聖書箇所;ヤコブの手紙3章1節~12節
メッセージ題目;「ことばでしくじる私たち」
このところ私たちは、政治家の「ことば」に注目するニュースに接している。せんだっての選挙の候補者だった人の発言が高飛車ではないかとか、どこかの国の大統領が、よりにもよって間違えてはいけない人物の名前を何度も間違えたとか……。こういうニュースに接すると、政治家のような大集団のトップでかじ取りをする人にとって、いかにことばというものが大事かを痛感する。
しかし、こういうニュースはまた、私たちのことも考えさせられる。特に、今日のみことばと考え合わせよう。私たちは政治家でなくても、ことばはやはり大事である。1節を見ると、多くの者が教師になってはならない、と語る。それは、「より厳しいさばきを受ける」からというわけである。かつての新改訳聖書では、この箇所は、「格別厳しいさばきを受ける」と訳している。
「懲らしめ」ではない。「さばき」である。それは何によるものであるか。2節にあるとおり、「ことばで過ちを犯す」ことによる。そこからわかることは、教師の犯すあやまちは、もっぱらことばによるものである、ということ。
教師は何をする人なのだろうか? みことばを解き明かす人である。しかし、みことばをふさわしく解き明かさないならば、その影響のもとにある群れは異端になったり、カルト化したりする。つまり、教師の悪さは教師一人でとどまるものではなく、その語ることばを通じて群れ全体が悪くなるわけである。特にその群れが本来、教会、すなわちキリストのからだとして健康に保たれるべきところ、大いに病んでしまっているならば、主はその責任を教師なる牧者に問われる。
私も牧者の端くれであるが、この水戸第一聖書バプテスト教会という群れを担当させていただいている者として、その責任は重い。ほんとうに、語ることばには慎重にならざるを得ないが、しかしそれでも、悲しむべきことにことばで失敗をすることもあるものである。そしてそれは厳しいさばきに値するものだというこのみことばをお読みするとき、震え上がる思いである。
しかし、2節のみことばは別の側面も語っている。それは、「私たちはみな、多くの点で、特にことばで過ちを犯すものである」ということである。もし、ことばで過ちを犯すことがなかったならば、どうだろうか? その人は完璧だというわけである。
ことばというものは、からだの中でもとりわけ小さな器官である舌を用いて話される。3節、4節を見てみると、大きな家畜である馬も、大勢の人や大量の荷物を載せられる船も、ごく小さなものによって御することができるように、舌も人間を制御する器官であることがわかる。
だが、その舌とはどういう器官なのか? 私たちが思うほど、私たちの柔和な考えに従順ではない。5節、6節を見よう。舌とは、火であると語る。火が森についたら、火を消し止めないかぎり森は丸焼けになる。また、前に進むべき人生の車輪を焼いて進めなくしてしまう。柔和どころか、激しすぎる。破壊しかもたらさない。それが、舌というもの、すなわち、私たちの発することばというものである。
7節のみことばが語るとおり、人間は地を従えている存在である。だが、8節が語るとおり、そんな人間にも従えることができないものが舌である。それも、少しも休むことをしない悪であり、死の毒に満ちている、と語る。なんと恐ろしいものを私たちは持っているのであろうか。
その、死の毒に満ちた舌を野放しにするわれら人間の行動の一例が、9節、10節に書かれている。このヤコブの手紙の読者はクリスチャンだから、当然、主であり父である神さまをほめたたえる。素晴らしいこと、立派なことである。だが、そのように神さまをほめたたえるきよくあるべき存在が、賛美をするのと同じ口をもって、神さまの似姿につくられた人間を呪うというわけである。それは、あってはならないことだとヤコブは警告する。だが、私たちはそういう、あってはならないことを普通にしてしまうのである。
このことをヤコブは、11節、12節のように説明する。
要するに、賛美と呪いを同じ口から出すという行為は、そもそも自然の摂理に反している、というわけである。あってはならないこと、ありえないこと。
だが、そう言われたからと、私たちはここまでこのメッセージを聴いて、「わかりました! では、神さまのみこころにかなうように、これからは語ることばに気をつけ、みこころにかなったことばを語るようにします!」と決心するだろうか? しかし、はっきり申し上げたい。その決心は無駄である。
なぜだろうか? それは2節以下で語られているとおり、私たちはことばで過ちを犯すものだということは、もはや動かしがたい事実だからである。
しかし、それでもヤコブは、「賛美と呪いが同じ口から出ることは、あってはなりません」と語る。つまり、ことばで過ちを犯すことはもはや宿命で、一切どうにもならないことではない。そんな私たちであっても、必ず賛美のみを語れるようになれるからこそ、ヤコブはあえてこのような不可能に思えること、2節のみことばに照らせば矛盾のようなことを、私たちにチャレンジしているのである。
日本のことわざに「人を呪わば穴二つ」というものがある。人を呪ってはならないと戒めることわざだが、この「穴」とは墓の穴であり、人に害を加えようとして墓穴を掘る者は、その報いが自分にも及び、自分の墓穴を掘らなければならない、という意味だそうである。
それでは、日本のことわざではなくて、イエスさまなら、人を呪うことを何とおっしゃっているだろうか? マタイの福音書5章21節、22節にあるとおりである。人を呪ったならば、殺人罪のさばきを地獄に落ちて受けなければならない、ということである。みなさま、人を呪うことはどれほど私たちの人生にあふれているだろうか?「あの人さえいなくなったらいいのに」と思うだけでも立派に「呪い」、すなわち、神さまがご覧になるならば、「殺人罪」を犯すことである。人を馬鹿にすることもそう。殺人罪がなぜ罪なのか、それは、神さまのかたちに造られた人を抹殺すること、そのようにして、神さまのみこころを抹殺することだからである。
それが私たちである。私たちはそうだとすると、何度地獄に堕ちなければならないことだろうか? そんな罪人の私たち、地獄こそがふさわしい私たちは、どうしなければならないだろうか?
救いの道はただひとつしかない。イエスさまにつながることである。イエスさまは、どんなに頑張っても神さまの義の基準、聖さの基準に遠く及ばない、だから地獄行きこそがふさわしい私たちのために、私たちに注がれる御父なる神さまの怒りを十字架の上でことごとく受け止め、私たちを完全に赦してくださった。私たちにできなかったこと、すなわち、神さまの義をまっとうすることを、イエスさまは私たちの身代わりに十字架の上で成し遂げてくださり、私たちはイエスさまの十字架のみわざを信じ受け入れることによって、みことばを完全に成し遂げてくださったイエスさまとひとつになり、私たちもみことばを完璧に守り行なったと神さまに認めていただいた。そう、救いの主体は私たちの努力の行いにあるのではない。どこまでも神さま、イエスさまにある。
そのような私たちはイエスさまというぶどうの木につなげていただいた枝である。ご存じの方も多いと思うが、ぶどうの枝というものは実をつけないかぎり、何の役にも立たない。友達にぶどう農家の人がいるのだが、話を聞くと、ぶどうの枝というものはほんとうに役に立たないらしい。寒いときに集めて火をつけても、暖を取れるほどの火も燃えないそうだ。だから、ぶどうの枝は木を離れては役に立たない。役に立つときがあるとすれば、それはただひとつ、木につながっているときだけ。木につながっていれば、実を結ぶ。豊かに実を結ぶ。
イエスさまはおっしゃる。わたしにとどまりなさい。このみことばは、十二弟子という、もう充分にイエスさまにとどまってきた人たちに対しておっしゃったおことばである。十二弟子にして「わたしにとどまりなさい」と言われなければならなかったならば、いわんや私たちはどれほど、イエスさまにとどまらなければならないことだろうか。
イエスさまにとどまるということは、弟子たちにしてあえてそう命じられなければできなかったことのように、私たちも意識してとどまることが必要である。よく、「神さまが私たちとともにおられるように」と私たちは祈る。立派なことである。しかし、私たちはどこかで、「神さまがともにおられたら都合が悪い」となっているような時はないだろうか?
むしろ私たちは、「神さまに近づく」ことが必要である。神さまは必ず私たちを迎えてくださる。そのようにして、神さま、イエスさまにとどまることが、私たちにとって必要である。これはいのちの営みである。
だから、早天祈祷やディボーションや聖書通読といったものを、それをする自分は努力できたから偉い、などと考えるようでは、まだその人の発想は自己中心である。どうしても神さまにつながらなければならないからつながる、それでこそ私たちの日々の神さまとの交わりは本物となる。
そのようにしてイエスさまにとどまることによって、私たちは初めて、ことばが整えられていく体験をする。イエスさまに近づくとどうなるか? みこころにかなったことばを優先的に話せるようになるだけではない。悪いことばの飛び交うような、この世的な楽しみの場からも距離を置きたがるようになる。そうなると私たちのことばの生活、ことばの習慣が、悪いものによって損なわれることがなくなっていく。
ヤコブの用いたたとえにもう一度注目しよう。甘い水を出す泉は、甘い水を出すから価値がある。先週、日本のある町で産出するミネラルウォーターから、発がん性物質のPFASが検出されたということで問題になったが、名水のはずがからだに悪いものを含んでいてはたまらない。しかしそれは、水源が公害という、悪い環境に置かれていた、ということである。
甘い水はイエスさまが内から湧き上がらせてくださるいのちの水である。御霊の水である。ヨハネの福音書7章37節、38節でイエスさまがお語りになっているとおりである。この水が自分を潤し、人を潤すのである。そう、キリストのからだなる教会という群れの教師、牧者が、まず自分こそが優先的にみもとに近づき、御霊の水に潤されなければならない理由がここにある。自分が潤されて、人を豊かに潤すのである。
それが悪い環境に置かれたら、苦い水になる。イエスさま以外のものにつながっていたら、その泉がいつ汚され、苦い水を出すようになるかわかったものではない。だから、そのように自分を汚すものから距離を置かなければならないのである。私は常日頃、牧師が趣味を持つことは、パウロが病気がちのテモテに「少量のぶどう酒を用いなさい」と言ったように、とかく生真面目、固くなりがちな牧師の生活に潤いを与える、つまり、ひいては信徒たちに潤いを与えるうえで必要なことだと言っているが、それも程度と内容による。人に言えないような趣味は持つべきではないし、牧会そっちのけで趣味に没頭するのもだめである。さもなくば泉は苦くなり、人を潤すべきことばは荒れることになる。
もうひとつ、木はふさわしい実をつけてこそ、ということで、いちじくの木はオリーブの実をならせない、ぶどうの木はいちじくの実をならせない、とも語っているが、いちじく、オリーブ、ぶどう、すべて、神の民イスラエルに注がれた主の恵みを象徴する実である。しかし、木がまったく別の木の実をつけたならばめちゃくちゃ、第一ありえないこと。この中でも「ぶどう」の木は、ほかならぬイエスさまがご自身を指して象徴された木。私たちがイエスさまというぶどうの木にくっついて、とどまって結ぶぶどうの実は、イエスさまのみことば、人を生かす、神の口から出るひとつひとつのことばである。そう、人は神の口からであるひとつひとつのことばによって生きる、とイエスさまはおっしゃったが、そのことばを人に語って聞かせ、人を生かすのは、やはり人のすることである。
しかし、この人を潤し、人にみことばを食べさせて生かす働きは、牧師だけのすることではない。ここにいらっしゃるみなさまにはできるし、積極的にしていただきたい。分かち合いはぜひ、神さまの恵みの分かち合い、みことばの分かち合いを優先的にしていただきたい。それによって私たちは、神さまの御前にふさわしいことばが語れるようになる。
舌はもともと、みことばが語るとおり、よいものさえも焼き尽くす火であった。他人であれ、自分であれ、人を呪い殺す死の毒に満ちたものであった。しかし主は、このような私たちのことばをきよめてくださった。あとは私たちがイエスさまにつながり、とどまり、みこころにかなったことば、神の愛に満ちたことばを語らせていただくように、祈っていこう。