをするように導かれる。しかし、これはつらい歩みではなく、恵みの歩みである。  ザカリヤが口がきけるようになるのは、人々が反対する中、御使いに告げられたとおり、「彼の名はヨハネ」と人々に示したことをとおしてであった。不信仰ではなく、従順によって、主はみわざを顕される。パウロもイエスさまに出会って目が見えなくなったが、ダマスコのアナニヤのもとに赴き、そこで祈ってもらったとき、目が見えるようになった。これも従順のなせる働きだった。  24節と25節。やはりエリサベツにとっては、子がないことは恥だったのである。それがこうして雪(そそ)がれた。これもよきおとずれ。喜びのおとずれ。しかし、単に老年で子どもが与えられる祝福以上のよきおとずれ。それは、救い主キリストがほんとうに乞られることが告げ知らされるという、最高のよきおとずれだった。  今日のタイトルは「喜びのおとずれ」である。しかし、だれにとっての喜びのおとずれであるかを考えていただきたい。  ザカリヤとエリサベツにとってヨハネの誕生が喜びだったように、ユダヤの人々にとってもその誕生は喜びだった。この家族に起こったことは65節、66節にあるとおり、ユダヤの山地全体、つまりそこら中に伝えられるほどのできごとであった。それほどの喜びのおとずれだった。  しかしこの喜びのおとずれはヨハネが生まれることにとどまらない。イエスさまが来られることが、さらにこの喜びの本質である。私たちにとってこのできごとが喜びのおとずれとなるのは、イエスさまを救い主と信じ、心に受け入れて、永遠の救い、永遠のいのちをいただくからである。  そんな私たちは、喜びなるイエスさまを心に宿す以上、心からイエスさまのご存在とその愛が人々に現されてしかるべきである。言い換えれば、ヨハネの存在、イエスさまの存在が喜びのおとずれであるように、私たちの存在そのものが喜びのおとずれである。 私たちの存在は、喜びなるイエスさまが人の主となる道備えをするゆえに、イエスささまを知る人たちにとっても喜びのおとずれとなる。私たちもイエスさまを喜び、その喜びを伝える器として用いられよう。