いのちの冠を目指す歩み

聖書箇所;ヤコブの手紙1章12節〜15節 メッセージ題目;「いのちの冠を目指す歩み」  先週紹介した黒人霊歌は「私の試練」という題名である。それが何の試練を意味するかに触れなかったので、お話しするが、歌の冒頭はこのとおり。「ねんねんころり、かわいい赤ちゃん、泣かないで。わかるわね、ママはもうすぐ死んじゃうの。主よ、これはみな私の試練、じきに終わる試練。」また、このように続く。「私の兄弟たちよ、もう遅すぎる、遅すぎるけど、心配しないで。これは私の試練、じきに終わる試練。」  何と悲しい歌なのかと思うが、この、死に際に子守唄を歌って幼子をあやすママは、しかし、悲しいばかりではない。先週お話ししたとおり、信仰は金持ちが金で買って永遠のいのちに至らせるものではないと歌っている。また、冷たいヨルダン川は身を凍らしても心を温めると語ったり、パラダイスのいちばん大きな木はいのちの木だと告白したり、見ている先は天国、永遠のいのちである。幼いわが子を置いて病に苦しみながら逝ってしまうなんてあんまりな試練だが、ここで彼女は天国を仰ぎ、素晴らしい希望を手にしている。悲しすぎる歌は、希望と喜びに満ちた歌だった。  私たちもこのママのように、試練によって苦しむことも大いにある。逃げたい、でも、逃げられない、なのに、立ち向かう力もない。もうぼろぼろだ。今日のみことばは、そのような、苦しみと試練の中にいるクリスチャンたちにとって、大いなる慰めの約束を語っている。  12節は約束のみことばである。……このみことばは何を約束しているだろうか? いのちの冠である。  マラソンの勝者に月桂冠がかぶせられて、それが勝利者にとって大いなる栄誉となるように、人生の長い戦いを戦いおおせた勝利者には、いのちの冠が着せられる。つまり、神からの栄光に満ちた永遠のいのちが着せられるという、冠が着せられる。われわれは永遠に御国の王にしていただく恵みにあずかるが、王にふさわしい栄誉を示す冠が、いのち、まことのいのち、永遠のいのちというわけである。  私たちが永遠のいのちをいただくということ、すなわち罪ゆえに永遠の滅びに定められていたのに、イエスさまの十字架の贖いによって、救っていただき、永遠に神とともに生きる存在としていただいたということは、王冠をいただいて王として治めるということである。それも、この地上のどんな国とも比べものにならないほど栄光に満ちた素晴らしい国、御国にて王となるのである。永遠に王となるのである。これがどれほど素晴らしいことか実感できるだろうか?  この、いのちの冠をいただける人は、神を愛する人である。神さまは変わらずに私たち全人類を愛してくださっているが、問題は神さまのその愛に応えて、神さまを愛する人がとても少ない、少なすぎる、ということである。愛してます、ということばは、ほんとうに奥さんを一途に愛している旦那さんにふさわしいが、問題は、浮気者や結婚詐欺師も、愛してます、と平気で口にできることである。しかし、ほんとうに愛しているならば、相手のためにいのちをかけてこそではないだろうか。それでこそ、ことばは本物となる。浮気者や結婚詐欺師には逆立ちしてもできない。  同じことで、神を愛するにはそれ相応の証拠が必要である。神さまを愛しています、というのが口だけだったら、その人の信仰とは果たしてなんだろうか。  その、人が神を愛する証拠はなにかを、このみことばは語る。それは「試練に耐え抜く」ことである。試練とは何だろうか? 試して練る、つまり、不合理、不条理な目にあうことで、自分の中の足りないものが満たされ、不純なものが取り除かれて、ふさわしく整えられることである。  この「試練」というものは、神さまがくださるものである。あとでご覧いただきたいが、ヘブル人への手紙12章4節から12節を見れば、試練が神さまから来るものだということがわかる。聖書を読んでも、アブラハムも、ヤコブも、ヨセフも、ダビデも、みんなたいへんな試練を通らされている。  ときに、試練は悪魔以外の何者から来るのか、と思われることもあろう。旧約聖書ではヨブ記のヨブがそうだったし、新約聖書ならばなんといっても、40日の断食の末に悪魔の試みを受けられたイエスさまである。しかし、この場合も究極的には、神さまがサタンに命じてそのような試練を与えることをお許しになっているのであり、すなわちその試練は神さまに由来するものである。  私たちに試練をお与えになる神さまの愛がおわかりだろうか? 子どもが苦しみ、のたうちまわるのに平気でいられる親がどこにいるだろうか? しかし神さまは、神の愛をこの反抗的、かつ無関心に満ちたこの世で守り行える者となれるように、私たちを力づけ、このよに調子を合わせるようなやわなものから抜け出させ、成長させてくださるために、私たちにあえて厳しい試練を与えられる。  この試練に耐え抜くことができるのはなぜだろうか? それは、神さまを信頼しているからである。信頼するということは難しいが、信頼しきった人は強い。むかし同じ教会で、安先生という名前の宣教師と働いたが、安先生はある日、私にこんなことを言った。  「私が必ず支えますから、脚をそろえたまま後ろにそのまま倒れてください! そのままですよ!」しかし、これはかなり怖い。どうしても足を動かしてしまう。すると安先生が言う。「だめです! 足動かしちゃいけないって言ったのに!」ところが、安先生の小学生の娘さんは、ちゃんと後ろにきれいに倒れる。もちろん、安先生はがっちりと支える。これはすごいと思った。娘はお父さんを心底信頼しきっている。愛の試練を信頼するとは、こういうことなのだろう。  その信頼がないと、13節以下のようになってしまう。自分が誘惑にあうとき、それを神さまのせいにするのである。それが端的に表れている聖書箇所として、創世記3章を挙げることができる。アダムは自分が誘惑されて罪を犯したのを、神さまのせいにし、また、エバのせいにした。エバはエバで、罪を犯したのを蛇のせいにした。しかしいずれにせよ、エバをそばに置いた神さま、園に蛇を置いた神さまが、罪を犯させたと言わんばかりの態度である。ここでアダムとエバは、ごめんなさい、私たちが罪を犯しました、と言うべきだったが、彼らは認めなかった。これが罪のはじまりだった。自分の罪を認めず、神のせいにする、その態度。  神さまはご自身が罪に誘惑されることがないように、人を誘惑されることをなさらない。神さまは試練を与えこそすれ、誘惑はなさらない。試練は人を神に拠り頼ませ、そうすることで神に近づかせ、人をきよくするが、誘惑は人を罪に陥らせる。神さまはあえて人に罪を犯させ、ご自身から遠ざからせるような、意地の悪いお方ではありえない。  人には欲があるとみことばは説く。早い話が、罪を犯したくてたまらない欲である。エバが見た「善悪の知識の木の実」は、食べたくてたまらないもの、しかしそれは、食べることによって罪を犯したくてたまらないものだった。  しかし、欲のとおりに振る舞えばそれは罪であり、その結果人は死ぬ。神のいのちから永遠に引き離される。まさしく、アダムとエバが善悪の知識の木の実を食べて死ぬ者となったようにである。  人は試練にあうとき、2つの選択肢の前に立たされる。ひとつは試練に立ち向かう道、もうひとつは試練から逃げる道。しかし、試練が神さまから来るものであるならば、試練に立ち向かうということは、神さまを愛して、神さまに近づくことで、神さまの助けをその弱さを覚える領域にお迎えすることであり、大いなるみわざを体験することになる。  試練から逃げるとどうなるだろうか? それは、神さまが鍛え、きよめてくださろうとする、いわば「親心」を拒絶することである。そういうものが行く先は、「快楽」ではないだろうか。みこころの厳しさから逃げ出して快楽をむさぼりたい。罪を犯したい。  私たちだれもが持っているそういう「欲」が神さまの御手によって取り扱われないかぎり、私たちは罪を犯す喜びに陥り、その結果、神のいのちの喜びをまるで体験できない、生きているとされていても実は死んだ状態に陥ってしまう。そんな生き方をしたいと思うだろうか?  いや、思わないはずだ。だからこそ私たちはせっかくの日曜日に、礼拝をささげるわけである。それでは私たちはどうすれば誘惑に勝てるのだろうか? 先ほど申し上げた、イエスさま。イエスさまこそは誘惑に打ち勝たれたお方だった。神の力が誘惑に勝たせることをお示しになるために、御父はあえて「誘惑」という形でイエスさまに試練を与えられたといえよう。  私たちはこのイエスさまとの交わりによって、死に至らせる罪をはらませる欲に打ち勝てる。礼拝とはイエスさまの御前に大胆に出ることではないか。  私たちがいただくべき折にかなった助け、それは、折に触れて私たちを誘惑しにかかり、罪を犯す選択へと導くサタンに打ち勝てるようにするためのものである。私たちが罪を犯すならば、その責任は私たちが負わなければならない。サタンのせいになどできない。なぜなら、罪を犯したのは「私」だからである。その責任の重さを思うならば、私たちは何としてでも、罪を犯すところから助け出されたいと思うではないか。イエスさまに拠り頼もう。  イエスさまとの交わりを持てば、誘惑から守られ、試練の中で主に拠り頼むことをとおして、私たちの霊性と人格が成熟へと導かれる。そのようにして私たちはキリストに似たものとされるのである。そのような者に、いのちの冠が着せられ、永遠のいのちに生きる御国にて、私たちは永遠に王となる。毎日の生活はひとつひとつが、その日を目指す一歩一歩の歩みである。いのちの冠をいただくその日を思い描き、今日の苦しみの中で主に拠り頼んでいこう。

神の知恵を求めなさい

聖書箇所;ヤコブの手紙1章5節~8節 メッセージ題目;神の知恵を求めなさい  このところ私たちは、リビングライフで列王記第一をとおしてソロモン王のことを学んできた。ソロモン王がどんなに知恵に満ちていたか、あの、赤ん坊を巡っての遊女の争いをさばいたエピソードや、大小さまざまな植物や動物についても知り尽くしていたという記述からもわかるような、一国の王という立場に納まらない見識、また博識ぶりは、神さまがソロモンにそれだけの知恵を与えてくださったからである。  神の知恵、といえば、私はかつて、知恵さん、という名前の教職者とともに同じ教会で働いたことがある。クリスチャンホームに生まれ育った彼女の名前の由来は、「神を知る恵み」ということだった。私は彼女の父上にもお会いしたことがあるが、実に素晴らしい信仰をお持ちの方で、神を知ることは実に神の恵みである、その神を知る恵みをいただくことが人間にとってどんなに大事なことか、という父上の信仰がその名前に込められているようである。  あまりよくないことばの用い方では、知恵をつける、という表現がある。家族や親戚や小さなお店の店員のような人間関係のごく近いどうし、立場の弱い者が法律などの正当な知識を用いて立場の強い者の理不尽さに対して攻撃したり、抗議したり、距離を置いたりするとき、やられた側は、「いったいどこで知恵つけてきたんだろう」とぼやいたりする。本来、愚かであってくれるほうが都合がいいものを、よくも賢くなりやがって、なまいきな、と思うわけである。  そういうわけで、知恵をつける、とは、実に上から目線の嫌味な言い方であるが、そういう言い方を聞くと、知恵を持つことは何かいけないこと、後ろめたいことのように思えてくるかもしれない。しかし、私たちが押さえておくべきことは「何のための知恵か」ということである。  決して自分が人を出し抜くためではなく、神さまの栄光のために神さまの知恵を用いること、これが、私たちが「知恵」というものを肯定的に理解する上での大前提である。同じ日本のキリスト教会の牧師として口にするのも嫌な不祥事だが、一時期、日本のごくごく一部のキリスト教会が、ふさわしくない牧師の独裁によってカルト化して、日本のキリスト教会全体の大問題になった。そのとき、パワハラにあっていたクリスチャンたちは法的手段に訴えたが、そのことは、聖書に基づいてふさわしく「知恵」を用いたからであり、何ら責められることではない。  そういう、知恵。私たちは第一列王記とともに、そのソロモンが大部分を記している「箴言」もこのところ通読してきたが、箴言は何とも知恵に満ちていて、読めば読むほど賢くなれそうである。もとへ、なれる。神さまがソロモンに与えてくださった知恵を、こうして箴言のみことばという形で分かち合っていただけるのだから、私たちは幸せである。  長い前置きになったが、今日の本文は「知恵をもとめること」を語っている。まずは5節。……知恵が欠けているなら知恵を神さまに求めなさい、ということだが、そもそも人は、どうしたら自分が知恵が欠けていることを意識し、それゆえに知恵を求めるべきだと考えるのだろうか?  やはりここは知恵の宝庫、箴言のみことばを見てみよう。まず、箴言3章7節。自分を知恵のある者と思わないことが必要。たとえ、人からリーダーとか先生とか言われて尊敬されている人であっても、自分は知恵がない、愚かだと心から思っていること。それだけ、神と人の前にへりくだることが大事である。同じく箴言の26章12節もご覧いただきたい。愚かなら賢くなろう、成長しようと考える。しかし、自分は充分に知恵を持っている、学ぶ必要はないと考えるなら、もはやその人には成長は望めない。同じく26章の16節は、そのような成長するための努力をまるでしない怠け者は、七人の賢者よりも自分のほうが知恵があると思っていると語る。手の施しようがない。  だから、自分はまだまだ未熟者だ、学ばなければならないと考える人は見込みがある。私もこれまで、自分も子どもだったし、また現に子育てもしているくらいで、数えきれないほどの子どもを見てきたが、親や先生といった大人がいかに「勉強しなさい」とがみがみ言ったところで、自分の知恵の足りなさを痛感して勉強が必要だとならないかぎり、子どもは勉強しない。もちろん、それは大人も同じことで、自分の足りなさを悟って必要に迫られ、はじめて勉強する気になる。しかし、本を読むにも視力も落ち、記憶力も落ち、だいいち忙しすぎるという現実をいやでも悟らされて、愕然とするわけである。ああ、若い頃から勉強しておけばよかった! なんて。  そういうわけで知恵を得ることは難しい。しかし、みことばはここに素晴らしい方法を示している。それは、神さまに求めなさい、ということである。神さまはだれにでも知恵をくださる。神さまはいくらでも知恵をくださる。求めるならば必ず知恵をくださる。何とすばらしいことではないか。  しかし、私たちはそうと知っても賢くなれないことがとても多い。それはなぜなのかもみことばは語る。6節を読もう。……神さまから知恵をいただける条件は、少しも疑わないで、信じて願うことである。まず、信じて願う、のほうから見てみたいが、願うということは、時に時間をかけることも覚悟しなければならない。現代はインスタント、コンビニ、インターネット……何でもあっという間に手にできる時代だけに、「待つ」ことの意味を忘れてしまいがちだが、ほんとうに欲しいものを手にするためには、待つこともできるはずである。  子育てをするとき、幼いその姿についてんてこ舞いしてしまうが、私たちは心のどこかで、その子がやがて大きく立派になる姿をビジョンとして持っているのではないだろうか? だから、それまでに何年かかったとしても、私たちは忍耐できる。それと同じことで、私たちに知恵が必ず与えられると信じるならば、その知恵が手に入るためにどんなに苦しい勉強をしなければならなくても、かならず充分な知恵を授けていただけると信じて、どこまでも祈って求めていけるはずである。  そう、ここで求められるのは、祈りつづけられるだけの信仰を働かせられるか否かである。6節の「疑う人」のたとえを見ていただきたい。どこかで見たことのある表現ではないだろうか? そう、これは、湖の上を歩くイエスさまを見て、ペテロがイエスさまの招きに従ったときの、あのみことば。ペテロはイエスさまの「来なさい」ということばに従って湖の上に足を踏み出し、イエスさまのほうに向かっていったとき、なんと水面を歩けた。しかし、ペテロは湖の波を見たとたん、おぼれてしまった。ペテロが見るべきはイエスさまおひとりであるべきだった。イエスさまを見ないならば、おぼれてしまう。  「どうせ自分なんて頭が悪いから」、「どうせ自分なんて信仰が弱いから」、こんなふうに自分のことを考えてしまっているとき、その人の目に果たしてイエスさまが見えているだろうか? そのような不信仰な人、神さまを信じているといってもそれは口先だけで実際は信じていないような人には、神の知恵はふさわしくない。そういう、中途半端な者には、神さまは知恵をお授けにならない。  「自分は必ずできる」、「やればできる」、「信じる」、そういう人は、簡単にはへこたれない。祈りつづけることができるし、その祈りに裏打ちされた、知恵を得るためのあらゆる努力を惜しまずにすることができる。神の知恵はそういう人にこそふさわしく、必ず与えてくださる。  7節、8節をお読みしよう。疑う人は、主から何かをいただけると思ってはならない。知恵の初めに知恵を買え、あなたが得たものすべてに換えて悟りを買え、と箴言4章7節のみことばは語る。それほど知恵とは何が何でも求めるべきものだということであり、逆に言えば、神の知恵さえ充分に与えられていれば、人間関係であれ、環境であれ、お金を含めた持ち物であれ、神さまが私たちに必要として与えられるものはすべてそろうのである。  しかし、神さまに対して疑いの思いを持っているようでは、知恵も何もいただけはしない。神さまに対して不信仰な者を、神さまはお用いになりようがないからである。その人のことを神さまがお用いになれないのは、その人は自分が用いられたいからと神の知恵を求めようともしない、怠け者だからである。求めない者には神さまは知恵も何もくださらない。  8節は、そういう人が二心の人だと説く。表面的に見るとご立派なことを言っていて、神さまを信じているように見える。しかし、ほんとうに彼が信じているのは、不確かでしかない自分自身である。主を心に迎えてはいるものの、心の王座に座っているのは自分という状態である。お祈りすると申し訳程度に神さまを心の王座にお迎えしたようなポーズは示すものの、ほんとうのところ、その人にとっての人生の主人はイエスさまではない。  そう、所詮は不確かな「自分」という存在が導く人生だから、心が定まっていないのは当たり前である。不信仰ということ、そして、知恵は必ず与えられると信じて求めることをしないことは、これほどまでに不確かな人生しか保証しない、ということである。  ちょっと、これからお読みになるリビングライフの第一列王記の内容を先取りしてしまうが、知恵を用いて国を治め、立派な神殿を建てて国民を礼拝者として整えたという点で、ソロモンは確かに素晴らしい王だった。それにふさわしい栄華も神さまはソロモンに与えてくださり、その栄華は主イエスさまもお認めになるほどだった。しかし、イエスさまはソロモンの栄華をお認めになってはいるが、ソロモンが知恵深かったと評価しておられるわけではない。やがてソロモンは政治において数々のしくじりをするようになった。いちばんいけないのは、政略結婚も含めてとんでもない数の女性と通じ、彼女たちが外国の神々を持ち込むままにさせ、イスラエルの霊的純潔をけがしたことである。神さまはソロモンに、充分な従順を果たせば齢を長くしてあげようと約束されたが、実際には60歳くらいまでしか生きなかった。これは、彼がそれだけ不従順だったことの何よりの証拠であり、神の摂理である。  そんなソロモンは知恵ある生き方をしたと言えただろうか? 晩年は、箴言というみことばを伝えた人物ととても同じには見えない。知恵を求め、知恵を用いたとは到底言えない、肉の思いに満ちた俗物となり下がっていた。まさしく聖書を代表する、晩節を汚した人物。  ソロモンにしてこうなのである。私たちはどうだろうか? ソロモンのこういう姿を私たちは反面教師としたい。ソロモンは父ダビデの従順により恵みを受けた存在にすぎなかったのに、王座に座って何十年も経つうちに、気がつけば勘違いもはなはだしかった。私たちもいまあるのは主の恵みゆえである。神の知恵を求めることは一生もの、いのち果てて御国に行くその日まで、私たちは日々お祈り、日々勉強あるのみである。  お祈りして、お伺いしてみよう。私たちはほんとうに愚かだと悟らされているだろうか? そんな私たちに、神さまはどんな知恵をお授けになろうとしているだろうか? 静まって、みこころを、そして知恵を求めよう。そして、これからも知恵を得るために励みつづける力をいただこう。

聖徒の忍耐

聖書箇所;ヤコブの手紙1章1節~4節 メッセージ題目;聖徒の忍耐  今日から「ヤコブの手紙」より学ぶ。計画では8月いっぱいまで。  この書の強調していることは、信仰とは行いあってこそ、ということ。もちろん、神さまに救っていただくには、イエスさまを信じさえすればよい。救いは行いによるのではない、信じることによる、これは大前提。  しかし、信じるということは果たしてどんなことなのだろうか? 自分が基準の自己中心による信じ方では果たしてどうだろうか?「俺は神さま信じてるよ」と言いながら、その生活が到底、神さまを信じている人とはいえないような自堕落なものだったら、その人はほんとうに神さまを信じているといえるだろうか? そういう態度の人でも救いは保証されているのだろうか? 今日から5か月間の学びにおいては、そういうことを中心に考えてまいりたい。  今日はその冒頭、1節から4節。まず1節の部分はあいさつのことばであり、これを見ると、このヤコブの手紙がどういう人に必要だったかが見えてくる。  その前に著者から見てみよう。「神と主イエス・キリストのしもべヤコブ」とある。このヤコブは、十二弟子のリーダー集団、ペテロ、ヨハネ、ヤコブの、そのヤコブではない。このヤコブは使徒の働き12章にあるとおり、まだ教会が充分に成長する過程にある前に、ヘロデによって殺されて殉教した。そのヤコブではなく、「主の兄弟ヤコブ」、つまり、主イエスさまのお生まれになったあとで、ヨセフとマリアの間に生まれた、イエスさまの肉親としての弟である。このヤコブはイエスさまの公生涯のころには、イエスさまがキリスト、救い主であるという信仰を持っていなかった。むしろ、おかしな人だと見なして連れ帰ろうとしたり、かと思うと、あなた自身を世に現せばいいでしょうが、などと、差し出がましいことをイエスさまに言ってみたりする。要するにイエスさまを信じていなかった。  しかしヤコブは、イエスさまの十字架と復活、そして昇天ののちに教会が成り立つようになってからは、教会の指導者となっていった。もちろん、イエスさまをキリストと信じられるようになった。そしてここにあるとおり、神と主イエス・キリストのしもべ、と自己紹介するまでになっている。イエスさまを主キリストと告白している。ここには、イエスさまが肉親だったという誇りや驕りなどかけらも存在しない。ヤコブにとってイエスさまは兄弟ではなく、主キリストであった。  ゆえに、このヤコブの手紙は、イエスさまの兄弟だったという視点から書かれたのではなく、イエスさまが主キリストであるという告白のもとに書かれている。私ヤコブも読者のあなたがたも、イエス・キリストは主と信じ告白しているのです、これからみなさんがお読みになるこの手紙は主イエス・キリストのみこころです。という前提で書かれている。  では、国外に散っている十二部族とはだれだろうか? 大前提としてこれは、アッシリアによるイスラエル王国滅亡、バビロンによるユダ王国滅亡により、世界中に散らされて久しいイスラエル人のことを指している。ただし、イスラエル人といっても、その中でも教会による宣教活動を通して、イエスさまをキリストと信じ告白する人たちである。  ローマ人への手紙はローマの異邦人に向けて書かれた手紙だが、その中の9章から11章はイスラエル人のイエスさまへの回心について書かれている。そのうち11章23節と24節に注目すると、彼らイスラエルは異邦人よりもよりたやすくイエス・キリストに接ぎ木される、すなわちいざとなるとイエスさまへの信仰を持ちやすいことが語られている。イスラエルとはそういう民族である。  このイスラエルは、世界に散っている。21世紀の今もなおイスラエル人は、イスラエルという本国ができた現在も世界に散った民である。しかし、そのイスラエルがひとつに集められるのはイスラエルの悲願である。エレミヤ書31章7節から9節、エゼキエル書37章21節から28節は、その悲願を主が成し遂げてくださるという預言である。  その預言を主はどのようにかなえてくださるのだろうか? それはヨハネの福音書11章52節に書かれているとおりである。カヤパはローマからユダヤを守る捨て石にイエスさまを差し出せばよいと意見したが、図らずもその意見は、イエスさまの十字架が神の民のためであったことを預言したことばとなった。そう、エレミヤ、エゼキエル以来のイスラエルの悲願は、イエスさまという牧者がひとつの主の民を牧してくださることにおいて成就するのである。  そのイスラエルに、私たち異邦人は接ぎ木されている。養子は血のつながった実の子でなくても、法的に実の子どもと見なしてもらえるのと同じように、私たちの血統がイスラエルでなかろうと、私たちも主イエスさまを信じる信仰により、神の民に加えていただいている。ゆえにこの手紙は、終わりの日にイエスさまによってひとつに集められるべき民に向けて書かれた書簡であり、その対象には私たちも含まれている。私たちは日本の茨城に散っているが、やがてイエスさまが再臨されるとき、私たちは世界中から集められる神の民の一員として、栄光のイエスさまの御前に集う。  その前提で2節以下を読もう。試練がこの上もない喜び、というのは、単に我慢しなさいということではない。さもなくば、試練に合うことにマゾヒスティックな喜びをいだきなさい、ということでも決してない。  3節は、試練を受けることがなぜ喜びと思うべきことなのかを語っている。2節の定義によれば、試練とは信仰が試されることである。その結果、忍耐が生じる、だから喜びなさい、というわけである。  では、忍耐が生まれるとなぜ喜ぶべきことになるのだろうか? それは4節で説明されているとおりである。4節。まず、忍耐とは働かせるべきものである。彼らは何に忍耐しなければならなかったのだろうか? 同胞のユダヤ人からも、異邦人からも受ける迫害に対してである。そのような中で、彼らはつねにイエス・キリストを否む誘惑にさらされていた。第二テモテ2章12節。この箇所からすると、忍耐を働かせるとは、キリストを否まずに最後まで告白しつづけることである。  そのように、あらゆる迫害にも忍耐して、キリストを誇りとする生き方をことばと行いにおいて徹底するならば、何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な人になることをみことばは約束する。この約束は、私たちの地上のいのちが終わり、御国に移されるときにかなう。地上においては何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な人には到底なれない。しかし、私たちが忘れてはならないのは、私たちの信じ受け入れているイエスさまは、何一つ欠けたところのない、成熟した、完全なお方であるということ。このお方との交わりを日々欠かさず持ちつづけることで、私たちはこの完全に成熟したお方、キリストに似た者へと日々変えられる。その歩みが、この地上でのいのちが果てるときに完成するのである。  私たちは生活していると、いやなこと、理不尽なことに出会うことが避けられない。それからいちいち逃げていては切りがないし、成長もしない。しかし、一方で考えなければならないことは、そういう「させられる」我慢は果たしてすべてがすべて主のためにしていることなのか、イエスさまの十字架を忍んでしていることなのか、ということ。この箇所を表面的に読むと「忍耐すること」そのものを称賛していることにしか思えないかもしれないが、ほんとうに考えるべきは「何のために忍耐するのか」「だれのために忍耐するのか」ということ。  忍耐、といえば、ローマ人への手紙5章1節から5節のみことばは外せない。ここでも今日の箇所同様、忍耐が語られているが、忍耐が練られた品性を生むことはなぜ素晴らしいのだろうか? それは、その練られた品性とは、るつぼや炉に金銀が入れられて金(かな)かすが除かれて精錬されるように、私たちが試練に合う中で主にお従いするうえで不必要な肉の性質が取り除かれ、その結果キリストに似た者となった品性、ということ。それゆえに練られた品性を備えることはすばらしい。  そして、練られた品性を備えた人、すなわち練られてキリストに似た者となった人が持つ希望は、失望に終わらない。それは、その希望とは、御国でイエスさまとともに過ごす永遠のいのちにあずかる、不滅の希望だからである。  その希望を保障してくださるのが聖霊なる神さまであり、その希望に私たちのことを満たしてくださるほどに、神さまは私たちのことを愛してくださる。だから私たちは忍耐するのであるが、その忍耐が神の栄光につながることのない、いわば「不本意に苦しまされる」ものであるならば、そこから距離を置くことを祈ってみてはいかがだろうか。不必要な忍耐でせっかくの主のたまものなるいのちを浪費することは賢いとはいえない。  とはいえ、簡単にその苦しみから逃れられないこともあろう。祈っていても果たしてその苦しみが主のゆえのものか判断がつかず、理不尽に耐えなければならないこともあろう。それこそ旧約聖書のヨブ記のヨブのようにである。しかし、私たちはその中でも、可愛い子にあえて旅をさせてくださる御父なる主の親心を思い、忍耐するものでありたい。そこから主との交わりが生まれ、永遠の御国に至る希望を仰ぐことができる。  考えてみよう。古今東西、この世界に存在した最も理不尽な忍耐とは、神の子なるイエスさまがこの世界に人としてお生まれになり、何の罪もないのに人のすべての罪を背負われ、十字架に死なれるほどに忍耐の生涯を送られた、ということでなくて何だろうか。しかし、この忍耐は神の栄光を現すものであった。この忍耐のすえに、ピリピ人への手紙2章にあるとおり、イエスさまは王の王、主の主として、すべての名にまさる名をお受けになった。  そのように、私たちは主の栄光のゆえに忍耐するならば、イエスさまがやがて再臨され、四方から御民を集められる終わりの日に、私たちはしぼむことのない栄光の冠を受ける。イエスさまを信じているということは、そのように、きわめて終末的な信仰を持つということであり、終わりの日に栄光をもって再臨されるイエスさまの前に恥ずかしくなく立つことを目指す信仰を実践する、ということである。  イエスさまを信じるということは、イエスさまのために生きるということである。もちろん、イエスさまのために生きることは簡単ではない。私たちはできれば自分の欲望を優先させていきたいと願うように、イエスさまにお従いしたいという御霊の願うことは私たちの肉の思いに逆らい、同じように私たちの肉は御霊に逆らう。  しかし、だからといって、肉に従っていきたいと願う私たちの欲望を言い訳にして、不従順な歩みを正当化してはならない。私たちがイエスさまに従順でありたいと願う歩みは苦しみの伴う、忍耐を必要とするものだが、主はその末に私たちを完全な成熟へと導かれる。すなわち、御国にて完全な聖徒として迎え入れてくださる。その日を目指して、今日忍耐すべきことにともに取り組み、ともに主の栄光をあらわしていこう。

復活から派遣へ

聖書箇所;マルコの福音書16章9節~20節 メッセージ題目;復活から派遣へ  今月、2人の娘の卒業式があった。一方は中学校、もう一方は小学校。卒業式というものは、単なる「卒業」を記念してお祝いするだけのものではない。進級先の学校という新たな環境に「派遣」される日でもあった。よその学校の校長先生から祝電が届いたりするのだが、いわく「みなさん、苦しんでください」なんて。保護者達にはその言わんとしたことは分かったと思うが、果たして生徒のみなさんにはちゃんと伝わったか。あまりに厳しすぎると思わなかったか。しかし、派遣されるとはそういうことなのだろう。  今日は喜びの日。イエスさまが復活されたことをお祝いする日。あらためて言おう。「主イエスは!」「よみがえられた!」イエスさまは十字架で死なれて終わりではない。復活されたのである。イエスさまは私たち人間のすべての罪を背負われて十字架に死なれた。しかし、イエスさまは死なれて3日目に復活された。イエスさまによって、私たち人間は永遠に罪と死に勝利した。私たちはイエスさまを信じるならば、永遠に罪と死に勝利し、すべての罪が赦され、永遠のいのちをいただくのである。  さて、冒頭で「派遣」の話をしたが、「派遣」はイエスさまの「復活」とひとつのセットになっている。それは今日のみことばをお読みいただければ一目瞭然である。弟子たちはイエスさまの復活を体験し、それから派遣されている。しかし、復活というものは、イエスさまからずっと聞かされていた一方で、弟子たちがそれとわかるように体験するには、少し時間を必要とした。  弟子たちは、イエスさまがよみがえったという、マグダラのマリアたちからの伝聞によって信じるしかなかった。別の福音書によれば、空っぽになったお墓という状況を証拠として信じ受け入れるしかなかった。それでも、イエスさまがよみがえるというおことばがそのとおりになったと信じられたならば、彼ら弟子たちは喜べたはずだった。ところが彼らは喜べなかったばかりか、悲しんで泣いていた。  そのあたりのことはのちほど詳しく見るとして、今日の箇所、9節のみことばから見てみよう。イエスさまはなぜ、マグダラのマリアにご自身を現されたのか? それは何といっても、ユダヤ人から何をされるかわからないという危険を顧みずにお墓に行った、その信仰にイエスさまが応えてくださったから、と言えよう。  もちろん、「救われる」ことに特別な条件は必要ない。特別な行動をとらなくても救っていただける。しかし、イエスさまに特別に近づいただけの恵みというものは頂けることを覚えておこう。ここでマグダラのマリアは、勇気をもってイエスさまのおられるところに近づいたら、イエスさまにまみえるという恵みをいただいた。私たちもイエスさまに近づいただけの恵みは受け取らせていただけるのである。  こうしてマリアは、弟子たちのいるところに知らせに行った。しかし、弟子たちはどうだっただろうか? 10節。弟子たちは嘆き悲しんで泣いていた。彼らからはイエスさまが3日目に復活するという信仰がすっぽり抜け落ちていた。彼らは、イエスさまが十字架の上でむごたらしい死に方をなさったそのお姿があまりにも鮮烈に目に焼きつき、もはや信仰を働かせるどころではなかった。  そんな彼らのところに、マリアは喜びの知らせを持っていった。しかし、彼らは信じられなかった。イエスさまが死なれた、それも十字架でむごたらしく死なれた、王として立ててくれるはずのユダヤの宗教社会にむごたらしく捨てられた、という現実の前に、彼らは打ちひしがれて悲しみに暮れていた。  現実。それはイエスさまの復活を見せなくするものである。あるミッションスクールの聖書の授業では、イエスさまの復活を信じてもいいし、信じなくてもいいと教えるという。ある教会の牧師夫人がその授業を受けたことがあると証言しているから、それは事実であろう。  彼女はそのことを、霊の先週のメッセージの冒頭でお話しした、主の晩餐のありがたさを説いた先生にお話しした。その先生は血相を変え、吐き捨てた。「あほか!」  キリスト教会が現実におもねって聖書を読むようでは、この時の弟子たちと同じである。もし、そのミッションスクールの学生が何かの理由で悲しみに打ちひしがれるようなことがあったら、いったいだれがその悲しみを解決してくれるのだろうか? キリストに復活がないならばこんなにむなしいことはない(Ⅰコリント15:14)。実にイエスさまの復活とは、キリスト信仰の中心も中心である。悪魔は隙あらば、現実のほうにこそ目を留めさせ、イエスさまの復活を見させなくし、主への信仰を奪い去る。この時の弟子たちも、イエスさまの復活が見えなくて、信仰が奪い去られた状態にあった。そうなると悲しみに圧倒されるしかない。  そこで12節。イエスさまは彼らのうち2人に現れてくださり、ご自身が復活されたことを証しされた。ただし、別の姿で現れてくださったとある。これはルカの福音書のみことばを見ると、彼ら弟子たちとともに行かれた方がイエスさまだとは気づかなかったという記述とも一致する。ルカの福音書を読むと、イエスさまがなさったことは、わたしだ、わたしはよみがえったじゃないか、とご自身をお示しになることではなかった。みことばを解き明かして、落ち込んで暗い顔になっていた彼らの心をイエスさまご自身へと向け、その心を燃やされることにあった。  イエスさまはなぜわざわざ、十字架におかかりになる前の、いわば「生前の」お姿で現れることをなさらなかったのか? 理由として考えられるのは、イエスさまが復活後、弟子のトマスにおっしゃったことば、「見ずに信じる者は幸いです」ということばから考えると、イエスさまの復活を信じるのはまず、イエスさまを見たから信じるのではなく、イエスさまのみことばがそのとおりになっていると、みことばに対する信仰ゆえに信じることが、どんな人にとっても大事であることをお示しになったから、ということが考えられる。  ここでも弟子たちは、はっきりイエスさまに出会ったことを証言する彼らのことばを信じていなかった。前にも言ったが、信仰とは「信じ仰ぎ見る」ということと同時に、「仰せを信じる」ということでもある。ことばが信じられないならば、イエスさまを信じること、すなわちイエスさまの復活を信じることは不可能である。たまに、夢なり幻なりでイエスさまに出会ってイエスさまを信じた、という話を聞くが、そういう人たちにしても、いざ信仰生活を送るとなると聖書のみことばに頼って生活することになるわけで、やはりみことばを聴いて信じることが信仰の大前提になることは変わらない。だれであれみことばを聴くことは必要なのである。  しかし14節。とうとうイエスさまは、そんな不信仰な彼らの前に現れてくださった。そして何をなさったか?「彼らの不信仰と頑なな心をお責めになった」とある。イエスさまの復活も信じられない不信仰、イエスさまの復活を受け入れられない頑なさは、イエスさまの弟子として最もふさわしくない姿勢であり、イエスさまに責められてしかるべきである。  しかし、イエスさまが弟子たちをお責めになるのは、もうお前たちは役立たずだ、わたしの働きなどとても任せられない、と切り捨てるためではない。むしろ、おいおい、おまえたちにはちゃんと教えたじゃないか、思い出せ、しっかりしなさい、と、本来の弟子としての立ち位置に戻してくださるためである。  私たちもイエスさまに用いられたいと願うだろう。しかし、頭ではそう願っていても、心の弱さ、信仰のなさで、イエスさまを信じ切れないことが多くあるのではないだろうか。しかし、そんな私たちだからと、イエスさまは私たちのことを切り捨てられたりはしない。むしろ私たちがちゃんとなれるように、いつでも励ましてくださる。  その励ましを受ける最善の道は、教会という、キリストのからだなる共同体から離れないことである。私たちは教会を離れてしまうと、イエスさまの弟子として歩むことはいかにもきつい。  ヘブル人への手紙3章13節によれば、頑なになるのは罪に惑わされるからだということであるが、そうならないために、日々互いに励まし合うことが命じられている。その励まし合いをする共同体が教会の交わりである。私たちは励まし合うことで、頑なになって罪に陥ることから守られる。  ともかくも、イエスさまはひとたび弟子たちをお責めになったが、それで終わりではない。不信仰と頑なという罪が取り扱われた弟子たちのことを、イエスさまは派遣されたのである。15節。この働きを受けた弟子たちは、自分たちが働いたのはもちろんのこと、バルナバ、そしてパウロと、そのあとに続く聖徒たちを訓練して宣教の働きを担わせ、その命脈は2000年にわたって全世界に広がり、いまここ、2024年の茨城にまで広がっている。  16節。信じる、ということと、バプテスマを受ける、ということはセットになっている。信仰を持つ人はバプテスマを受けることに躊躇してしまう、ということは、特にここ日本では往々にして起こる。しかし、このみことばに従順に従うならば、イエスさまを信じることはバプテスマを受けることとセットである。すなわち、バプテスマを受けることによって、ほんとうの意味でイエスさまを信じたと聖書的に認められることになる。  一方で、信じないならば罪に定められる。それは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」とイエスさまがおっしゃっている以上、そうなのである。イエスさまを信じないならば、聖い御父から離れますと宣言していることになり、そういう人にはその選択にしたがって、さばきが下される。この選択の責任は自分が取らなければならないのである。  さて、17節と18節を見ると、信じる人はすごい体験をする。ここに書かれているような人になれるなんて、イエスさまを信じるとはなんとすごいことだろうか。ただし、前提として押さえておくべきことは、「イエスさまを信じる」人は即、「イエスさまを宣べ伝える」人になる、ということである。「イエスさまを信じさえすれば(主の弟子なり働き人にならなくても)このようなスーパーマンになる」ということではないのでご注意を。  具体的にひとつひとつ見てみよう。「わたしの名によって悪霊を追い出し」、私たちは悪霊を追い出す、すなわち、祈りをもってみことばを宣べ伝えることによって、悪霊の支配する領域(個人なり、家庭なり、地域なり)から悪霊を追い出し、主の支配される領域へと変えることができるようになる。  「新しいことばで語り」、ストレートに言うと、いったいどこのことばだろうかと思えるようなことばが口から飛び出してくる「異言」という霊的な働きのようでもある。しかし、本来「使徒の働き」で語られた最初の異言は、神の大きなみわざを、はっきりそれとわかるほうぼうの外国語で語ることばであり、そう考えると、「外国、他民族のことばが語れるように主が道を開かれる」とも言える。実際、大学で外国語を専攻した立場から言わせていただければ、外国語を読み書きするのは、ある意味「賜物」を必要とする領域である。その賜物が与えられて、世界宣教に大いに用いられるようになる、という意味のことをイエスさまがおっしゃったといえよう。  もちろん、私はこの箇所を、いわゆる「異言」のことを指しているという解釈を排除しているわけではない。むしろ、異言を語る人は確かに新しいことばを語っているわけだから、このみことばは当てはまっている。教派的にペンテコステ派やカリスマ派ではないから異言を語るのはふさわしくない、ということはない。私は韓国の教会に長年身を置いたが、早天祈祷ともなると、私の感覚ではほとんどの人が聞き取れる韓国語ではなく、異言を語っている。私がいたのは長老派やバプテストだったので、いわゆる「聖霊派」ではなかったが、異言は堂々と語られていたわけである。  もちろん、秩序は必要だからむやみやたら、のべつ幕なしに異言を語ったりするのは、第一コリント14章のみことばに照らしてふさわしいとはいえないが、同じ第一コリント14章は同時に「異言を語ることを禁じてはいけない」とも語っている。異言が語れる人は大いに語り、霊的な恵みを存分に味わっていただきたい。  「その手で蛇をつかみ」、この箇所は、毒まむしに噛みつかれてもそれを火の中に振り落とし、なんともなかったパウロを連想するが、パウロがそのように蛇を操り、その結果、地元の人から神さま扱いされるほど絶大な尊敬と信頼を得られるようになったように、蛇に象徴される悪魔と悪霊どもを制するだけの霊的権威を授けていただける、ということである。私たちは自分が思っている以上にはるかにすごい霊的権威が与えられている。祈ることによって行使できる。行使しなければもったいないではないか。  「たとえ毒を飲んでも決して害を受けず」、これは、なら、毒を飲んでみなさい、害を受けないから、ということではない。それは神を試みる愚かな行為である。ただし、自分から毒をあおる場合ではなく、毒を盛られた場合はどうか。ある宣教師の先生が、東南アジアのある国の、福音宣教を受け入れない地域で毒を盛られたというお話を、その先生の教え子の方から聞いたことがある。その先生は90歳を超えた今も元気に働きを続けておられるが、もし毒を盛られたという話がほんとうだとすると、このみことばはまことだったことになる。  ただ、聖書が「毒」というものをどう扱っているかを見てみると、単にからだに有害な物質を飲んでも大丈夫、ということに限定されないことがわかってくる。ヤコブの手紙3章8節、ローマ人への手紙3章13節を読むと、人のことばが毒となることがわかる。私たちはゆえなく誹謗中傷、罵詈雑言を浴びる。普通ならばそのようなことばを聞いたら傷つき、容易には立ち直れない。しかし、神さまとの交わりを保つならば、そのようなことばの毒を「解毒」するように、私たちがいちいちそのような激しいことばに傷つかないようにしてくださる。そういう点で「毒を飲んでも害を受けない」者にしていただいていることは、私たち主の弟子たちの強みである。  そして、病人に手を置けば癒される。イエスさまはこの癒しのみわざをもって、神の国を拡大された。同じことを私たちも行えるのである。私たちの教会は医療宣教で始まり、今も多くの信徒の方が医療に携わっている。人をいやす働きに特化した教会であり、また、私たちの教会における祈りによって、実際癒される方がいらっしゃる。みなさま、実際にこの教会はいやしのわざが行われているではないか! 病の絶望が、いのちの喜びに変えられているではないか!  最後に19節、20節。イエスさまは天において栄光をお受けになった。しかし、同時にイエスさまは私たちのために祈ってくださっている。また、イエスさまは、天におられると同時に、私たち主の弟子のいるところどこにおいてもともにおられる。私たちが祈るならば、イエスさまは応えてくださる。私たち主の弟子を、宣教のために用いてくださる。  私たちは不信仰ならば主に叱られる。しかし主は復活の恵みをもって、私たちを遣わし、主の復活を証しする証し人として力づけ、用いてくださる。復活は私たちの、弟子としての歩みと密接な関係を持っている。主のために労する私たちも、やがてこの地上のいのち果てたら、その先には復活、イエスさまとともに過ごす永遠のいのちが待っている。  今日は特に、イエスさまの復活を喜ぼう。イエスさまの復活を信じる信仰が与えられていることに感謝しよう。復活の主が私たちを派遣してくださっていることに感謝しよう。