「宣教する弟子は何をするのか」
聖書本文;ルカの福音書10章2節 メッセージ題目;「宣教する弟子は何をするのか」 私たちクリスチャンの生活で、主日に礼拝をおささげすること、毎日聖書をお読みすることと並んで、必須のことがあるとすれば、それは「お祈りすること」だろう。大阪で牧会されていた谷口和男先生という方がドイツに留学したとき、ある講義で教授が、「キリスト教をひとことで言ってみなさい」と学生たちに語られ、学生たちはいろいろ答えを出してみるが、すべて「ナイン(ちがう)」。いら立った学生たちが、では、何が正解なのですか、と抗議するように教授に言うと、教授がひとこと。「神との交わり。これ以外にない。」それを聞いた学生たちは、ああ、ほんとうにそのとおりだ、と、一同納得したとのこと。私たちクリスチャンにとってのあらゆる生活は、みことばをお読みしてお祈りする、その「神との交わり」なくしては何事も進まない。 今年の標語でもお語りしているとおり、私たちは「宣教する弟子」として召されている。宣教する弟子は神さまに祈る。神さまとは収穫の主である。収穫をもたらしてくださるのは神さまであるから、収穫を得たいならば神さまに祈るのは当然のことである。そのような次元でも、私たち「宣教する弟子」は神との交わりを必要としている。 では何を祈るのだろうか? 収穫を多く得させてくださるようにだろうか? もちろん、それもあるだろう。しかし、このみことばをよく読むと、イエスさまが「収穫は多い」と言ってくださっているわけで、ということは、収穫ははじめから多く得られるように備えていただいているのである。 では何を祈るのだろうか? 収穫になぞらえられる宣教、伝道をするにあたり、きちんと話せるようにだろうか? それももちろん大事なことだ。しかし、これは祈りつつ、徹底して努力していくことが必要なことであり、つまり、人間的な努力なしには成し遂げられないことだ。私が今年導入を考えている「爆発伝道」というものも、そのとおりに語れるようにとにかく努力する。練習をすることが必要である。もちろんそれば、よく語れるように祈らなくていいということではなく、むしろお祈りは必要だが、逆に、お祈りさえすれば伝道するための努力をしなくていいということではない。 では、イエスさまは何を祈れとおっしゃっているのか?「ご自分の収穫、すなわち神さまの、神さまによる、神さまのための収穫に、必要な働き手を送ってくださるように祈りなさい」ということである。神さまの収穫のための働き人が多く起こされるならば、それだけ多く備えられたたましいを収穫することができる。 この働き人ばかりは、人間的な知恵や計画で豊かに与えられるものではない。この働き人が与えられることは神さまのご主権の領域のうちにある。私たちのすることは、働き人を起こすための何らかのアクションをすること以前に、この働き人が起こされるように「祈る」ことである。 ところで、このおことばはどこかで見たことがあるだろう? そう、マタイの福音書9章35節から38節である。まさに、神の民ユダヤの弱り果てた羊たちをご覧になって、イエスさまがお語りになったひとことである。その直後に十二弟子をイエスさまがお立てになったという10章1節以下のみことばが続くことからして、神の民にまことの救い主を伝え、彼らを弱さと飢え渇きから救うみこころを全うするために、イエスさまが十二弟子を派遣されたということが明らかになる。 そしてルカの福音書を見ると、先週もお話ししたとおり、天下のすべての民族に宣べ伝える象徴として72人の弟子が派遣されるにあたり、イエスさまがこの同じおことばをお語りになったということは、彼ら異邦人もまたユダヤ人のように弱り果てているゆえにそれをご覧になるイエスさまのおこころが、はらわたもよじれんばかりに痛んでおられたということを表していると言えるだろう。 ユダヤ人は聖書を通して救い主が示されているというのに、宗教指導者たちのせいでイエスさまが救い主であると信じる道が遮断され、救い主を知ることなしに弱り果てた。 しかし考えようによっては、聖書という基礎があるのだから、彼らユダヤ人は、その聖書が語る救い主とは実はイエスさまであった、ということを知りさえすれば充分だった。それだけ、イエスさまに対して目が開かれる下地があるわけである。 それが異邦人となるとどうだろうか。そもそも、イエスさまがキリストであることどころか、キリストとはどのような救い主かを教えるみことばも、教師もない。いのちの主なる神さまにつながる手段がどこにもないのである。ゆえに、弱り果てて衰えるしかない存在である。彼らは異邦人でユダヤ人、神の民ではないからとイエスさまは差別されない。むしろ、同じ神のかたちに造られた存在として、イエスさまは彼ら異邦人のことも深く愛され、彼らにも等しく愛を注いでいらっしゃる、ゆえに、彼らが弱り果てることもイエスさまには耐えられず、人よ、彼らに救われてほしいというわたしの思いをともに持ちなさい、そして、そのかぎりなく多い収穫のための働き人をわたしは起こし、また送るから、わたしにその働き人を求めなさい、とチャレンジしておられる。 思えば、私たちもその、イエスさまを知らなかったけれども、収穫を経てキリストのからだなる教会のひと枝とされて、神さまの恵み、永遠のいのちの喜びを日々味わう存在とされた、異邦人ではなかっただろうか? そう、ここ日本においても「収穫は多い」ことは、私たちが証明しているではないか。私が見るに、ここにいる私たちは変わり物ではない。ベリー・オーディナリー・パーソン。そんな私たちがこうして救われている以上、救われるべき人はこの日本に潜在的にたくさんいて、ゆえに、イエスさまがおっしゃるとおり、収穫は多いのである。 2人の靴のセールスマンのエピソードをお聞きになったことがあるだろうか? 奥地の部族に靴を売りに行った2人のセールスマン。ひとりが上司に報告した。「ダメです。この部族はひとりも靴を履いていないから、靴なんて売れません。」もうひとりが報告した。「やりました! ひとりも靴を履いていないから、靴が売り放題です!」もちろん、このエピソードを語る人は、後者のセールスマンのようになってほしくてこう言うわけだが、日本もそう考えられないか? 私たちはあまりにも、日本で宣教できない理由を探しては落ち込むか、あきらめるかする。しかし、よく考えよう。私たちが聞いて理解しているように福音を聞いたことのある人など、おそらく日本にはほとんどいない。少なく見積もっても、500人いて1人くらいだろうし、それはほぼ、教会に通っているクリスチャンだろう。まさに、靴を履いたことのない人たちに可能性を見出して、靴を売りに行くような土地、それが日本だと考えてほしい。 しかし、その働きを一体どれくらいの人で担えるだろうか? 収穫は多くても働き人が少なすぎては、ほとんど刈り入れることはできない。この事実を深刻にとらえ、神さま、どうか働き人を送ってください! と祈るならば、神さまはこの切実な祈りに応えて、働き人を起こしてくださる。 そう、働き人というのは、私たちクリスチャンが求めないかぎり、神さまは起こしてくださらない。働き人というのはもちろん、牧師や宣教師のような、専門の働き人のことも指している。そういう働き人が増やされ、なおその働き人の生活を支えることができるほどに教会がしっかりすることも必要である。しかし、収穫のための働き人は、牧師や宣教師だけではない。ここにいる私たちひとりひとりもみな、収穫のための働き人として召されていると考えるならば、潜在的な働き人は思いのほか多いことに気づく。 それなら、私たちはなぜ祈らないのだろうか? 下手をすると自分が働き人に召されてしまうかも、ということが恐いからだろうか? しかし、繰り返して言うが、働き人になることは現在している仕事を捨てて牧師や宣教師になることとはかぎらない。 ただし、念のためひとつだけ補足すると、ここにいらっしゃる方の中にはもしかしたら、神さまから直接献身するように導かれているけれども、どうしても踏み出すことができない、という方がおられるかもしれない。それは私自身も体験したことである。 私は大学を卒業するときになって、降ってわいたように韓国の神学校行きの話が舞い込んだが、私の周りの信頼していたクリスチャンの先輩たちには、直接献身だけがみこころじゃないよ、と、私の神学校行きをやんわり牽制するわりとおられた。しかし、私がずっとお世話になっていた、キャンパス・クルセードのスタッフの佐藤さんという方は、このようにおっしゃるのだった。「神さまに直接献身するのがみこころじゃない、なんていう人がいるけれども、俺はちがうと思うね、だって、神さまは献身することを願っておられるんだから!」私はこのことばに背中を押される思いで、周りから何と言われようとも神学校に行こうと決めた。 今思えば、日本の地に働き人が欲しいと祈っておられた多くの日本のクリスチャンと、日本にリバイバルが起きてほしいと祈っておられた多くの韓国のクリスチャンの祈りに神さまが応えてくださり、私が神さまに献身できるように導かれたのだろう。私たちに働き人が必要と思うならば祈るべきである。もし、この世界が荒れ果てた地であることを思うならば、まずは祈ることである。そうすることで主は、祈る私たちを働き人にふさわしく整えてくださる。そして、私たちの周りから、収穫のために働く私たちのその姿に魅力を覚え、自分も収穫のための働き人になろうと願う人を起こしてくださるようにと、私たちは祈れるようになる。 考えてみよう。先週私たちは、二人一組の働き人になるように、心を合わせた祈りをする人、合心(がっしん)祈祷をする人がどんなに必要かを学んだ。その、ともに働くひとりの働き人さえ、私たちにいるだろうか? まず、このようにともに働くたった一人の働き人からでも、私たちは祈り求める必要がある。そうすることで、私たちは孤独な戦いから解放され、ともに働く人とともに収穫を得る大きな喜びを体験することができる。 いっぽうで、祈りとは何か、という面からも見てみよう。私たちにとって祈りとは、自分勝手な願望を連ねることではない。私たちは自分やその家族のことももちろん祈るが、それはその領域に神さまが働いてくださることによって、神さまのご栄光が豊かにあらわされ、神さまの御名がほめたたえられるようになるためである。 しかし、それでも私たちは、何を祈るべきかわからないことがある。そのようなとき、聖霊なる神さまは私たちに何を祈るべきか教えてくださる。だから私たちは神さまの御前に静まり、祈るべきことばを与えてくださるように、まず祈り求める必要がある。しかし、その祈りの課題は聖書から外れることはない。ゆえに私たちは、祈るうえで、聖書のみことばをよく読むことが必須である。 その聖書のことばだが、この箇所の場合、何を祈るべきかが具体的に書かれている。収穫のための働き手を送ってくださるように、と。このように、何を祈るべきかかなり具体的に明示されていることは、とてもありがたいことではないだろうか? これほど具体的に語られているということは、そのとおりに祈りなさい、ということでなくて何だろう? だから私たちは神さまに、収穫のための働き人を送ってください、と祈るべきである。神さまは必ず、私たちのこの祈りに応えてくださる。 今日は特に、このことを集中して祈りたい。神さまははっきりと、「働き人を送ってくださるように祈りなさい」と求めておられる。宣教する弟子は何をするのか、働き人を送ってくださいと祈る、これが第一にすることである。あとは私たちが神さまのこのお招きにお応えして、このようにお祈りするかどうかにかかっている。