日本の教会を元気にする

聖書本文;コリント人への手紙第一9章16節~23節 メッセージ題目;日本の教会を元気にする  聖書の中でも、コリント人への手紙第一は面白い。神さまがお選びになったのは、強い人や賢い人ではなく、弱い人や愚かな人だったというのである。今日は韓国の方が複数いらしているが、私は長年、韓国の教会に身を置いてきた。みなさまご存じのとおり、韓国の教会はとても強い。信徒の数も多く、礼拝堂も大きい。賜物のある信徒もたくさんいる。そんな教会とつい比較してしまう日本の教会を思うものだが、日本の教会は弱いゆえに選ばれたことを、このみことばから受け取り、慰めをいただくものである。  そのコリント教会、ギリシャの商業都市、港湾都市に立てられた教会という性格からして、キリスト信徒にあるまじき罪深さ、弱さの露呈した群れであり、そんな点で日本の教会に似ている。本日の聖書本文、コリント人への手紙第一は、問題の塊のようだったコリント教会で使徒パウロが奮闘する様子がそこかしこに垣間見えるみことばである。しかし、その奮闘、苦闘は、「やらされた」「強いられた」苦しみのような、悲壮感、受け身の態度を感じさせない。むしろパウロは、コリント教会を主の教会らしくさせなくしているあらゆる問題にあえて立ち向かっていくような、積極性、やる気に満ちていて、パウロのその態度は読む者に大いなるチャレンジを与えている。  コリント教会の問題はすごい。問題のデパート、総合商社だ。どのリーダーにつくかを巡っての分派分裂、みことばに対する無理解、そのくせ指導者であるパウロを認めない態度、クリスチャンとして到底ふさわしくない性的な問題、教会内の問題解決を自分たちでしないで教会外の者に任せる訴える情けなさ、聖徒としての権利ばかり主張して弱い人を顧みないこと、リーダーに立つべきではない女性がリーダーの男性を差し置いて権威をふるっていること……こんな群れを牧会するパウロはどれほど大変だったか。  しかし、その中でも今日のみことばは注目に値する。異邦人の地であるコリント、俗的な商業都市、港湾都市であるコリントにパウロが福音を宣べ伝え、教会を形成する、その原動力はどこにあったか、それがこのみことばから見えてくる。  これは、日本の地で教会を形成する私たちにとって必要なみことばである。私たちは基本的に、イエスさまを信じていない人たちに囲まれている。その人たちは悪い人かもしれないし、いい人かもしれない。しかし共通してはっきりしていることは、彼らは一様にイエスさまを信じていない、というより、イエスさまを知らないから、そもそも神の愛によって振る舞うとはどういうことか、一切学んだことも教わったこともなく、したがって神の愛を実践することなど一切できない人たち、ということである。そういう人たちに伍して生きていくことは、狼の中で羊が知恵を総動員して生きることを意味し、それだけに毎日みことばをいただき、お祈りすることが欠かせない。  要するに、彼らのことばばかり心に留めていては、私たちはこの世にこき使われるしもべで終わってしまう。そういう者がこの世に対し、いったい何の影響力を発揮することができるだろうか。せっかく生きているというのに、それではあまりにももったいないではないか。今日の本文で、パウロは奴隷の道を選択した旨語っているが、世にこき使われる不自由な奴隷という意味ではない。世のことばに左右されているなら、世の奴隷となるしかないが、そのようなものは自由ではありえない。  そこで今日のみことばである。私たちは何者なのか。何のために生きているのか。それを今日のみことばから確かめたい。実を言うと、私はこのところ、否が応でもそのことを意識せざるを得ない環境に置かれつづけてきた。先週の保守バプテスト同盟の総会につづくチームワークミーティング、そしてその帰り道に寄った、地元にカフェとして開かれている教会、なによりも、うちの教会を整備するという大事な働きをしてくださったふたりの主のしもべ……こういった方々との交わりをとおして、日本の教会を元気にするために一生懸命になっている聖徒たちの麗しさをあらためて知った。  それなら、私たちはどう生きるべきだろうか……今日はそんな思いを込めて、みことばをお取り次ぎしてまいりたい。あとでお楽しみもあるので、期待して聴いていただきたい。  16節。パウロは誇り高き福音宣教者であり、その誇りを、福音宣教の報酬を払ってやるから言うことを聞けとばかりに接してくる教会員たちに奪われてなるものか、という態度が根底にある。だからパウロは、福音宣教者として当然主張できた報酬を一切受け取らず、自発的に、この問題だらけの群れで仕えつづけた。  パウロがしたことは、教会形成であった。しかし、教会形成とは同時に、福音宣教である。イエスさまを信じれば救われますよ、とキリストを伝え、その人がイエス・キリストを救い主と信じ受け入れてバプテスマを受け、クリスチャンになったならばそれで福音宣教は終わりではない。  教会とはみことばが語りつづけられることによって形づくられるもの、という前提に立つ以上、その教会を立て上げ、形づくる教会形成とは、即、福音宣教である。パウロはその福音宣教において誇り高いプライドを持っていた。しかし彼は同時に、福音を宣べ伝えることは自分の誇りではない、とも告白している。これは矛盾しているようだが、矛盾してはいない。これは、この誇りは主にあっていだくべき誇りであって、パウロという人間個人に帰せられる誇りではない、ということである。  そして神さまはパウロに、福音を宣べ伝える生き方しかお許しにならなかった。その福音宣教に外れた生き方をすることは一切できないことをパウロはわかっていた。だからその召命に忠実に生きるしかなかった。その召命にちょっとでも外れることはわざわいであった。私たちは国道沿いを歩くとき、必ず歩道だけを歩き、車道にははみ出さない。車道にはみ出したらいのちに関わると知っているから、歩道しか歩かない。同じように、神さまの召命以外の道を歩んだらわざわいと知るから歩まない。その召命が、福音宣教である。その道を歩くとポイントが増えるからいいとか、霊的ステージが上がるからいいとかいうことではない。それ以外の道は危険だからとても歩けない、召命に従えば安全だから歩くということである。  17節によれば、パウロにとってのこの福音宣教の働きは、自発的ともいえるし、自発的ではないともいえると告白している。これはどういうことかというと、パウロの働きは神さまがさせてくださるものであり、同時に、パウロがやる気を出して取り組んでいることでもある、ということである。神さまが志を立てさせ、事を行わせてくださる。神さまと人がひとつとなって神の栄光のためのことを推し進める、召命とはそれゆえに素晴らしいものである。  さて、18節を見ると、そんな自分の働きには報いがあると告白している。まるごと読もう。……一瞬、目を疑わなかったか? 無報酬、自分の権利を用いない、これがいったい報いなのか? しかしこれはれっきとした「報い」なのである。それは、この世に属する報いではない。この世に属する報い、たとえば献金であったり、福音伝道者としての名声であったり。また、それに付随して、「エライ」先生として振る舞ったり。そういうものは神さまの御前にはすべてむなしいものである。そういう報いが一切ない、というより、そういう報いからまったく自由である、報いはなにか、神さまご自身。これは最強の報いである。  これは、イエスさまを信じれば病気が何もかも治る、とか、お金持ちになる、とか、人々から尊敬されるようになる、とか、そのような、きわめて底の浅い福音理解の対極にあるものである。いったい、そのような目に見える祝福を求めることは、神の栄光と何の関係があるというのか? 新興宗教のようなご利益を私たちクリスチャンが追求することは果たして神の前にふさわしいことだろうか? もちろん、みこころにかなえばそのような目に見えるものを祝福としてくださることもあろうが、ほんとうの祝福はそのようなものではない。神さまご自身である。私たちが「よくやった、良い忠実なしもべだ。主人の喜びをともに喜んでくれ」との御声を終わりの日に聞きたいなら、求めるべきは、どうかパウロのこの境地に立たせてください、私はあなたさまだけで満足します、どうか用いてください、と、つねに祈ることではないだろうか?  19節の告白を見よう。こんな境地に立てたパウロはどれほど自由だろうか? しかし、パウロは、すべての人の奴隷となったと告白する。これは、人に強いられて奴隷になったのではない。自由人として、神と人の奴隷となる道を選んだという、自由の中での選択である。したがって、この上なく不自由な立場である奴隷ではあっても、パウロはだれよりも自由であった。  それは、ここにあるとおり、「獲得するため」とある。もしパウロが、ユダヤ人という立場にこだわったり、あるいは逆に、異邦人宣教の使徒という立場にこだわったりしていたならば、パウロは自由ではありえない。しかしパウロは、あらゆる立場の人の奴隷に進んでなることによって、だれよりも自由な立場に置かされていたのである。  24節。このパウロの告白はすごい。すべてのことを福音のためにしている。私も言ってみたい。私たちの地上の歩みは、こう言い切れるほどに生きることを目指しつづける歩みである。この境地に達していないからとあきらめてはならない。この生き方を主が完成させてくださることを信じ、主に希望を置いて歩みつづけることである。  パウロはその歩みをすることが、福音の恵みをともに受けることであると告白する。私たちは福音宣教に用いられるならば、この世の何者も与えることのできない喜びを体験する。いや、時には祈っても聞かれないような苦しみのどん底の中に置かれよう。しかし、そこにも主がともにいてくださり、御父の右の御座で私たちのために涙を流してとりなして祈ってくださっていることを知る。いかなるときにも神さまがともにいてくださること、その恵みは、すべてのことを福音のためにすることを目指しつづけることによって味わえるものである。  さて、今日のメッセージのタイトルを、私はなぜ「日本の教会を元気にする」とつけたか? それは、さきほども少し触れたが、「すべてのことを福音のためにして、福音の恵みをともに味わう」方々の姿に触れ、私たちもそうなりたい、私たちも自分の属する日本の教会を元気にする働きに用いられて、祝福と恵みを味わいたい、と思うからである。  先週火曜日と水曜日に岩手県のシオン錦秋湖で行われた、保守バプテスト同盟のチームワークミーティングは、教職者たちのための研修会である。今年のテーマはクリスチャンの「婚活」について、また「J-Venture(保守バプテスト同盟関連の宣教団体)」の働きについてで、まったくちがう2つの働きの紹介だった。しかし、一見するとミスマッチなこの両者に共通するものは、「日本の教会を元気にすること」であった。  「婚活」ということについて、「リベカ」の中西代表、辻副代表、そして「リタマリッジサービス」の津村所長のプレゼンテーションをお聴きした。商売敵が一緒にコラボを組む、なんて、とても面白い。彼らのコンセプトはこういうことである。次世代が育っていれば日本の教会はどんなに元気になっていたか、自分たちの教団教派にこだわりつづけた結果、教会を超えた信徒同士の結婚がうまくいかず、晩婚化が進んだり、日本の教会はとても弱くなってしまったではないか、クリスチャンの婚活サービスは、そんな日本の教会を元気にする、極めて福音宣教志向的なミニストリー。  J-Ventureの宣教師もすごい。教会の牧会だけではない。伝道と弟子訓練のツール開発と普及の働き、メディア宣教、ゴスペル教室やノイズミュージックといった音楽をとおしての宣教、学校の先生……実に多種多様な活動をとおしての福音宣教の働きに、アメリカやカナダからここ数年で何と40もの家庭が献身して日本にやってきた。この働きで確実に日本の教会は元気になっていることを実感した。  帰り道、私は車に乗せてくださった千葉先生という方の牧会する、山形市の「こひつじキリスト教会」に立ち寄り、おいしいコーヒーをごちそうになった。一見すると教会とは思えないようなしゃれたカフェで、ちょい悪おやじのような外見の千葉先生がコーヒーを淹れてもてなしてくださる。こうした働きで確実に山形の教会は元気になっていることを実感した。  そして、先週の木曜日、うちの教会にふたりの韓国の兄弟がいらしてくださった。とにかく日本の教会を元気にしたい情熱に燃えた、賜物がたっぷり与えられた方々である。そのお働きで見ていただきたい、照明も音響も見ちがえるようになった。うちの教会が元気になった。  まず、そのおひとり、「ジョン神谷」さんことチョン・ソンヨン兄は、「エゼルミニストリー」という働きをしていらっしゃる。もともとが有能なビジネスマンであったとともに、音響や演奏や工事などあらゆる賜物をお持ちの方だが、このたび兄弟の献身によって、音響を整えていただき、浴室を直していただいた。まさに教会を元気にする方である。神谷兄の働きは多岐にわたっていて、被災地における物心両面での復興支援、教会の夏のキャンプの企画、格安で光る十字架を礼拝堂に取りつける働きなどなど。最近力を入れているのは、千葉、浦和、八王子といった、首都圏の都市部で若者たちを複数の教会から集め、訓練して賛美集会を運営させる「リズン」という働き。こうして次世代が育てられ、教会は元気になる。その恩恵に私たちの教会もあずかったというわけで、感謝というほかない。  そしてもうひとり、ハン・ジョンソクさん。韓国の一流企業で18年にわたって建設部門を担当し、退職して信徒宣教師として日本とフィリピンの宣教に献身してこられた。ちょっとお証しをしていただこう。  あらゆるしかたでキリストが伝えられている。それによって日本の教会は元気になっている。私たちが疲れて動けなくなっているとき、主は御使いを遣わすようにして、助けてくださる兄弟姉妹を起こし、その働きをもって教会を祝福してくださる。そんな働き人の見返りなく働く献身の歩み、それは祝福の歩みというほかない。  私たちはいつか、元気にならなければ。いや、今からでも歩き出したら、主はそれに見合った力をくださるではないか。列王記第一19章のみことばのように。私たちの旅、神の栄光をあらわしつづける旅路はまだまだ続く。その旅に力を得させてくださる方々の存在ゆえに主に感謝したい。そして、私たちも力を得て、日本の教会を元気にする働きに用いられていこう。受けるより与えるほうが幸い、その祝福をともにいただこう。

ペンテコステと福音宣教

聖書箇所;使徒の働き2:1~4 メッセージ題目;ペンテコステと福音宣教  メッセージのはじめに、ペテロの手紙第一1章8節と9節で、ペテロが聖徒たちに語ったみことばを紹介したい。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。」  イエスさまを見たことはない、そう、ペテロの宣教によってイエスさまを信じた人たちは、イエスさまのお姿を肉眼で見たわけではなく、肉声を耳で聞いたわけではない。しかし、イエスさまを愛しているし、イエスさまを信じている。喜んでいる。それは、信仰を持っているから。信仰によって、たましいが救われているから。  このみことばは、初代教会の信徒たちだけでなく、古今東西、イエスさまを信じている人ならだれにでも当てはまる。もちろん、私たちだってそうではないか。もし、今からみなさまに呼びかける問いに「そのとおりだ」と同意するなら、「アーメン」と言って答えてほしい。私たちはイエスさまを愛しているか? イエスさまを信じているか? イエスさまゆえに喜んでいるか? イエスさまの救いをいただいているか? みんなアーメンではないか。  この、イエスさまへの信仰を得させてくださるお方はだれか? イエスさまを愛させてくださるお方はだれか? それが、聖霊なる神さまである。イエスさまは十字架にかかり、復活され、天に昇られ、いまここには目に見える形ではいらっしゃらない。しかし、イエスさまが天に昇られて、私たちには聖霊なる神さまが送られた。私たちは聖霊さまによって、イエスさまを信じ、救われ、導きをいただいて神のみこころを知ることができるようになった。みこころにお従いして、この地において神の栄光をあらわすことができるようになった。みな、聖霊なる神さまのみわざである。  今日はペンテコステ、聖霊降臨祭である。2000年前、聖霊がお下りになり、キリストのからだなる教会はほんとうに呱呱の声を上げた。この日はそれゆえに、「教会の誕生日」とも言われている。そうだとすると、ペンテコステは、イエスさまのお誕生をお祝いするクリスマス、イエスさまのご復活をお祝いする復活祭と同じように大事な日と言えるのではないだろうか?  そこで今日は、このペンテコステの日に何が起こったかを見てみたい。それは神さまが大いなるみわざを起こされた日であり、この日だけでペテロのメッセージによって3000人ちかくもの人がバプテスマを受け、教会の仲間に加えられた。たいへんなことである。  本日は、この日に起こったできごとの最初の部分、使徒の働き2章1節から4節に記録されている部分から集中的に学んでみたい。1節のみことば。みなは集まっていた。彼らはイエスさまによって立てられた十二弟子を中心とした群れであった。十二弟子のほかに、ヤコブの手紙を書くことになるヤコブ、ユダの手紙を書くことになるユダたち、マリアから生まれたイエスさまの肉の弟である、いわゆる「主の兄弟」たちがいたし、イエスさまにつき従っていた女性たちもいた。そこにはイエスさまの母であるマリアもいた。  彼らは集まって何をしていたのだろうか? 先行する箇所である使徒の働き1章14節によると、いつもともに集まっては祈っていたことがわかる。実は、福音書から通して時系列に従って読んでみると、その前に彼らがお祈りしたという箇所は、ゲツセマネの園の箇所にさかのぼる。イエスさまがゲツセマネの園にペテロ、ヤコブ、ヨハネの弟子のリーダーのトリオを連れていかれたとき、イエスさまは彼らに「祈りなさい」と命じられたのに、彼らは疲れと悲しみで祈れなくなり、眠り込んでしまった。つまり、彼らは祈ることに失敗していたのであった。  しかし、十字架と復活を経た彼らは強くなった。そして今はもうイエスさまは天に昇られてここにはいないが、彼らはひたすら祈った。ゲツセマネの園でひとたび祈ることに失敗した彼らの祈りを成功に導いていたものは、120人ほどの信徒の存在だった。  ここに、ともに祈ることがどんなに大事か、見えてこないだろうか? ここで私は恥ずかしい罪の告白をしたい。私はもともと、早天祈祷を当たり前のようにささげる教会で過ごしてきた。1997年から韓国の神学校で学んだが、神学校は朝5時からの早天祈祷の出席を、会社で使うようなタイムレコーダーで管理していた。所定の出席回数が足りない神学生はどうなるか? 次の学期から寄宿舎にいられなくなる。早い話が、早天祈祷をささげられない神学生はペナルティとして追い出されるわけである。そんなわけで、否が応でも早天祈祷は出なければならない。こういう生活を私は3年つづけた。  その後、仙台の教会で3年、東京の韓国人教会で7年奉仕したが、どちらの教会も早天祈祷は「義務」、「ノルマ」だった。眠いなどといってちょっとでも休んだら、どんな制裁を受けるかわかったものではなかった。そのとき牧師から受ける叱責のことばは、早天祈祷に欠席する私は牧師になるのにふさわしくないというほどの激しいもので、私はそのことばを聞きたくない一心で、どんなに眠くても、どんなに疲れていても、早天祈祷に出席した。  以上合わせて13年の生活をとおして、早天祈祷は当たり前にささげるものという考えが染みついていた。しかしこの13年は言ってみれば、「やらされて」やっていた祈りに過ぎなかった。それを覆すできごとが起こったが、それは私が、この水戸第一聖書バプテスト教会にお招きいただけるかもしれないというお話をいただいたということで、2013年の暮れごろのことだった。それから私はほぼ毎日、家の近所にあった妻と私の派遣教会の早天祈祷に通い、祈りつづけた。おそらくその経験は、私が心から必要に迫られて毎日夜明けの祈りをおささげした、初めての体験だったといえる。そこまで来るのに、神学生になってから実に16年の月日を要した。  そうして私は日本に来たが、年齢にして40代だったそのとき、まるまる40代のほぼ毎日、私は早天祈祷をささげることをしなかった。何度となくチャレンジしようとはしたものの、多分に律法的な発想で、つまりしょせんは肉の発想で早天祈祷をしようとしていたから、肉体の弱さが霊の働きに大勝ちし、眠くてどうにもならなかったというわけだった。  しかし、今年、ペンテコステを前にして3週間の早天祈祷をするように導きをいただくと、私は休まずに毎日、お祈りをささげることができるようになった。それは、オンラインでつなぐことで、たとえ礼拝堂にはいらっしゃらなくても出席してくださる信徒の方と、早天の祈りにおいてつながるという、義務感、サボってはならないという危機感もさることながら、それ以上に、ともに祈る仲間が送られている喜びが、私の朝のお祈りにおいて背中を押したのだった。  事程左様に、祈りにおいては仲間の存在が大事である。私たちはともに集まるということをしていなくても、個人的に祈りの生活をしています、と、たやすく口にしてはいないだろうか? ともに祈ることの力を体験していただきたいが、それはともに集まって祈ることでしか体験できない。本日、特にメッセージのあとで祈りの時間をじっくり持ちたいが、ともに祈る恵みをそこで体験していただきたい。  さて、本文に戻るが、彼らが集まって祈っていると、そこに主のみわざが起こされた。2節。激しい風は列王記第一19章に、主のご臨在の現れとして登場する。その激しい風は岩さえも砕き、バアルの預言者たちに勝利してもなお敗北感に打ちひしがれていたエリヤに、主はご自身のご臨在と御力をお見せになった。そのほかにも旧約聖書にはところどころ、「激しい風」が登場するが、ひとつを除いてみなそれは偉大な主と関係を持っており、その多くは主がさばきを行われるさまをあらわしている。  そう、主が激しい風をもって臨まれるということは、人々にさばき主としてご自身を現されるということである。  ここで私たちは、ペンテコステの日にペテロが聖霊に満たされて語り、人々を悔い改めと信仰に導いたメッセージが、「神が今や主ともキリストともされた(この)イエスを、あなたがた(イスラエルの全家)は十字架につけたのです」(36節)というものだということに注目すべきであり、あなたがたの罪とはイエス・キリストを十字架につけることである、その罪のさばきを免れるにはイエスさまを信じて悔い改めなさい……ペテロの語るメッセージは激しいさばきをもってこの世をさばくさばき主であったが、そこから救われる道は悔い改めてイエスさまを信じ、その御名によってバプテスマを受けることであるとも語った。  さて、激しい風のような響きが家全体を覆ったと思ったら、今度はもっとすごいことが起こった。3節。……舌とは何だろうか? なぜ、聖霊降臨をあらわす炎のようなものを「舌」と言っているのだろうか?   私たちは「舌」というと、どういうイメージを持つだろうか? 「舌つづみ」「舌が肥えている」など、ものを味わうイメージだろうか? あっかんべーと相手を威嚇したり、照れ隠しにペロッと出したりするイメージだろうか? しかし、そういうイメージに左右されるのではなく、聖書が「舌」というものについて何と語っているかを知る必要がある。  今回のメッセージを準備するにあたり、私は聖書に「舌」という表現がどのように登場するか調べてみた。すると、新改訳聖書2017で「舌」と訳された語句が登場する節が、旧約聖書には86節、新約聖書には、今日の箇所を含めて19節登場することがわかった。合わせると105節になる。これはかなり多いのではないだろうか?  意味はいくつかある。ひとつは言うまでもなく、人間、または動物の肉体の器官としての「舌」である。これが旧約にかぎると(聖書解釈のしかた次第で数え方が変わることもあり得るが)8節。しかし、圧倒的に多いのは、「ことばを発する器官」としての「舌」、あるいは「ことば」その者を象徴的に指しての「舌」である。合わせると、旧約で86節のうち77節、新約は本日の箇所を除いた18節のうち実に16節が「ことば」と関係がある。104節のうち93節、実に89パーセント以上、10か所のうちざっと9か所は、舌とはことばを指す。  となると、聖書的文脈から、この使徒の働き2章3節の「舌」、彼ら祈る者たちに臨んだ火のような舌は「ことば」と深い関係があると考えるのが自然である。実際、そのできごとにつづいて、4節にあるとおり、彼らは御霊が語らせるままに語り出した。聖霊とはまさしく、ことばを授けてくださる主である。  ここで、さきほど、舌は舌でも「肉体的器官」と「ことば」のどちらにも分類しなかった2つのみことばを取り上げてみたい。それはイザヤ書5章24節と、同じくイザヤ書30章27節で、そのどちらも、さばき主である主の御怒りをを「火の舌」になぞらえている。5章24節では神の民に対するさばき、30章27節では諸国に対するさばきが宣告されているが、いずれも「火の舌」がさばくとある。  これだけではなぜ、主の御怒りを「火の舌」と表現しているかがわからない。しかし、イザヤ書5章24節に注目しよう。イスラエルが主の御怒りに触れたのは、「彼らが万軍の主のおしえをないがしろにし、イスラエルの聖なる方のことばを侮ったからだ」とある。つまり、このさばきは主のみことばと強い結びつきがあるのである。  さきほども少し触れたが、ペンテコステの日にペテロに授けられたメッセージは、神の子主イエスを十字架につけたイスラエルの民に対する警告のことばである。イエスさまとはどなただろうか? 神のみことばが人となってこの世界に来られたお方である。この方を信じる人には神の子どもとされる特権を与えてくださる。それは、神に反逆することを自ら選ぶゆえに神の御怒りのさばきを受けるにふさわしい私たちを、永遠に救ってくださり、神のものとしてくださる、ということである。  ヨハネの福音書3章16節から18節をお読みしよう。神のみことばはさばきではなく、愛である。しかし、このみことばを侮り、ないがしろにする、すなわちイエスさまを十字架につけるほどの罪人であってもなお、イエスさまに立ち帰ることをしないならば、そういう人は「御子に聞き従わない者」であり、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまるとみことばは語る(ヨハネ3:36)。  彼ら主の弟子たちが、国々からエルサレムに集まった在外ユダヤ人や異邦人からの改宗者たち、そんな五旬節の巡礼者たちそれぞれのいろいろな言語で語ったことは、異口同音に「神の大きなみわざ」であった。それが具体的になんであったかは聖書には書かれていないが、私たちは「神の大きな(最大の)みわざ」は、イエスさまが人となって来られたこと、このイエスさまを信じれば救われて、永遠のいのちをいただく、ということである。  ペンテコステの日に語ったのは、神の大いなるさばきであるとともに、神の大いなる救いであった。私たちの神は愛であるが、甘ったるい愛ばかり語ってもほんとうに伝道したことにはならない。あなたは愛されています、と語るのも結構だが、私たちが神を知るうえでほんとうに知らなければならないことは、私たちは神のみことばである主イエスを無視した罪人、主イエスさまを十字架につけたほどの罪人であり、なんとしてでもそれゆえに受ける罪の罰、死とさばきと滅びという罰から救っていただかなければと必死になること、そうして私たちは、すべての罪の罰を十字架の上で身代わりに背負ってくださるほどに私たちを愛してくださったイエスさまに出会い、イエスさまを受け入れ、永遠に救っていただくのである。  この、世の悪を明らかにされる聖霊をいただいた私たちは、世に対し、人々の罪を明らかにし、そこから救ってくださるイエスさまを、聖霊に満たされて語るべく召されている。十字架にかかられて死なれたが、しかし復活されたイエスさまは、弟子たちにおっしゃったように、私たちにおっしゃっている。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」そのとき私たちは火の舌、炎の舌のように燃えることばで、世の罪、人の罪を明らかにすることもあるかもしれない。しかし、その罪から救ってくださるイエスさまの福音も同時に語る。その福音を受け入れた人は、私たちのことばをとおして罪が赦される。  この、人の罪を赦し、永遠のいのちを得させるわざ、これぞ伝道、宣教である。その働きを私たちにさせてくださるお方、そのときどきにそれにふさわしい必要なことばを授けてくださるお方、それが聖霊である。  主よ、遣わしたまえ。語らせたまえ。今日はともに祈ろう。

反面教師の親、模範的な親

聖書箇所;サムエル記第一2章12節~21節 メッセージ題目;反面教師の親、模範的な親  昨日私と妻は、「わたしのかあさん」という映画を観に行ってきた。知的障害を持った親を葛藤を抱えながらも受け入れられるようになるにつれ、成長していく少女の物語である。この作品を見ると、人はたとえ知的障害を持っていようとも素晴らしい存在であり、大きく用いられる、という、勇気づけられるメッセージを受け取れる。何といっても、どんなに母親に対して悲しんだり、怒ったり、呆れたりする娘のことを変わらずに愛しつづける母親の姿にとても感動した。ほんとうに、教会のみなさまにご覧いただきたかった。機会があればぜひご覧いただきたい。  そんな映画の余韻に浸りながら、私は母の日を迎えた。ああ、そういえばうちの母にもしばらく電話していなかったなあ。親孝行しなくちゃなあ。そんなことも思う。今日、母の日に、私たちは親というものについて考えていこう。  聖書は親子関係というものについても扱っているが、今日はその中から、サムエル記第一の最初の部分から学びたい。サムエル第一、それは預言者サムエルと、そのサムエルに油注がれて王となったサウル、そしてダビデについて語るみことばだが、サムエル記第一の最初の部分は、サムエルがどのように生まれ、神の人として立てられ、育てられてきたかを語っている。  その、サムエルの生い立ちに対し、対照的な姿で登場するのが、サムエルの母であるハンナを導いた祭司エリの息子、ホフニとピネハスである。今日の箇所は、神の人として立てられ、育てられながら、あまりに対照的だったこの両者を育てた親の様子から、親というものは主の御目にどのようであることがふさわしいか、特に今日が「母の日」であることから、サムエルの母ハンナの立場に注目して見てみたい。  12節。彼らはよこしまな者たち、とあるが、新改訳聖書の欄外脚注にあるとおり、これは直訳すると「ベリヤアルの子ら」となる。ベリヤアル、とは、「無益な、悪い、役に立たない」という意味であり、したがって彼らは、無益な子、悪い子、役に立たない子、というわけであった。祭司としてハンナとサムエルの親子を霊的に導いた父親エリとはまったくちがう、役立たずの子ども、というわけだった。  なぜ彼らはそのように悪く、無益で、役立たずだったのか? それは「主を知らなかった」ということばに集約されている。別の訳の聖書を読めば「主を知ろうとしなかった」とある。彼らはちゃんと祭司という肩書を持っていた。ハンナとサムエルの親子をりっぱに導けるだけの霊的指導者、エリを父親に持っていた。彼らは主を知り、みことばを学ぶ環境においては最高だった。なのに彼らは学ばなかった。学ぼうとしなかった。  いったい、何が彼らを、主を知ることから遠ざけていたのか? それを説明するのが13節以下のみことばだが、早い話が、彼らは民のささげる肉のいけにえを横取りして、いけにえとして焼き尽くして主にささげることをせず、むさぼり食うことをしていたのだった。  そのことを17節では、彼らホフニとピネハスが「主へのささげ物を侮った」と総括している。これがどれほど大きな罪か想像できるだろうか? いけにえとしてささげる家畜は、初子の最良のものでなければならない。ちょっとでも傷があったり、障害があったりするものは、ささげてはならない。  家畜を飼う者たちとしては、初子、はじめて生まれた子どもたちは、とても愛おしい存在ではないだろうか。しかもその中でも、傷のない完璧なもの……しかし、それを惜しげもなくほふり、焼き尽くすということは、最良のいけにえをどうか主に受け入れていただきたいという、切なる献身の現れである。  いけにえを焼き尽くす炎を見るとき、イスラエルの民は、痛みの伴った献身を果たすことができたことに、心からの感謝を主におささげしたことだろう。主よ、あなたさまはこうして、私の献身を受け入れてくださいました! 感謝します!  それが何か。その肉を焼き尽くすことをしないで、勝手に肉を取って食べるわけである。俺は生の肉を食べるぞ、ということは、焦げて食べられなくなった肉ではなく、少し焼いていかにも香ばしい肉を食べるわけである。いけにえになるのは最良の家畜ですから、それを焼いて食べたらおいしくないわけがない。だが、それは焼き尽くしてささげるものであり、みな主のものである。祭司とは、そのようにして民のささげ物を主にささげる役割をする立場にあるのに、その肉を神さまになり代わって食べようというのだろうか。神さまにささげる最高の礼拝を私利私欲のために横取りしようというのだろうか。  祭司の子は祭司、という、世襲は、残念ながら主に対する敬虔さ、また恐れというものまで伝えてはくれなかったようである。だが、ホフニとピネハスの発言に、とても気になる表現がある。15節を見るとこのようにある。 「人々が脂肪を焼いて煙にしないうちに祭司の子はやって来て、いけにえをささげる人に、「祭司に、その焼く肉を渡しなさい。祭司は煮た肉は受け取りません。生の肉だけです。」と言うので、とあるが、自分たちのことを肩書で「祭司は」と言っていることに、注意が必要である。自分たちのことを肩書で呼ぶなんて、いかにも自分が霊的に特別な存在だとでも言いたいのだろうか。  ホフニとピネハスはエリにとって次世代にあたるが、次世代がしっかり育つ上で、私たち年長の世代の者たちの責任は大きい。反面教師として、ホフニとピネハスの父親であるエリの場合を見てみよう。エリは、ホフニとピネハスがいけにえの肉を横取りしていること、そればかりか、神殿で仕える女性たちに姦淫の罪を働いている、ということを聞いた。だがエリは何と言っているか? 24節。……うわさが悪いから彼らが悪いのか? いや、人のうわさが彼をさばくのではなく、神が彼らをさばく。ホフニとピネハスがそのような罪を犯していることを、神殿の責任者であり、ホフニとピネハスの監督者でありながら普段から見抜けなかったエリにも大きな問題がある。いえ、見抜けなかったどころか、そのようなよこしまな指導者を、エリは親として育ててしまったわけである。  25節のエリのことばを見よう。……確かに、言っていることは正論である。しかしよく見てみよう。何かおかしくはなかろうか? 仲裁に立つ存在はいないわけではない。私たちには仲裁に立つ存在がおられる。それはイエスさまである。イエスさまは十字架にかかってくださり、神と人との仲裁の役割を果たされた。ということは、こんなことを言うエリは、祭司でありながら、キリストが見えていなかったことになる。神に対して人が犯す罪を仲裁される存在であるキリストに出会えなかったならば、祭司である自分自身も罪人ゆえに神の御前にへりくだって出るべきであることがわからなくなってしまう。エリは、子どもたちを救い主に出会わせるという、本来もっともすべきことができていなかったのである。 百歩譲って、この時代はイエスさまが生まれるはるか前の時代だった、だからエリにキリスト理解がなかったのは当然ではないか、と考えてみよう。しかし、それまでの時代にも、救い主キリストを見せた役割をした人はいて、祭司ともあろう者なら、そういう人たちをとおして、救い主キリストが見えていなければならなかったはずである。例えばモーセがそうだった。神を捨てて金の子牛を礼拝した民を滅ぼすとおっしゃった神さまに、いえ、むしろ、私の名前こそいのちの書から消していただきたいと懇願した。それをお聞きになった神さまは、イスラエルを滅ぼし尽くすことをなさらなかった。アブラハムもそうだった。ソドムとゴモラを滅ぼすと告げられた神さまに何度も交渉して、10人の正しい人がいれば滅ぼさないでいただきたい、と条件をつけ、神さまから約束を引き出した。神さまはその祈りに応え、ロトを救われた。 こういうケースを、エリが知らなかったはずがない。しかもモーセやアブラハムの場合は、自分が罪を犯さなかったのに、身代わりとなって神さまに懇願したわけである。エリはどうか。このようにホフニとピネハスを育ててしまったことに対する悔い改めが先立ってしかるべきではないか? その上で、神さまに対して自分自身が、親として、霊的指導者として、仲立ちに立つ祈りをささげるべきではなかったか? みことばがわからなかったという点でも、子どもたちの罪の責任を負おうとしなかったという点でも、エリは親としてふさわしい役割を果たすことができなかった。 ここで、もうひとりの親、サムエルの母、ハンナのケースを見てみよう。 ハンナはエルカナという男性の妻だった。しかし、エルカナにはもうひとり、ペニンナという妻がいて、このペニンナには子どもがいた一方で、ハンナには子どもがいなかった。子どもがいないということはその頃、祝福が臨んでないことと見なされていた。そんなハンナはエルカナに愛されていたが、ハンナのことを、子どもがいないという理由でペニンナはいじめた。 この一家は、毎年1回、主の神殿に参詣することを常としていた。そう、エリの親子が仕えていた神殿である。エルカナの一家は、それほどまでに主に敬虔な家族であったが、ともに主の前にこの家族が出るとき、ハンナは否が応でも、子どものいないわが身の悲しさを思ったことだろう。 ハンナは思いあまって、泣きじゃくって神さまに祈った。まるで酔っ払いのように取り乱して祈った。しかし、その祈りの内容が振るっていた。生まれた子どもを主にささげるというのである。そう、子どもは私のものとしてほしいのではない、あなたのものとして、あなたの必要のために送り出します、というのであった。 そして神さまはハンナの祈りを聴き届けてくださり、子どもを授けてくださった。ハンナは祈って誓願を立てたとおり、サムエルを神さまにささげた。具体的には、祭司エリのもとで、主の献身者、すなわち祭司になるための教育を受けさせた。それも、乳離れしたらすぐにサムエルをエリのもとに住まわせるという徹底ぶりであった。 それでも、ハンナは母親であることをやめたわけではなかった。ハンナは年ごとの神殿における礼拝に赴く際、幼いサムエルのために小さな上着をつくり、持っていってやった。 その小さな上着を縫ってやっているハンナの気持ちを考えてみよう。先週の礼拝で、初穂とは最良のものであると学んだが、サムエルを神殿に送ったということは、ハンナにとって最良の初子のいけにえ、奇蹟をもって応えられたたましいをささげたということである。 その息子とつながれるのは、この母親の祈りをこめて縫い上げた服……それを着ていてくれるならば、母と息子はつながっていられる……どんな気持ちでハンナはこの服をつくったことだろうか。肉親としての息子に対する愛情を注いだという意味もあるが、息子といういけにえをより神さまに受け入れられるにふさわしく整えたという意味もないだろうか? そんなハンナが、じっくりつくり上げた小さな上着を手にして神殿に参詣し、献身者として成長するサムエルを見たら、どんなにうれしかったことだろうか? 私たちの小さなころを思い起こしていただきたい。幼稚園や小学校の名札、体育着には、お母さんがていねいに名前を書いてくれた。そんなお母さんは普段、学校という場所には決して入ることができない。しかし、子どもを人として整えてもらうために、あえて幼稚園なり学校なりに送り出す。子どもの持ち物を親が用意してあげることは、そんな、会えない子どもと親をつなぐ絆のようなものではないか。 そんな親の楽しみにしているもののひとつが、授業参観である。子どもの置かれている現場にまでやってきて、そこで子どもがどのように育てられているか、さらには用いられているかを見ることは、親として大きな喜びというしかない。私は昨日子どもの授業参観に行ってきた。普段、思いを寄せていても決して入れない場所に行ってきたわけである。親として用意してやった制服に身を包んで子どもが授業を受けるさまは、見ていて感動を覚える。先生が生徒たちに課題を出して、それを一斉に解かせるとき、うちの子どもの鉛筆は動いているかな、と見守るのは、なかなかハラハラドキドキの体験である。しかし、こうして学校という現場で育てていただいていることはとても感謝なことだと感じるしかなかった。 幼いサムエルに小さな上着を持っていってやるハンナがその神殿でささげる祈りは、やはりサムエルのことであっただろう。その母の祈りに主はお応えになり、やがてサムエルは全イスラエルをさばくリーダーとなり、果てはダビデ王を立てる神の器となった。 ハンナの熱い祈り、ハンナの献身を主は喜んで受け入れてくださり、サムエルに代わる子どもを授けてくださった。あの、どんなに祈っても子どもが産めず、夫の無理解、もうひとりの妻のいじめに耐えてきたハンナのことを、ついに主は顧みてくださったのだった。 とは言っても、だいじな初子を神さまにささげたという事実に変わりはない。その献身に導かれるのは、実に大きな恵みなしにはできないことである。 サムエルは、エリのような愚鈍な霊的指導者、ホフニとピネハスのようなならず者の先輩に囲まれ、霊的指導者として訓練されるうえで、条件はよくなかった。しかし彼は、すばらしく成長し、神と人とに愛されたとみことばは語る。その背後にはハンナの祈りがあった。  サムエルは、エリが愚鈍な指導者だからとか、父親失格だからといって、霊的な指導を軽んじることをしなかった。語られることばのみを、乳飲み子が乳を慕い求めるように、しっかりいただいて、霊的にすばらしく成長した。彼を神の人にしたのは、母のとりなしの祈り、そして、その祈りの中で育てられた、主ご自身に対する態度だった。  私たちはどうだろうか? エリやホフニやピネハスは、いわば反面教師である。このような霊的な愚鈍さ、むさぼりを、私たちのうちから除き、サムエルのようになりたいものである。そしてハンナのように、私たちキリストにある兄弟姉妹は主にささげられていることを心から認め、お互いが主にささげられている「生きたいけにえ」としてふさわしい生き方ができるように、次世代を育ててまいりたい。母の日、それは次世代の親の役割を果たすべき私たちが、次世代を覚えて祈る日である。  また、母の日は、親という存在をとおして神さまがどんなに私たちひとりひとりに「愛」というものを教えてくださったかを覚える日である。私たちの中には、お母さんは明確な信仰告白をしないままお亡くなりになったという方がおられるかもしれない。いわゆる「毒親」としか思えない母親のもとで不幸な育ち方をしたとしか思えない方もおられるかもしれない。しかし、どんなお母さんであれ、お母さんをとおして神さまがこの世界に生を享けさせてくださり、育ててくださったという事実に変わりはない。それでもお母さんを赦せない人は、その怒りを主の御手に委ねる選択をしていこう。しかし、神さまがお母さんをとおして私たちをここまでにしてくださったという、この恵みに感謝し、世界のお母さんたちが(お父さんたちも!)みこころにかなう人になれるように、次世代を神の子どもとして育てる人になれるように、祈ろう。 https://www.youtube.com/watch?v=0Ay710qiQrc

思い違いをしてはいけません

聖書箇所;ヤコブの手紙1章16節~18節 メッセージ題目;思い違いをしてはいけません  ヤコブの手紙の学びが始まってひと月が過ぎたが、ここまで学んできたみことばの中に、「疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです」ということばがある。これは、自分に何かが与えられるかどうかは、それをくださる神さまに対する信仰、もっと言えば、信頼にかかっていることを説くみことばだが、これは「神さまから何かをいただくにあたって」ということにかぎらず、信仰全般に共通して言えるみことばである。  私たちが信じるべきことは、「神さまは私たちによいものをくださる」ということである。イエスさまはこのことについて、このように説明していらっしゃる。「あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」  神さまは必ず、私たちに良いものを与えてくださる。だから、求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい、と、イエスさまはおっしゃっている。良いものをくださるのは、神さまが私たちのことを愛していらっしゃるからである。私たちは、神さまが愛してくださっているゆえに良いものをくださると知っているから、一生懸命求めるのである。  さて、そこで本日の本文を学んでいこう。まず16節。私たちは「思い違いをしてはいけない」とみことばで注意されている。それは、私たちが「思い違いをしがちな存在である」からである。思い違いをしてしまうならば、私たちは神さまの正しいみこころを受け取れなくなってしまう。そうなると、神さまの愛が正しく受け取れなくなる。  神さまのみこころは、この聖書という書物に過不足なく示されている。この聖書は古今東西、最も読まれてきた書物であり、特に、世界史をリードしてきた欧米における精神的な支柱と言える書物だけに、多くの人に研究されてきた。しかし、聖書をどんなに研究しても、その啓示するイエスさまによる救いに、果たしてどれほどの人がたどり着いただろうか? 特に日本においても、聖書を研究する人は多く、聖書について訳知り顔で解説する書物が数多く発行され、多くの日本人に読まれてきた。しかし、そういう本が普及している割には、肝心の、聖書が伝える福音が日本人に広く伝わっているとは到底言えない状態である。  それはやはり、聖書を解説する人も、その解説をありがたがって読む人たちも、「思い違いをしている」からではないだろうか。自分の考えが中心にあって、それゆえに神さまのみこころを受け入れる余地がない。それで、聖書に啓示されている福音が受け取れないわけである。  いや、それだけではない。このみことばはほんらい、教会に宛てて書かれたものであることを考えるならば、私たちクリスチャンこそ、思い違いのせいでみこころをうけとれなかったことを考える必要がある。考えてみよう。神さまは私たちを愛してくださっているのに、私たちは今まで、どれほど思い違いをしてきて、自分のことを愛してくださっている神さまのみこころを受け取ることができなかったことだろうか? 神さまが変わらずに愛してくださっていることを考えもせずに、ああ、自分なんてだめだ、と考えてみたり、こんな自分に救われる資格なんてない、と自分を責めてみたり。ほんとうに、とんでもない思い違いである。  なぜ、私たちは聖書を読み、聖書を学ぶ必要があるのだろうか? それは、「思い違いをしない」ように、神さまがこの頑なになりがちな私たちを教えてくださる手段、それが、聖書のみことばを通して、神さまが私たちに語りかけてくださることだからである。考えてみよう。学校に来ている子どもたちに、教師たちが一切何も教えなかったら、その子どもたちはどうなってしまうだろうか? 考えなくてもわかることで、子どもたちが教えられてこそなように、私たち神の子どももまた、神さまに教えられてこその存在である。  その点で、私たちの群れを「教会」と呼ぶのは一理がある。「教会」の語源である「エクレシア」は、「呼び出された者」というのが本来の意味で、神さまが私たちのことを世から呼び出されて共同体としてくださったことを意味している。日本語はこの群れに「教会」という訳語を当てた。外から見れば、「せっかくの日曜日に聖書を学んでいる真面目な人たち」というイメージが持たれていることは前にお話ししたが、私たちのしていることは、たとえば定期テストや学校の受験や資格試験に合格するための、いわゆる「勉強」とはちがうと思うだろう。  むしろ、みことばという「糧」をいただく……「糧」というといかにも堅苦しいから言い換えると、みことばという「ごはん」をいただいて成長する、その成長の喜びをともに味わう共同体だから、ごはんをともにいただくことがすなわち「教わる」こと、ゆえに「教会」……いい訳語ではないか。  私たちは教えられることで、思い違いから守られる。思い違いをして、神さまの愛のみこころを間違って受け取り、神さまの愛を受け取れなくしてしまう危険から守られる。今日もこうして、私たちを思い違いから守るべく、神さまがこの共同体においてみことばを伝えてくださることに感謝しよう。  では、何を思い違いしてはならないのだろうか? それは、先週学んだみことば、特に13節を受けていると言えるし、さらに、今日集中して学ぶ17節、18節を指しているといえる。先週の復習のようになるが、13節は、誘惑にあっているとき、神によって誘惑されていると言ってはいけない、と語る。神さまのせいで自分がこんな悪い目にあっている、あなたはそう思うのか、しかしそれはちがう、神さまは悪へと誘惑するようなお方ではない、もしあなたが誘惑にはまっているならば、それはあなたのうちで、誘惑にあって罪を犯したい、欲が存在するからだ、と、みことばは語る。  さて、先週は扱わなかったが、「神によって誘惑されていると『思ってはいけない』」ではない、「言ってはいけない」と語っていることにも注意が必要である。思うのは自分個人の中だけのことで、もちろんそれだけでも、神さまのみこころを誤解しているという点で充分によくないことだが、それを「言う」ということは、教会の中であれ、教会の外であれ、神さまは誘惑する方だ、と「人に伝える」ということである。それは、神さまの愛を疑う不信仰を人々に伝染させることであり、そういう思い違いは教会を病ませるし、また、人々を教会から遠ざけてしまう。私たちは徹底して、神さまは私たちをあえて悪い道に引き込むことをお許しにならない、愛のお方であることを、つねに語りつづける必要がある。  そのように、人を悪の道に誘惑されることのない愛なる神さまだから、という前提で、17節、18節のみことばが続くわけである。17節。このみことばが定義していることは、良いものというのは天におられる父なる神さまがくださるものである、ということである。そのことは2つの側面を持つ。ひとつは、父なる神さまが私たちにくださるものは、良いものしかないということ、もうひとつは、父なる神さま以外のどんな者も、ほんとうに良いものを私たちにもたらすことはない、ということである。もし、私たちが良いものを受け取ることができたならば、その良いものは究極的には、父なる神さまがその人や環境をとおして私たちにくださったものである、ということである。  そのように、神さまが愛のお方だから良いものを私たちにくださる、ということを信じられないのは、そもそも、神さまとはどんなお方かということを勘違いしてしまうからである。  17節を見ると、「父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません」と語っている。このみことばを最初に読んだ十二部族は、イスラエルの民であるという民族的なアイデンティティを保つ一方で、いかんせんユダヤの国外にいる分、その住む土地の宗教的な影響を受けてしまい、変わることのないまことの神さまへの純粋な信仰を保つことに困難を覚えることは避けがたい。  しかし、御父が変わることのないお方だという信仰を保つことに困難を覚えるのが、主の民の末裔たちにして困難だったのならば、いわんや私たち、異邦人から救いをいただいた者は、ますます異教的な神理解らか自分自身をきよく保つことに努める必要がある。神さまが上におられる、天におられるということは、このみことばの説くところだが、その神さまが「移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものは」ないお方だということをまず押さえておかないと、私たちは神さまというお方を見誤り、正しい信仰を持てないことになってしまう。  幼稚園の頃、私は何かいたずらをすると、祖母が決まって私に言ったものだった。「そんなことをすると、お天道様の罰が当たるよ。」祖母がこう言ったとき、家の外では、お天道様ならぬ太陽がぎらぎらしていた記憶がある。この太陽が、目で見ることもできないほどまぶしい太陽が、天から見張っている、という、トラウマのような印象を持ったものだったが、ほどなくして私は、この太陽も数十億年後には寿命を迎えるという、科学の本の解説を読み、とても不安になった。  日本の国旗は「日の丸」、つまり赤く太陽を染め抜いている。たくさんのノーベル賞受賞者を輩出したような、世界的に科学をリードするような国であってもなお、日本は心情的に、というよりも霊的に、お天道様を崇める国と民族である。このヤコブ1章17節のみことばは、そんな私たち日本人が刮目して読むべきみことばである。学校行事の際には日の丸に頭を下げたり、初日の出を拝んだり、星占いを信じたりと、多くの日本人が潜在的に神とあがめる天体というものは、実は創造主なる神さまの御手によるもので、ほんとうに信じるべきは天体という被造物ではなく、天体も含めてすべてを創造された神さまであることを、私たち日本のクリスチャンは徹底して信じる必要がある。私たちはあまりにも、世の霊的な情報に左右されてしまっている。私たちはその分、みことばを学び、日々、神さまはどのようなお方か教えていただく必要がある。そして、みことばの教えるとおりに同意する必要がある。今日のみことばに関して言えば、「父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません」とみことばが語る以上、御父は一切変わることのないお方だと、へりくだって受け入れる必要がある。  18節。この一切変わることのない御父は、私たちに何をしてくださったのだろうか? 私たちを生んでくださった。みこころのままに。真理のことばをもって。私たちがこの世界に生まれたこと、そして、イエスさまを信じるクリスチャンになったことは、神さまのみこころであった。神さまは私たちのことを、真理のみことばによって生んでくださった。私たちは、イエスさまを信じる信仰によって救われると語るみことばが真理であると受け入れている。みことばが真理であることは、変わることのない御父がお定めになったことであり、その真理のみことばを信じ受け入れるように、神さまは私たちのことを導いてくださった。このようにして私たちは救われたのである。  その救いには目的があったとみことばは語る。被造物の初穂にするため。初穂というのは、韓国語の聖書では「最初に結ばれた実」と訳されているが、家畜の初子であれ、最初に結んだ実であれ、それは神さまのものである。だから神さまは、その初物をもってご自身を礼拝するように旧約にお定めになったのである。  しかし、ほんとうの「初穂」とはだれだろうか? コロサイ人への手紙1章15節によれば、それは御子イエスさまである。その、「すべてのものより先に生まれた」まことの初穂、イエス・キリストが、私たちを罪と死から贖い出すまことのいけにえとして御父にささげられたのである。  この、まことの初穂なるイエスさまを信じる信仰を与えられた私たちは、イエスさまを受け入れることにより、私たちもまた初穂、すなわち、神に受け入れられる最高のものにしていただいた。同じ結ぶ実でも、神さまに受け入れられるのと、そうでないのとの違いは天と地の差である。私たちは神さまに受け入れられる、最高のものとされた。それが私たちなのである。  だが、私たちはそういう存在にしていただいたことを教えられてもなお、自分の醜さ、自分の欠け、自分の汚さ、自分の至らなさを覚えて、落ち込んだりしないだろうか?  しかし、そんなとき、私たちは神さまのみことばに目を留めなければならない。「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」本来は「けがれている」とされているものでも、ひとたび神さまがきよめられたならば、それは「きよい」のである。きよいかどうかをお決めになるのは神さまであって、私たちのすることではない。自分に足りないところ、至らないところ、汚いところ、醜いところ、弱いところがあるからと、たやすく「きよくない」などと言ってはならないのである。  とはいっても、私たちは実際のところ、まだまだ「きよくなる」ために成長すべきなのは道める必要があるだろう。私たちはただ、神さまがきよいといってくださる基準、イエスさまの十字架を信じる信仰が与えられていることに感謝して、少しでも神さまのみこころにしたがったきよい生き方ができるように、主の恵みに拠り頼んでいくのである。  今日は主の晩餐にあずかる。それは、主が私たちをきよめてくださった、被造物の初穂にしてくださったことを味わい、感謝するひとときである。主のみからだを口にするなどとんでもない罪人だった私たちが、被造物の初穂という大逆転を体験させられた、主の晩餐とは、その大逆転を体験させられることとも言える。主の晩餐は、私たちが「思い違いしない」ために、今日も守るものであり、また、これからも守りつづけるもの。主の晩餐によって、私たちがまことの初穂であるイエスさまとひとつにされていることを味わい、感謝しよう。