信仰が死なないために
聖書箇所;ヤコブの手紙2章14節~26節 メッセージ題目;信仰が死なないために 教会に備えつけの『オペレーション日本祈りのガイド』はとてもすぐれている。日本中のキリスト教会にまつわる施設の情報が都道府県ごとに掲載されていて、各都道府県のためにとりなして祈るうえでとても役に立つ。しかし、そうして各都道府県の祈りの課題を見てみると、病院のような医療関係、老人ホームのような福祉関係、幼稚園や学校のような教育関係と、クリスチャンの働きが実に多岐にわたっていて、しかもそれが、病気の人やお年寄りや子どものような、社会的に見れば「弱者」の働きに集中していることがわかる。 先週の木曜日、茨城キリスト教学園にお伺いして、もと玉川聖学院中学高校の校長の水口洋先生という方のお話をお聴きした。そこで教えられたことのひとつに、日本の教会は歴史的に、病気の人や障碍者や子どもや女性といった社会的弱者のための教育や医療、福祉に力を入れることで、その領域になかなか光を届けることができていなかった世の中の信頼を勝ち得てきた、ということがあった。いま、多くのそのような働きがブランド化、形骸化してしまったという嘆かわしい現実にも触れてくださったが、本来、私たちキリスト者の取り組むべき働きはそういうもの、社会的弱者に関わる愛の実践をすることだと、はっとさせられたものだった。 この教会は多くの方が、医療、教育、福祉に関わっている。それはこの教会の特徴と言えないだろうか。言い換えれば、本来そのようにして世の中に対し、生ける神さま、弱い者の味方であるイエスさまを証しすべきキリスト教会の本来の使命を果たしうる教会、それが私たちの群れではないだろうか。 そんな私たちだが、ほんとうの意味で神の愛を実践するために、どのような実を結ぶことが神さまから期待されているだろうか。本日はそのことをみことばから学んでみたい。 14節。これは、ヤコブの手紙全体を貫くテーマのようである。しかしこれは、信仰より行いが大事であると説いているわけではない。信仰があるというなら行いがあってしかるべきである、と語っているわけである。 私たちは行いで神さまに認められようとしてはならない。しかし、私たちのすべきことはイエスさまが完全に成し遂げてくださった。私たちはイエスさまを信じ受け入れ、ひとつとなることによって、私たちに求められている律法の要求が全うされるのである。私たちにできないことは、イエスさまがしてくださった。 それが信仰ということであるのだから、イエスさまのみこころのとおりに振る舞えていない、つまり、行いの実を結んでいないということは、おかしいことなのである。「自分はイエスさまを信じているから、何をやっても許される!」と言うことができないのは、だからなのである。 しかし、人を愛されるイエスさまとひとつになるゆえに、隣人を愛する愛の実を結ぶべき私たちが、しばしばこんなことを言わないだろうか。15節と16節。 中身が伴わないで口だけ。なんとも冷たいことばだと思うだろう。しかし、これと同じことを、私たちはふつうに、平気でやっているのである。ほんとうである。それは、「祈っています」とたやすく口にすることである。 たとえば、社員を採用する企業は、俗に「お祈りメール」と呼ばれるものを、選考で落とした応募者に送る。「残念ながら、ご期待に添いかねる結果となりました……」云々。そして最後に、「末筆になりますが、○○さまのこれからのご活躍を心よりお祈り申し上げます」で締めくくる。しかし、ほんとうにその人の活躍を祈っているならば、ちゃんと採用すべきではないだろうか? 人事部の人のその「祈り」など、むなしい、というか、偽善的、というかしかない。 同じことを私たちクリスチャンもする、とこのみことばは警告している。私たちは祈る。それは結構なことだ。 しかし、祈っているとおりにその貧しい人が食べるものを食べ、着るものを着るには、身銭を切ってその人のために使わなければ、嘘である。その人に食べものや着るものが天から降ってくることを求める以前に、なぜ自分の食べものや着るものを差し出さないのか。奇蹟を求めるのもいいが、神さまはまず日常生活の中で愛のやり取りをするところから働かれることを忘れてはならない。 しかし私たちは、実際の自分自身を見てみよう。私たちの目の前、身の回りには、困っている人、貧しい人がたくさんいないだろうか? そういう人のために何もできていないわが身であることを、私たちは気づかされないだろうか? そんなとき、私たちは何と愛のないものであるかと悟らされ、がっかりさせられないだろうか? ここに私たちは、イエスさまのあわれみを求める必要があることを思い知らされる。主よ、あなたはこんな私を愛してくださっているのに、私は周りのだれのこともまともに愛せません。私には愛がありません。こんな愛のない私を助けてください。その祈りをささげるとき、主は私たちに、少しでも愛する力を私たちに与えてくださる。 私たちの信仰が死なないためにすることは、脅迫的に行いに走ることではない。まずはそのように、自分は愛の実を結ぶ信仰がないものであることを認め、主の御前に降伏し、ただあわれみを求めることである。主はそこから私たちの信仰を生かしてくださる。 18節をお読みしよう。信仰と行いというものは、しばしば対照的なものとして描かれる。「信仰か、行いか」、そういう二元論のような捕らえ方を、われわれ人間はついしてしまう。クリスチャンであってもそういう傾向がある。 パウロが書簡の中で語っている、恵みのゆえに信仰によって救われた、行いによるのではない、ということは、誤解してとらえてしまうと、行いが必要ない、となってしまう。しかしそうなってしまうなら、このただでさえ悪い世界において、私たちキリスト者はイエスさまがおっしゃるとおりの、世の光、地の塩としての役割を、何一つ果たせないことになってしまう。 そういうことだから、世にあるあらゆる宗教の中には、世直し的な奉仕にいそしむことで神的存在に認められようという教えを説く群れも現れる。こういう群れは押しなべて世の中の評判がいい。なにしろいいことをボランティアでしてくれているからである。しかし、いかにいいことをしていたからといって、ほんとうの神さまを信じ従っているわけではない以上、神さまがそういう人たちの善い行いを認めてくださるとはかぎらない。それと同じようなやりかたで、神さまに認められようとすることを私たちキリスト者もしてはいないか、ということは、つねに問われるところでないだろうか。 行いによって自分の信仰を見せる、ということは、そのどちらでもない。なぜならば、行いの実を結ぶ信仰は、人に由来するものではなく、神さま、イエスさまに由来するものだからである。私には一切できない善い行いを、この堕落しきった私のことを完全に救ってくださったイエスさまがさせてくださる。そのように、もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きてくださっているほどに、私のことを救ってくださり、私と完全に一つとなってくださっている。この境地から、行いによって自分の信仰を見せることができるのである。 19節はこの流れの中で、唐突に挿入されているような印象を受ける。しかし流れに従って読むと、これは唐突ではない。悪魔は唯一の神になり代われない。そんな悪魔は、少しでも永遠の滅亡をともにする人間が現れるように、すでに救われていて、もっと多くの人を救いに導こうとするクリスチャンたちの力を削ぐことに必死になっている。そこで悪魔はこういう作戦を用いる。悪魔はクリスチャンたちに、神はおひとりだと信じるほどの立派な信仰を持ちさえすればそれで万事が解決したと思わせる。 間違っても、信仰が行いの実を結ぶようなイエスさまとの交わり、聖霊の満たしなど体験させない。聖霊の満たしと呼びながらも、そのじつ何の愛の実も結ばない、世の中に対して毒にも薬にもならないことにだったら集中させる。 言ってみれば、クリスチャンをたんなる「宗教」の信者にするか、「カルト」の熱狂的な分子にするかして、けっして「世の光、地の塩」にはさせない。それが、神がおひとりであることに身震いする悪魔が、人間、わけてもクリスチャンに対して取る戦略である。 20節以下を見てみよう。行いのない信仰がむなしい代わりに、行いのある信仰がどんなに意味があるかを、ヤコブは旧約聖書の2つの実例から挙げている。まず、21節から23節。アブラハムが神を信じた、その信じたことはいかなる行いに現れたかについて語っている。 一見すると、子どもを犠牲にして殺すようなことが信仰の行いとして尊い、と受け取ってしまわないだろうか。しかしこれは、新約聖書のヘブル人への手紙11章17節から19節を合わせて読まないと分からない。 つまり、アブラハムの行動は、神さまはイサクから子孫を生まれさせてくださるという約束を受け取っている以上、イサクは必ず生きて子孫をもうけると信じ切っていたゆえにできたことであった。そしてアブラハムのこの行動は、はるかのちに御父なる神さまがひとり子イエスさまを十字架におつけになり、そしてよみがえらされたことに通じる。なんと、イエスさまの十字架の贖いと復活さえもはるかに望み見た行いとなった。つまり、アブラハムの行いはどこまでも信仰によること、信仰ゆえに行いに出られたわけだった。 もちろん、私たちはアブラハムのこの犠牲を見るとき、自分にはとてもそんなことはできない、と思うしかないだろう。だからこそ私たちは、私の中にはこのような行いができる何かなど、何一つないことを認めるしかない。ただ、その犠牲は御父なる神さまが、イエスさまを十字架につけることによって成し遂げてくださった、そのイエスさまと私がひとつにしていただいていることで、私たちは少しでも愛の行い、犠牲の働きができるようにしていただいている、そうして主に用いていただいている、そのことに感謝するばかりである。 もうひとつのケースとして、ヨシュア記に登場する遊女ラハブのことが書かれている。エリコに偵察に来たイスラエルの兵士をエリコの軍からかくまった女性である。このケースの場合、ラハブのいのちをエリコ聖絶から助けたのは、イスラエルの兵士たちであった。しかし、ラハブがイスラエルの兵士をかくまったのは、まことの神さまに対する信仰のゆえであったことを、やはりヘブル人への手紙の11章は証ししている。お従いすべきはまことの神さまである、このお方によればやがてこの邪悪な都市は崩され、滅びる、なんとか助からなくては、そういう思いが持てたのは、まことの神さまに対する信仰による。ほんとうに信じるべきお方がだれかをわかっていたゆえに、だれの味方になるべきかが判断できた。 26節のみことば。このみことばは、人間のからだを信仰、霊を行いになぞらえている。普通なら逆になぞらえたくならないだろうか? 信仰は霊的なものであり、行いは人間の肉体を用いてするものだからである。しかし、この箇所を見ると、逆である。つまり、からだと霊、信仰と行いは、切っても切り離せないものだということである。 さて、この一連のみことばから、私たちは行いがとにかく必要だということを教えられるが、「だから行いを大事にします!」では、苦しくなるばかりである。神さまはそんなことを私たちに望んではいらっしゃらない。私たちは「行えない」、そのことを徹底して認める必要がある。行えるのはただ一人、イエスさまである。このイエスさまと私たちはひとつにならせていただいている、ゆえにそこから、少しでも行いの実が結ばれ、主のご栄光をあらわすものとして用いていただける……このことのゆえに感謝しよう。 信仰が死なないために。行おうと努力しなくていい。まず、すべてを成し遂げてくださったイエスさまとひとつにしていただいてることに感謝しよう。いまこのとき、イエスさまとの交わりに入れていただこう。