主の弟子の共同体
聖書箇所;マタイの福音書10章1節~4節 メッセージ題目;主の弟子の共同体 学生時代、友人のクリスチャンは、共同生活をする人が多かった。それは生活費の節約につながるだけではない。霊性を保てるようになるし、そればかりか、霊的な訓練を受けられるようになる。そんな生活にあこがれた私も、留学で親元を離れるにあたって、韓国の地方からソウルに上京してきた学生たちと共同生活を送った。男8人が3LDKの一軒家で共同生活を送る、なんとも男くさい生活だった。朝ご飯は交代でつくる。鍋をテーブルの真ん中において、みんなしてスプーンですくって飲む。夜になったらみんなで集まり、一日どんなことがあったか報告し、祈りの課題を分かち合う。そしてみんなで手をつないで祈る。こういう生活をとおして否が応でも鍛えられたものだった。 私たちはさすがに、このような共同生活をするのは難しいかもしれない。しかし、共同体に生かされているという点では同じであろう。私たちはこうして教会に集うことで、自分たちが弟子の共同体に生かされていることを体験する。 そのような私たちがモデルとするのは、イエスさまが弟子たちを呼び寄せられて共同体とされた、十二弟子の共同体であろう。今日の箇所から私たちは、このような共同体に生かされる私たち、宣教する弟子である私たちがいかなる存在にされているか、ともに学んでみたい。 第一に私たちの宣教は、イエスさまからの権威を託されて行うものである。 1節のみことばによれば、イエスさまは弟子たちに、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。 霊どもを制することによって、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすことができるようになる。人が病気になったり、わずらったりすることがなぜいけないのだろうか? その理由を考えるには、病気、わずらいの結果、人がどうなってしまうかを考える必要がある。神さまは時に、たとえば御民の王のような神のしもべがみこころから逸脱するとき、その健康を打たれて病を与えられることがあるが、それは懲らしめ、ひいてはさばきのわざである。 しかし、いやされるべき病気やわずらいは、神さまのさばきの結果ではない。その病は悪い霊に由来するものである。すなわち、その病を抱えることで、人はまことの神さまにお従いする愛のわざ、従順のわざという行動をすることができなくなってしまう。ゆえに、神のご栄光は顕されない。 イエスさまはそのような病をいやし、人が従順のわざを行えるようにしてくださる。ペテロのしゅうとめは重い病で臥せっていたが、イエスさまは彼女をいやされた。すると彼女は、イエスさまとその一行をおもてなしした、と聖書は語る。これがいやしの持つ意味である。実に癒しは、主への従順ができるほどの回復をもって完成し、また証しされる。 つまり、弟子たちが悪霊追い出しの伴う宣教を行う理由は、人々が主に従順になれるようにすることにその第一の目的がある。悪霊の支配が取り払われ、人々が主を見上げることができるようになるならば、神さまへの従順はそれだけ成り立つようになる。 私たちもまた、そのような宣教を行う必要がある。私たちは何も、オカルト映画のような悪霊追い出しを行うわけではない。みことばを宣べ伝えること。これに尽きる。 そして、みことばを第一とするならば、私たちには悪霊に属する、相応しくない文化も見えてこよう。 悪霊を慕うような音楽、映画、マンガ、ゲーム、ドラマ……そういったものから人々を解放し、神さまのものとすることが宣教であるが、その宣教が成り立つかどうかは、私たちがそれだけ祈っているかどうかにかかっている。宣教は悪霊が追い出されるための霊的働きである。祈って聖霊なる神さまに働いていただくようにするしかない。 さて、そこで第二のポイントに行くが、この宣教の働きは、ひとりで行うものではない。共同体のわざである。第二に私たちの宣教は、イエスさまによって共同体とされて行うものである。 イエスさまはこの、悪霊が追い出されて神の国が拡大する働きのために、12人の共同体を形成された。12人というのは分かち合い、励まし合いが成立する最大の単位である。 この群れにはいろいろな特徴がある。最初の4人、ペテロとアンデレ、またヤコブとヨハネは血のつながった兄弟である。同じ家族からでも弟子に取られる。さらに言えば、この4人はガリラヤ湖の漁師仲間でもある。もともと仲間意識を持ったどうしを弟子にお取りになるともいえる。 しかし、到底仲間とはいえないどうしでも、弟子の共同体に加えられるともいえる。最後のほうに出てくるシモンは「熱心党」とあるが、これは国主ヘロデに忠誠を誓う保守の人たちである。正確な言い方ではないかもしれないが、「右翼」のようなものだろう。しかし、マタイは「取税人」とある。ローマにおもねるためにはユダヤ民族も売るような人である。シモンからしたら本来許しがたい存在だろう。そういうどうしもともに弟子の共同体に加えられるのである。 さらに言えば、イスカリオテのユダまで加えられている。しかもこの箇所を見ると、彼がのちにどんな行動を取るようになるのかまで書いてある。 しかしもちろん、弟子たちはよもやユダがそんな人だったとは知る由もなかった。最後の晩さんの席から出ていってもわからなかったくらいである。どうしてユダがそんな人だったと知り得ようか。しかしユダは特別なご計画の中で弟子の共同体に加えられていた。 別の切り口で見ると、後先考えずに行動するペテロがいるかと思えば、冷静に判断を下すピリポがいる。疑い深いトマスもいる。天から火を呼び起こしてサマリアの人を焼き滅ぼしましょう、などと物騒なことを言うヤコブとヨハネもいる。性格もさまざまである。 人間的に考えれば、たとえば企業や役所の採用試験のように、その組織の求める基準に合致していなければ共同体に入ることはできなかろう。いわんやイエスさまは王の王、主の主である。本来ならばだれひとり、弟子として合格できる人はいない。 しかし、私たちはヨハネの福音書15章16節を忘れてはならない。私たちがイエスさまの弟子となるのは、第一にイエスさまのご主権による。ゆえに、どんな人が教会にいたとしても、その人がイエスさまのご主権によって弟子にされている人であることを認め、イエスさまのゆえにその人を受け入れ、その人とともに宣教の働きを担っていく必要がある。 その人の性格、言動の癖を見てしまうと、ともに働きをすることが難しいと思えよう。そんなとき私たちは、このようなちがったどうしを同じ弟子の群れに加えてくださったイエスさまをともに見上げていこう。そして、同じイエスさまが与えてくださった召命を握っていこう。 私たちはちがったどうしだが、互いに愛し合おう。その姿に人々は神の愛、イエスさまのご存在を認め、そこから悪霊の支配は追い出され、神の国が実現する。今日はこのちがったどうしが、ともに主のみからだと血潮にあずかる。私たちはイエスさまの十字架と復活を信じる信仰により、ひとつとされていることに感謝しよう。