聖書箇所;マタイの福音書10章24節~31節
メッセージ題目;「主の弟子の価値は無限大」
みなさまにお尋ねしたい。ご自分は、どのくらい価値があるとお思いだろうか? つい私たちは、失敗したり、人から悪口や批判のことばを言われたり、過去の忌まわしい記憶がよみがえったりするとき、ああ、自分なんてダメだ、と思ったり、口にしたりしないだろうか?
そんな私たちに対して、神さまは語ってくださっている。イザヤ書43章4節。ヨハネの福音書3章16節。そう、私たちは自分のことをどう思おうとも、神さまが変わらずに愛してくださっているのである。
神さまが愛しているものを、ダメだと言ってはいけないだろう。人に対しても、自分に対しても。私たちはつい、自分はダメだと思って落ち込んでしまう。そんなとき、神さまの愛に立ち帰ることができたらどんなにかすばらしいだろうか。私たち教会とは、何かと落ち込みがちなお互い、人をそしってしまいがちなお互いが、神さまの愛によって愛されていること、神さまの愛によってお互いが愛し合えることを心に留め、愛の奉仕をすることで成長する共同体である。神さまと兄弟姉妹の愛を受けて、神さまと兄弟姉妹、そして隣人を愛する、私たち主の民は、そうして自分の価値を確かめ、神さまに感謝する。
聖書は語る。「神は愛です。」したがって、神の子イエスさまの弟子である私たちも、その神の愛の御姿にならう存在。私たちはなかなか、師であるイエスさまのその愛の姿にならうのは難しいが、あきらめないで愛することを取り組んでまいりたい。
今年の年間テーマは「宣教する弟子」である。しかし、宣教というのは、人を「キリスト教」という宗教の教えに染めて、先輩である自分は教えてあげたからと大きな顔をすることでは決してない。そうすることは傲慢であり、愛の反対であり、「宣教」の名に値しない。「宣教」するとは愛すること、仕えること、癒すこと。だから、へりくだっていないと無理な働きである。人間、へりくだることはほんとうに難しいが、聖書をつねにお読みして、私たちのためにへりくだって仕えてくださるイエスさまのお姿にいつも触れるならば、私たちもへりくだることの麗しさを習い、腰が低くなっていこう。隣人、まだイエスさまとはどんなお方か知らない人に、イエスさまが愛されたようなその愛を実践すること、小さなことでも気がついて手伝ってあげるでもいい、人より早く出勤、遅く退勤して、主にある勤勉の具体的な姿を示すでもいい、悩みを抱えた人の話を聞いてあげるでもいい、そういう、アーサー・ホーランドのことばを借りれば、「1ミリだけ難しく生きて」隣人を愛することをする、それが、イエスさまの望んでおられる宣教ではないだろうか。
もちろん、ことばで筋道立ててイエスさまとはどういうお方かを語れるようになることは大事である。それは確かに宣教のコアにあたる部分であり、必須である。しかし、ことばがご立派でも行いが伴っていない人の話など、説得力はないというものである。ことばで伝道することも、愛の行いをすることも難しいが、励まし合ってチャレンジしていこう。
本文に入ろう。イエスさまは弟子と師の関係を語っているが、マタイ23章10節によれば、師と呼ぶべきお方はキリストである。私たちはイエスさまをキリストと告白するので、イエス・キリストという師の弟子である。その最初の弟子が、いまこうしてイエスさまからみことばを授けられている十二弟子。その弟子たちは、師以上には出られない、と語る。また、しもべというのは、イエスさまを主と告白する、すなわち主人と告白する者たち、イエスさまのしもべであるわれわれクリスチャンであり、ここでは、まずこの弟子たちを指している。弟子もしもべも、どちらも同じである。その共通点は、低い存在として高い存在の言うことを聞き、行動する、ということ。絶対のことばに従う。それはこの世の上下関係でもそう。ただし、ほんとうの師であり主人であるイエスさまは、黒いカラスでも私が白といったら白だ、というような、理不尽な上下関係を強要される方では決してない。
師という存在、主人という存在が崩れたら、そのもとにいる者たちは守ってももらえず、用いてももらえない。だから、永遠の師であり主人であるイエスさまが私たちにいてくださるということは、ほんとうにありがたいことである。
25節。このイエスさまのみことばによれば、弟子でも師のようになれ、しもべでも主人のようになれることを約束しておられる。これはルカの福音書6章40節によれば、充分な訓練を受ければ、という条件がつく。訓練というのは、Ⅰテモテ4章7節から8節によれば、今のいのちと来たるべきいのちが約束されるための、敬虔のための訓練であり、それは肉体の鍛錬にもまして有益であるという。イエスさまは今のいのちにおいても、来たるべきいのちにおいても、今からのち永遠に私たちの主であられる。主との聖い交わりを保つことは訓練が必要な領域である。好きなところに遊びに行くのではなくて主日に教会に来ることも、毎日時間を確保して聖書を読んでお祈りをすることも、訓練によって少しずつ身についていくこと。私はしょっちゅう弟子訓練ということを強調しているが、弟子とは牧師の弟子ではなく、キリストの弟子であり、キリストの弟子になるには教会がみんなして訓練に入っていく必要がある。
そうして私たちは、師であり主人であるキリストの似姿に近づいていくのだが、同時に私たちは迫害も受ける。ユダヤの宗教エリートたちはイエスさまのことをベルゼブル呼ばわりして、そのみわざを全否定してみせた。だが、そこまで言われるイエスさまよりも、より悪く言われるのが、その弟子、そのしもべにあたる、主の子どもたち、クリスチャンたちだというのである。
クリスチャンに対する悪口。これは、キリスト教会が宣教するようになったここ160年ほどの日本で、絶えず聞いてきたことばだろう。「ヤソ」とか「アーメン、ソーメン、ヒヤソーメン」とか。こういうことはイエスさまを指して言うことばではなく、クリスチャンを指して言うことばである。東京の寄席に行くと今でもよくかかっている「宗論」という噺があるが、この演目はイエスさまに対する悪口ではなく、クリスチャンに対する偏見に満ちた悪口のオンパレードである。恐れ多いとでも思うのか、イエスさまへの批判などできないような人たちも、クリスチャンへの批判や非難、罵詈雑言は容赦ない。まさにイエスさまがおっしゃるとおりである。
しかし、26節。イエスさまは、ですから、恐れてはいけません、と語っておられる。クリスチャンを待ち受ける現実は決してたやすいものではないとお語りになっているのに、なぜ、恐れてはいけません、と語っておられるのか? だいたい、何が「ですから」なのだろうか?
それは、師であるキリスト・イエスのようになれるほど、神さまは私たち教会に、無限大の価値を見出していらっしゃるからである。私たちはどれほど尊い存在だろうか? 私たちのいのちが救われるために、神のひとり子イエスさまのいのちが犠牲になったほどである。そんな無限大に尊い存在を、神さまはサタンにやられるままには決してなさらない。
サタンに魅入られた狼のような人たちに神の愛を施す、宣教のわざをしても、彼らは私たちの善意に対して理解せず、非難したり、無視したりするかもしれない。しかしイエスさまは約束しておられる。今はそのよい行いの源である福音が、彼らの目には隠されているかもしれない。しかし、それはやがて明らかになる。覆われたままではいない。隠されたままではいない。彼らはやがて、私たちの信じているお方を見るようになる。
27節。イエスさまは全能の神さまであられたから、やろうと思えば世界中の人々にたちどころに福音をお語りになることもできた。しかしイエスさまのとられた方法は、十二人に限定した共同生活の中で時間をかけて弟子訓練することだった。その間のイエスさまにみことばを授けられている共同体生活は、閉じていた。しかし、遣わされたら広々とした世界に向けて堂々と語った。まさに、十二弟子が人目につかないところで聞いたことばが、宣べ伝えられ、今や世界中で語られるようになったのである。イエスさまがおっしゃったとおりになった。そのようにイエスさまは、福音宣教という最高のわざのために、ご自分の愛する弟子をきたえ、広く用いられるのである。
その働き、無限の神さまがになってしかるべき働きを託していただけるほどの存在、それが主の弟子。私たち主の弟子は、そんな無限の価値を持っている。だから恐れてはならないのだが、それでも私たちは恐れないだろうか? 私たちの恐れの正体とは何だろうか? その正体はほぼ、「失うこと」と言えるだろう。現在、マクチェイン式聖書通読はヨブ記を毎日読んでいるが、ヨブ記は、家族、財産、自分の健康や妻の尊敬さえ失った、喪失の悲しみに打ちひしがれた者の嘆きに満ちている。同じ旧約聖書の「哀歌」も、ユダという国を失った亡国の悲しみに満ちている。私たちも、健康、財産、名誉、愛情、人間関係、尊敬、安全、安心……そういうものを失うことを恐れている。私たちがそれらを失うのを恐れるのは、その結果私たちが「死ぬこと」「滅びること」を、心のどこかで恐れているからではないだろうか。
だからこそ私たちは、いのちの主なる神さまが私たちのいのちを握っておられることを覚え、そのことに平安を覚えるべきなのである。サタンは、私たちに喪失の恐怖をちらつかせ、失うな、とばかりに、悪の勢力に隷属させようとする。よく見てみよう。サタンに牛耳られたこの世界は、どんなに「得ること」、「手に入れること」を私たちに宣伝しているだろうか? 愛情、快楽、安定、健康、名声、尊敬、財産、安全……だが、それらのものを手に入れようとも、ほんとうに満たすお方であるイエスさまに出会わないならば、人はサタンに隷属するしかなくなる。
イエスさまに出会うには、自分が大事に思っているものを、どこかで「失う」決断をすることも時には必要である。それは、サタンに従う者にはあらゆる喪失に加え、いのちさえも喪失させ、永遠の滅びにお定めになる神さまとの出会いをとおしてできることである。神さまがすべてを持っておられる、そのすべてを私にくださっている、それほど私は無限大の価値のある存在である、そう知れば、神さまから滅びに定められるようなことなど、恐れ多くてとてもできない、となろう。
その無限大の価値を、イエスさまは雀に例えて語っておられる。29節。1アサリオンとは、一日分の労賃1デナリの16分の1だから、日本円に直して簡単に考えれば、ワンコインランチのお値段くらい、500円かそこら。それが2羽分だから、1羽ではおにぎり2つ買えるか買えないかくらい。ほんとうに安い。しかもほかのイエスさまのおことばによれば、2アサリオンあれば雀は5羽買える。つまり、1羽分はおまけ。おにぎり2個どころではない、ただ。
しかし、神さまはそんな雀の1羽さえも、みこころに留めて生かしていらっしゃる。そのいのちを司り、労働もしないその鳥に食べ物をつねに備えてくださるほど、神さまは関心を持っていらっしゃる。1羽の雀に無限大の神さまの無限大の愛は注がれている。ゆえに1羽の雀の価値は無限大。その雀は数えきれないほどたくさんこの世界にいる。数学的に言うとおかしい言い方かもしれないが、無限大に無限大をかけたよう。それよりもあなたがた、弟子たちには価値があると、イエスさまはおっしゃる。
なぜ恐れてはならないのだろうか? 無限大かける無限大の価値を見出すほど、神さまは私たちを愛し、関心を持ってくださっているから。髪の毛ひとすじに至るまで数えておられるとは、髪の毛ひとすじも失わせないほど、つまり、私たちの髪の毛一本サタンの手に渡さないほど、私たちを完璧に守ってくださる、ということ。
私たちが無限大の存在ならば、ひとつでも何か欠けたら、もうそれで無限大ではなくなる。神さまは、そんなことはさせない、髪の毛一本に至るまでも守るように、私たちの全存在を守ってくださり、私たちを完璧な存在、無限大の存在として保ってくださる。それは、神さまが私たちに備えてくださった唯一の道、御子イエスさまを信じ従うことによって許されることである。イエスさまを信じていこう。
ともかく神さまは私たちに、無限大の価値を与えてくださった。私たちにこれほどの価値があるなら、私たちはもう、自分なんてダメだ、と嘆くまい。そんなことは言えないではないか。神さま、これほど素晴らしい存在にしてくださって感謝します! ハレルヤ! 喜んで信じます! これでいこうではないか。
その喜びは、イエスさまの弟子が味わえる特権である。宣教とは、自分はその無限大の価値を持っている、その喜びを、へりくだって愛することによって人々に分かち合うことである。「あなたがたも無限大の価値を持っているんです。神さまに愛されていることを知ればそれがわかります。」
その愛する働きをするとき、抵抗されたり無視されたりすることもあろう。でも、忍耐して種蒔きをしよう。主は必ず、その、涙とともに蒔いた種を芽吹かせ、育て、豊かな実りを与え、刈り取らせてくださる。私たちの間で隠されていた愛の福音は必ず、この世に広く宣べ伝えられる。私たちの愛の奉仕によって。その積み重ねで、人々がイエスさまに大いに立ち帰る、リバイバルは必ず来るから、イエスさまを信じ、あきらめないでよい働きに、愛の働きに献身していこう。