思い違いをしてはいけません

聖書箇所;ヤコブの手紙1章16節~18節 メッセージ題目;思い違いをしてはいけません  ヤコブの手紙の学びが始まってひと月が過ぎたが、ここまで学んできたみことばの中に、「疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです」ということばがある。これは、自分に何かが与えられるかどうかは、それをくださる神さまに対する信仰、もっと言えば、信頼にかかっていることを説くみことばだが、これは「神さまから何かをいただくにあたって」ということにかぎらず、信仰全般に共通して言えるみことばである。  私たちが信じるべきことは、「神さまは私たちによいものをくださる」ということである。イエスさまはこのことについて、このように説明していらっしゃる。「あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」  神さまは必ず、私たちに良いものを与えてくださる。だから、求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい、と、イエスさまはおっしゃっている。良いものをくださるのは、神さまが私たちのことを愛していらっしゃるからである。私たちは、神さまが愛してくださっているゆえに良いものをくださると知っているから、一生懸命求めるのである。  さて、そこで本日の本文を学んでいこう。まず16節。私たちは「思い違いをしてはいけない」とみことばで注意されている。それは、私たちが「思い違いをしがちな存在である」からである。思い違いをしてしまうならば、私たちは神さまの正しいみこころを受け取れなくなってしまう。そうなると、神さまの愛が正しく受け取れなくなる。  神さまのみこころは、この聖書という書物に過不足なく示されている。この聖書は古今東西、最も読まれてきた書物であり、特に、世界史をリードしてきた欧米における精神的な支柱と言える書物だけに、多くの人に研究されてきた。しかし、聖書をどんなに研究しても、その啓示するイエスさまによる救いに、果たしてどれほどの人がたどり着いただろうか? 特に日本においても、聖書を研究する人は多く、聖書について訳知り顔で解説する書物が数多く発行され、多くの日本人に読まれてきた。しかし、そういう本が普及している割には、肝心の、聖書が伝える福音が日本人に広く伝わっているとは到底言えない状態である。  それはやはり、聖書を解説する人も、その解説をありがたがって読む人たちも、「思い違いをしている」からではないだろうか。自分の考えが中心にあって、それゆえに神さまのみこころを受け入れる余地がない。それで、聖書に啓示されている福音が受け取れないわけである。  いや、それだけではない。このみことばはほんらい、教会に宛てて書かれたものであることを考えるならば、私たちクリスチャンこそ、思い違いのせいでみこころをうけとれなかったことを考える必要がある。考えてみよう。神さまは私たちを愛してくださっているのに、私たちは今まで、どれほど思い違いをしてきて、自分のことを愛してくださっている神さまのみこころを受け取ることができなかったことだろうか? 神さまが変わらずに愛してくださっていることを考えもせずに、ああ、自分なんてだめだ、と考えてみたり、こんな自分に救われる資格なんてない、と自分を責めてみたり。ほんとうに、とんでもない思い違いである。  なぜ、私たちは聖書を読み、聖書を学ぶ必要があるのだろうか? それは、「思い違いをしない」ように、神さまがこの頑なになりがちな私たちを教えてくださる手段、それが、聖書のみことばを通して、神さまが私たちに語りかけてくださることだからである。考えてみよう。学校に来ている子どもたちに、教師たちが一切何も教えなかったら、その子どもたちはどうなってしまうだろうか? 考えなくてもわかることで、子どもたちが教えられてこそなように、私たち神の子どももまた、神さまに教えられてこその存在である。  その点で、私たちの群れを「教会」と呼ぶのは一理がある。「教会」の語源である「エクレシア」は、「呼び出された者」というのが本来の意味で、神さまが私たちのことを世から呼び出されて共同体としてくださったことを意味している。日本語はこの群れに「教会」という訳語を当てた。外から見れば、「せっかくの日曜日に聖書を学んでいる真面目な人たち」というイメージが持たれていることは前にお話ししたが、私たちのしていることは、たとえば定期テストや学校の受験や資格試験に合格するための、いわゆる「勉強」とはちがうと思うだろう。  むしろ、みことばという「糧」をいただく……「糧」というといかにも堅苦しいから言い換えると、みことばという「ごはん」をいただいて成長する、その成長の喜びをともに味わう共同体だから、ごはんをともにいただくことがすなわち「教わる」こと、ゆえに「教会」……いい訳語ではないか。  私たちは教えられることで、思い違いから守られる。思い違いをして、神さまの愛のみこころを間違って受け取り、神さまの愛を受け取れなくしてしまう危険から守られる。今日もこうして、私たちを思い違いから守るべく、神さまがこの共同体においてみことばを伝えてくださることに感謝しよう。  では、何を思い違いしてはならないのだろうか? それは、先週学んだみことば、特に13節を受けていると言えるし、さらに、今日集中して学ぶ17節、18節を指しているといえる。先週の復習のようになるが、13節は、誘惑にあっているとき、神によって誘惑されていると言ってはいけない、と語る。神さまのせいで自分がこんな悪い目にあっている、あなたはそう思うのか、しかしそれはちがう、神さまは悪へと誘惑するようなお方ではない、もしあなたが誘惑にはまっているならば、それはあなたのうちで、誘惑にあって罪を犯したい、欲が存在するからだ、と、みことばは語る。  さて、先週は扱わなかったが、「神によって誘惑されていると『思ってはいけない』」ではない、「言ってはいけない」と語っていることにも注意が必要である。思うのは自分個人の中だけのことで、もちろんそれだけでも、神さまのみこころを誤解しているという点で充分によくないことだが、それを「言う」ということは、教会の中であれ、教会の外であれ、神さまは誘惑する方だ、と「人に伝える」ということである。それは、神さまの愛を疑う不信仰を人々に伝染させることであり、そういう思い違いは教会を病ませるし、また、人々を教会から遠ざけてしまう。私たちは徹底して、神さまは私たちをあえて悪い道に引き込むことをお許しにならない、愛のお方であることを、つねに語りつづける必要がある。  そのように、人を悪の道に誘惑されることのない愛なる神さまだから、という前提で、17節、18節のみことばが続くわけである。17節。このみことばが定義していることは、良いものというのは天におられる父なる神さまがくださるものである、ということである。そのことは2つの側面を持つ。ひとつは、父なる神さまが私たちにくださるものは、良いものしかないということ、もうひとつは、父なる神さま以外のどんな者も、ほんとうに良いものを私たちにもたらすことはない、ということである。もし、私たちが良いものを受け取ることができたならば、その良いものは究極的には、父なる神さまがその人や環境をとおして私たちにくださったものである、ということである。  そのように、神さまが愛のお方だから良いものを私たちにくださる、ということを信じられないのは、そもそも、神さまとはどんなお方かということを勘違いしてしまうからである。  17節を見ると、「父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません」と語っている。このみことばを最初に読んだ十二部族は、イスラエルの民であるという民族的なアイデンティティを保つ一方で、いかんせんユダヤの国外にいる分、その住む土地の宗教的な影響を受けてしまい、変わることのないまことの神さまへの純粋な信仰を保つことに困難を覚えることは避けがたい。  しかし、御父が変わることのないお方だという信仰を保つことに困難を覚えるのが、主の民の末裔たちにして困難だったのならば、いわんや私たち、異邦人から救いをいただいた者は、ますます異教的な神理解らか自分自身をきよく保つことに努める必要がある。神さまが上におられる、天におられるということは、このみことばの説くところだが、その神さまが「移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものは」ないお方だということをまず押さえておかないと、私たちは神さまというお方を見誤り、正しい信仰を持てないことになってしまう。  幼稚園の頃、私は何かいたずらをすると、祖母が決まって私に言ったものだった。「そんなことをすると、お天道様の罰が当たるよ。」祖母がこう言ったとき、家の外では、お天道様ならぬ太陽がぎらぎらしていた記憶がある。この太陽が、目で見ることもできないほどまぶしい太陽が、天から見張っている、という、トラウマのような印象を持ったものだったが、ほどなくして私は、この太陽も数十億年後には寿命を迎えるという、科学の本の解説を読み、とても不安になった。  日本の国旗は「日の丸」、つまり赤く太陽を染め抜いている。たくさんのノーベル賞受賞者を輩出したような、世界的に科学をリードするような国であってもなお、日本は心情的に、というよりも霊的に、お天道様を崇める国と民族である。このヤコブ1章17節のみことばは、そんな私たち日本人が刮目して読むべきみことばである。学校行事の際には日の丸に頭を下げたり、初日の出を拝んだり、星占いを信じたりと、多くの日本人が潜在的に神とあがめる天体というものは、実は創造主なる神さまの御手によるもので、ほんとうに信じるべきは天体という被造物ではなく、天体も含めてすべてを創造された神さまであることを、私たち日本のクリスチャンは徹底して信じる必要がある。私たちはあまりにも、世の霊的な情報に左右されてしまっている。私たちはその分、みことばを学び、日々、神さまはどのようなお方か教えていただく必要がある。そして、みことばの教えるとおりに同意する必要がある。今日のみことばに関して言えば、「父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません」とみことばが語る以上、御父は一切変わることのないお方だと、へりくだって受け入れる必要がある。  18節。この一切変わることのない御父は、私たちに何をしてくださったのだろうか? 私たちを生んでくださった。みこころのままに。真理のことばをもって。私たちがこの世界に生まれたこと、そして、イエスさまを信じるクリスチャンになったことは、神さまのみこころであった。神さまは私たちのことを、真理のみことばによって生んでくださった。私たちは、イエスさまを信じる信仰によって救われると語るみことばが真理であると受け入れている。みことばが真理であることは、変わることのない御父がお定めになったことであり、その真理のみことばを信じ受け入れるように、神さまは私たちのことを導いてくださった。このようにして私たちは救われたのである。  その救いには目的があったとみことばは語る。被造物の初穂にするため。初穂というのは、韓国語の聖書では「最初に結ばれた実」と訳されているが、家畜の初子であれ、最初に結んだ実であれ、それは神さまのものである。だから神さまは、その初物をもってご自身を礼拝するように旧約にお定めになったのである。  しかし、ほんとうの「初穂」とはだれだろうか? コロサイ人への手紙1章15節によれば、それは御子イエスさまである。その、「すべてのものより先に生まれた」まことの初穂、イエス・キリストが、私たちを罪と死から贖い出すまことのいけにえとして御父にささげられたのである。  この、まことの初穂なるイエスさまを信じる信仰を与えられた私たちは、イエスさまを受け入れることにより、私たちもまた初穂、すなわち、神に受け入れられる最高のものにしていただいた。同じ結ぶ実でも、神さまに受け入れられるのと、そうでないのとの違いは天と地の差である。私たちは神さまに受け入れられる、最高のものとされた。それが私たちなのである。  だが、私たちはそういう存在にしていただいたことを教えられてもなお、自分の醜さ、自分の欠け、自分の汚さ、自分の至らなさを覚えて、落ち込んだりしないだろうか?  しかし、そんなとき、私たちは神さまのみことばに目を留めなければならない。「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」本来は「けがれている」とされているものでも、ひとたび神さまがきよめられたならば、それは「きよい」のである。きよいかどうかをお決めになるのは神さまであって、私たちのすることではない。自分に足りないところ、至らないところ、汚いところ、醜いところ、弱いところがあるからと、たやすく「きよくない」などと言ってはならないのである。  とはいっても、私たちは実際のところ、まだまだ「きよくなる」ために成長すべきなのは道める必要があるだろう。私たちはただ、神さまがきよいといってくださる基準、イエスさまの十字架を信じる信仰が与えられていることに感謝して、少しでも神さまのみこころにしたがったきよい生き方ができるように、主の恵みに拠り頼んでいくのである。  今日は主の晩餐にあずかる。それは、主が私たちをきよめてくださった、被造物の初穂にしてくださったことを味わい、感謝するひとときである。主のみからだを口にするなどとんでもない罪人だった私たちが、被造物の初穂という大逆転を体験させられた、主の晩餐とは、その大逆転を体験させられることとも言える。主の晩餐は、私たちが「思い違いしない」ために、今日も守るものであり、また、これからも守りつづけるもの。主の晩餐によって、私たちがまことの初穂であるイエスさまとひとつにされていることを味わい、感謝しよう。