愛を行う教会を目指して

聖書箇所;ヤコブの手紙2章1節~13節 メッセージ題目;「愛を行う教会を目指して」  現代人もそうだし、おそらく古今東西どの国や民族においてもそうだと思うが、私たちはえこひいきというものに敏感だろう。子どもなどでも、あの子のほうがボクよりもたくさんお菓子をもらった、なんてなったら、たいていは怒る。  今日のみことばの中で戒められていること、それは、人をえこひいきしてはいけない、ということである。えこひいきしてはいけない、とはっきり語っている以上、えこひいきは特にクリスチャンにはふさわしくないことである。  ただし、私たちにとって人をえこひいきするとはどういうことなのか、また、えこひいきしてはなぜいけないのか、ということも見てみたい。それが、私たちがえこひいきをすることで主のみこころを損なうことのないために必要なことである。以下、見ていきたい。  1節。私たちクリスチャンが人をえこひいきしてはいけないのは、私たちが栄光のイエス・キリストへの信仰を持っているからである。単にこの世の常識としてえこひいきがいけないのではない。私たちのうちに巣くうえこひいきという病巣は、イエス・キリストの栄光によって取り扱われ、取り除かれなければならないものである。  それがどういうことなのかは追い追い見ていくとして、ヤコブはこの問題となっているえこひいきというものについて、具体的な例を挙げている。2節と3節。  これをお読みになってどうお思いだろうか?「うわ、ひどい! それでも教会か!」と吐き捨てたくならないだろうか?   しかし、教会ならばどんな教会でもふさわしくないからとこんなえこひいきをしないなら、そう、それこそここに書いてあるような醜く露骨な差別をしないなら、そもそもこのようにヤコブが書く必要などなかった。この醜い差別、それは、私たちクリスチャンが平気で行なっていることである。  金持ちが入ってきたとする。そういう人は上座に通される。これはどういうことだろうか? それを理解するには、金持ちと教会の関係性に注目することである。  まず、金持ちは言うまでもなく、お金を持っている。そういう人が教会で歓迎されるのはなぜだろうか? 言うまでもない。献金をたくさんしてくれる可能性がとても高いからである。  この時代のヤコブが導いていた群れも恐らくそうだが、教会というところはお金がなく、お金を必要としているところである。そういう群れにお金持ちが入ってきたなら、そのようなお金持ちに献金してもらうことを期待してしまう。ときには、そういう人が教会に来たことを、クリスチャンたちは平気で、これは神さまからの祝福です、なんて口走ったりする。しかし、それでいいのだろうか?  また、金持ちはたいていの場合、この世的に名声を博している。中には取税人ザアカイのような嫌われ者もいるにはいるが、たいていの場合、金の多さとこの世での評判の高さは比例している。そのような金持ちが来るような教会ならば信頼していい、なんて、この世の人たちは思ったりして、金持ちはまるで広告塔のようになってしまう。それは、この世ではマイノリティ、弱者、迫害の対象になりがちな教会にとっては都合のいいことではあろう。しかし、それでいいのだろうか?  もちろんこれは、金持ちや有名人、有力者が教会に来てはならないということではない。そういう方々にも喜んで来てもらえる教会を目指すことも必要である。しかしその目的は、金持ちによって教会が富んだり、名声を博したりするためではない。  このみことばで、金持ちが「金の指輪」をしている人、ということに注目する必要がある。聖書の中で指輪をした人といえば、あらゆる権力者の中の権力者、王様である。新約聖書ではイエスさまのたとえ話の放蕩息子の父親である大金持ちも指輪をしているが、これとて王の王なる神さまの象徴と考えると、やはり王である。すなわち、王ほどの金持ち、権力者であろうとも、えこひいきしてはならない、というのである。これは大変なチャレンジをわれわれに突きつけているのではないだろうか?  では、もうひとつの「貧しい人」はどうだろうか?「いや、私はちゃんとケアしています」と言えるだろうか?   これからいうことはかなりストレートなものの言い方になるので、誤解しないで最後まで聞いていただきたいが、そもそも「貧しい人」を教会が歓迎しないのはなぜだろうか?  それは、身もふたもない言い方をすれば、貧しい人は献金をしてくれる見込みがない一方で、その生活を支えることが教会に求められている、すなわち、お金がかかるからではないだろうか?   しかし、それゆえに貧しい人の存在を嫌がるようでは、教会は弱い人たちの集まる場所という誇り高い呼び方などとても似合わない。  お金持ちを優遇し、貧しい人を追いやる。そういうえこひいきの態度に、聖書のみことばは鉄槌を下している。4節。それはれっきとした差別である。人をさばくことである。「いや、これは差別じゃなくて区別ですよ」とでも言うつもりだろうか?   しかし、聖書ははっきりと、えこひいきは差別という罪を犯していることだと断罪する。そもそも、貧しい人と金持ちの正体はどういうものだろうか? 5節から7節。貧しい人はこの世に身寄りがない。この世の居場所を失った人である。しかし、そんな孤独な彼らには頼るべきお方がおられる。それがイエスさまである。そして、彼らがイエスさまに頼るということは、イエス・キリストのからだなる教会に頼ることによって全うされる。そいうすることで彼らは信仰に富む者となり、ついには御国を受け継ぐにふさわしく整えられる。つまり、教会はほんらい、そんな貧しい人たちが主体であるべき共同体だということである。私たち教会を形づくるひと枝ひと枝の兄弟姉妹は、そのことを意識して信仰生活に励む必要があろう。  一方で、金持ちはどうか。このみことばでは、金持ちは3つのことをするという。まず、あなたがたクリスチャンを虐げる。あなたがたを裁判所に引いていく。あなたがたクリスチャンをクリスチャンにする尊いイエスさまの御名をけがす。  これが、この世の金持ちというもののすることである。なぜならばここでいう金持ちとは、この世の反キリストの悪い文化をつくる主体であり、その悪い世界を悪く保たせる存在だからである。そんな悪い反キリストの存在を有難がった結果、教会は貧しい人を排除しにかかるわけである。だが、それは彼らを辱めることであるとみことばは喝破する。  8節のみことばをお読みしよう。私たちは隣人を愛する存在として召されている。それも、自分を愛するように愛するのである。しかし、この「自分のように愛する」相手は、金持ち、愛しやすい人だけではない、貧しい人、愛しにくい人も当然含むのである。  それが主のみこころである。だが、私たちの語る隣人愛というものは、なんとエゴイスティックなものだろうか。  人をえこひいきして、愛しやすい人、愛したい人しか愛さない、愛したくない人には冷たい、それが、口では偉そうなことを言いながら、実際にはまるで行えていない、私たちの愛というものの実際である。  9節によれば、そういう者は違反者として責められる。早い話が罪人である。神さまの前に罪人としてさばかれるべき罪を犯していることになる。では、それはどんな罪だろうか? 10節、11節をお読みしよう。  なんとこれは「殺してはならない」という戒めを破る罪だというのである。そしてそれゆえに、律法のすべてを破る完璧な罪人だということ。そんな馬鹿な! とお思いか。しかし、「こんなお金もない、めんどくさい人なんて、教会からいなくなってほしい」などと、口にこそ出さなくても心の中で考えるならば、その人の存在を心の中で抹殺したということであり、それは神さまの御目から見れば、大事なご自身の子どもであるその貧しいを無視した、存在しない者として扱ったということ、それは存在を消すこと、すなわち殺人である。これは言い過ぎではない。兄弟に対し、「バカ」とか「能なし」とか言う者には地獄ゆきのさばきを下されるのが御父だとイエスさまがおっしゃっている、その基準を考えるべきである。  そう考えると私たちはどれほどの罪人か。しかし、私たちはここでもうひとつ考えるべきことがある。私たちの考えやことば、行いをさばいて地獄にふさわしいとささやくのは、サタンである。  では、神さまのさばきとはどのようなものだろうか? 12節。神さまの律法は自由をもたらす。どういうことか? 私たちは神さまの基準に従えば、死刑に処せられる究極の罪人である。  貧しい人をさげすみ、有力者をことさらにありがたがる私たちには、神さまから下される死のさばきを受けるにふさわしい。しかし神さまは、このような私たちのことを憐れんでくださった。  私たちの罪は律法で明らかにされたが、私たちは律法によって、神さまのあわれみにすがらなければもはや生きていけない存在だと教えられた。私たちを生かすのは律法を守り行うことではない。律法を守り行えないゆえに、私たちの身代わりに十字架の上でその死により、神の律法をまっとうしてくださったイエスさまを信じることである。そうすれば私たちは、律法を守り行えないゆえに下される神の怒り、のろいから完全に解放していただける。  そうしてイエスさまのゆえに、律法は呪いの律法ではなく、自由の律法となった。「守らなければならない」ものから、「守りたい、守れる」ものになった。神さまの愛、イエスさまの愛を思えば、貧しい人を顧みたい、積極的にかかわりたい、そうなれる。そうなる。  しかし、そうなれない自分を意識すると、神さまはこんな自分のことを怒っておられるのではないか、でもできない、13節のみことばにあるとおり、あわれみのない自分にはあわれみのないさばきが下されるに違いない、ああ、どうしよう、とならないだろうか? しかし、13節は最後まで読んでいただきたい。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇る。神さまのあわれみゆえに、神さまはイエスさまを十字架におつけになり、私たちの受けるべきさばきをすべて負わせられ、もはや私たちがさばかれることは一切ない。  この神さまの愛とあわれみを思う者となろう。そうすることが、私たちを愛に富む共同体へと育て上げる。えこひいきしない、主のからだらしい共同体を形づくれる。