主の弟子は主にあってひとつ

聖書箇所;ヨハネの福音書17章20節~26節 メッセージ題目;主の弟子は主にあってひとつ  本日は主の晩餐を執り行う。これは私たちが大事にすべき教会のわざである。現在、東京は世田谷にある日本基督教団奥沢教会の牧師をしておられる洛雲海(ナグネ)先生という方、もともと日本人だが韓国が大好きで名前まで韓国式にし、一時期は韓国の神学大学院で教えておられた先生だが、神学生時代、たまたまこの先生とお会いして神学談議におつきあいすることになったとき、洛雲海先生は主の晩餐というものについて、こんなことをおっしゃった。「イエスさまのみからだと血潮を味わうんだよ! これがからだの中に溶けて入るんだよ! すごいことだと思わない!?」  それまで、そんなことを意識することもなかっただけに、洛雲海先生のこのおことばを聞いて以来、主の晩餐の味や香りを意識するようになった。言うまでもなく、主の晩餐は少量とはいえ、食べ物、飲み物である。それが血となり肉となって、私たちのからだを形づくる。その前段階として、私たちは味わう。イエスさまはこのようにして、ことばを聴いたり読んだりするだけでは体験しきれない恵みを味わう道を、私たちに備えてくださった。今日はそのことを意識して主の晩餐に臨もう。  主の晩餐は英語で「コミュニオン」という。これは、主にある交わり、コミュニケーションという意味でもある。したがって、主の晩餐とはキリストのからだなる教会の共同体としてのわざである。私はこの教会に赴任して以来、一貫して、教会の兄弟姉妹が「ひとつ」ということを強調してきた。しかし、ひとつのからだとして交わりを持つことはどんな教会においても簡単なことではない。むかしこの教会では、聖徒の交わりを持つためにどうすべきかという議論が大いに戦わされたと聞いている。みなさまのその祈りを込めた議論が、豊かな交わりを目指す今の教会の祝福につながっているならば感謝である。  主の晩餐は、そのように、主の民が、キリストの弟子たちが、キリストにあってひとつのからだである、共同体であることをともに味わい知り、見つめる、大事な教会のわざである。ということは、私たちが主の晩餐にあずかることにおいては、ともにひとつのお盆からパンと杯を取り、ともに味わうことに意味があるといえよう。  そこで、主にあって私たちがひとつとはどういうことか、今日、受難日を目前にした私たちは考えてみたい。実は、私たちがひとつになることは、イエスさまにとってのもっとも強い願いであった。本日お読みしたヨハネの福音書17章のみことばは、十二弟子を前にしたイエスさまの最後の、御父に向けたお祈りの箇所である。イエスさまは何を切に祈っていらっしゃるのだろうか? それは、ご自身が御父とひとつであられるように、主の弟子たちがひとつになることである。  主の弟子たちはたった今、イエスさまが自ら裂かれたパン、分けられたぶどう酒をともに口にして、イエスさまとひとつであることを体験した。イエスさまは主の晩餐というこの厳かな食卓を、ずっと守りつづけるように弟子たちにお命じになった。それは、弟子たちが主にあってひとつだからである。  今日は特に20節以下に集中してまいりたい。この人々とはもちろん、イスカリオテのユダを除く十一人の弟子である。しかしイエスさまは、彼らだけではなく、「彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも」御父にお祈りをささげていらっしゃる。  彼らとは弟子、言い換えれば、イエスさまに遣わされた使徒である。人は使徒たちの語ることばを聞いてイエスさまを信じ受け入れる。そのことばは教会を通じ、聖書のみことばによって代々伝えられ、こんにちに至っている。そして、私たちもまた、「彼らのことばによってイエスさまを信じる人々」とならせていただいたのであり、ということは、イエスさまは何と2000年前のユダヤで、2000年後の日本の茨城にいる私たちのために祈ってくださっていたのであった。これは驚くべきことではないだろうか? イエスさまは私たちにとって決して遠いお方ではない。2000年前のあのとき、イエスさまはここにいて、主の晩餐を囲む私たちのことを覚えていてくださったのであった。  では、なぜ、私たちはひとつにならなければならないのだろうか? それは、主イエスさまがそのように切に願われたからだが、では、イエスさまはなぜそのように願われたのだろうか? それは21節のみことばにあるとおりである。……ここでイエスさまは、3つの願いを語っていらっしゃる。まずイエスさまは、御父とご自身がひとつであるように、すべての人がひとつであることを願っていらっしゃる。そう、イエスさまは、人が争わず、対立せず、平和に暮らすことを願っていらっしゃる。主イエスさまがそう願われる以上、主の子どもたち、キリストの弟子たちに対立や分裂はふさわしくない。争いやさばき合いがあってはならないのである。自分の正しさを盾にいともたやすく他者をさばく、さばき合う、そんな姿をイエスさまはどれほど悲しんでいらっしゃるだろうか?  もちろん、ひとつになるのは難しい。私たちはみな、生まれも育ちも性格もちがうからである。しかし、そんな私たちにも主は道を備えてくださった。それが第二の願い、「彼らも私たちのうちにいるようにしてください」である。私たちは同じイエスさま、父なる神さま、聖霊さまにあってひとつになれるのである。考えてみていただきたい。私たちの群れからキリストを取ったら、いったい何が残るだろうか? しかし私たちはキリストという「わたしはある」お方によって、あってあるもの、存在そのものにしていただいた。  そう、それはまた、私たちが三位一体の神さまとの交わりから外されたら、そこには永遠の滅びしかない、ということでもある。神のいのち、永遠のいのちの中に保たれない人を、聖徒とかクリスチャンとか呼んではいけない。だから人は、なんとしてでもイエスさまから離れてはならないのであるが、もしかしたら自分は弱いから離れてしまうかも、と思うような方は、安心していただきたい。イエスさまは、そのような人が神のいのちの交わりから離れてしまうことがないように、御父にとりなして祈ってくださっている。イエスさまの祈りに信頼しよう。  そして、聖徒がひとつであること、聖徒と主がひとつであることは、なぜ必要か? それは、「あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるため」であるとイエスさまはお語りになる。主とひとつとされた教会という共同体が、唯一なる神さまがお遣わしになった方はイエス・キリストであると語るのである。それ以外の何ものも、イエスさまのことは語れない。  イエスさまがこのように祈られたとき、イエスさまに迫害の魔の手を伸ばしていた者は、なんと、神はおひとりであると、しかも聖書をもとに信じ告白していた宗教指導者たちであった。彼らは御父を認め、信じ従っていることにはだれよりも誇りと確信を持っていた。しかし、ほんとうのところ、御子イエスさまを認めない以上、彼らは御父を信じているとはいえなかった。唯一の神を信じることと御父を信じることはイコールではない。ヤコブの手紙2章19節には、「あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています」とある。私たちの信じているのは単なる神さまではなく、「神のひとり子イエス・キリストの父なる神さま」である。これを告白しないものはどんなに唯一の神さまを信じていると主張しようとも、異端であり、別の宗教である。  人は、道であり、真理であり、いのちであるイエスさまをとおしてでなければ、御父のもとに行くことはできない。悪魔と悪霊どもはそれを知っているので、唯一神ということに人をこだわらせ、イエス・キリストを決して見せないように誘導する。そのように、イエスさまに対して堅く目が閉ざされている世に対し、まことの神への道、すなわちイエスさまを語るのが、神とひとつ、互いにひとつとされた、教会のわざである。イエスさまが託されたこのわざを担うために、教会と聖徒は神との交わりがおろそかになったり、互いに対立したりさばきあったりしてはならないわけである。  さらにイエスさまは、主の弟子なる教会に何をお与えになるだろうか? 22節。御父がイエスさまに与えてくださった栄光を教会に与えてくださる。イエスさまは十字架にかかられる前に、すでに、十字架の果ての復活、そして天の御国での栄光のお姿、さばき主としての再臨、御国の永遠の王としての栄光を受けておられた。  この、イエスさまのみがお受けになることのできる栄光を、主は教会に与えてくださる。教会とはそれほど栄光ある共同体である。私たちはそのひと枝であり、教会という共同体においてキリストにつながっている以上、私たちも終末にいたる栄光をすでに受け取っているのである。しかし、私たちは自分たちの姿を見るとふさわしくないと思えてならないだろう。こんなにもきたない、こんなにもみすぼらしい。そのくせ、お互いを見ると、自分の目に梁があることも忘れて人の目のちりが見えてならない。  しかし、私たちが見るのは自分自身やお互いの足りなさではない。それを丸ごと赦し、私たちを完全に贖ってくださったイエスさまの十字架である。この栄光に私たちはあずからせていただいている。それは、イエスさまが私たちのために十字架で苦しまれたように、私たちもイエスさまのために、そしてイエスさまのからだなる教会のために苦しむ栄光が与えられている。これが栄光といえるのは、私たちがイエスさまのゆえに苦しむならば、その末にイエスさまの復活と御国の栄光にあずかるからである。  23節。ここでイエスさまは私たちと神さまとの関係において、大事なことを語っておられる。私たちがイエスさまを宣べ伝えるその前提は、御父がイエスさまを愛しておられるその愛で、私たちのことを愛されている、ということである。私たちはそれほどの愛を受けている。具体的には、御子イエスさまがいのちを捨ててくださるほどに、私たちは愛されている、ということである。  このように、キリストを信じてキリストのからだのひと枝になるならば、神さまにことのほか愛される存在になることを証しするのが、教会のわざである伝道である。伝えるものは福音、人をまことのいのちに至らせる唯一の道である。それだけに、どれほど私たちの愛は隣人によい証しとならなければならないことだろうか。福音提示も独善的になっては神の愛も何もなく、そのようになってしまっている人はほんとうにふさわしい形で神の愛を味わっているか、よく考える必要がある。  24節。イエスさまは栄光をもっていついかなるときも、どこにでもおられる。私たちはこのお方がどこにいても、どんなときも、ともにおられることを認めているだろうか? 普段の振る舞いはどうだろうか? 栄光のイエスさまがともにおられると意識しないで振る舞うことがあまりにも多くないだろうか? イエスさまの気持ちを考えよう。  25節。この時代のユダヤの宗教社会さえ、イエスさまのことを知っているとはいえなかった。つまり、イエスさまによって御父に至るということを信じていなかった。それが罪人として当たり前のことだったが、イエスさまに選ばれて弟子に取っていただいた者たちは、イエスさまを知る光栄にあずかった。すなわち、イエスさまをとおして御父をほんとうの意味で信じ、永遠のいのちに至る光栄にあずかった。この、もったいないばかりの恵みをいただいているのが、私たち教会である。  最後に26節。私たちにはイエスさまの御名が与えられている、イエスさまの御名によって御父に願うなら、みこころにかなうものをなんでも与えていただける。それほどまでに私たちは、イエスさまにあって御父に愛されている。この愛を受け取っている私たちは、御父に愛されている証しを、イエスさまの御名によって大胆に御父に祈る祈りをもって果たしていく。  御父とイエスさまがひとつであられるように、イエスさまと私たちはひとつ、そして私たちはひとつ、それを今日、主の晩餐においてともに体験し、ますます愛し合う共同体として成長してまいりたい。

主の弟子は主を認める

聖書箇所;マタイの福音書10章32節~42節 メッセージ題目;「主の弟子は主を認める」  ちょっとお尋ねしたいが、みなさまは人々の前で、自分がクリスチャンであることを明らかにしていらっしゃるだろうか? もちろん、なかなかそうする機会がないという方もおられるだろう。それはしかたがない。しかし、いざというとき、自分の信仰を語るような機会が巡ってきたとき、果たして私たちは、自分がクリスチャンであることを言えるだろうか?  日本のようにクリスチャンが少ない国では、イエスさまを証しすることが難しい。しかし、それを言ったら、初代教会はいまの私たちとは比べ物にならないほど難しかったはずである。イエスさまをメシアと認めないユダヤ教と、皇帝崇拝をさせるローマ帝国。まさに、前門の虎、後門の狼。  そのような背景の中で、イエスさまはあえて弟子たちを遣わされた。彼らは羊のように弱い、しかも彼らを取り囲む環境は狼たちがうようよしているとご存じの上で。そんな弟子たちをお遣わしになったイエスさまのみこころを知ることにより、私たちはこの世界においてどのようにキリスト者として、すなわち、主の弟子として振る舞うことができるかを教えていただく。  それでは今日の本文に行こう。32節、ですから、で始まっている。先週学んだ31節以前を指しての「ですから」だが、そこで語られていたことは、あなたがた主の弟子たちは、無限大の価値を神さまから与えられている、神さまはそのような大事な存在として、あなたがたのことを見ておられ、守ってくださる、ということ。  神さまがそのように私たちのことを認めてくださっているのはなぜだろうか? 本来私たち人間はみな罪を犯した罪人であり、まことのいのちという神さまの栄誉を受けることができない存在だった。しかし、あわれみ豊かなイエスさまは、そのような私たちが滅びることがないように、私たちがかかるべき十字架に身代わりにかかってくださり、私たちを神の怒りから、罪と死から救い出してくださった。このイエスさまの犠牲によって、神さまは本来人間を創造されたとき、人間に対して持っておられたその価値どおりに、私たちの無限大の価値を回復してくださった。私たちは恵みによってイエスさまを信じる信仰を持たせていただき、自分にこのような無限大の価値があることを受け取らせていただいた。  だから私たちは、イエスさまを人々の前で認めるのである。そのことばで、行いで、イエスさまが私の主です、と証しし、あなたもイエスさまを信じてください、と促すのである。創造主なるイエスさまに出会うことで初めて、人は本来のいのち、本来の価値を取り戻すのであり、それを神さまが願っておられる以上、私たちがイエスさまを証しするのは当然のことである。  そしてイエスさまは、そのような私たちを認めてくださると約束してくださっている。これは信仰義認と矛盾するのだろうか? イエスさまを信じさえすれば救われるのに、それになにか付け加えているということになるのか? しかしこれは、こう考えるべきだろう。「イエスさまを信じれば救われる」という「信仰義認」は、たしかに簡単きわまるシンプルな真理であり、そうでなければ救われない。しかし、信じるということは、ヨハネの黙示録3章20節にあるように、イエスさまを心の中に受け入れることであり、ガラテヤ人への手紙2章20節にあるとおり、もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるという生き方そのものである。自分が基準として生きることから、イエスさまに生きていただく人生へと変えていただく、それが「信じる」ということである。「キリスト教」という「宗教」を信じるなどというレベルではない。言ってみれば、「キリスト命(いのち)」。観光地の落書きなどで、恋人の名前を書いて、「○○ちゃん命」なんてある、あれみたいなもの。  いのちだから、寝ても覚めてもイエスさま。だから、人々にイエスさまのことを話したくてたまらない。十字架にいのち捨てられるイエスさまのためには、いのちを懸ける、それほど惚れ込む弟子ならば、イエスさまは御父にその人のことを誇りとされるだろう。アバ、見てよ、この人はあなたのためにいのちを懸けていて、すごいんだよ!  逆に、イエスさまのことを知らないと言ったらどうなるか? 33節。これを見て、私たちはぎょっとしないだろうか? やっぱり、信仰義認なんて嘘なのか? しかし、ここはもう少し考えていただきたい。私たちが信じているイエスさまは、私たちのために何をしてくださった方か、私たちは果たしてほんとうに知っているだろうか? 私たちが目にしている十字架は、単に十字架だけで、これはイエスさまが復活してもう十字架にかかっていないからだ、といわれる。そんな私たちは一度でいいから、カトリック教会の十字架を見るといい。イエスさまがかかっている。これを見ると目をそむけたくなる。しかし、これがイエスさまのほんとうの姿である。イエスさまをこのような目に合わせた、それが私たちの罪であった。しかし、こうも言える。イエスさまは私たちをかぎりなく愛しておられるから、私たちがこんな死に方をしなくていいように、身代わりに十字架にかかってくださった。  その、イエスさまの十字架の愛を知りながら、人前であたかも、イエスさまなんて知らないよ、というような行動をとってしまったならば、イエスさまのお気持ちはどうなるだろうか? ただし、イエスさまのこのおことばを聞きながら、なお、イエスさまを知らないと、しかも、知らないというのが嘘ならば呪われてもいいと誓いながら宣言した弟子がいた。それはペテロだった。ペテロはそのように誓った途端、鶏が鳴いてわれに返り、自分のしたことに泣き崩れた。だがイエスさまは、彼のことを知らないとはおっしゃらなかった。かえって、ご復活されてから、あなたはわたしを愛しますか、わたしの羊を養いなさい、と、3度もおっしゃって、働き人として回復してくださった。それは、イエスさまが、ペテロの信仰がなくならないように祈ってくださっていたからだった。  私たちだってイエスさまを知らないと言っているも同然の振る舞いをしてしまうことがあろう。葬儀や地鎮祭のような宗教儀式に参加して礼拝の対象を拝んでしまうなど、その最たるものだろう。あるクリスチャンは、そのように拝むことでクリスチャンは変な人だと思われないで済む、これは神さまを証しするためだ、と言い訳するだろう。だが、たとえばムスリムやエホバの証人の信者だと周りにすでに知られている人が、そのような宗教儀式を強制されることがあるだろうか? 周囲がそういうことを理解するのは、それがまことの神の前に正しいかどうかは別にして、彼らが自分たちの信じている対象を人前で認める人たちであると、周囲に理解させる努力をつねにしているからである。彼らにできていることを私たちがしないのは、とどのつまり、ただ、悪く思われたくないから、恥ずかしいからなのではないか? だから、私たちクリスチャンが宗教行為をしてしまったら、イエスさまを知らないと3度も言ったペテロのような後ろめたさを覚えるだろう。  しかし、私たちがもし、そのような宗教行為をしてしまって、なおそんな自分を悲しむ思いがあるならば、神さまは私たちに再スタートするチャンスを与えてくださっている。何とか悔い改め、今度こそイエスさまを人々の前で知っていると言えるに値する生き方ができますようにと、祈って取り組んでまいりたい。本来ならばイエスさまが「そんなことをするあなたのことなど知らない」とおっしゃるところを、悔い改める余地を与えていただいただけでも私たちは救われている。そのチャンスが与えられている間にも、私たちはイエスさまに知っていただいている者にふさわしく歩んでまいりたい。  さて、イエスさまのみことば、次は34節から39節だが、人々の前で主イエスさまを認めるということは、ときに家族との関係にも影響を及ぼす。イエスさまは平和の君であるが、イエスさまをてこでも認めない者との間にまで平和をもたらされることはない。イエスさまはパリサイ人や祭司たちのような宗教指導者、すなわちイエスさまを迫害した者たちとの間に平和を築きなさいとはおっしゃらなかった。イエスさまの弟子でありつづけるということは、時に家族であろうとも、そのような既存の宗教観に固執するならば対立することさえいとわないように、ということだった。  イエスさまのこういうお話を聞いてしまうと、キリスト信仰とはもし家族が未信者だったら大事にしなくてもいいということなのか、それでは、隣人を愛しなさいというご命令は矛盾ではないか、ととらえるだろうか? しかし、それは短絡的というものである。イエスさまは何も、無条件で家族を粗末にせよ、とはおっしゃらなかった。私たちは人一倍愛を示すべき存在だから、家族は大事にすべきである。  しかし、もしイエスさまへの信仰と、イエスさまに従わない家族と、どちらを取るかはっきりせよ、となったとき、私たちは決断を迫られる。もちろん、イエスさまに従わない家族に黙々と仕えることがイエスさまに仕えることである、というお導きがある場合もあろう。しかし、それで家族のことをイエスさまより優先するような生活をするならば、それをイエスさまにお従いする生き方と言っていいのか、という問題が生まれてくる。そのように問われるとき、イエスさまを選ぶならば、周りからの罵詈雑言にも耐えなければならないだろうが、イエスさまはそのような弟子たちの味方である。ぜひ、26節、27節をご覧いただきたい。彼らはどんな苛烈な迫害を加えてきても、キリストにある永遠のいのちまで取り去ることはできない。主は、この救いを握って忍耐する者の味方であられる。  38節もご覧いただきたい。注意が必要なのは、イエスさまがこのおことばをおっしゃったとき、このおことばを聞いた当の弟子たちはだれも、イエスさまが十字架におかかりになって死なれるとは知らなかった、ということ。というより、夢にも思わなかっただろう。私たちはイエスさまというお方を十字架とセットで考える癖がついているから、つい、弟子たちもそういう理解でいたと思ってしまうが、そうではない。  しかし、イエスさまがおっしゃったこのみことばは、強烈に弟子たちの心に刺さったからこそ、わざわざここで記録しているのではなかろうか。十字架というのは極悪人がかかる呪いの木であり、それを背負うなんて、人間として最低のことである。それを背負ってイエスさまについていくということは、自分は最低最悪の罪人であると認める、しかし、そんな自分のことをイエスさまは導いてくださる、ついていかせてくださる、弟子に取ってくださった、という信仰を告白しつづけることである。  私たちは自分のことを罪人だと思えてならないときがあろう。悪いことを考えたり口走ったりしたとき、仕事で失敗したとき、人間関係でしくじったとき、過去の忌まわしい記憶がふとしたことでよみがえり、ぐるぐると頭の中を巡るとき……だが、十字架を負うとは、そういうふうに自分が自分自身のことを思うよりもはるかに罪深い、比べ物にならないほど罪深い、呪わしい、ということである。  だから、私たち自身のことを見てはならないのである。見たって罪しか見つからず、絶望するしかないからである。自分を見てはならない。目の前のイエスさまを見て、イエスさまの歩まれるあとをひたすら進みつづける、それが私たち主の弟子のすることである。そうなると、主ばかり見ることになるから、人々にはおのずと、主を語るようになる。そうして人々は私たちのことを馬鹿にしたり、遠ざけたり、迫害を加えたりするかもしれない。中にはそういったことを血を分けた家族がしてくるかもしれない。しかし、私たちの前を歩かれるイエスさまは、十字架を背負っておられる。その十字架に私たちの罪は、イエスさまもろとも釘づけになり、私たちは完全に赦されるのである。このようにしてくださったイエスさまを私たちは誇らずにいられない。見るべきはイエスさま、認めるべきはイエスさまである。  さて、私たちはそうして、主の弟子として歩むなら孤独になるように思えるだろう。だが、忘れてはならない。40節から42節。そう、主は、ご自身の弟子をやさしく受け入れてくれる存在を備えてくださっている。そういう存在に主は報いてくださると約束してくださっている。  十二弟子がイエスさまとともに共同体を形づくっていたときも、すでにそういうありがたい存在はあった。ペテロの姑がそうだった。イエスさまに熱をいやしていただいて元気になったら、ただちにイエスさまの一行をもてなした。  マルタとマリアの姉妹がそうだった。マルタは奉仕のしすぎで不満がたまってしまうという失敗はしたものの、もてなしのために頑張ったことそのものは評価されるべきだろう。最後の晩餐のために大広間を用意した人も、その大事な席でイエスさまが弟子たちと時間をともに過ごし、みことばを授けるという大事なみわざに貢献したわけである。  その後も、つまり、イエスさまの復活と昇天後も、「使徒の働き」を見てみると、皮なめし職人のシモン、マルコの実家、キプロスの地方総督セルギウス・パウルス、ティアティラの紫布商人リディア、コリントのアキラとプリスキラの夫婦……こう言った人々によって主の弟子たちが支えられ、福音宣教が前進していったことがわかる。  こんにちにおいて、弟子たちのその働きを支えるのはどこだろうか? だれだろうか? 私たち教会である。中には、未信者の篤志家によって教会が支えられるというケースもなくはないが、それはよほど特殊な場合であって、基本的に主は、私たちのことを主の弟子であると認める信仰をお授けになった人たちを通してお働きになる。それは、私たち教会である。私たちは主の弟子を支えるうえで、裕福な篤志家である必要はない。初代教会のように、お互いの必要のために分かち合えれば充分である。私たちは主の弟子として遣わされている一方で、主の弟子を養うベースキャンプの役割も同時に担っている。そのように、お互いを主の弟子と認め、祈りにおいて、また具体的な助けによって、必要な力を注ぐことは、主の弟子として主を認める行いを実践することである。このよい働きに集中し、主の報いをいただけるという喜びに満たされてまいりたい。

主の弟子の価値は無限大

聖書箇所;マタイの福音書10章24節~31節 メッセージ題目;「主の弟子の価値は無限大」    みなさまにお尋ねしたい。ご自分は、どのくらい価値があるとお思いだろうか? つい私たちは、失敗したり、人から悪口や批判のことばを言われたり、過去の忌まわしい記憶がよみがえったりするとき、ああ、自分なんてダメだ、と思ったり、口にしたりしないだろうか?  そんな私たちに対して、神さまは語ってくださっている。イザヤ書43章4節。ヨハネの福音書3章16節。そう、私たちは自分のことをどう思おうとも、神さまが変わらずに愛してくださっているのである。  神さまが愛しているものを、ダメだと言ってはいけないだろう。人に対しても、自分に対しても。私たちはつい、自分はダメだと思って落ち込んでしまう。そんなとき、神さまの愛に立ち帰ることができたらどんなにかすばらしいだろうか。私たち教会とは、何かと落ち込みがちなお互い、人をそしってしまいがちなお互いが、神さまの愛によって愛されていること、神さまの愛によってお互いが愛し合えることを心に留め、愛の奉仕をすることで成長する共同体である。神さまと兄弟姉妹の愛を受けて、神さまと兄弟姉妹、そして隣人を愛する、私たち主の民は、そうして自分の価値を確かめ、神さまに感謝する。  聖書は語る。「神は愛です。」したがって、神の子イエスさまの弟子である私たちも、その神の愛の御姿にならう存在。私たちはなかなか、師であるイエスさまのその愛の姿にならうのは難しいが、あきらめないで愛することを取り組んでまいりたい。  今年の年間テーマは「宣教する弟子」である。しかし、宣教というのは、人を「キリスト教」という宗教の教えに染めて、先輩である自分は教えてあげたからと大きな顔をすることでは決してない。そうすることは傲慢であり、愛の反対であり、「宣教」の名に値しない。「宣教」するとは愛すること、仕えること、癒すこと。だから、へりくだっていないと無理な働きである。人間、へりくだることはほんとうに難しいが、聖書をつねにお読みして、私たちのためにへりくだって仕えてくださるイエスさまのお姿にいつも触れるならば、私たちもへりくだることの麗しさを習い、腰が低くなっていこう。隣人、まだイエスさまとはどんなお方か知らない人に、イエスさまが愛されたようなその愛を実践すること、小さなことでも気がついて手伝ってあげるでもいい、人より早く出勤、遅く退勤して、主にある勤勉の具体的な姿を示すでもいい、悩みを抱えた人の話を聞いてあげるでもいい、そういう、アーサー・ホーランドのことばを借りれば、「1ミリだけ難しく生きて」隣人を愛することをする、それが、イエスさまの望んでおられる宣教ではないだろうか。  もちろん、ことばで筋道立ててイエスさまとはどういうお方かを語れるようになることは大事である。それは確かに宣教のコアにあたる部分であり、必須である。しかし、ことばがご立派でも行いが伴っていない人の話など、説得力はないというものである。ことばで伝道することも、愛の行いをすることも難しいが、励まし合ってチャレンジしていこう。  本文に入ろう。イエスさまは弟子と師の関係を語っているが、マタイ23章10節によれば、師と呼ぶべきお方はキリストである。私たちはイエスさまをキリストと告白するので、イエス・キリストという師の弟子である。その最初の弟子が、いまこうしてイエスさまからみことばを授けられている十二弟子。その弟子たちは、師以上には出られない、と語る。また、しもべというのは、イエスさまを主と告白する、すなわち主人と告白する者たち、イエスさまのしもべであるわれわれクリスチャンであり、ここでは、まずこの弟子たちを指している。弟子もしもべも、どちらも同じである。その共通点は、低い存在として高い存在の言うことを聞き、行動する、ということ。絶対のことばに従う。それはこの世の上下関係でもそう。ただし、ほんとうの師であり主人であるイエスさまは、黒いカラスでも私が白といったら白だ、というような、理不尽な上下関係を強要される方では決してない。  師という存在、主人という存在が崩れたら、そのもとにいる者たちは守ってももらえず、用いてももらえない。だから、永遠の師であり主人であるイエスさまが私たちにいてくださるということは、ほんとうにありがたいことである。  25節。このイエスさまのみことばによれば、弟子でも師のようになれ、しもべでも主人のようになれることを約束しておられる。これはルカの福音書6章40節によれば、充分な訓練を受ければ、という条件がつく。訓練というのは、Ⅰテモテ4章7節から8節によれば、今のいのちと来たるべきいのちが約束されるための、敬虔のための訓練であり、それは肉体の鍛錬にもまして有益であるという。イエスさまは今のいのちにおいても、来たるべきいのちにおいても、今からのち永遠に私たちの主であられる。主との聖い交わりを保つことは訓練が必要な領域である。好きなところに遊びに行くのではなくて主日に教会に来ることも、毎日時間を確保して聖書を読んでお祈りをすることも、訓練によって少しずつ身についていくこと。私はしょっちゅう弟子訓練ということを強調しているが、弟子とは牧師の弟子ではなく、キリストの弟子であり、キリストの弟子になるには教会がみんなして訓練に入っていく必要がある。  そうして私たちは、師であり主人であるキリストの似姿に近づいていくのだが、同時に私たちは迫害も受ける。ユダヤの宗教エリートたちはイエスさまのことをベルゼブル呼ばわりして、そのみわざを全否定してみせた。だが、そこまで言われるイエスさまよりも、より悪く言われるのが、その弟子、そのしもべにあたる、主の子どもたち、クリスチャンたちだというのである。  クリスチャンに対する悪口。これは、キリスト教会が宣教するようになったここ160年ほどの日本で、絶えず聞いてきたことばだろう。「ヤソ」とか「アーメン、ソーメン、ヒヤソーメン」とか。こういうことはイエスさまを指して言うことばではなく、クリスチャンを指して言うことばである。東京の寄席に行くと今でもよくかかっている「宗論」という噺があるが、この演目はイエスさまに対する悪口ではなく、クリスチャンに対する偏見に満ちた悪口のオンパレードである。恐れ多いとでも思うのか、イエスさまへの批判などできないような人たちも、クリスチャンへの批判や非難、罵詈雑言は容赦ない。まさにイエスさまがおっしゃるとおりである。  しかし、26節。イエスさまは、ですから、恐れてはいけません、と語っておられる。クリスチャンを待ち受ける現実は決してたやすいものではないとお語りになっているのに、なぜ、恐れてはいけません、と語っておられるのか? だいたい、何が「ですから」なのだろうか?  それは、師であるキリスト・イエスのようになれるほど、神さまは私たち教会に、無限大の価値を見出していらっしゃるからである。私たちはどれほど尊い存在だろうか? 私たちのいのちが救われるために、神のひとり子イエスさまのいのちが犠牲になったほどである。そんな無限大に尊い存在を、神さまはサタンにやられるままには決してなさらない。  サタンに魅入られた狼のような人たちに神の愛を施す、宣教のわざをしても、彼らは私たちの善意に対して理解せず、非難したり、無視したりするかもしれない。しかしイエスさまは約束しておられる。今はそのよい行いの源である福音が、彼らの目には隠されているかもしれない。しかし、それはやがて明らかになる。覆われたままではいない。隠されたままではいない。彼らはやがて、私たちの信じているお方を見るようになる。  27節。イエスさまは全能の神さまであられたから、やろうと思えば世界中の人々にたちどころに福音をお語りになることもできた。しかしイエスさまのとられた方法は、十二人に限定した共同生活の中で時間をかけて弟子訓練することだった。その間のイエスさまにみことばを授けられている共同体生活は、閉じていた。しかし、遣わされたら広々とした世界に向けて堂々と語った。まさに、十二弟子が人目につかないところで聞いたことばが、宣べ伝えられ、今や世界中で語られるようになったのである。イエスさまがおっしゃったとおりになった。そのようにイエスさまは、福音宣教という最高のわざのために、ご自分の愛する弟子をきたえ、広く用いられるのである。  その働き、無限の神さまがになってしかるべき働きを託していただけるほどの存在、それが主の弟子。私たち主の弟子は、そんな無限の価値を持っている。だから恐れてはならないのだが、それでも私たちは恐れないだろうか? 私たちの恐れの正体とは何だろうか? その正体はほぼ、「失うこと」と言えるだろう。現在、マクチェイン式聖書通読はヨブ記を毎日読んでいるが、ヨブ記は、家族、財産、自分の健康や妻の尊敬さえ失った、喪失の悲しみに打ちひしがれた者の嘆きに満ちている。同じ旧約聖書の「哀歌」も、ユダという国を失った亡国の悲しみに満ちている。私たちも、健康、財産、名誉、愛情、人間関係、尊敬、安全、安心……そういうものを失うことを恐れている。私たちがそれらを失うのを恐れるのは、その結果私たちが「死ぬこと」「滅びること」を、心のどこかで恐れているからではないだろうか。  だからこそ私たちは、いのちの主なる神さまが私たちのいのちを握っておられることを覚え、そのことに平安を覚えるべきなのである。サタンは、私たちに喪失の恐怖をちらつかせ、失うな、とばかりに、悪の勢力に隷属させようとする。よく見てみよう。サタンに牛耳られたこの世界は、どんなに「得ること」、「手に入れること」を私たちに宣伝しているだろうか? 愛情、快楽、安定、健康、名声、尊敬、財産、安全……だが、それらのものを手に入れようとも、ほんとうに満たすお方であるイエスさまに出会わないならば、人はサタンに隷属するしかなくなる。  イエスさまに出会うには、自分が大事に思っているものを、どこかで「失う」決断をすることも時には必要である。それは、サタンに従う者にはあらゆる喪失に加え、いのちさえも喪失させ、永遠の滅びにお定めになる神さまとの出会いをとおしてできることである。神さまがすべてを持っておられる、そのすべてを私にくださっている、それほど私は無限大の価値のある存在である、そう知れば、神さまから滅びに定められるようなことなど、恐れ多くてとてもできない、となろう。  その無限大の価値を、イエスさまは雀に例えて語っておられる。29節。1アサリオンとは、一日分の労賃1デナリの16分の1だから、日本円に直して簡単に考えれば、ワンコインランチのお値段くらい、500円かそこら。それが2羽分だから、1羽ではおにぎり2つ買えるか買えないかくらい。ほんとうに安い。しかもほかのイエスさまのおことばによれば、2アサリオンあれば雀は5羽買える。つまり、1羽分はおまけ。おにぎり2個どころではない、ただ。  しかし、神さまはそんな雀の1羽さえも、みこころに留めて生かしていらっしゃる。そのいのちを司り、労働もしないその鳥に食べ物をつねに備えてくださるほど、神さまは関心を持っていらっしゃる。1羽の雀に無限大の神さまの無限大の愛は注がれている。ゆえに1羽の雀の価値は無限大。その雀は数えきれないほどたくさんこの世界にいる。数学的に言うとおかしい言い方かもしれないが、無限大に無限大をかけたよう。それよりもあなたがた、弟子たちには価値があると、イエスさまはおっしゃる。  なぜ恐れてはならないのだろうか? 無限大かける無限大の価値を見出すほど、神さまは私たちを愛し、関心を持ってくださっているから。髪の毛ひとすじに至るまで数えておられるとは、髪の毛ひとすじも失わせないほど、つまり、私たちの髪の毛一本サタンの手に渡さないほど、私たちを完璧に守ってくださる、ということ。  私たちが無限大の存在ならば、ひとつでも何か欠けたら、もうそれで無限大ではなくなる。神さまは、そんなことはさせない、髪の毛一本に至るまでも守るように、私たちの全存在を守ってくださり、私たちを完璧な存在、無限大の存在として保ってくださる。それは、神さまが私たちに備えてくださった唯一の道、御子イエスさまを信じ従うことによって許されることである。イエスさまを信じていこう。  ともかく神さまは私たちに、無限大の価値を与えてくださった。私たちにこれほどの価値があるなら、私たちはもう、自分なんてダメだ、と嘆くまい。そんなことは言えないではないか。神さま、これほど素晴らしい存在にしてくださって感謝します! ハレルヤ! 喜んで信じます! これでいこうではないか。  その喜びは、イエスさまの弟子が味わえる特権である。宣教とは、自分はその無限大の価値を持っている、その喜びを、へりくだって愛することによって人々に分かち合うことである。「あなたがたも無限大の価値を持っているんです。神さまに愛されていることを知ればそれがわかります。」  その愛する働きをするとき、抵抗されたり無視されたりすることもあろう。でも、忍耐して種蒔きをしよう。主は必ず、その、涙とともに蒔いた種を芽吹かせ、育て、豊かな実りを与え、刈り取らせてくださる。私たちの間で隠されていた愛の福音は必ず、この世に広く宣べ伝えられる。私たちの愛の奉仕によって。その積み重ねで、人々がイエスさまに大いに立ち帰る、リバイバルは必ず来るから、イエスさまを信じ、あきらめないでよい働きに、愛の働きに献身していこう。