ペンテコステと福音宣教
聖書箇所;使徒の働き2:1~4 メッセージ題目;ペンテコステと福音宣教 メッセージのはじめに、ペテロの手紙第一1章8節と9節で、ペテロが聖徒たちに語ったみことばを紹介したい。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。」 イエスさまを見たことはない、そう、ペテロの宣教によってイエスさまを信じた人たちは、イエスさまのお姿を肉眼で見たわけではなく、肉声を耳で聞いたわけではない。しかし、イエスさまを愛しているし、イエスさまを信じている。喜んでいる。それは、信仰を持っているから。信仰によって、たましいが救われているから。 このみことばは、初代教会の信徒たちだけでなく、古今東西、イエスさまを信じている人ならだれにでも当てはまる。もちろん、私たちだってそうではないか。もし、今からみなさまに呼びかける問いに「そのとおりだ」と同意するなら、「アーメン」と言って答えてほしい。私たちはイエスさまを愛しているか? イエスさまを信じているか? イエスさまゆえに喜んでいるか? イエスさまの救いをいただいているか? みんなアーメンではないか。 この、イエスさまへの信仰を得させてくださるお方はだれか? イエスさまを愛させてくださるお方はだれか? それが、聖霊なる神さまである。イエスさまは十字架にかかり、復活され、天に昇られ、いまここには目に見える形ではいらっしゃらない。しかし、イエスさまが天に昇られて、私たちには聖霊なる神さまが送られた。私たちは聖霊さまによって、イエスさまを信じ、救われ、導きをいただいて神のみこころを知ることができるようになった。みこころにお従いして、この地において神の栄光をあらわすことができるようになった。みな、聖霊なる神さまのみわざである。 今日はペンテコステ、聖霊降臨祭である。2000年前、聖霊がお下りになり、キリストのからだなる教会はほんとうに呱呱の声を上げた。この日はそれゆえに、「教会の誕生日」とも言われている。そうだとすると、ペンテコステは、イエスさまのお誕生をお祝いするクリスマス、イエスさまのご復活をお祝いする復活祭と同じように大事な日と言えるのではないだろうか? そこで今日は、このペンテコステの日に何が起こったかを見てみたい。それは神さまが大いなるみわざを起こされた日であり、この日だけでペテロのメッセージによって3000人ちかくもの人がバプテスマを受け、教会の仲間に加えられた。たいへんなことである。 本日は、この日に起こったできごとの最初の部分、使徒の働き2章1節から4節に記録されている部分から集中的に学んでみたい。1節のみことば。みなは集まっていた。彼らはイエスさまによって立てられた十二弟子を中心とした群れであった。十二弟子のほかに、ヤコブの手紙を書くことになるヤコブ、ユダの手紙を書くことになるユダたち、マリアから生まれたイエスさまの肉の弟である、いわゆる「主の兄弟」たちがいたし、イエスさまにつき従っていた女性たちもいた。そこにはイエスさまの母であるマリアもいた。 彼らは集まって何をしていたのだろうか? 先行する箇所である使徒の働き1章14節によると、いつもともに集まっては祈っていたことがわかる。実は、福音書から通して時系列に従って読んでみると、その前に彼らがお祈りしたという箇所は、ゲツセマネの園の箇所にさかのぼる。イエスさまがゲツセマネの園にペテロ、ヤコブ、ヨハネの弟子のリーダーのトリオを連れていかれたとき、イエスさまは彼らに「祈りなさい」と命じられたのに、彼らは疲れと悲しみで祈れなくなり、眠り込んでしまった。つまり、彼らは祈ることに失敗していたのであった。 しかし、十字架と復活を経た彼らは強くなった。そして今はもうイエスさまは天に昇られてここにはいないが、彼らはひたすら祈った。ゲツセマネの園でひとたび祈ることに失敗した彼らの祈りを成功に導いていたものは、120人ほどの信徒の存在だった。 ここに、ともに祈ることがどんなに大事か、見えてこないだろうか? ここで私は恥ずかしい罪の告白をしたい。私はもともと、早天祈祷を当たり前のようにささげる教会で過ごしてきた。1997年から韓国の神学校で学んだが、神学校は朝5時からの早天祈祷の出席を、会社で使うようなタイムレコーダーで管理していた。所定の出席回数が足りない神学生はどうなるか? 次の学期から寄宿舎にいられなくなる。早い話が、早天祈祷をささげられない神学生はペナルティとして追い出されるわけである。そんなわけで、否が応でも早天祈祷は出なければならない。こういう生活を私は3年つづけた。 その後、仙台の教会で3年、東京の韓国人教会で7年奉仕したが、どちらの教会も早天祈祷は「義務」、「ノルマ」だった。眠いなどといってちょっとでも休んだら、どんな制裁を受けるかわかったものではなかった。そのとき牧師から受ける叱責のことばは、早天祈祷に欠席する私は牧師になるのにふさわしくないというほどの激しいもので、私はそのことばを聞きたくない一心で、どんなに眠くても、どんなに疲れていても、早天祈祷に出席した。 以上合わせて13年の生活をとおして、早天祈祷は当たり前にささげるものという考えが染みついていた。しかしこの13年は言ってみれば、「やらされて」やっていた祈りに過ぎなかった。それを覆すできごとが起こったが、それは私が、この水戸第一聖書バプテスト教会にお招きいただけるかもしれないというお話をいただいたということで、2013年の暮れごろのことだった。それから私はほぼ毎日、家の近所にあった妻と私の派遣教会の早天祈祷に通い、祈りつづけた。おそらくその経験は、私が心から必要に迫られて毎日夜明けの祈りをおささげした、初めての体験だったといえる。そこまで来るのに、神学生になってから実に16年の月日を要した。 そうして私は日本に来たが、年齢にして40代だったそのとき、まるまる40代のほぼ毎日、私は早天祈祷をささげることをしなかった。何度となくチャレンジしようとはしたものの、多分に律法的な発想で、つまりしょせんは肉の発想で早天祈祷をしようとしていたから、肉体の弱さが霊の働きに大勝ちし、眠くてどうにもならなかったというわけだった。 しかし、今年、ペンテコステを前にして3週間の早天祈祷をするように導きをいただくと、私は休まずに毎日、お祈りをささげることができるようになった。それは、オンラインでつなぐことで、たとえ礼拝堂にはいらっしゃらなくても出席してくださる信徒の方と、早天の祈りにおいてつながるという、義務感、サボってはならないという危機感もさることながら、それ以上に、ともに祈る仲間が送られている喜びが、私の朝のお祈りにおいて背中を押したのだった。 事程左様に、祈りにおいては仲間の存在が大事である。私たちはともに集まるということをしていなくても、個人的に祈りの生活をしています、と、たやすく口にしてはいないだろうか? ともに祈ることの力を体験していただきたいが、それはともに集まって祈ることでしか体験できない。本日、特にメッセージのあとで祈りの時間をじっくり持ちたいが、ともに祈る恵みをそこで体験していただきたい。 さて、本文に戻るが、彼らが集まって祈っていると、そこに主のみわざが起こされた。2節。激しい風は列王記第一19章に、主のご臨在の現れとして登場する。その激しい風は岩さえも砕き、バアルの預言者たちに勝利してもなお敗北感に打ちひしがれていたエリヤに、主はご自身のご臨在と御力をお見せになった。そのほかにも旧約聖書にはところどころ、「激しい風」が登場するが、ひとつを除いてみなそれは偉大な主と関係を持っており、その多くは主がさばきを行われるさまをあらわしている。 そう、主が激しい風をもって臨まれるということは、人々にさばき主としてご自身を現されるということである。 ここで私たちは、ペンテコステの日にペテロが聖霊に満たされて語り、人々を悔い改めと信仰に導いたメッセージが、「神が今や主ともキリストともされた(この)イエスを、あなたがた(イスラエルの全家)は十字架につけたのです」(36節)というものだということに注目すべきであり、あなたがたの罪とはイエス・キリストを十字架につけることである、その罪のさばきを免れるにはイエスさまを信じて悔い改めなさい……ペテロの語るメッセージは激しいさばきをもってこの世をさばくさばき主であったが、そこから救われる道は悔い改めてイエスさまを信じ、その御名によってバプテスマを受けることであるとも語った。 さて、激しい風のような響きが家全体を覆ったと思ったら、今度はもっとすごいことが起こった。3節。……舌とは何だろうか? なぜ、聖霊降臨をあらわす炎のようなものを「舌」と言っているのだろうか? 私たちは「舌」というと、どういうイメージを持つだろうか? 「舌つづみ」「舌が肥えている」など、ものを味わうイメージだろうか? あっかんべーと相手を威嚇したり、照れ隠しにペロッと出したりするイメージだろうか? しかし、そういうイメージに左右されるのではなく、聖書が「舌」というものについて何と語っているかを知る必要がある。 今回のメッセージを準備するにあたり、私は聖書に「舌」という表現がどのように登場するか調べてみた。すると、新改訳聖書2017で「舌」と訳された語句が登場する節が、旧約聖書には86節、新約聖書には、今日の箇所を含めて19節登場することがわかった。合わせると105節になる。これはかなり多いのではないだろうか? 意味はいくつかある。ひとつは言うまでもなく、人間、または動物の肉体の器官としての「舌」である。これが旧約にかぎると(聖書解釈のしかた次第で数え方が変わることもあり得るが)8節。しかし、圧倒的に多いのは、「ことばを発する器官」としての「舌」、あるいは「ことば」その者を象徴的に指しての「舌」である。合わせると、旧約で86節のうち77節、新約は本日の箇所を除いた18節のうち実に16節が「ことば」と関係がある。104節のうち93節、実に89パーセント以上、10か所のうちざっと9か所は、舌とはことばを指す。 となると、聖書的文脈から、この使徒の働き2章3節の「舌」、彼ら祈る者たちに臨んだ火のような舌は「ことば」と深い関係があると考えるのが自然である。実際、そのできごとにつづいて、4節にあるとおり、彼らは御霊が語らせるままに語り出した。聖霊とはまさしく、ことばを授けてくださる主である。 ここで、さきほど、舌は舌でも「肉体的器官」と「ことば」のどちらにも分類しなかった2つのみことばを取り上げてみたい。それはイザヤ書5章24節と、同じくイザヤ書30章27節で、そのどちらも、さばき主である主の御怒りをを「火の舌」になぞらえている。5章24節では神の民に対するさばき、30章27節では諸国に対するさばきが宣告されているが、いずれも「火の舌」がさばくとある。 これだけではなぜ、主の御怒りを「火の舌」と表現しているかがわからない。しかし、イザヤ書5章24節に注目しよう。イスラエルが主の御怒りに触れたのは、「彼らが万軍の主のおしえをないがしろにし、イスラエルの聖なる方のことばを侮ったからだ」とある。つまり、このさばきは主のみことばと強い結びつきがあるのである。 さきほども少し触れたが、ペンテコステの日にペテロに授けられたメッセージは、神の子主イエスを十字架につけたイスラエルの民に対する警告のことばである。イエスさまとはどなただろうか? 神のみことばが人となってこの世界に来られたお方である。この方を信じる人には神の子どもとされる特権を与えてくださる。それは、神に反逆することを自ら選ぶゆえに神の御怒りのさばきを受けるにふさわしい私たちを、永遠に救ってくださり、神のものとしてくださる、ということである。 ヨハネの福音書3章16節から18節をお読みしよう。神のみことばはさばきではなく、愛である。しかし、このみことばを侮り、ないがしろにする、すなわちイエスさまを十字架につけるほどの罪人であってもなお、イエスさまに立ち帰ることをしないならば、そういう人は「御子に聞き従わない者」であり、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまるとみことばは語る(ヨハネ3:36)。 彼ら主の弟子たちが、国々からエルサレムに集まった在外ユダヤ人や異邦人からの改宗者たち、そんな五旬節の巡礼者たちそれぞれのいろいろな言語で語ったことは、異口同音に「神の大きなみわざ」であった。それが具体的になんであったかは聖書には書かれていないが、私たちは「神の大きな(最大の)みわざ」は、イエスさまが人となって来られたこと、このイエスさまを信じれば救われて、永遠のいのちをいただく、ということである。 ペンテコステの日に語ったのは、神の大いなるさばきであるとともに、神の大いなる救いであった。私たちの神は愛であるが、甘ったるい愛ばかり語ってもほんとうに伝道したことにはならない。あなたは愛されています、と語るのも結構だが、私たちが神を知るうえでほんとうに知らなければならないことは、私たちは神のみことばである主イエスを無視した罪人、主イエスさまを十字架につけたほどの罪人であり、なんとしてでもそれゆえに受ける罪の罰、死とさばきと滅びという罰から救っていただかなければと必死になること、そうして私たちは、すべての罪の罰を十字架の上で身代わりに背負ってくださるほどに私たちを愛してくださったイエスさまに出会い、イエスさまを受け入れ、永遠に救っていただくのである。 この、世の悪を明らかにされる聖霊をいただいた私たちは、世に対し、人々の罪を明らかにし、そこから救ってくださるイエスさまを、聖霊に満たされて語るべく召されている。十字架にかかられて死なれたが、しかし復活されたイエスさまは、弟子たちにおっしゃったように、私たちにおっしゃっている。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」そのとき私たちは火の舌、炎の舌のように燃えることばで、世の罪、人の罪を明らかにすることもあるかもしれない。しかし、その罪から救ってくださるイエスさまの福音も同時に語る。その福音を受け入れた人は、私たちのことばをとおして罪が赦される。 この、人の罪を赦し、永遠のいのちを得させるわざ、これぞ伝道、宣教である。その働きを私たちにさせてくださるお方、そのときどきにそれにふさわしい必要なことばを授けてくださるお方、それが聖霊である。 主よ、遣わしたまえ。語らせたまえ。今日はともに祈ろう。