主の弟子は守られる

聖書箇所;マタイの福音書10章16節~23節 メッセージ題目;主の弟子は守られる  大なり小なり、クリスチャンが迫害という形で悪い目にあうことは避けられない。そんなとき私たちは、どのようにそういったことに対処するものだろうか? もちろん、個別のケースのちがいがあるので、具体的にどうこうすべし、と一概には言えないが、その原則として、私たちには聖書のみことばが与えられている。特に、今日のみことばは、私たちが迫害にあうときにどう対処すべきかを詳しく語っているので、このみことばを原則として歩めばよい。  16節。このみことばと同じことを語るルカの福音書のみことばについては、ついこの間の礼拝で取り上げた。そのとき、羊らしい主イエスへの従順の行いをもって主を証しし、サタンに従う狼を主に従う羊にしていこう、これぞ伝道である、とお語りした。しかし、そうはいっても一方で、そのように狼自身が実は羊であることを自覚できるようになることは、神の時にしたがってのことであり、それまで狼はやはり、羊を取って食う狼である。そのような者の攻撃に対して無防備であれ、とイエスさまは教えておられるわけではない。  そこでイエスさまが説いておられることが、蛇のようにさとく、鳩のように素直に、ということ。前回のメッセージでは、この原則を、狼を羊にしていくわれわれにとっての伝道のわざに適用したが、狼から不必要な危害を受けることから身を避けることに関しては、こういうことが言えよう。  蛇とは何だろうか? 言うまでもなくサタンの象徴である。また、出エジプトにおいて、火の蛇が荒野において、片っ端からイスラエルの民に危害を加えていったように、滅ぼす者の象徴である。そういう存在がさとい、とみことばは語る。  イエスさまは、サタンに属する者、そのような知恵を受けた者を、ルカの福音書16章の不正な管理人のたとえにおいて、こう評しておられる。「この世の子らは、自分と同じ時代の人々の扱いについて、光の子らよりも賢い」。主人の債務者のための証文を偽造して彼らの歓心を買おうとすることは、ほんとうならばいよいよ主人の信用をなくすこと。しかし、主人はこれをほめた、とイエスさまは語っておられる。ずるがしこいことはこの世の流れ、この世の知恵であり、この世が何に関心を持っているかに無知であってはならない、ということも教えている。  そもそも、私たちの敵である蛇、サタンがどのような戦略と戦術で私たちを脅かしにかかるかが分かっていないならば、私たちはどうやってこの世の人々に伍していくことができるだろうか? ただでさえ彼ら狼は、私たちが善良な羊なのをいいことに、そんな私たちのことを食い物にする者たちである。狼を狼ならしめている蛇の知恵、サタンの知恵を見抜くこと、それが私たちに必要である。  サタンのことを知るには、サタンの動かしているこの世のニュースを知る必要ももちろんあろう。しかし、それにいちいち対応していては切りがない。サタンとは何物で、どんなことを考えて行動しているか、という原則を私たちは知る必要がある。聖書のみことばを学ぶならば、サタンがどんな知恵を持っているかを私たちは知ることができる。  そうすることによって、私たちは蛇のように賢くなることができる。これはなにも、蛇の知恵を身に着けてその知恵にしたがって行動するようになる、という意味ではない。それでは私たちは反キリストの手先になってしまう。  そうではなくて、蛇の思考パターン、行動パターンを読み、それにふさわしい戦略、戦術を立て、この世のあらゆる歩み、家庭生活や職場生活、近所づきあいといったことに入っていくことができる、ということである。こうすることで、私たちは主のからだの一部分である自分自身、また信仰の仲間を、人を介してのサタンの余計な攻撃に晒すことから避けさせることができるようになる。  同時に必要なのが鳩のように素直なこと。鳩は、御父からくだってイエスさまにとどまられた聖霊なる神さまのお姿。鳩のように素直に、とは、聖霊なる神さまが御父と御子に従順に従われ、そのみこころをつねにあらわされる、その素直な姿勢を指している。  サタンの思考パターンを知るだけでは充分ではない。それ以上に必要なのは、聖霊なる神さまによって私たちはどれほど愛なる神さまとの深い交わりに入れられているか、その素晴らしさを日々体験することである。私たちを取り囲む世界はサタンに魅入られた狼にあふれていて、そのひねくれた見方ばかりとつきあっていたら、私たちもいつしか、ことばづかいやものの見方がサタンの影響を受けすぎてしまう。私たちが素直になる対象はサタンではない。御父、御子、御霊の三位一体の神さまに対してである。そうなることで私たちは、平常時にも、いざというときにも、神さまの導きをいただいて狼のような存在に伍していける。  使徒が活動しはじめたばかりの初代教会のころ、狼のようなユダヤ人は使徒たちを告訴したり、暴力的な迫害を加えたりして苦しめた。そのような者たちを用心しなさい、とイエスさまは語っておられる。彼らに捕らえられ、福音宣教がストップしてしまったら、元も子もなくなる。たしかに私たちは、主の弟子だからというそれだけの理由でこの世から不当に憎まれるが、その憎む者たちに対して無防備に身を晒していいわけではない。彼らのことを避けることができるならば避けるのも知恵である。私たちはまず、自分自身を守らなければならない。それは自分がかわいいからではなく、神さまが私たちのことを大事に思ってくださっているからである。私たちは犬死にのように、苦しめる者の手に自分のことをやすやすと渡してはならない。  しかし、迫害ということにはほかの側面もある。それは、証しをする機会が開かれる、ということである。18節にあるとおり。ステパノがそうだったし、このステパノの最後の説教を聴いたことがのちの回心につながったといえるパウロもそうだった。しかし、語ることは普段からどうしようと心配していた末に出てきたことではない。19節、20節にあるとおり、聖霊の交わりによって語られたことである。  私たちはいざというとき、未信者に対して救い主イエスさまのことが語れなくて、口惜しい思いをしたことがないだろうか? そんな私たちに必要なのは、彼らを突き動かす蛇の知恵を見抜き、彼らに証しする神の知恵を授けてくださる聖霊のお働きに、普段から従順でありつづけることである。何を語るかをあらかじめ考えないのは、相手が何を言ってくるかを想定するときりがないからでもあるが、なによりも、相手にもいのちを与えて生かしておられる主のみわざが、相手にも臨み、導きを与えるため。パウロの宣教がヘロデ・アグリッパ王を動揺させた、すなわち、自分がクリスチャンになったらどうしようとうろたえた、使徒の働き26章のようなことが起こるからである。  ただ、そのように御霊ご自身が現れるダイナミックな宣教の働きに用いていただける一方で、迫害を加えてくる存在はとても身近な人たちであったりする。きついのは、血を分けた親子や兄弟でさえ、迫害を加える存在となる、ということ。そのようなとき私たちの信仰が問われる。私たちは何も、彼らに強い態度で立ち向かって勝負を挑み、勝つべきなのではない。私たちはまず、謙遜であることが求められる。  そうはいっても、彼らに迎合することがみこころにかなっているのではない。たとえば、葬儀などで、偶像礼拝行為を強要してくるとき、彼らは私たちの善良さにつけこむ。私たちの罪責感を刺激するようなことを言ってくる。偶像礼拝行為をして当然、それが私たちの持つべき信仰の姿と彼らは理解し、しなければ、私たちの信仰を攻撃する。考えてみればとんでもないことである。  私たちは知恵深く、こういったことを避ける必要があるが、だからといって、たとえが極端だが、織田信長の伝説のように、位牌に抹香を投げつけるようなこともすべきではない。やっぱりあいつはヤソだから、などというひんしゅくをあえて買うことをしてはならない。迫害者の魔の手を避けながらも謙遜に……。簡単ではないが、蛇のようにさとく、鳩のように素直に普段から考え、振る舞っているならば、かならずできると信じていただきたい。  「最後まで耐え忍ぶ人は救われます」。この、耐え忍ぶということは、神の恵みによってできることである。ペテロをご覧いただきたい。彼はイエスさまについていきますと誓い、大見得を切った。そんな彼もいざとなると、自分がイエスを知らないというのが噓なら呪われてもいい、という、とんでもない誓いを立ててイエスさまを否定した。だが、彼は呪われることなく、のちにはイエスさまについていくことができた。なぜか? ペテロのことをサタンがふるいにかけようとも、信仰がなくならないように、イエスさまが祈ってくださっていたからである。  立っていると思う者は倒れないように気をつけなさい。しかし、気をつけるのは人間的な努力や気合でどうにかなることではない。あのソロモンも晩節を汚(けが)したことを、私たちはもっと聖書の警告として受け取る必要がある。恵みに拠り頼まないで、千人からの女の人やエジプトの富に拠り頼むような人の晩年は悲惨なものだった。しかし、私たちは覚えておこう。私たちが主に拠り頼むことができるように、主イエスさまは私たちのために祈り、恵みをくださっている。  私たちは守られる。だから、もしかしたら自分は迫害にあって、たいへんな思いをするかもしれない、と、恐れたり、おびえたりしないでいただきたい。そんな私たちはしかし、繰り返すが、あえて迫害にとどまろうとすることをする必要はない。23節。私たちの証しを受け入れない人、それこそイエスさまがお語りになったように、真珠のごとき大事な福音を語る者に対して恩知らずにも攻撃を仕掛けてくる「豚」のような人。  豚に真珠を与えてはならない、とイエスさまはおっしゃる。日本の猫に小判が西洋の豚に真珠だ、と言われるが、正確にはちがう。猫に小判を投げても「なんだろう?」という表情を浮かべるだけだが、豚は真珠を投げると真珠を足で踏みにじり、投げた人に危害を加えるとイエスさまはお語りになっている。福音の価値がわからないどころではない、福音をけがれたものとみなし、福音を語る人をいたく傷つける、そういう人に構っている必要はない、とイエスさまはお語りになっている。これは、足のちりを払い落としなさいとおっしゃることにも通じる。  そういう場合には次の町に逃れなさい。つまり、福音を語る働き人のことを受け入れてくれる人たちのもとに行きなさい、ということ。人の子が来るときまで、すなわち、イエスさまが再びこの世界に来るときまで、あなたがたはイスラエルの町々を巡り終えることはできない、つまり、福音を完璧に宣べ伝えきることはできないとお語りになる。これは、そうだという事実、人の力は及ばないということを受け入れてあきらめなさい、ということではない。福音宣教とはそれだけ急を要するものである、ということ。このみことばは、自分の愛するあの人のもとに福音が宣べ伝えられ、それからイエスさまが来られますように、そのために私のことを用いてください、というチャレンジを私たちに与える。  私たちはその働きをすることにおいても守られる。サタンは、福音宣教のわざがなされ、人々がひとりでも救われていくことにならないように、さまざまな妨害を仕掛けてくる。  しかし、私たちは信じよう。主が福音宣教の働きのために私たちを召され、用いてくださる以上、主は私たちのことを、また、私たちが福音を証しすべき人たちのことを、サタンの魔の手から守ってくださり、この地に私たちをとおして、神の国を成し遂げてくださる。  私たちは何か恐れていることがあるだろうか? なにゆえに恐れているのだろうか? 何かを失うことだろうか? それを失うと何がいけないのだろうか? 逆に、私たちにとってほしいものは何だろうか? なぜそれがほしいのか? それを手にすることでどのような益があるのだろうか?  神さまは、もしみこころのゆえに失ってはならないものがあるならば、必ず保ってくださり、必要なものがあるなら与えてくださる。私たちは主の弟子であるゆえに、主がそのいのちに責任を取ってくださり、守られる。私たちを守ってくださる主に感謝しよう。

「主の弟子は『エイレーネー』を祈る」

聖書箇所;マタイの福音書10章11節~15節 メッセージ題目;「主の弟子は『エイレーネー』を祈る」  一部の神学校を除き、神学校というところではギリシャ語とヘブル語を勉強する。これは、およそ聖書を学ぶ人ならば、日本人ならば日本語など、自分が用いている言語の聖書に訳しきれない、もともとの聖書の意味を把握するために必要だからである。私も神学校で学んだ。本来ならば入学式の前に、1月と2月に合宿形式で学ばなければならなかったのだが、まだ日本の大学が終わっていなかったのでこれは免除していただいた。のちに1学年が終わってその合宿に参加したのだが、1年間神学校で学んで慣れていたはずだったのに、それでも大変だった。いきなり学びはじめた人たちは、どれほど大変だっただろうかと思う。  そういう、聖書原語。今日のメッセージタイトルは「主の弟子は『エイレーネー』を祈る」である。エイレーネーとは何かご存じの方もおられるとは思うが、これはギリシャ語である。今日のタイトルはあえて日本語を使わなかった。その理由も含め、エイレーネーとは何のことかあとで説明するので、楽しみに(?)お待ちいただきたい。  今日の箇所でイエスさまは、主の弟子たちが宣教を展開するにあたり、まずどのように振る舞うべきかを教えておられる。11節。まず、主の弟子たちは、「ふさわしい人」がどこにいるかを調べる。何にふさわしいのだろうか? それは追い追い読み進めればその中身がわかってくるが、まず言えることは、宣教に協力してくれる人である。  イエスさまとその弟子たちが宣教の活動を展開していくうちに、そのように、受け入れてくれる人というありがたい存在が現れるようになっていた。ベタニアのマルタ、マリア、ラザロの三きょうだいなど、その典型的な例であろう。ほかにも、イエスさまのエルサレム入城にろばを貸してくれた人、最後の晩餐に二階の大広間を提供してくれた人、まことに福音宣教は、そういう人たちの存在に支えられていた。  そういう人たちは、まず、神さまが選び、その働きに献身するように導いておられた。先週学んだみことばでは、お金も、余計な持ち物も持たずに宣教の旅に出るべきなのは、必要なものは神さまが与えてくださるという信仰を働かせ、祈るべきだからだと学んだが、ここでもイエスさまは、必要な人は神さまが起こし、導いてくださるという信仰を働かせるべきだとおっしゃっているわけである。  さて、そういう人が見つかったら、弟子たちは何をする必要があるのだろうか? 12節。ここで、平安を祈るあいさつをしなさい、とあるが、この「平安」が、原語のギリシャ語では「エイレーネー」である。宣教の拠点にふさわしい人のところにたどり着いたら、その人のために「エイレーネー」を祈りなさい、というわけである。  ここで、「エイレーネー」ということばのもうひとつの意味を見てみたい。それは「平和」である。英語ではどちらも「ピース」と訳せるが、日本語では文脈によって「平安」と「平和」と訳し分ける。しかし、これでは印象が少し違わないだろうか? また、日本語で一般的に言われている「平安」や「平和」ということばは、聖書の語るそれと同じなのか、違うのか?  日本では一般に「平安」というと、多くの場合それは「平穏無事」や「安心」というイメージではないだろうか? ほっとする、というような。また、「平和」というと、何といっても太平洋戦争で庶民が大いに苦しんだこの日本である、戦争だけはこりごりだ、というような、敵の攻撃が及ぶことが一切ない、安心していられる状態、というイメージがあろう。  そんな日本人にとっては、イエスさまがここで命じておられる、「平安(エイレーネー)を祈るあいさつをしなさい」は、「どうかあなたが平穏無事でありますように、シャローム」と挨拶するイメージでとらえてしまわないだろうか? もちろんそれも間違ってはいない。しかし、エイレーネーを祈るあいさつをするということは、それにとどまらない、もっと深く、かつスケールの大きいことである。  キリストの弟子が語るエイレーネーの本質はどこにあるだろうか? それは、キリストによって、人が神とエイレーネーを保つことにある。ローマ5章1節に語られているとおりである。この「神との平和」の「平和」とは、原語で「エイレーネー」である。  キリストは罪人である私たちのことを神と和解させてくださった。まず、キリストの福音を聴くべき人は、キリストとはそのようなお方であることを受け入れる必要がある。弟子たちがイエスさまに遣わされて福音を宣べ伝えたこの時点では、イエスさまの十字架の贖いのわざが明らかになっていなかったので、ここで弟子たちが祈る平安とは具体的にどんな根拠があるかまでわかったうえでの挨拶となっていたわけではなかろう。しかし、イエスさまの十字架を伝える以前に、イエスさまを伝えてはいた。平安を祈るあいさつの本質は、エイレーネーの主なるイエスさまのエイレーネーがその人に及ぶことである。  前にもお話ししたが、「あいさつ」とは、単に「こんにちは(シャローム)」と声掛けすることだけを指すのではない。時間をかけて行うれっきとしたコミュニケーションである。「先生にごあいさつに伺う」と言ったら、お久しぶりです、ではさようなら、ではない。ある程度時間をかけて話し合う。同じように、平安を祈るあいさつとは、神との平和、すなわちイエスさまを信じる信仰が分かち合われることである。何ごともここからスタートする。  考えてみよう、私たちもだれかによる、平安を祈るあいさつ、つまりキリストとの平和があるように祈るコミュニケーションがあったからこそ、主の働きを担う者どうしの祝福の祈りの輪に加われたのではなかったか。伝道の働きにあずかる者になれたのではなかったか。13節を見よう。私たちは平安にふさわしい者とされていた。つまり、神のエイレーネーを受け入れるにふさわしい者として選ばれていた。ふさわしいとは、単に宣教の役に立つ人としてふさわしいというにとどまらない。神のエイレーネーを受ける人としてふさわしいということである。  それなら、13節の続きのみことばはどういうことだろうか? エイレーネーにふさわしくない、つまり、エイレーネーを受け入れるにふさわしくない態度の反抗的、無関心な人、ということ、ゆえに、エイレーネーの君なるイエスさまを宣べ伝える働きに協力するつもりもない人である。そういう人がエイレーネーを祈るあいさつにふさわしくなければ、エイレーネーが返ってくるようにしなさい、これはどういうことだろうか?  これは、キリストの弟子に対して敵対的な態度の者たちに対し、どんな態度を取るようにしなさいとみことばが語っているかを見ればわかる。イエスさまは、右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい、とお語りになる。少し考えればわかるが、右の頬を打つことは一般的に利き手である右手の手のひらを使ってはできない。右手の甲で打つ。これは相手にものすごい屈辱を与えることである。そんな者にも逆の頬さえ向けなさい、ということ。これはマゾヒスティックになれと教えているのではない。そんな相手であろうとも、祝福しなさい、と教えているのである。  パウロはさらに具体的に、あなたがたを迫害する者を祝福しなさい、祝福すべきであって、呪ってはいけません。彼らが飢えたなら食べさせなさい、渇いたなら飲ませなさい、とも語っている。そんなパウロは第一コリントのみことばで、自分はののしられても相手を祝福する、と告白している。そう、キリスト者の本質はどんな相手であれ、相手を祝福することにある。  迫害する者のために祈り、敵を愛する、それでこそ御父の子どもになるのであると、イエスさまはお語りになる。御父の子どもであること以上の祝福はこの世にはありえない。全世界を手に入れても御父の子どもではなくなり、永遠のいのちから零れ落ちてしまうならば、すべてを失ったことになる。  だから、たとえ福音を受け入れない人、それこそイエスさまがおっしゃったように、真珠を与える人に飛びかかる豚のような人が相手であろうとも、私たちのすることは神のエイレーネーをもって祝福することである。そうすることによって、私たちは神の子どもとして御前に立たせていただくという、エイレーネーをわがものとさせていただくのである。  だが、エイレーネーを受けれない人を呪ってはいけない一方で、彼らに迎合したり、彼らに受け入れられようと恋々としたりしてもいけない。すべきことは、あなたがたは神のエイレーネーを受け入れませんでした、私はあなたのその態度と選択に責任を負いません、その責任はあなたが負うのです、と、足のちりを払い落とすことである。  足のちりを払い落とすように彼らとのかかわりを絶たないならば、その土地を汚しているちりがその人を汚すように、その悪い習慣や考え、行いに染まったまま、神への従順に踏み出そうとしてしまう。私たちは人生の遍歴の中で、いろいろな人に出会ってきた。親をはじめ、兄弟、親戚、学校の友達や先輩後輩、職場の同僚、近所の人、それだけではなく、テレビや新聞や本やインターネットなどをとおしても、いろいろな人の意見を聞いてきた。いつの間にかそういう影響を受けて、ことばづかいや行いが染まってきた。そういうものを私たちはどこかで引きずって生きている。みことばを読めば、聖くあらねばならないことを教えられるが、私たちはなお世の影響を受けてしまっていて、聖い生き方ができなくなってしまっている。足についたちりのような、むかしのものを払い落とさないまま神への従順を実践しようとしても、うまくいかない。どこかでこの世と調子を合わせてしまうのである。  主の弟子がこの世と調子を合わせないためには、ローマ人への手紙12章1節にあるとおり、心の一新によって自分を変えていただくことである。どうすればいいだろうか? イエスさまに洗っていただくのである。これが悔い改め、自分から神への方向転換である。  弟子たちは俗塵にまみれた足を、恐れ多くも主なるイエスさまに洗っていただいた。イエスさまは神であるのに、私たちの足を洗ってくださるお方である。私たちは勇気を出してイエスさまに、俗塵にまみれた足を差し出そう。そしてイエスさまとの交わりの中で、エイレーネーの福音の備えをすべき足についていてはいけないこの世のちりは何か、示していただき、落とす決断をしよう。  15節をご覧いただきたい。エイレーネー、神との平和を受け入れない者には、神さまがそれにふさわしいお取り扱いをされる。ソドムとゴモラ、それは、御使いさえも辱めようとしたほど霊的に壊れた、神をも恐れぬ集団である。ロトは神のあわれみを受けた義人として、それを捨てて命がけで逃げなければならなかった。ロトの妻はしかし振り返り、その場で塩の柱になって息絶えてしまった。ふさわしくない集団に対する足のちりを払い落とせず、むしろそれに恋々としてしまった証拠である。  私たちはエイレーネーを祈る。前にも言ったが、韓国のクリスチャンたちは家や教会を訪問したらお祈りをするが、これはエイレーネーがこの家にあるように祈っているわけである。しかし私たちは、相手がふさわしかろうとふさわしくなかろうと、エイレーネーを祈るべきである。それがみこころだからである。まことに、私たちのすることは、平和の主なるイエスさまが私たちの主として統べ治めてくださるように、あらゆる時と場合に、エイレーネーを祈ることである。  最後に、マタイの福音書5章9節のみことばを読もう。この「平和をつくる者」のもともとのことばも「エイレーネー」である。単なるピースメーカーとか、平和運動、反戦運動ではない。もちろん、それもとても大事にはちがいないし、いのちをかけてそのような努力をする方々のことはとても尊敬するが、このみことばの語る「エイレーネー」は、エイレーネーの主なるイエスさまを主とするところから生まれる。神とのエイレーネーを保つという大前提あってのものである。その上でつくるエイレーネーだからそれ相応の努力を必要とする。しかしその一方で、神の恵みにとってその努力をする働きは成し遂げられる。  私たちはイエスさまとのエイレーネーに入れられていることに感謝しよう。イエスさまによって御父と保っていただいているエイレーネーにつねに憩おう。そこから、主にあってエイレーネーをつくり出す働きに用いていただこう。イエスさまの十字架こそは、エイレーネーそのもの、恵みに拠り頼んで十字架の道を生きるならば、私たちはエイレーネーをつくり出す神の子としての生き方に、必ず用いていただける。宣教とはまさしく、神と人のエイレーネーを成し遂げ、そこから人と人のエイレーネーをつくり出す働きである。用いていただき、私たちの周りから神のエイレーネーが実現していくように祈ろう。

主の弟子の召命

聖書箇所;マタイの福音書10章5節~10節 メッセージ題目;主の弟子の召命  「私は何者なのか?」考えたことがあるだろうか? 私も忙しくしていると、自分が何者か意識しなくなり、それが生活のあらゆる局面にゆがみをもたらすようになる。Who、武井俊孝は、When、この2024年という50歳になる年を毎日、Where、茨城県央の茨城町で、What、キリスト教会において神と人に仕えることを、How、弟子訓練の牧会をもって行う。しかし、それらの4W1Hを支える「Why」がしっかりしていないと、たちまち足元をすくわれる。Why、それは神さまの召命だから、つまり、神さまが「せよ」とおっしゃっている以上、しなければならないことだから。  その「Why」はしかし、普段から神さまと親密な関係を持っていなければ身についていない。私は14年以上にわたる牧師生活の中で、その生活を続けていくうえで何度となく危機を覚えたものだった。それは意志が弱いせいだからというより、忙しさにかまけているうちに、神さまとの交わりが希薄になってしまっていたからだと言える。  わたしの目にはあなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している、こういう御声がお題目のようにではなく、それこそ生きた神さまからの御声としてつねに聞けていて、愛されていることの喜びと感謝に満ちているならば、燃え尽きから守られる。これはまた、同じ召命を与えられた仲間たちとの交わりを通してでも受け取っていく必要のあることで、先週も学んだとおり、イエスさまが弟子たちを共同体のうちに生かされたのは、ともにイエスさまの御声を聴く仲間たちの存在がそれほど大事なように、イエスさまが私たちのことをおつくりになったからである。  ここで、弟子たちに対するイエスさまの召命に照らして、私たちに対するイエスさまの召命は何かを考えることに意味があるだろう。私はかつて神学生だったが、イエスさまに生涯かけて献身した者であるという召命観においては、神学生も牧師も変わらない一方で、神学生はまだ牧会の責任を負う立場には置かれていない、基礎の基礎を身につけていくべき、いわば「ひよっこ」である。段階を追って働き人になる。働き人に見合うだけのアイデンティティはまだ持ち合わせていない。その点では神学生も、まだイエスさまのもとで十二弟子の訓練を受けている弟子たちも、同じと言えよう。  ただし、神学生にしても、十二弟子の共同体にしても、のちの働きに出ていくための基礎を身に着けるプロセスにある点では同じである。神学生はヘブライ語やギリシャ語、組織神学など、実際の牧会においてはそこまで多くの割合を占めるわけではないことについてかなり勉強する。それは、確かに多くの割合を占めてはいなくても、牧会の基礎になる聖書解釈にとっては必須だからである。同じように十二使徒の働きも、その基礎にはイエスさまのもとで受けた弟子訓練がある。その弟子訓練における召命は、私たちが主の弟子としてこの世で振る舞う上でも基礎になることである。ともに学んでみたい。  まず、5節と6節のみことばを見てみよう。イエスさまは十二弟子をどこに遣わしているだろうか?「イスラエルの家の失われた羊たち」のところに行くようにとおっしゃっている。近隣のサマリア人や、ましてや異邦人の住むところではないのである。  これは、神さまのみこころの優先性に関することである。この直前のマタイの福音書9章の最後の部分で、イエスさまがイスラエルの群衆を見て、羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている様子に、ひどく心を痛められる場面が出てくる。そんな神の民がなぜそのように弱り果てていたかというと、霊的世界を牛耳っている宗教指導者たちによって、あらゆる形で搾取され、痛めつけられていたからである。イエスさまは宗教指導者たちに対して、自分も負いきれないほどの重荷を負わせているのに、自分はそれに指一本触れようとはしないと糾弾しておらるが、そのような、みことばというよりも恣意的なみことばの解釈をみな守らざるをえなくて苦しむ民、そんな彼らの苦しみに、イエスさまは深く同情された。  しかし彼らは、神の国をずっと待ち望んでいた人たちである。そんな彼らが神の国に入るには、方法はひとつしかなかった。間違ってもそれは、パリサイ人が教えるとおりにみことばを、というよりその解釈を守り行うことではない。今まで、そうしなければ神の国に入れないと信じ込まされてきたけれども、それでは決して神の国に入れない。いまや神の国の王であるイエスさまがこの世界におられるのだから、信じるべきはイエスさまである。彼らイスラエル、神の国を激しく待望してきた民が第一に、イエスさまの福音を聴くべきであった。  イスラエルへの宣教は一種の戦いだった。イエスさまはすでに、あらゆる町や村を巡って、みことばを語り、しるしを行なっておられたが、イスラエルの霊的世界を牛耳る宗教指導者たちは、そのみわざは悪霊によるものだと語ってやまなかった。そのような指導者たちのせいでイエスさまに出会う道が閉ざされ、結果、弱り果てるしかなかった神の民がほんとうの意味で神の民になるためには、イエスさまの命(めい)を受けた弟子たちが複数散っていって語る必要があった。  まず、神の民から祝福を受ける道が開かれる。それがこの時の宣教の原則だったから、異邦人やサマリア人のところに行く前にまずイスラエルに、ということだったわけだが、その原則はやがて、イエスさまが全世界に弟子たちをお遣わしになり、「使徒の働き」に入って、異邦人に至るまで宣教が展開するかたちに昇華された。しかしこれは、ユダヤ人が、神の国の主そのものでいらっしゃるイエスさまを、十字架にまでつけ、そのうえで福音を受け入れなかった結果、子どもの食卓から落ちたパン屑を小犬が食べるように、異邦人にまで救いが及んだ結果であり、異邦人宣教がイスラエルへの宣教に本来優先していたわけではないので、私たち異邦人は勘違いしてはならない。  イエスさまはご自身のその、イスラエルへの宣教のわざをなされるにあたって、彼らの同胞である十二弟子をお用いになった。神の民から選抜された十二弟子からイスラエル宣教がなされ、やがてイエスさまの十字架と復活によって神の国がすべての人に開かれる道が与えられ、イスラエルから異邦人、すなわち世界宣教へと展開した。その姿は聖書において、イエスさまの昇天後の時代の記録、使徒の働きや書簡などに登場しているとおりである。  しかし、イエスさまが本来十二弟子にお語りになった宣教戦略は、どこまでもイスラエルへの宣教が優先されているものである。これは私たちを含む異邦人が差別されているということではない。むしろこう考えるべきである。創造のはじめからのみこころ、神の民を選んで律法をお授けになったみこころ、そのみこころがまずイスラエル宣教という形でなされ、その延長線上に私たちを含めた異邦人への福音宣教がある。私たちが同じイスラエルの神さまを信じるには、まず、律法と預言者、すなわち旧約聖書という基礎のあるイスラエルが、旧約の成就である神の子イエスさまを知り、そこから世界へと宣教が展開していく必要があったのである。  これを私たちに適用するとどうなるだろうか。イスラエルをこれほどまでに優先される神さまのみこころを知るために、イスラエルに注がれたみこころの集大成、旧約聖書をよく読む必要がある。偉大な神さまが特別に人を選ばれ、その人と民に特別にみこころを注がれる、その神さまの愛のリアルさは旧約を熟読することによってはじめてわかる。そして、この旧約を基礎に私たちの信仰生活があることが受け入れられ、私たちは神さまのみこころをより深く理解できるようになる。  週報にも書いたが、韓国のクリスチャンは国と民族をとても愛している。その韓国の教会は、伝統的に旧約聖書を重んじてきた。つまり、旧約に示されたイスラエルに対する神の愛に感動を覚える伝統があったのである。その、神さまのイスラエルに対する選びの愛が基礎にあって、エホバの神は特別にわが国と民族を選び、愛していらっしゃるという、クリスチャンらしい健全な愛国心につながっているのである。その旧約が信仰の基礎にしっかりあるからこそ、韓国のクリスチャンたちは日本の宗教政策であった神社参拝を、命を懸けて拒否しつづけることができたのである。そのように、神に対する深い信仰は、旧約聖書を重んじるところから生まれていて、世界宣教がイスラエルに始まっているのは、私たちもイスラエルに対する主のみこころを知る必要があるからという意味もある。  さて、その神の国を宣べ伝える宣教の働きは、第一にイエスさまの霊的権威を与えられたものである。8節のみことばは、イエスさまは創造主、癒やし主であるゆえに、これほどまでの権威が弟子たちに与えられているということであり、現代社会にはこういうことが人を通して起こらないからと、イエスさまのこのみことばを疑うのは正しくない。むしろ、イエスさまの権威を受けた十二弟子がこういうことを行えないほうがおかしいと考えるべきだろう。  逆に、このことがわざわざ聖書に記録されているということは、直弟子(じきでし)にそれだけの権威をお与えになるイエスさまのすばらしさが現れている、ということである。イエスさまはみこころならば、私たちも主の弟子である以上、私たちにこのような権威をお与えになれるお方である。私たちはだから、イエスさまの御名によって、人々から悪霊が追い出されるようにとも、お医者さんがさじを投げるような病気の人が癒されるようにとも祈るわけである。  ただし、このようなしるしはすべて、神の国と関係を持っている。もし、奇跡が起きたとして、その結果わざを行う人がほめられて、神の国が成り立たなくなったり、果ては教会に分裂が起こったりするならば、いかにミラクルなことが起こっていようとも、それはとても問題なわけである。  そうではなくて、祈りが聞かれて奇跡が起こることによって、私たちがみな神のご栄光をほめたたえ、教会が立て上げられることが大事なわけである。そうだとすると祈りとは、個人的な願望を神さまに申し述べることにとどまらず、教会全体の取り組むべきわざである。なにかの奇蹟的な現象が起きたからといって、その結果教会に深刻なダメージが及んだとすれば、その奇蹟なるものは果たして神さまのみこころにかなっていたのか、大いに疑わしい。  さて、9節と10節によれば、この宣教の働きはどこまでも、すべてを与えてくださる神さまのご主権によって行うべきことである。余計なものを持っていたら、それらのものに拠り頼み、神さまに拠り頼まないでも事をこなしてしまう癖がついてしまう。物を持ってはいけないということではない。しかし同時に、物が神さまに拠り頼むことの妨げとなってしまってはいけないことは確かである。  私たちはこの世に対してみことばを宣べ伝えるべく遣わされている。だから、この世のことはよく知る必要がある。みんながみんなバプテスマのヨハネのように、世捨て人のようなライフスタイルでいては、少なくともこの現代の日本では福音の伝わりようがない。ある程度はこの世に伍することで福音を伝える機会が開かれるのは確かである。しかし、この世に染まってしまっては、つまり、ただの人のように歩んでしまっては、私たちは世の光である自分自身を升の下に隠していることになるし、地の塩として機能しないことになってしまう。塩気をなくした塩は外に捨てられることになってしまう、と、イエスさまは警告しておられる。  私たちが第一に求めるべきものは、神の国とその義である。それを第一とするとき、私たちに必要なものは与えられる。より正確に言えば、私たちが神のみこころを行う上で必要なすべてのものは与えられる。私たちに仮にほしいものがあって、祈って求めてみても与えられなかったからと、何だ、与えられないじゃないか、となるのは、それが与えられることは実は神さまのみこころにかなっていなかったからか、まだこの時点では神さまがお与えになることはみこころではないからか、もっと素晴らしいものを神さまは用意しておらるからかのいずれかである。  要は、イエスさまが「いらない」とおっしゃっているかどうかである。お金も余計な持ち物も持つな、とおっしゃるのは、それがイエスさまのみこころだからである。その代わりイエスさまは、そのおことばに責任を持ち、必要なものを必ず、みこころにしたがって与えてくださる。これが、イエスさまのこの、一見するととても厳しいおことばからわかることである。  私たちも、自分にとって何がほんとうに必要なのか、言い換えれば、神さまは何を自分に与えてくださるのがみこころなのか、普段からの祈りとみことばによる神さまとの交わりの中で、具体的に理解している必要がある。私はかつてマンガやビデオゲームやCDがとても好きだったが、私にはそれが必要ないと神さまがおっしゃっていると受け取ったとき、それを片づけることをした。  神さまにお従いするにあたっていらないものは、神さまが示してくださる。その代わり、そのように御国のために捨てることができた人の生活は、神さまが責任を取ってくださる。その弟子にほんとうに必要と思われるものは、必ず与えてくださる。まさにマタイ19章29節にあるとおりである。だから、このみことばを信じて、みことばを宣べ伝える働きに用いられてまいりたい。  主の弟子の召命。それは、イエスさまを自分の人生のすべての領域における主と信じ、お従いすることである。その、自分にとって絶対のお方である主が、みことばを宣べ伝えよとおっしゃるから宣べ伝える。そう、みことばを宣べ伝えるのは、教会の仲間内で熱心な人に見られてほめられたいからとか、教会の規則としてどうしてもしないと後ろめたいからとかいう理由でするのではない。イエスさまの召命だからである。その召命を確かに持つためにも、旧約に始まる神の民に対する愛をみことばを読むことで、リアルに体験する必要がある。そして、そのような神の愛は厳しくある一方で、神のみこころに歩む私たちのすべてに責任を持ってくださるゆえに、私たちは余計なものを抱え込む必要はなく、ただ神さまだけに信頼することをつねに学んでいこう。

主の弟子の共同体

聖書箇所;マタイの福音書10章1節~4節 メッセージ題目;主の弟子の共同体  学生時代、友人のクリスチャンは、共同生活をする人が多かった。それは生活費の節約につながるだけではない。霊性を保てるようになるし、そればかりか、霊的な訓練を受けられるようになる。そんな生活にあこがれた私も、留学で親元を離れるにあたって、韓国の地方からソウルに上京してきた学生たちと共同生活を送った。男8人が3LDKの一軒家で共同生活を送る、なんとも男くさい生活だった。朝ご飯は交代でつくる。鍋をテーブルの真ん中において、みんなしてスプーンですくって飲む。夜になったらみんなで集まり、一日どんなことがあったか報告し、祈りの課題を分かち合う。そしてみんなで手をつないで祈る。こういう生活をとおして否が応でも鍛えられたものだった。  私たちはさすがに、このような共同生活をするのは難しいかもしれない。しかし、共同体に生かされているという点では同じであろう。私たちはこうして教会に集うことで、自分たちが弟子の共同体に生かされていることを体験する。  そのような私たちがモデルとするのは、イエスさまが弟子たちを呼び寄せられて共同体とされた、十二弟子の共同体であろう。今日の箇所から私たちは、このような共同体に生かされる私たち、宣教する弟子である私たちがいかなる存在にされているか、ともに学んでみたい。  第一に私たちの宣教は、イエスさまからの権威を託されて行うものである。  1節のみことばによれば、イエスさまは弟子たちに、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。  霊どもを制することによって、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすことができるようになる。人が病気になったり、わずらったりすることがなぜいけないのだろうか? その理由を考えるには、病気、わずらいの結果、人がどうなってしまうかを考える必要がある。神さまは時に、たとえば御民の王のような神のしもべがみこころから逸脱するとき、その健康を打たれて病を与えられることがあるが、それは懲らしめ、ひいてはさばきのわざである。  しかし、いやされるべき病気やわずらいは、神さまのさばきの結果ではない。その病は悪い霊に由来するものである。すなわち、その病を抱えることで、人はまことの神さまにお従いする愛のわざ、従順のわざという行動をすることができなくなってしまう。ゆえに、神のご栄光は顕されない。  イエスさまはそのような病をいやし、人が従順のわざを行えるようにしてくださる。ペテロのしゅうとめは重い病で臥せっていたが、イエスさまは彼女をいやされた。すると彼女は、イエスさまとその一行をおもてなしした、と聖書は語る。これがいやしの持つ意味である。実に癒しは、主への従順ができるほどの回復をもって完成し、また証しされる。  つまり、弟子たちが悪霊追い出しの伴う宣教を行う理由は、人々が主に従順になれるようにすることにその第一の目的がある。悪霊の支配が取り払われ、人々が主を見上げることができるようになるならば、神さまへの従順はそれだけ成り立つようになる。  私たちもまた、そのような宣教を行う必要がある。私たちは何も、オカルト映画のような悪霊追い出しを行うわけではない。みことばを宣べ伝えること。これに尽きる。  そして、みことばを第一とするならば、私たちには悪霊に属する、相応しくない文化も見えてこよう。  悪霊を慕うような音楽、映画、マンガ、ゲーム、ドラマ……そういったものから人々を解放し、神さまのものとすることが宣教であるが、その宣教が成り立つかどうかは、私たちがそれだけ祈っているかどうかにかかっている。宣教は悪霊が追い出されるための霊的働きである。祈って聖霊なる神さまに働いていただくようにするしかない。  さて、そこで第二のポイントに行くが、この宣教の働きは、ひとりで行うものではない。共同体のわざである。第二に私たちの宣教は、イエスさまによって共同体とされて行うものである。  イエスさまはこの、悪霊が追い出されて神の国が拡大する働きのために、12人の共同体を形成された。12人というのは分かち合い、励まし合いが成立する最大の単位である。  この群れにはいろいろな特徴がある。最初の4人、ペテロとアンデレ、またヤコブとヨハネは血のつながった兄弟である。同じ家族からでも弟子に取られる。さらに言えば、この4人はガリラヤ湖の漁師仲間でもある。もともと仲間意識を持ったどうしを弟子にお取りになるともいえる。  しかし、到底仲間とはいえないどうしでも、弟子の共同体に加えられるともいえる。最後のほうに出てくるシモンは「熱心党」とあるが、これは国主ヘロデに忠誠を誓う保守の人たちである。正確な言い方ではないかもしれないが、「右翼」のようなものだろう。しかし、マタイは「取税人」とある。ローマにおもねるためにはユダヤ民族も売るような人である。シモンからしたら本来許しがたい存在だろう。そういうどうしもともに弟子の共同体に加えられるのである。  さらに言えば、イスカリオテのユダまで加えられている。しかもこの箇所を見ると、彼がのちにどんな行動を取るようになるのかまで書いてある。  しかしもちろん、弟子たちはよもやユダがそんな人だったとは知る由もなかった。最後の晩さんの席から出ていってもわからなかったくらいである。どうしてユダがそんな人だったと知り得ようか。しかしユダは特別なご計画の中で弟子の共同体に加えられていた。  別の切り口で見ると、後先考えずに行動するペテロがいるかと思えば、冷静に判断を下すピリポがいる。疑い深いトマスもいる。天から火を呼び起こしてサマリアの人を焼き滅ぼしましょう、などと物騒なことを言うヤコブとヨハネもいる。性格もさまざまである。  人間的に考えれば、たとえば企業や役所の採用試験のように、その組織の求める基準に合致していなければ共同体に入ることはできなかろう。いわんやイエスさまは王の王、主の主である。本来ならばだれひとり、弟子として合格できる人はいない。  しかし、私たちはヨハネの福音書15章16節を忘れてはならない。私たちがイエスさまの弟子となるのは、第一にイエスさまのご主権による。ゆえに、どんな人が教会にいたとしても、その人がイエスさまのご主権によって弟子にされている人であることを認め、イエスさまのゆえにその人を受け入れ、その人とともに宣教の働きを担っていく必要がある。  その人の性格、言動の癖を見てしまうと、ともに働きをすることが難しいと思えよう。そんなとき私たちは、このようなちがったどうしを同じ弟子の群れに加えてくださったイエスさまをともに見上げていこう。そして、同じイエスさまが与えてくださった召命を握っていこう。  私たちはちがったどうしだが、互いに愛し合おう。その姿に人々は神の愛、イエスさまのご存在を認め、そこから悪霊の支配は追い出され、神の国が実現する。今日はこのちがったどうしが、ともに主のみからだと血潮にあずかる。私たちはイエスさまの十字架と復活を信じる信仰により、ひとつとされていることに感謝しよう。