神は生きている者の神
聖書箇所;マルコの福音書12章18節~27節 メッセージ題目;「神は生きている者の神」 私たちがクリスチャンであると公にして生きると、いろいろ煩わしいことに巻き込もうとする人がいます。なかでも、私たちがちゃんと説明したところで神さまを信じるつもりもないのに、私たちにとって答えにくい質問を吹っかけて悦に入るタイプの人など、その典型でしょう。私も学生時代から、自分がクリスチャンであることを周りに明らかにして生きてきましたので、興味本位の質問や議論を吹っかけられることがたまにありました。みなさまにもそんな経験はありませんでしょうか? ただ、そういう議論をクリスチャンではない人がしてくるなら、それでも福音を宣べ伝える機会にはなるので、意味がないとは言えないでしょう。問題は、聖書に啓示されている神さまを信じていると言いながら、私たちのことを意味のない議論に持ち込もうとする人たちです。いったい、彼らは何を思ってそんなことを言ってくるのでしょうか? 私たちのことを論破したつもりになって、そんなに楽しいのでしょうか? 今日の本文を見ますと、そのようなタイプの議論家がイエスさまに議論を吹っかける場面となっています。出てくるのは、おなじみのパリサイ人ではなく、サドカイ人です。サドカイ人、サドカイ派は、エルサレム神殿を中心とした祭司の家系に属する裕福な上流階級で、民衆の宗教的指導者として、パリサイ派の宗教指導者、パリサイ人と、政治や宗教をめぐる主導権争いをしました。 彼らの特徴として、モーセ五書、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記に最終的権威を置いていました。彼らは復活や死後のいのちというものを認めませんでしたが、それは、彼らにとっての聖典というべきモーセ五書に、それらのことが明記されていなかったからと推測されます。また、彼らは政治指導者としての側面も持っていましたが、だからというべきか、彼らは現実主義者で、世俗には関心を持っても、真の霊的な関心というものを彼らは持っていませんでした。 その前提で今日の箇所を読んでいただければ、サドカイ人がなぜこのような議論を吹っかけ、それに対してイエスさまがこのようなお答えをなさったかがわかります。のちほど順を追って説明しますので、まずは本文を見てみましょう。 18節、サドカイ人が来ました。ここで「復活はないと言っている」と、但し書きがついています。イエスさまはおっしゃいました。「わたしはよみがえりです。いのちです。」まことのいのち、よみがえりそのものでいらっしゃるイエスさまに議論を吹っかけるのですから、彼らのたくらみは無謀と言えるものです。 イエスさまを指し示した働き人であるバプテスマのヨハネは、パリサイ人とサドカイ人をまとめて、「まむしのすえども」と糾弾しています。おまえたちは宗教家のなりをした悪魔の子だ、というわけです。聖書を読んでも、彼らがバプテスマのヨハネの糾弾のことばを聞いて、悔い改めた形跡はありません。すなわち、パリサイ人がイエスさまに敵対していたように、サドカイ人もまた、神の子であるイエスさまを受け入れることろには到底達していませんでした。だから彼らは真理を求めてイエスさまに質問したのではありません。言いがかりをつけてイエスさまを罠にかけ、あわよくば失脚させようとたくらんだわけです。この点、対立する相手のパリサイ人と同じことをしていたことになります。 彼らがそういうことを念頭に置いていたという前提で、あらためて19節から23節を読みましょう。 まず、19節のみことば、これは申命記25章5節に書かれているみことばがもとになっていて、「レビラート婚」という、律法に定められた結婚形態の根拠となっています。これそのものはもちろん、みこころにかなっていることであり、亡くなったイスラエルの民の名を記憶させる、また、その財産を一族で守るという意義があります。ルツ記に登場する、ルツをめとったボアズは、この「レビラート婚」の原則にしたがって行動し、ルツとの結婚を果たしました。あとでおうちに帰られたら、ぜひ「ルツ記」をお読みください。短い1章ずつの全部で4章の、とても短くて美しいみことばです。 その「レビラート婚」の原則はモーセ五書である申命記にあるわけで、サドカイ人の信仰の根拠、というより宗教的判断の根拠となっているのももっともですが、問題はその次です。長男夫婦に子どもがないまま、長男が死んだ。その長男には弟が6人いて、次男が長男を継いでその妻と結婚、しかし次男が死んだ、そこで三男が継いで結婚、でも死んだ、そこで四男が継いで結婚、でも死んだ、そこで五男が継いで結婚、でも死んだ、そこで六男が継いで結婚、でも死んだ、そこで七男が継いで結婚、でも死んだ、そして妻も死んだ。 このように言うと、サドカイ人がどれほどめちゃくちゃ、ナンセンスなことを言っているかわかると思います。これは、レビラート婚はそれほど大事なものだからしっかり守るべきである、という前提で話しているというよりも、何が何でもイエスさまの粗探しをしてやる気満々で、こんなことを言っていると見るべきでしょう。 しかし、そうは言いましても、可能性としては限りなくゼロに近いですが、完全なゼロとは言い切れません。そういう可能性もありますよ、さあ、あなたならどうお答えになるのですか、これはほかならぬ、みことばの語っていることなのですよ、と迫っているわけです。 しかし、彼らサドカイ人がこのような例話を用いた意図が、23節ではっきりします。彼らは復活を信じない前提でこのようなことを言っているわけですが、彼らはこう言いたいわけです。もし復活というものがあったら、婚姻関係はめちゃめちゃになるでしょうが……。したがって、復活というものはありません。先生、あなたは嘘つきです。そういうふうに、彼らはイエスさまに喧嘩を売っているわけです。 私たちにとっても、しばしば答えにくい問いというものがあります。特に、聖書の一か所を取り上げて、聖書のほかの箇所と照らし合わせると矛盾ではないですか、さあ、どう考えますか、というたぐいのものです。これは、聖書を誤りなき神のみことばと信じ告白する私たちからすると、一生ついて回る課題です。逃げたくなるでしょうか。そんな問いをする人に対して逆切れでもして、うるさい! と一喝するでしょうか。 しかし、イエスさまはそのどちらでもありませんでした。このような者たちに対しても、懇切丁寧にお話しになりました。まず、イエスさまは、あなたがたサドカイ人は聖書という神のみことばも神の力も知らない、とおっしゃいました。ゆえに、あなたがたは思い違いをしている、ということです。 およそ神に属する者にとっては、聖書という神のみことばに根差し、聖霊なる神の御力を祈りのうちにつねに体験することは必須のことであり、生命線です。いわんや彼らは祭司の一門に属する立場にあります。みことばを知ることもせず、神の力を体験することもしないで、ユダヤの宗教指導者として君臨するなど、あってはならないことでした。まさにヨハネが「まむしのすえども」と糾弾した時から、彼らは変わっていなかったのでした。宗教家のなりをした俗物でした。 しかし、人の振り見て我が振り直せ、です。私たちはみことばと祈りにおいて神と交わり、人々の前に神を証しし、聖徒の交わりをする者として、広い意味で祭司です。まさに、第一ペテロ2章9節に「あなたがたは王である祭司」と書いてあるとおり、また、宗教改革者ルターが私たちすべての聖徒を指して「万人祭司」と主張したとおりです。私たちがその祭司としての役割を果たすには、毎日みことばをお聞きし、毎日祈ることで神さまと交わることは必須です。こうしないと、私たちは思い違いをすることになります。 思い違い。それは、みことばと御霊の啓示から外れることで、私たちが「信じたい」方向に動かされてしまうことから生じることです。私たちの教会が毎週「バプテスト教理問答書」から学んでいるのは、それは先人たちが緻密に聖書を研究した結果のエッセンスであり、そこから外れては教会があらゆる点で不健全になるからです。信仰告白、教義、神学、ほんとうに必要です。それを外れるならば、それはもはやキリスト教と呼ぶことはできません。 イエスさまはなんとお語りになっているのでしょうか? 25節です。そうです。婚姻というものは、第一に「産めよ、増えよ、地を満たせ」というご命令を人間が遂行するために、男性と女性で結び合わさって成り立つ制度です。しかし、御国においては、もはや出産ということはありえず、したがって出産の大前提になる「結婚」ということもありえません。この神さまのみこころは、永遠のいのちというものをこの世的な発想でしか理解できないサドカイ人には、到底理解できないものでした。 そして、イエスさまはさらに、彼らが後生大事にしているモーセ五書から、実は神さまが復活ということをお語りになっていることを明らかにされます。26節です。これは、出エジプト記で、荒野で羊を飼っていたモーセの目の前に、火で燃えているのに燃え尽きない不思議な柴の中から、神さまがモーセにお語りになった、という箇所であり、モーセ五書をなによりも大切にしているサドカイ人にとっては、原点そのものというべきみことばです。イエスさまは彼らサドカイ人に「読んだことがないのですか」とおっしゃっていますが、当然彼らは読んでいます。しかし、その意味するところを、彼らは悟っていませんでした。彼らはイエスさまのおっしゃるとおり、たいへんな思い違いをしていたわけです。 しかし、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と主がおっしゃったことが、なぜイエスさまのおっしゃるように、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です」ということになるのでしょうか? 不思議に思いませんか? まともな答えになっているのでしょうか? それが、これこそ正解中の正解なのです。それは、こういうことです。神さまがアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、ということは、神さまがアブラハム、イサク、ヤコブの三代と契約を結ばれたということであり、その契約はその子孫であるイスラエルに不変である、ということです。 彼らは確かに、地上での生涯は終えていました。墓もあります。しかし、そのはるかのちの時代にモーセが神の御声をお聴きした、それも「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という神さまご自身の自己紹介をこめて、これは、アブラハムもイサクもヤコブもなお生きていることが前提です。というのは、契約は当事者が死んでしまったら無効になるからです。しかし、この契約はいまなお生きていて、サドカイ人も含むイスラエル人、ユダヤ人も、契約の民としてみことばに生きる特権にあずかっています。だからこそ彼らサドカイ人はみことばを根拠に、レビラート婚の原則を受け入れて生活していたわけです。 となりますと、この契約がサドカイ人を含めて今なお有効ということは、2つのことを示しています。すなわち、契約を結ばれた当事者である神さまは変わることのないお方であること、そしてもうひとつ、もう一方の契約を結んだ当事者であるアブラハム、イサク、ヤコブはこの地上にはいなくても、それは彼らの肉体が朽ちたというだけのことで、彼らは霊においてなお生きている、そして、やがて復活して、主と結ばれた契約は最終的に成就する、ということです。 というわけで、サドカイ人がユダヤ人としてモーセ五書を大事にしているのならば、いかに律法のみことばに書かれていなかろうとも、彼らは復活、永遠のいのちということを受け入れていてしかるべきでした。それを受け入れられない彼らは聖書もわからず、神の力も体験できないので、不幸としか言いようのない存在でした。 しかし、この永遠の復活ということは、実際に見たことのない人には理解を絶するものでした。見えるものがすべての俗物だったサドカイ人などまさにそうです。しかし、見ずに信じる者になり切れない点で、私たちもまたサドカイ人と五十歩百歩の存在ではないでしょうか。イエスさまはそんな罪人である私たち、神を見ず、神を認めない罪人の私たちのために、十字架におかかりになり、その死をもって私たちを罪から贖い、救ってくださいました。 そして、イエスさまは復活してくださいました。当時のユダヤ人たちはこの論より証拠の復活を見て、イエスさまを信じました。 まことに、復活は神の力です。また、モーセ五書に始まるみことば全体の成就です。イエスさまの復活にあずかって、私たちも復活します。アブラハム、イサク、ヤコブも復活するのは、イエスさまによって成就した神の契約のゆえです。マタイの福音書8章11節をご覧ください。時が来て私たちは、異邦人の身分であったのにイエスさまを信じる信仰のゆえに神の民に接ぎ木された身分で、アブラハム、イサク、ヤコブととともに、天の御国の交わりに加えられます。イエスさまを信じなかった者は、たとえ血筋では彼らを先祖としているようでも、イエスさまの復活を受け入れているゆえに彼らの復活を受け入れているわけではないので、復活のいのちから除外されます。12節にあるとおりです。このときのサドカイ人は悔い改めないかぎり、マタイ8章12節のさばきが臨む立場にありました。 私たちがイエスさまを信じるということは、復活と永遠のいのちにあずかっているということです。地上の幕屋なる肉体が朽ちても、永遠のいのちが与えられ、やがて朽ちない永遠の、御霊に属する栄光のからだによみがえらされます。 私たちはこの地上に目を留めると、がっかりさせられることばかりかもしれません。しかし、そんなときこそ、わたしはよみがえりです、いのちです、わたしを信じる者は死んでも生きるのです、と言ってくださった、イエスさまの御顔を仰ぎ、力をいただく必要があります。 先週も学びました。主を仰ぎ見る者は輝くのです。私たちはこの世の過ぎ去るものに捕らえられていては輝けません。ただ、主との交わりの中で、永遠のいのち、栄光のいのちがあたえられていることを信じ受け入れつづけることによって、私たちは変わることなく輝くことができるのです。 私たちを輝かせてくださるお方は、昨日も今日も、いつまでも変わることがありません。アブラハム、イサク、ヤコブと結んでくださった契約は、信仰をもって神さまを受け入れた私たちには変わることなく有効で、私たちは信仰ゆえに神の子としていただきました。それゆえ、私たちはこの世においても神さまの助けをいただいて、雄々しく、勝利の人生を歩んでまいりましょう。復活のイエスさまはともにいてくださいます。