教会が麗しいのは

聖書箇所;ピリピ人への手紙4:1 メッセージ題目;教会が麗しいのは  昨日、私ども一家は千葉にある東京基督教大学のオープンキャンパスに行ってきた。素晴らしい時間だった。それは、そこに集まった多くの人々、ことに若者たちは、みな、聖書が神のみことばであると信じ告白するクリスチャンたちであり、その聖徒の群れが献身を志して学ぼうとする姿に、希望を見る思いがしたからである。  このような場に赴くと、私たちクリスチャンは決して孤独ではない、普段どんなに離れていても、愛し合うべく召されていることを思わされる。しかしやはり、こうして教会に戻ってきて、聖徒のみなさまを前にすると、やっぱり、ここに帰ってきていいもんだ、と思う。  私たち教会は麗しい群れである。それは聖書が語っているとおり。今日の箇所から、私たちはなぜ麗しいのか、ともに学んでまいりたい。  今日の本文をあらためてお読みしよう。パウロはここで、ピリピ教会の兄弟姉妹のことをどのように呼び、また、どのようなことを勧めているだろうか?「私の愛し慕う兄弟たち」と呼んでいる。なんとも麗しい。  この「愛し慕う」の「愛」は、主の愛を現す「アガペー」から来ることばが用いられている。主が愛しておられるように、私はあなたがたを愛します、と語っているわけである。  主が愛されるように、教会の兄弟姉妹を愛する。このことは、主の愛を知る者だけができることである。主がどのように自分のことを愛してくださっているか知っているからこそ、そのように兄弟姉妹を愛したい。これぞ、私たちクリスチャンの歩むべき歩みである。  高校生の頃だからもう30年以上前のこと、私がまだ韓国語を学ぶ前、夏休みのある日、韓国から日本に短期宣教にやってきたチームに会う機会があった。日本語のできる通訳の方を介してコミュニケーションを取っていたのだが、みんなと会話しているうちに、そのチームの中の、私より少し年上の若い姉妹が私に向かい、日本語で、「わたしは、あなたを、あいします」と言った。みんな、きょとんとしている。それで、通訳の兄弟がその意味をみんなに訳してあげると、チームのみんなはどっと沸いた。真っ赤になった彼女はすかさず言った、「イエスさまの愛で愛します!」  こういうことが言えるのが、主の愛を知る者どうしの強みである。ともに主に愛されているどうし、主の愛がどんなにすばらしいか、わかっている。その愛をもって互いに愛し合う……この愛は、民族や言語や国境を越える。  またパウロは、ただ愛するだけではない、愛し「慕っている」と語る。慕うということは、そばにいたくてたまらない、ということ。これは、特別な関係である。  主が、ただ愛するにとどまらず、「慕う」関係へと導き入れてくださってはじめて、クリスチャンはパウロがピリピ教会の兄弟姉妹に対して告白するように、お互いのことを「慕う」ことができるようになる。 あの時の短期宣教の姉妹は、たしかに同じ主の愛を受けているどうし、「イエスさまの愛で愛します」くらいのことは言ってくれた。しかし、「慕ってくれていた」かというとどうだろうか? 慕うほどの特別な関係だったら、そのときかぎりの出会いで終わることなどなかったはずである。うちの妻の場合ならどうだろうか? はじめて出会ったのは今から18年前のことだが、たった2日顔を合わせただけで離ればなれになっても、それから後もしょっちゅう電話のやり取りをした。これは、お互いが慕っていたということ。  先週も申し上げたが、私はこの教会に赴任して、ちょうど10年経った。みなさまのお姿を見ていて思うことは、みなさんは教会をただ愛するのみならず、愛し慕っているのだなあ、ということ。10年前のことを振り返ってみると、教会から牧師招聘のお話をいただいたとき、私は韓国にいた。このお導きに感謝するとともに、自分は霊的面をはじめ、あらゆる面で整えられなければと願った。  そこで取り組んだことは、毎朝のように近所の教会の早天祈祷会に出席することだった。そうして祈れば祈るほど、私の中にも、教会を愛し慕う思いが確実に育っていった。今思えば、教会を愛し慕う兄弟姉妹のその愛に負けまいという思いを主がくださったのだろう。あれから10年、教会の兄弟姉妹を愛し慕う気持ちは増し加わるばかりである。  そういうわけで、愛することは主の愛の与えられたどうしならばだれでもできることであるが、慕うのは、特別な関係へと導き入れられている者がはじめてできることである。そこで私たちは、自分の身の周りの人間関係を考えてみたい。私たちには主にあって「愛し慕っている」といえる存在が、いったいどれくらいいるだろうか? もし、そのような存在がおられるならば、それはとても素晴らしいことである。その関係を大事にしていただきたい。ダビデがヨナタンとの友情をはぐくんだように、私たちも大事な人との慕い慕われる交わりをとおして、主にある愛をはぐくんでいきたい。 また、慕う対象がもしいるという実感がないならば、どうかその対象を心から慕い求めていただきたい。異性ではないほうがいい。男性は男性の、女性は女性の、それぞれ慕う対象を祈り求めていこう。  1節のつづきだが、パウロは、ピリピ教会のメンバーを指すことばに「私の喜び」という表現を用いている。ピリピ人への手紙は喜びの手紙と呼ばれている。それはピリピ教会こそがパウロの喜びそのものだったからである。  先ほども言ったことだが、私たちに愛し慕う対象がいたとする。しかし、その人に、「あなたは私の喜びです!」と言えるだろうか? ちょっとためらってはしまわないだろうか? しかし、パウロは心からそう言えた。  そう、パウロにとって、ピリピ教会は存在そのものが喜びだった。これはちょうど、親にとって子どもが、目に入れても痛くない、存在そのものが素晴らしいのと同じである。  パウロは結婚していなかったというのが定説だが、ということは、子どももいなかったことになる。しかしパウロは、実の親が子どもに注ぐのと同じように、心からの愛情をピリピ教会に注いだ。  ピリピ教会の存在そのものが、パウロにとって限りなく愛おしかったわけである。パウロはしばしば、自分が信仰に導き、訓練した信徒について「産んだ」という表現を用いている。産む、ということは、出産を経験された婦人の方ならどなたもご存知のとおり、とても大変なことであるが、いざ生まれると、その苦しみは途方もない喜びに変わる。そしてふつう親ならば、喜んで子育てをする。産むだけではなく、子育ても大変な労力を必要とするが、親ならばその労を惜しまない。それは、子どもの存在そのものが喜びだからである。  パウロも迫害を逃れつつ労苦して人を信仰告白に導き、どんな迫害にも耐えられるだけの信仰を持つように鍛え上げた。それは、主を愛していたからであるし、主から自分に託された羊の群れがたまらなく愛おしかったからである。  羊は弱いままでいてはならない、蛇のさとさと鳩の素直さを身に着けさせ、狼の群れにも勝てるようにと、羊の群れをこの上なく強力に育て上げた。それは、惜しみなく愛情を注いで、子どもを強い子に育てようとする親心そのものである。  そしてパウロはこのピリピ教会を、ただ愛し慕い、喜ぶにとどまらない。「冠」と呼んでさえいる。  頭にかぶるものは、その人が何者であるかを象徴します。プロ野球のチームの帽子ならば、そのチームのファンであることを誇りにしている人という意味合いを持ちます。YGマークの帽子をかぶれば、その人は巨人ファンである。ヒジャブと呼ばれるスカーフ状の布で頭部をおおう女性は、ムスリムないしはイスラム圏に住む女性ということになる。 その中でも、冠だったらどうだろうか? 冠をかぶる資格のある人は、王さまのような位の高い人である。あるいは、マラソンの勝者のような栄光あふれる人である。「栄冠」というぐらいである。彼らは間違っても、王座についているときや、表彰台に上るときのような、晴れの舞台で庶民のかぶるような帽子をかぶってはならない。 また冠は、栄光ある人の頭に置かれるからこそ価値があります。王冠とか月桂冠といった冠は、平凡な人かぶってはならない。 ここでパウロは、ピリピ教会を「冠」と呼んでいる。なぜパウロは彼らのことを「冠」と呼んだのだろうか? いま、マラソンの勝者に与えられる「月桂冠」のことを例に出したが、そもそも、われら終わりの日の勝者のことを「月桂冠」を授与されるスポーツ選手に例えたのは、パウロである。コリント人へ第一の手紙、9章の24節から27節をお読みしよう。 ……パウロは、朽ちない冠を受けるためにあらゆる自制をし、目標の定まった闘いをすると述べている。何のために自制するのだろうか?  コリント教会やピリピ教会のような教会を形成するために、その一方で、その指導者としてふさわしくあるように自制するのである。また、何を目標とするのだろうか? 聖徒を整えて奉仕の働きをさせ、教会全体をキリストの満ち満ちた身たけにまで成長させる、ことばを変えれば、キリストの似姿へと成長させるという目標である。 その教会の成長という目標のために、あらゆる闘いも辞さない。これぞ、牧者のあるべき姿である。そのようにしてこの世の闘いを闘いおおせて、終わりの日に主の御手から受けるわが勝利の冠、それが、あなたがた教会だというわけである。私たちは終わりの日に勝利の冠を受けるということをみことばから学んでいるが、その冠がどんなものか、イメージできるだろうか? パウロは、それは教会の兄弟姉妹であるとはっきり語った。 救い主キリストを宣べ伝えて人を永遠のいのちに導き、永遠のいのちの素晴らしさを生涯体験すべく訓練する。そのようにして、天国の民、キリストの似姿とされた人たちの存在、それが、世の終わりに永遠に王とされる者にとっての、朽ちることのない栄光なのである。 私たちはお互いのことを「冠」と信じて教会生活を送っているだろうか? お互いがお互いにみことばの恵みを語り、成長させられ、ともにキリストの似姿へと変えられていくならば、この教会の兄弟姉妹こそ、私たちを王ならしめ、勝利者ならしめる「冠」である。お互いがお互いにとって、とても大事な存在なのである。 パウロは、以上述べてきたように、ピリピ教会の信徒たちは何よりも大事な存在だからこそ、「主にあって堅く立ってください」と勧めている。教会は、締まりも必要であり、秩序も必要である。創造主なる神もキリストも認めたがらないこの世にあって、キリストが生きておられること、信じ受け入れるべきお方であることをしっかりと証しする使命が教会に与えられている。 そして、パウロはどんな思いをこめて、「私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ」と、ピリピ教会に呼び掛けたのだろうか? それは、自身が告白したとおり、キリストが心のうちに生きておられるゆえに、キリストの心を持ってそう呼びかけたのだった。 そう、私たちのことを「わたしの愛し慕う兄弟たち、わたしの喜び、冠よ」と呼んでくださるのは、イエスさまである。それほど私たちはイエスさまに愛されている。主は私たちのことを、ご自身のひとみのように守ってくださる。そして、可愛い子には旅をさせよということわざのように、冒険の生涯を通して私たちを鍛え、キリストの似姿へと変えてくださる。終わりの日には、私たちが王の王なるイエスさまを冠として飾る。 そして私たちもまた、心のうちにキリストが生きている存在である。だからこそ私たちもお互いに対して心から、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ! と言うことができる。なんと麗しいことだろうか。 私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。そうお互いに呼びかけ合う、それが心からの告白となる、その同じ思いで一致して、今日も、そしてこれからも、ともに歩んでいこう。

ことばでしくじる私たち

聖書箇所;ヤコブの手紙3章1節~12節 メッセージ題目;「ことばでしくじる私たち」  このところ私たちは、政治家の「ことば」に注目するニュースに接している。せんだっての選挙の候補者だった人の発言が高飛車ではないかとか、どこかの国の大統領が、よりにもよって間違えてはいけない人物の名前を何度も間違えたとか……。こういうニュースに接すると、政治家のような大集団のトップでかじ取りをする人にとって、いかにことばというものが大事かを痛感する。  しかし、こういうニュースはまた、私たちのことも考えさせられる。特に、今日のみことばと考え合わせよう。私たちは政治家でなくても、ことばはやはり大事である。1節を見ると、多くの者が教師になってはならない、と語る。それは、「より厳しいさばきを受ける」からというわけである。かつての新改訳聖書では、この箇所は、「格別厳しいさばきを受ける」と訳している。  「懲らしめ」ではない。「さばき」である。それは何によるものであるか。2節にあるとおり、「ことばで過ちを犯す」ことによる。そこからわかることは、教師の犯すあやまちは、もっぱらことばによるものである、ということ。  教師は何をする人なのだろうか? みことばを解き明かす人である。しかし、みことばをふさわしく解き明かさないならば、その影響のもとにある群れは異端になったり、カルト化したりする。つまり、教師の悪さは教師一人でとどまるものではなく、その語ることばを通じて群れ全体が悪くなるわけである。特にその群れが本来、教会、すなわちキリストのからだとして健康に保たれるべきところ、大いに病んでしまっているならば、主はその責任を教師なる牧者に問われる。  私も牧者の端くれであるが、この水戸第一聖書バプテスト教会という群れを担当させていただいている者として、その責任は重い。ほんとうに、語ることばには慎重にならざるを得ないが、しかしそれでも、悲しむべきことにことばで失敗をすることもあるものである。そしてそれは厳しいさばきに値するものだというこのみことばをお読みするとき、震え上がる思いである。  しかし、2節のみことばは別の側面も語っている。それは、「私たちはみな、多くの点で、特にことばで過ちを犯すものである」ということである。もし、ことばで過ちを犯すことがなかったならば、どうだろうか? その人は完璧だというわけである。  ことばというものは、からだの中でもとりわけ小さな器官である舌を用いて話される。3節、4節を見てみると、大きな家畜である馬も、大勢の人や大量の荷物を載せられる船も、ごく小さなものによって御することができるように、舌も人間を制御する器官であることがわかる。  だが、その舌とはどういう器官なのか? 私たちが思うほど、私たちの柔和な考えに従順ではない。5節、6節を見よう。舌とは、火であると語る。火が森についたら、火を消し止めないかぎり森は丸焼けになる。また、前に進むべき人生の車輪を焼いて進めなくしてしまう。柔和どころか、激しすぎる。破壊しかもたらさない。それが、舌というもの、すなわち、私たちの発することばというものである。  7節のみことばが語るとおり、人間は地を従えている存在である。だが、8節が語るとおり、そんな人間にも従えることができないものが舌である。それも、少しも休むことをしない悪であり、死の毒に満ちている、と語る。なんと恐ろしいものを私たちは持っているのであろうか。  その、死の毒に満ちた舌を野放しにするわれら人間の行動の一例が、9節、10節に書かれている。このヤコブの手紙の読者はクリスチャンだから、当然、主であり父である神さまをほめたたえる。素晴らしいこと、立派なことである。だが、そのように神さまをほめたたえるきよくあるべき存在が、賛美をするのと同じ口をもって、神さまの似姿につくられた人間を呪うというわけである。それは、あってはならないことだとヤコブは警告する。だが、私たちはそういう、あってはならないことを普通にしてしまうのである。  このことをヤコブは、11節、12節のように説明する。  要するに、賛美と呪いを同じ口から出すという行為は、そもそも自然の摂理に反している、というわけである。あってはならないこと、ありえないこと。  だが、そう言われたからと、私たちはここまでこのメッセージを聴いて、「わかりました! では、神さまのみこころにかなうように、これからは語ることばに気をつけ、みこころにかなったことばを語るようにします!」と決心するだろうか? しかし、はっきり申し上げたい。その決心は無駄である。  なぜだろうか? それは2節以下で語られているとおり、私たちはことばで過ちを犯すものだということは、もはや動かしがたい事実だからである。  しかし、それでもヤコブは、「賛美と呪いが同じ口から出ることは、あってはなりません」と語る。つまり、ことばで過ちを犯すことはもはや宿命で、一切どうにもならないことではない。そんな私たちであっても、必ず賛美のみを語れるようになれるからこそ、ヤコブはあえてこのような不可能に思えること、2節のみことばに照らせば矛盾のようなことを、私たちにチャレンジしているのである。  日本のことわざに「人を呪わば穴二つ」というものがある。人を呪ってはならないと戒めることわざだが、この「穴」とは墓の穴であり、人に害を加えようとして墓穴を掘る者は、その報いが自分にも及び、自分の墓穴を掘らなければならない、という意味だそうである。  それでは、日本のことわざではなくて、イエスさまなら、人を呪うことを何とおっしゃっているだろうか? マタイの福音書5章21節、22節にあるとおりである。人を呪ったならば、殺人罪のさばきを地獄に落ちて受けなければならない、ということである。みなさま、人を呪うことはどれほど私たちの人生にあふれているだろうか?「あの人さえいなくなったらいいのに」と思うだけでも立派に「呪い」、すなわち、神さまがご覧になるならば、「殺人罪」を犯すことである。人を馬鹿にすることもそう。殺人罪がなぜ罪なのか、それは、神さまのかたちに造られた人を抹殺すること、そのようにして、神さまのみこころを抹殺することだからである。  それが私たちである。私たちはそうだとすると、何度地獄に堕ちなければならないことだろうか? そんな罪人の私たち、地獄こそがふさわしい私たちは、どうしなければならないだろうか?  救いの道はただひとつしかない。イエスさまにつながることである。イエスさまは、どんなに頑張っても神さまの義の基準、聖さの基準に遠く及ばない、だから地獄行きこそがふさわしい私たちのために、私たちに注がれる御父なる神さまの怒りを十字架の上でことごとく受け止め、私たちを完全に赦してくださった。私たちにできなかったこと、すなわち、神さまの義をまっとうすることを、イエスさまは私たちの身代わりに十字架の上で成し遂げてくださり、私たちはイエスさまの十字架のみわざを信じ受け入れることによって、みことばを完全に成し遂げてくださったイエスさまとひとつになり、私たちもみことばを完璧に守り行なったと神さまに認めていただいた。そう、救いの主体は私たちの努力の行いにあるのではない。どこまでも神さま、イエスさまにある。  そのような私たちはイエスさまというぶどうの木につなげていただいた枝である。ご存じの方も多いと思うが、ぶどうの枝というものは実をつけないかぎり、何の役にも立たない。友達にぶどう農家の人がいるのだが、話を聞くと、ぶどうの枝というものはほんとうに役に立たないらしい。寒いときに集めて火をつけても、暖を取れるほどの火も燃えないそうだ。だから、ぶどうの枝は木を離れては役に立たない。役に立つときがあるとすれば、それはただひとつ、木につながっているときだけ。木につながっていれば、実を結ぶ。豊かに実を結ぶ。  イエスさまはおっしゃる。わたしにとどまりなさい。このみことばは、十二弟子という、もう充分にイエスさまにとどまってきた人たちに対しておっしゃったおことばである。十二弟子にして「わたしにとどまりなさい」と言われなければならなかったならば、いわんや私たちはどれほど、イエスさまにとどまらなければならないことだろうか。  イエスさまにとどまるということは、弟子たちにしてあえてそう命じられなければできなかったことのように、私たちも意識してとどまることが必要である。よく、「神さまが私たちとともにおられるように」と私たちは祈る。立派なことである。しかし、私たちはどこかで、「神さまがともにおられたら都合が悪い」となっているような時はないだろうか?   むしろ私たちは、「神さまに近づく」ことが必要である。神さまは必ず私たちを迎えてくださる。そのようにして、神さま、イエスさまにとどまることが、私たちにとって必要である。これはいのちの営みである。  だから、早天祈祷やディボーションや聖書通読といったものを、それをする自分は努力できたから偉い、などと考えるようでは、まだその人の発想は自己中心である。どうしても神さまにつながらなければならないからつながる、それでこそ私たちの日々の神さまとの交わりは本物となる。  そのようにしてイエスさまにとどまることによって、私たちは初めて、ことばが整えられていく体験をする。イエスさまに近づくとどうなるか? みこころにかなったことばを優先的に話せるようになるだけではない。悪いことばの飛び交うような、この世的な楽しみの場からも距離を置きたがるようになる。そうなると私たちのことばの生活、ことばの習慣が、悪いものによって損なわれることがなくなっていく。  ヤコブの用いたたとえにもう一度注目しよう。甘い水を出す泉は、甘い水を出すから価値がある。先週、日本のある町で産出するミネラルウォーターから、発がん性物質のPFASが検出されたということで問題になったが、名水のはずがからだに悪いものを含んでいてはたまらない。しかしそれは、水源が公害という、悪い環境に置かれていた、ということである。  甘い水はイエスさまが内から湧き上がらせてくださるいのちの水である。御霊の水である。ヨハネの福音書7章37節、38節でイエスさまがお語りになっているとおりである。この水が自分を潤し、人を潤すのである。そう、キリストのからだなる教会という群れの教師、牧者が、まず自分こそが優先的にみもとに近づき、御霊の水に潤されなければならない理由がここにある。自分が潤されて、人を豊かに潤すのである。  それが悪い環境に置かれたら、苦い水になる。イエスさま以外のものにつながっていたら、その泉がいつ汚され、苦い水を出すようになるかわかったものではない。だから、そのように自分を汚すものから距離を置かなければならないのである。私は常日頃、牧師が趣味を持つことは、パウロが病気がちのテモテに「少量のぶどう酒を用いなさい」と言ったように、とかく生真面目、固くなりがちな牧師の生活に潤いを与える、つまり、ひいては信徒たちに潤いを与えるうえで必要なことだと言っているが、それも程度と内容による。人に言えないような趣味は持つべきではないし、牧会そっちのけで趣味に没頭するのもだめである。さもなくば泉は苦くなり、人を潤すべきことばは荒れることになる。  もうひとつ、木はふさわしい実をつけてこそ、ということで、いちじくの木はオリーブの実をならせない、ぶどうの木はいちじくの実をならせない、とも語っているが、いちじく、オリーブ、ぶどう、すべて、神の民イスラエルに注がれた主の恵みを象徴する実である。しかし、木がまったく別の木の実をつけたならばめちゃくちゃ、第一ありえないこと。この中でも「ぶどう」の木は、ほかならぬイエスさまがご自身を指して象徴された木。私たちがイエスさまというぶどうの木にくっついて、とどまって結ぶぶどうの実は、イエスさまのみことば、人を生かす、神の口から出るひとつひとつのことばである。そう、人は神の口からであるひとつひとつのことばによって生きる、とイエスさまはおっしゃったが、そのことばを人に語って聞かせ、人を生かすのは、やはり人のすることである。  しかし、この人を潤し、人にみことばを食べさせて生かす働きは、牧師だけのすることではない。ここにいらっしゃるみなさまにはできるし、積極的にしていただきたい。分かち合いはぜひ、神さまの恵みの分かち合い、みことばの分かち合いを優先的にしていただきたい。それによって私たちは、神さまの御前にふさわしいことばが語れるようになる。  舌はもともと、みことばが語るとおり、よいものさえも焼き尽くす火であった。他人であれ、自分であれ、人を呪い殺す死の毒に満ちたものであった。しかし主は、このような私たちのことばをきよめてくださった。あとは私たちがイエスさまにつながり、とどまり、みこころにかなったことば、神の愛に満ちたことばを語らせていただくように、祈っていこう。

信仰が死なないために

聖書箇所;ヤコブの手紙2章14節~26節 メッセージ題目;信仰が死なないために  教会に備えつけの『オペレーション日本祈りのガイド』はとてもすぐれている。日本中のキリスト教会にまつわる施設の情報が都道府県ごとに掲載されていて、各都道府県のためにとりなして祈るうえでとても役に立つ。しかし、そうして各都道府県の祈りの課題を見てみると、病院のような医療関係、老人ホームのような福祉関係、幼稚園や学校のような教育関係と、クリスチャンの働きが実に多岐にわたっていて、しかもそれが、病気の人やお年寄りや子どものような、社会的に見れば「弱者」の働きに集中していることがわかる。  先週の木曜日、茨城キリスト教学園にお伺いして、もと玉川聖学院中学高校の校長の水口洋先生という方のお話をお聴きした。そこで教えられたことのひとつに、日本の教会は歴史的に、病気の人や障碍者や子どもや女性といった社会的弱者のための教育や医療、福祉に力を入れることで、その領域になかなか光を届けることができていなかった世の中の信頼を勝ち得てきた、ということがあった。いま、多くのそのような働きがブランド化、形骸化してしまったという嘆かわしい現実にも触れてくださったが、本来、私たちキリスト者の取り組むべき働きはそういうもの、社会的弱者に関わる愛の実践をすることだと、はっとさせられたものだった。  この教会は多くの方が、医療、教育、福祉に関わっている。それはこの教会の特徴と言えないだろうか。言い換えれば、本来そのようにして世の中に対し、生ける神さま、弱い者の味方であるイエスさまを証しすべきキリスト教会の本来の使命を果たしうる教会、それが私たちの群れではないだろうか。  そんな私たちだが、ほんとうの意味で神の愛を実践するために、どのような実を結ぶことが神さまから期待されているだろうか。本日はそのことをみことばから学んでみたい。  14節。これは、ヤコブの手紙全体を貫くテーマのようである。しかしこれは、信仰より行いが大事であると説いているわけではない。信仰があるというなら行いがあってしかるべきである、と語っているわけである。  私たちは行いで神さまに認められようとしてはならない。しかし、私たちのすべきことはイエスさまが完全に成し遂げてくださった。私たちはイエスさまを信じ受け入れ、ひとつとなることによって、私たちに求められている律法の要求が全うされるのである。私たちにできないことは、イエスさまがしてくださった。  それが信仰ということであるのだから、イエスさまのみこころのとおりに振る舞えていない、つまり、行いの実を結んでいないということは、おかしいことなのである。「自分はイエスさまを信じているから、何をやっても許される!」と言うことができないのは、だからなのである。  しかし、人を愛されるイエスさまとひとつになるゆえに、隣人を愛する愛の実を結ぶべき私たちが、しばしばこんなことを言わないだろうか。15節と16節。  中身が伴わないで口だけ。なんとも冷たいことばだと思うだろう。しかし、これと同じことを、私たちはふつうに、平気でやっているのである。ほんとうである。それは、「祈っています」とたやすく口にすることである。  たとえば、社員を採用する企業は、俗に「お祈りメール」と呼ばれるものを、選考で落とした応募者に送る。「残念ながら、ご期待に添いかねる結果となりました……」云々。そして最後に、「末筆になりますが、○○さまのこれからのご活躍を心よりお祈り申し上げます」で締めくくる。しかし、ほんとうにその人の活躍を祈っているならば、ちゃんと採用すべきではないだろうか? 人事部の人のその「祈り」など、むなしい、というか、偽善的、というかしかない。  同じことを私たちクリスチャンもする、とこのみことばは警告している。私たちは祈る。それは結構なことだ。  しかし、祈っているとおりにその貧しい人が食べるものを食べ、着るものを着るには、身銭を切ってその人のために使わなければ、嘘である。その人に食べものや着るものが天から降ってくることを求める以前に、なぜ自分の食べものや着るものを差し出さないのか。奇蹟を求めるのもいいが、神さまはまず日常生活の中で愛のやり取りをするところから働かれることを忘れてはならない。  しかし私たちは、実際の自分自身を見てみよう。私たちの目の前、身の回りには、困っている人、貧しい人がたくさんいないだろうか? そういう人のために何もできていないわが身であることを、私たちは気づかされないだろうか? そんなとき、私たちは何と愛のないものであるかと悟らされ、がっかりさせられないだろうか?  ここに私たちは、イエスさまのあわれみを求める必要があることを思い知らされる。主よ、あなたはこんな私を愛してくださっているのに、私は周りのだれのこともまともに愛せません。私には愛がありません。こんな愛のない私を助けてください。その祈りをささげるとき、主は私たちに、少しでも愛する力を私たちに与えてくださる。  私たちの信仰が死なないためにすることは、脅迫的に行いに走ることではない。まずはそのように、自分は愛の実を結ぶ信仰がないものであることを認め、主の御前に降伏し、ただあわれみを求めることである。主はそこから私たちの信仰を生かしてくださる。  18節をお読みしよう。信仰と行いというものは、しばしば対照的なものとして描かれる。「信仰か、行いか」、そういう二元論のような捕らえ方を、われわれ人間はついしてしまう。クリスチャンであってもそういう傾向がある。  パウロが書簡の中で語っている、恵みのゆえに信仰によって救われた、行いによるのではない、ということは、誤解してとらえてしまうと、行いが必要ない、となってしまう。しかしそうなってしまうなら、このただでさえ悪い世界において、私たちキリスト者はイエスさまがおっしゃるとおりの、世の光、地の塩としての役割を、何一つ果たせないことになってしまう。  そういうことだから、世にあるあらゆる宗教の中には、世直し的な奉仕にいそしむことで神的存在に認められようという教えを説く群れも現れる。こういう群れは押しなべて世の中の評判がいい。なにしろいいことをボランティアでしてくれているからである。しかし、いかにいいことをしていたからといって、ほんとうの神さまを信じ従っているわけではない以上、神さまがそういう人たちの善い行いを認めてくださるとはかぎらない。それと同じようなやりかたで、神さまに認められようとすることを私たちキリスト者もしてはいないか、ということは、つねに問われるところでないだろうか。  行いによって自分の信仰を見せる、ということは、そのどちらでもない。なぜならば、行いの実を結ぶ信仰は、人に由来するものではなく、神さま、イエスさまに由来するものだからである。私には一切できない善い行いを、この堕落しきった私のことを完全に救ってくださったイエスさまがさせてくださる。そのように、もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きてくださっているほどに、私のことを救ってくださり、私と完全に一つとなってくださっている。この境地から、行いによって自分の信仰を見せることができるのである。  19節はこの流れの中で、唐突に挿入されているような印象を受ける。しかし流れに従って読むと、これは唐突ではない。悪魔は唯一の神になり代われない。そんな悪魔は、少しでも永遠の滅亡をともにする人間が現れるように、すでに救われていて、もっと多くの人を救いに導こうとするクリスチャンたちの力を削ぐことに必死になっている。そこで悪魔はこういう作戦を用いる。悪魔はクリスチャンたちに、神はおひとりだと信じるほどの立派な信仰を持ちさえすればそれで万事が解決したと思わせる。  間違っても、信仰が行いの実を結ぶようなイエスさまとの交わり、聖霊の満たしなど体験させない。聖霊の満たしと呼びながらも、そのじつ何の愛の実も結ばない、世の中に対して毒にも薬にもならないことにだったら集中させる。  言ってみれば、クリスチャンをたんなる「宗教」の信者にするか、「カルト」の熱狂的な分子にするかして、けっして「世の光、地の塩」にはさせない。それが、神がおひとりであることに身震いする悪魔が、人間、わけてもクリスチャンに対して取る戦略である。  20節以下を見てみよう。行いのない信仰がむなしい代わりに、行いのある信仰がどんなに意味があるかを、ヤコブは旧約聖書の2つの実例から挙げている。まず、21節から23節。アブラハムが神を信じた、その信じたことはいかなる行いに現れたかについて語っている。  一見すると、子どもを犠牲にして殺すようなことが信仰の行いとして尊い、と受け取ってしまわないだろうか。しかしこれは、新約聖書のヘブル人への手紙11章17節から19節を合わせて読まないと分からない。  つまり、アブラハムの行動は、神さまはイサクから子孫を生まれさせてくださるという約束を受け取っている以上、イサクは必ず生きて子孫をもうけると信じ切っていたゆえにできたことであった。そしてアブラハムのこの行動は、はるかのちに御父なる神さまがひとり子イエスさまを十字架におつけになり、そしてよみがえらされたことに通じる。なんと、イエスさまの十字架の贖いと復活さえもはるかに望み見た行いとなった。つまり、アブラハムの行いはどこまでも信仰によること、信仰ゆえに行いに出られたわけだった。  もちろん、私たちはアブラハムのこの犠牲を見るとき、自分にはとてもそんなことはできない、と思うしかないだろう。だからこそ私たちは、私の中にはこのような行いができる何かなど、何一つないことを認めるしかない。ただ、その犠牲は御父なる神さまが、イエスさまを十字架につけることによって成し遂げてくださった、そのイエスさまと私がひとつにしていただいていることで、私たちは少しでも愛の行い、犠牲の働きができるようにしていただいている、そうして主に用いていただいている、そのことに感謝するばかりである。  もうひとつのケースとして、ヨシュア記に登場する遊女ラハブのことが書かれている。エリコに偵察に来たイスラエルの兵士をエリコの軍からかくまった女性である。このケースの場合、ラハブのいのちをエリコ聖絶から助けたのは、イスラエルの兵士たちであった。しかし、ラハブがイスラエルの兵士をかくまったのは、まことの神さまに対する信仰のゆえであったことを、やはりヘブル人への手紙の11章は証ししている。お従いすべきはまことの神さまである、このお方によればやがてこの邪悪な都市は崩され、滅びる、なんとか助からなくては、そういう思いが持てたのは、まことの神さまに対する信仰による。ほんとうに信じるべきお方がだれかをわかっていたゆえに、だれの味方になるべきかが判断できた。  26節のみことば。このみことばは、人間のからだを信仰、霊を行いになぞらえている。普通なら逆になぞらえたくならないだろうか?   信仰は霊的なものであり、行いは人間の肉体を用いてするものだからである。しかし、この箇所を見ると、逆である。つまり、からだと霊、信仰と行いは、切っても切り離せないものだということである。  さて、この一連のみことばから、私たちは行いがとにかく必要だということを教えられるが、「だから行いを大事にします!」では、苦しくなるばかりである。神さまはそんなことを私たちに望んではいらっしゃらない。私たちは「行えない」、そのことを徹底して認める必要がある。行えるのはただ一人、イエスさまである。このイエスさまと私たちはひとつにならせていただいている、ゆえにそこから、少しでも行いの実が結ばれ、主のご栄光をあらわすものとして用いていただける……このことのゆえに感謝しよう。  信仰が死なないために。行おうと努力しなくていい。まず、すべてを成し遂げてくださったイエスさまとひとつにしていただいてることに感謝しよう。いまこのとき、イエスさまとの交わりに入れていただこう。