馬小屋に生まれた主イエス
聖書箇所;ルカの福音書2章1節~7節 メッセージ題目;馬小屋に生まれた主イエス 今日はクリスマス、言うまでもなく、イエス・キリストの誕生をお祝いする日。なぜ、世界はキリストの誕生をお祝いするのだろう? それは、神の御子イエス・キリストが、私たちの受けるべき罪の罰を身代わりに十字架でその死をもって受けてくださり、しかし、三日目によみがえってくださったと信じる人は、だれでも救われるからである。救われるとは、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っていることであると、聖書のみことばは語る。 そのような素晴らしい救い主、イエス・キリストのお誕生であるならば、多くの人、偉い人に祝われたのだろうか? さにあらず。そのお誕生はきわめてひそかな場所でのできごとであり、しかもそれは、お世辞にも清潔とは言えない馬小屋のできごとだった。 天地万物を創造した神の子なら、きらびやかな王宮に、みなにかしずかれて生まれるものというイメージがあろう。しかし神は、御子イエスの生まれる場所を、よりにもよって、悪臭ふんぷんたる馬小屋とされた。赤ちゃんの主イエスが寝かされたのも、馬のよだれと食べかすの残る飼葉桶。 それは、神は貧しい者、自分はきたないと悩み苦しむ者の味方でいてくださるというメッセージにほかならない。そんな主を迎えるクリスマスを、私たちはどう祝うのだろうか? 世の人たちは、これ幸いとケーキやチキンを食べ、スパークリングワインを飲んで騒ぐ。デートをする。それが一概によくないと言うつもりはないが、せめて私たち、こうして教会に集う者は、なぜクリスマスがめでたいのか、そのめでたいクリスマスは私とどんな関係があるだろうか、ちょっと考えてみていただきたい。 私たちは、自分は正しい、きよい、などと考えるだろうか? しかし、主イエスは、ご自身を医者になぞらえ、医者を必要とするのは健康な人ではなく病人である、わたしは正しい人ではなく、罪人を招くために来たとおっしゃった。ああ、自分なんてだめだ、自分には何の価値もない、もし、私たちがそのように悩むならば、イエスさまはそんな私たちのことを招いておられる。自分は正しいと思うだろうか、それとも、自分は罪に病んでいると思うだろうか? そもそも、クリスマスのできごとからしてそうではないか。人は便利な生き方を追求して、馬に乗って移動するなら、当然、馬を繋ぎ止める馬小屋が必要であり、その馬小屋は暗くて汚い。そのように、人は生きるかぎり、どこかで自分のきたなさをあらわにして生きてしまう。それは、私たちは暗く、汚い存在であるということである。私たちの心の中に満ちるもの、それはとても他人に見せられないだろう。それはとても汚くて恥ずかしい。 私たちがその汚さ、暗さを自覚するならば、汚くて暗い馬小屋に生まれてくださったイエスさまは、そのように、汚い、暗いと悩む私たちの心に住まってくださることを、どうか思い出していただきたい。 聖書は語る。私たちの心には人を迎え入れるための扉があり、イエスさまは私たちの心のその扉をノックしておられる。むりやりこじ開けて入ることはなさらない。私たちの側で開けるまではお入りにならない。 しかし、私たちがイエスさまの「開けてください!」という声を聞いて心の扉を開けるなら、イエスさまは私たちの心の中に入って、私たちとともに食事をしてくださる、と聖書は語る。もちろん、その食事は、コロナ下でなかば強制された「黙食」ではない。同じ食卓を囲んで語らう、実に楽しく、また意義深い食事である。 この食事は、現代に生きる私たちにもできる。毎日、聖書を開いて読み、お祈りすることで、ちょうでイエスさまと一緒に食事をするような語らいを楽しみ、味わうことができる。 それが必要なのは、自分がパンのような目に見える食事だけで養われる者ではなく、神の口から出るひとつひとつのことばである聖書のみことばなしには生きていけないほど、自分が罪深く、弱く、飢え渇いていることを自覚しているため。もし、私たちにその自覚があり、そんな自分の心にイエスさまをお迎えしたいと願うなら、どうか今からともに祈っていただきたい。イエスさまとともに歩む祝福の歩みを、ともに歩んでいただきたい。