「弟子訓練の3つの理由」

聖書箇所;マルコの福音書3:13~15 メッセージ題目;「弟子訓練の3つの理由」    きょうは今年最後の礼拝。しかし、明日になると、新年最初の礼拝が控えている。2日続けて礼拝の祝福! 今日は、明日から始まる2024年につづく一年間の歩みへと導く話をしたい。  私は弟子訓練に献身した牧師である。なぜ私は、これほどまでに弟子訓練というものを強調しているのだろうか? それは、はじめて出会ったクリスチャンがどういう人だったか、その原体験に由来している。中学2年、1987年のとき、母が英語の勉強をしに通いはじめた、浦和の洋館、煙突のついたおしゃれな家には、世界各国から集まった宣教師の若者たちが共同生活をしていた。私はそこに住む外国人の若者たちとの交わりを通して、クリスチャンというのは、こうして海外にやってくるほど熱心な人たちだ、という第一印象を持った。  彼ら、ユース・ウィズ・ア・ミッションは弟子訓練を強調していて、のちに私は彼らと関係の深いアーサー・ホーランド宣教師の影響を受けて、アーサーの所属するキャンパス・クルセードに所属することになったが、キャンパス・クルセードはユース・ウィズ・ア・ミッション同様、伝道とともに弟子訓練を活動の柱にしていた。私は、とにかくみことばに従順であるように弟子訓練を受けているキャンパス・クルセードの若者たちに、たまらない魅力を覚えた。自分の彼らのようになりたいと思った。  しかし、しばらく彼らのことを観察していると、彼らの多くは、日曜日ごとに出席する教会生活に満足できないで、キャンパス・クルセードのような超教派のムーブメントに居場所を求めている人たちだった。私もやはり教会生活に満足できないでいた。私もそんな若者の一人として、キャンパス・クルセードで受けているような弟子訓練を教会で実践できるならばどんなに素晴らしいだろう、と思い、実際、韓国の神学校に入り、東都教会、サラン教会という素晴らしいモデル教会に出会い、その思いがますます強くなった。  私は長らく、弟子訓練を「受ける」立場であり、「導く」立場ではなかった。弟子訓練を導く経験は多くないが、しかし、弟子訓練を受ける立場から、どのような弟子訓練がよくて、どのようならよくないか、ということは、人一倍語れると自負している。  ここ数年意識していることは、うちの教会がなぜ、韓国の神学校で学び、また、韓国の教会から弟子訓練の牧会を学んできた私のことを牧師として招聘してくださったか、ということである。私は純粋に日本人の会衆を対象に牧会する経験がなかったこともあり、最初は様子見だったことを正直に告白する。しかし、私がこの教会で牧師としての責任を果たすことは、主が私に与えられた弟子訓練の召命に忠実に生きることだと、今なら確信をもって告白できる。  思えば、イエスさまの弟子たちも、ペテロやヨハネを見ても、素晴らしい働き人ではあるが、大前提としてイエスさまの弟子訓練を受けた人である。自分が弟子訓練を受けているから、イエスさまが訓練してくださるように、人をふさわしく訓練することができるわけである。私たちはだれもが訓練を施すリーダーにはならないかもしれない。しかし、イエスさまを主と告白する導きをいただいている以上、訓練を受ける人たちなのは間違いがなかろう。  今日の箇所は、弟子として訓練を受ける道に入るべく召された人々は、どのような理由で召されたのか、そのことを如実に語っている。この箇所から学ぶならば、私たちは主の弟子としてよりふさわしい歩みに踏み出すことができるであろう。  13節を見よう。イエスさまのもとにやってきた者たちは、「ご自分が望む者たちを呼び寄せられると」とあるとおり、自分からイエスさまのもとに来たのではなく、イエスさまが呼び寄せてくださった存在である。ヨハネ15章16節をご覧いただきたい。私たちもまた、こうしてイエスさまの御前にいるのは、イエスさまが呼び寄せてくださったからである。  私たちは自分が選んで、あるいは好き嫌いでここにいるわけではない。イエスさまが呼び寄せてくださった、それが私たちであり、すなわち私たちは主の弟子である。弟子である以上、師匠であるイエスさまの訓練を受けるように導かれている。牧師である私も、みなさまと一緒にイエスさまの訓練を受ける立場である。  そんな私たちは、行って、イエスさまが結ばせてくださる実を残す使命が与えられている。信仰の先輩たちは、この地によい行いを通してよい実を結び、またその実を残してきた。歴史を見てみよう。人権が保障されるようになり、女性や子どもや障碍者の地位が向上したこと、奴隷が解放されたこと、戦争が抑止されるようになったこと、多くの貧しい人たち、困窮している人たちが顧みられる社会になったこと、その背後にはどれだけ多くのキリスト者たちの努力があったことだろうか。こんにちも私たちは、クリスチャンとして生きるということは、自分の救いの達成に努めるのはもちろんのこと、この世界をみこころにかなうきよい地、よい地にする使命が与えられているということである。私たちの弟子としての歩みは、隣人を自分のように愛する数々の行いの実を結び、確実にこの世界をよい世界にすることにつながる。  みことばに戻ろう。呼び寄せられると、彼らはみもとに来た、とある。イエスさまの弟子とは、イエスさまに呼び寄せられたらそれに素直に従い、みもとに来る人である。呼ぶ声に素直に従う、小学校の優等生のような。人が成長して大人になるとこの素直さが損なわれてしまいがちだが、私たちは少なくとも、子どものように、イエスさまの御声に従順な者でありたい。イエスさまに素直に従う者には素晴らしい祝福がある。  その祝福とは、神さまの栄光のために用いていただく、ということ。それは具体的にどういうことだろうか? 14節、15節は、3つのことを述べている。それぞれ見ていこう。  第一に、「彼らをご自分のそばに置くため」とある。よく読んでいただきたい。「ご自分のそばに置く」という弟子訓練の目的を果たすのは、イエスさまのほうである。私たちがそばに行く前に、イエスさまがそばに置いてくださるのである。弟子訓練とは何だろうか? イエスさまに、みそば近くに置いていただく訓練である。  こういうことを訓練と言ってもいい。それは、幼稚園のような教育の現場を見ればわかる。先々週の土曜日、うちの教会のクリスマス礼拝の前日、ミシェルさんのコンサートが水戸市にある「あさひ幼稚園」を会場に開催された。その場にじっとさせるために、園長の高橋泉先生はかなり努力していらっしゃったが、静かに座ることだけでも、子どもたちには立派な「訓練」である。私たちもそのように、イエスさまのみそばに導かれているならば、そのみそばを離れないようにする「訓練」を受けることになる。  私たちがもし、この世の影響を受けすぎてしまっているならば、イエスさまのそばにいながらも、心はイエスさまとともにいないことを選びがちになってしまう。たとえば、今。私たちはちゃんと、みことばに集中しているだろうか? 余計なことを考えていないだろうか?「この礼拝、早く終わってほしい」とか「早くスマホが見たい」などと考えているならば、そんな私たちには、自分は今、イエスさまのそばに置いていただき、じっとみことばに耳を傾ける訓練の中にあることを、どうか思い出していただきたい。サタンは、私たちクリスチャンが、イエスさまのそばに置いていただく訓練の中にあることを、とにかく忘れようとさせる。  前にも申し上げた。この世がサタンと対決する「攻撃」の実践であるならば、そのために武装するには、単純に見積もってこの世に踏み出す分の「5倍」の主との交わりが必要である。みことばの剣に対し、真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の備えの履物、信仰の盾、救いのかぶと……。攻撃の武器に対する5倍の防御が必要なわけである。    充分な武装をしないならば、生兵法は大怪我の基。私たちはこの世と調子を合わせることになってしまうか、この世を支配するサタンに敗北することになってしまう。サタンは私たちが神の子、キリストの弟子であるゆえに、いろいろな形で執拗に攻撃を加えてくる。サタンの執拗な攻撃に勝利するには、それだけ私たちが霊的に武装している必要がある。  忘れないでいただきたい。私たちがイエスさまのみそばに置かれることは、イエスさまのみこころである。私たちは時に、考えでも態度でもことばでも、もしかしたら行いでも罪を犯す。しかし、そうなったとき、私たちはイエスさまの御前から逃げようと思ってはいけない。  こんな罪深い者だからこそ、救いが必要だと考え、即、イエスさまの御前に行って悔い改め、イエスさまとの関係を回復していただくことである。イエスさまはそんな私たち、砕かれた悔いたいけにえのことを、決してさげすまれない。私たちはみそばに置いていただけるのである。  さて、そうしてみそばに置いていただいたら、人はどうなるだろうか? ヨハネの福音書15章、1節から11節。みそばに置かれるならば、実を結ぶ。私たちの欲しいものが、みこころにかなうものへと整えられていく。それは、イエスさまのみこころを守り行いたいという飢え渇きである。  結ぶ実はいろいろあろう。しかしそれはみな、マルコの福音書3章14節に照らせば、イエスさまによって遣わされて宣教をすること、すなわち、イエスさまの救いを人々に宣べ伝えることにつながる。私たちがよい人格を備え、よい態度をして、よいことばを語り、よい行いをするのは、人と無関係に自分さえよければの思いでそうなるものではない。  私たちはあらゆる点でキリストに似た者となることで、私たちを救ってくださったキリストの栄光を人々の前で輝かせる。火のともったろうそくは升の下に入れない。そんなことをしたら照らされないし、ともし火は消えてしまう。ろうそくの火は燭台の上に掲げるものである。そうすれば、この暗闇の世の中は主の光に照らされ、明るくなり、素晴らしくなる。そう、主の栄光を私たちが顕すことは、宣教という理解の中で語られるべきである。  しかし、宣教というものは、イエスさまというまことのぶどうの木にとどまることがなければ、到底できないものである。私の友達に、ぶどう農園をしている人がいるが、彼に聞くと、断ち落としたぶどうの枝は、ほんとうに何の役にも立たないらしい。寒い日に集めて火をつけても、暖を取れるたき火さえできないほど、燃えないとのこと。何の役にも立たない。同じように私たちも、イエスさまを離れたら霊に燃えることもできないし、宣教など夢のまた夢である。  だから私は、宣教しなさい、とか、伝道しなさい、とか言う前に、主のみそばにとどまることをまずお奨めしたい。主のみそばにとどまるなら、主のすばらしさを大いに味わい、人々に主が伝わるだけの人格の変化、ことばの変化、行動の変化が実現していき、結果として主のみことばが宣べ伝えられていくことになる。だから、ことばで福音提示する伝道の方法を身につけることは大いに奨励したいものの、それさえできていればいいとは決して申し上げたくない。イエスさまにとどまることが先である。イエスさまにとどまりつづけるなら、どのように筋道立てて伝道すべきかも学びたくなるだろうし、その動機づけがあってこそ、私たちの救いについて説明を求める人に語ることばはふさわしく備えられる。  来年はヤコブの手紙を学ぶ時間を持つ。それは、救いの裏づけのあるよい行いは、主のご栄光を顕すわざ、宣教につながるからである。来年私たちは、「宣教する弟子」であることをともに追求してまいりたい。そのために私たちはみな、すべからく主の弟子としてふさわしく振る舞いつづけるべきである。そうすれば私たちは、生活の中で結ばれるあらゆる実が、ことごとく宣教に結びつく。  さて、このマルコの福音書のみことばによれば、宣教とは何であると定義されているだろうか? そう、「悪霊を追い出す権威を行使すること」である。これは、悪霊に取りつかれて霊的にも精神的にもおかしくなっている人をまともにすることと限定してはならない。これは、主の弟子とされている人ならば、だれにでもできることであり、また、だれもがすべきことである。  どういうことかというと、この世界はサタンの支配下にある。それは、サタンがイエスさまを誘惑したとき、この世界のあらゆる栄えを見せて、そのすべてが自分に任されている、これが欲しければ私を拝め、と言ったことからも明らかである。この世界を見ていただきたい。ひどいいじめを苦に自殺する子どもたち、大人たちから虐げられ、放っておかれた子どもたち、その子どもたちを取り巻く、薬物中毒のような非行に走らせる大人たち、夜の街に繰り広げられる淫乱と搾取、高齢者を食い物にする特殊詐欺、走る電車に飛び込む人々……もっと大きな規模になれば、不正に手を染める政治家たち、国と人を破壊するテロ、戦争……こういったことが横行するこの世は、悪魔が支配しているとしか言いようがないのではないか。  その霊的環境を神のものへと変えるには、サタンを滅ぼされたイエスさまの十字架と復活をわがこととして生きる、主の弟子として、私たちひとりひとりが振る舞うしかない。そして私たちは、この世の君に捕らえられている人々を、私のことを自由にした福音によって自由にするのである。そうすることで確実に、この世界から悪霊は追い出される。  しかし、そのためには、ヤコブの手紙4章7節をお読みいただきたい。まず、神に近づく。それから、悪魔に対抗するのである。私たちの証しの生き方は、いわばこの世の君である悪魔に対し、みことばの剣をもって戦いを挑むことと言えるが、その大前提として、神の近づくのが先である。私たちはいつもサタンの攻撃にさらされているので、つい私たちはサタンとの対決を優先的に考えてしまうが、順番を間違えてはならない。まず、神に近づくのである。それから、悪魔に対抗するのである。それもなしにサタンと対決したら、スケワの子どもたちのようになってしまう(使19:11~16)。  今年という年を振り返っていただきたい。私たちは世の光として輝けるほど、光なるイエスさまとの交わりを大切にできただろうか? 今年充分でなかったとしても、来年こそは主との交わりを大切にしたい。2024年は祝福されている。今日このメッセージを聴いたら、明日からその生活を始めるにふさわしく、礼拝ができる。  お祈りしよう。今年、あなたさまに近づけて感謝します、という方も、充分にお近づきできないで悔い改めます、という方も。イエスさまは私たちすべてを、喜んでみそば近くに置いてくださる。そこから始まるすべての訓練を喜ぼう。