聖徒の忍耐

聖書箇所;ヤコブの手紙1章1節~4節 メッセージ題目;聖徒の忍耐  今日から「ヤコブの手紙」より学ぶ。計画では8月いっぱいまで。  この書の強調していることは、信仰とは行いあってこそ、ということ。もちろん、神さまに救っていただくには、イエスさまを信じさえすればよい。救いは行いによるのではない、信じることによる、これは大前提。  しかし、信じるということは果たしてどんなことなのだろうか? 自分が基準の自己中心による信じ方では果たしてどうだろうか?「俺は神さま信じてるよ」と言いながら、その生活が到底、神さまを信じている人とはいえないような自堕落なものだったら、その人はほんとうに神さまを信じているといえるだろうか? そういう態度の人でも救いは保証されているのだろうか? 今日から5か月間の学びにおいては、そういうことを中心に考えてまいりたい。  今日はその冒頭、1節から4節。まず1節の部分はあいさつのことばであり、これを見ると、このヤコブの手紙がどういう人に必要だったかが見えてくる。  その前に著者から見てみよう。「神と主イエス・キリストのしもべヤコブ」とある。このヤコブは、十二弟子のリーダー集団、ペテロ、ヨハネ、ヤコブの、そのヤコブではない。このヤコブは使徒の働き12章にあるとおり、まだ教会が充分に成長する過程にある前に、ヘロデによって殺されて殉教した。そのヤコブではなく、「主の兄弟ヤコブ」、つまり、主イエスさまのお生まれになったあとで、ヨセフとマリアの間に生まれた、イエスさまの肉親としての弟である。このヤコブはイエスさまの公生涯のころには、イエスさまがキリスト、救い主であるという信仰を持っていなかった。むしろ、おかしな人だと見なして連れ帰ろうとしたり、かと思うと、あなた自身を世に現せばいいでしょうが、などと、差し出がましいことをイエスさまに言ってみたりする。要するにイエスさまを信じていなかった。  しかしヤコブは、イエスさまの十字架と復活、そして昇天ののちに教会が成り立つようになってからは、教会の指導者となっていった。もちろん、イエスさまをキリストと信じられるようになった。そしてここにあるとおり、神と主イエス・キリストのしもべ、と自己紹介するまでになっている。イエスさまを主キリストと告白している。ここには、イエスさまが肉親だったという誇りや驕りなどかけらも存在しない。ヤコブにとってイエスさまは兄弟ではなく、主キリストであった。  ゆえに、このヤコブの手紙は、イエスさまの兄弟だったという視点から書かれたのではなく、イエスさまが主キリストであるという告白のもとに書かれている。私ヤコブも読者のあなたがたも、イエス・キリストは主と信じ告白しているのです、これからみなさんがお読みになるこの手紙は主イエス・キリストのみこころです。という前提で書かれている。  では、国外に散っている十二部族とはだれだろうか? 大前提としてこれは、アッシリアによるイスラエル王国滅亡、バビロンによるユダ王国滅亡により、世界中に散らされて久しいイスラエル人のことを指している。ただし、イスラエル人といっても、その中でも教会による宣教活動を通して、イエスさまをキリストと信じ告白する人たちである。  ローマ人への手紙はローマの異邦人に向けて書かれた手紙だが、その中の9章から11章はイスラエル人のイエスさまへの回心について書かれている。そのうち11章23節と24節に注目すると、彼らイスラエルは異邦人よりもよりたやすくイエス・キリストに接ぎ木される、すなわちいざとなるとイエスさまへの信仰を持ちやすいことが語られている。イスラエルとはそういう民族である。  このイスラエルは、世界に散っている。21世紀の今もなおイスラエル人は、イスラエルという本国ができた現在も世界に散った民である。しかし、そのイスラエルがひとつに集められるのはイスラエルの悲願である。エレミヤ書31章7節から9節、エゼキエル書37章21節から28節は、その悲願を主が成し遂げてくださるという預言である。  その預言を主はどのようにかなえてくださるのだろうか? それはヨハネの福音書11章52節に書かれているとおりである。カヤパはローマからユダヤを守る捨て石にイエスさまを差し出せばよいと意見したが、図らずもその意見は、イエスさまの十字架が神の民のためであったことを預言したことばとなった。そう、エレミヤ、エゼキエル以来のイスラエルの悲願は、イエスさまという牧者がひとつの主の民を牧してくださることにおいて成就するのである。  そのイスラエルに、私たち異邦人は接ぎ木されている。養子は血のつながった実の子でなくても、法的に実の子どもと見なしてもらえるのと同じように、私たちの血統がイスラエルでなかろうと、私たちも主イエスさまを信じる信仰により、神の民に加えていただいている。ゆえにこの手紙は、終わりの日にイエスさまによってひとつに集められるべき民に向けて書かれた書簡であり、その対象には私たちも含まれている。私たちは日本の茨城に散っているが、やがてイエスさまが再臨されるとき、私たちは世界中から集められる神の民の一員として、栄光のイエスさまの御前に集う。  その前提で2節以下を読もう。試練がこの上もない喜び、というのは、単に我慢しなさいということではない。さもなくば、試練に合うことにマゾヒスティックな喜びをいだきなさい、ということでも決してない。  3節は、試練を受けることがなぜ喜びと思うべきことなのかを語っている。2節の定義によれば、試練とは信仰が試されることである。その結果、忍耐が生じる、だから喜びなさい、というわけである。  では、忍耐が生まれるとなぜ喜ぶべきことになるのだろうか? それは4節で説明されているとおりである。4節。まず、忍耐とは働かせるべきものである。彼らは何に忍耐しなければならなかったのだろうか? 同胞のユダヤ人からも、異邦人からも受ける迫害に対してである。そのような中で、彼らはつねにイエス・キリストを否む誘惑にさらされていた。第二テモテ2章12節。この箇所からすると、忍耐を働かせるとは、キリストを否まずに最後まで告白しつづけることである。  そのように、あらゆる迫害にも忍耐して、キリストを誇りとする生き方をことばと行いにおいて徹底するならば、何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な人になることをみことばは約束する。この約束は、私たちの地上のいのちが終わり、御国に移されるときにかなう。地上においては何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な人には到底なれない。しかし、私たちが忘れてはならないのは、私たちの信じ受け入れているイエスさまは、何一つ欠けたところのない、成熟した、完全なお方であるということ。このお方との交わりを日々欠かさず持ちつづけることで、私たちはこの完全に成熟したお方、キリストに似た者へと日々変えられる。その歩みが、この地上でのいのちが果てるときに完成するのである。  私たちは生活していると、いやなこと、理不尽なことに出会うことが避けられない。それからいちいち逃げていては切りがないし、成長もしない。しかし、一方で考えなければならないことは、そういう「させられる」我慢は果たしてすべてがすべて主のためにしていることなのか、イエスさまの十字架を忍んでしていることなのか、ということ。この箇所を表面的に読むと「忍耐すること」そのものを称賛していることにしか思えないかもしれないが、ほんとうに考えるべきは「何のために忍耐するのか」「だれのために忍耐するのか」ということ。  忍耐、といえば、ローマ人への手紙5章1節から5節のみことばは外せない。ここでも今日の箇所同様、忍耐が語られているが、忍耐が練られた品性を生むことはなぜ素晴らしいのだろうか? それは、その練られた品性とは、るつぼや炉に金銀が入れられて金(かな)かすが除かれて精錬されるように、私たちが試練に合う中で主にお従いするうえで不必要な肉の性質が取り除かれ、その結果キリストに似た者となった品性、ということ。それゆえに練られた品性を備えることはすばらしい。  そして、練られた品性を備えた人、すなわち練られてキリストに似た者となった人が持つ希望は、失望に終わらない。それは、その希望とは、御国でイエスさまとともに過ごす永遠のいのちにあずかる、不滅の希望だからである。  その希望を保障してくださるのが聖霊なる神さまであり、その希望に私たちのことを満たしてくださるほどに、神さまは私たちのことを愛してくださる。だから私たちは忍耐するのであるが、その忍耐が神の栄光につながることのない、いわば「不本意に苦しまされる」ものであるならば、そこから距離を置くことを祈ってみてはいかがだろうか。不必要な忍耐でせっかくの主のたまものなるいのちを浪費することは賢いとはいえない。  とはいえ、簡単にその苦しみから逃れられないこともあろう。祈っていても果たしてその苦しみが主のゆえのものか判断がつかず、理不尽に耐えなければならないこともあろう。それこそ旧約聖書のヨブ記のヨブのようにである。しかし、私たちはその中でも、可愛い子にあえて旅をさせてくださる御父なる主の親心を思い、忍耐するものでありたい。そこから主との交わりが生まれ、永遠の御国に至る希望を仰ぐことができる。  考えてみよう。古今東西、この世界に存在した最も理不尽な忍耐とは、神の子なるイエスさまがこの世界に人としてお生まれになり、何の罪もないのに人のすべての罪を背負われ、十字架に死なれるほどに忍耐の生涯を送られた、ということでなくて何だろうか。しかし、この忍耐は神の栄光を現すものであった。この忍耐のすえに、ピリピ人への手紙2章にあるとおり、イエスさまは王の王、主の主として、すべての名にまさる名をお受けになった。  そのように、私たちは主の栄光のゆえに忍耐するならば、イエスさまがやがて再臨され、四方から御民を集められる終わりの日に、私たちはしぼむことのない栄光の冠を受ける。イエスさまを信じているということは、そのように、きわめて終末的な信仰を持つということであり、終わりの日に栄光をもって再臨されるイエスさまの前に恥ずかしくなく立つことを目指す信仰を実践する、ということである。  イエスさまを信じるということは、イエスさまのために生きるということである。もちろん、イエスさまのために生きることは簡単ではない。私たちはできれば自分の欲望を優先させていきたいと願うように、イエスさまにお従いしたいという御霊の願うことは私たちの肉の思いに逆らい、同じように私たちの肉は御霊に逆らう。  しかし、だからといって、肉に従っていきたいと願う私たちの欲望を言い訳にして、不従順な歩みを正当化してはならない。私たちがイエスさまに従順でありたいと願う歩みは苦しみの伴う、忍耐を必要とするものだが、主はその末に私たちを完全な成熟へと導かれる。すなわち、御国にて完全な聖徒として迎え入れてくださる。その日を目指して、今日忍耐すべきことにともに取り組み、ともに主の栄光をあらわしていこう。