教会が麗しいのは

聖書箇所;ピリピ人への手紙4:1 メッセージ題目;教会が麗しいのは  昨日、私ども一家は千葉にある東京基督教大学のオープンキャンパスに行ってきた。素晴らしい時間だった。それは、そこに集まった多くの人々、ことに若者たちは、みな、聖書が神のみことばであると信じ告白するクリスチャンたちであり、その聖徒の群れが献身を志して学ぼうとする姿に、希望を見る思いがしたからである。  このような場に赴くと、私たちクリスチャンは決して孤独ではない、普段どんなに離れていても、愛し合うべく召されていることを思わされる。しかしやはり、こうして教会に戻ってきて、聖徒のみなさまを前にすると、やっぱり、ここに帰ってきていいもんだ、と思う。  私たち教会は麗しい群れである。それは聖書が語っているとおり。今日の箇所から、私たちはなぜ麗しいのか、ともに学んでまいりたい。  今日の本文をあらためてお読みしよう。パウロはここで、ピリピ教会の兄弟姉妹のことをどのように呼び、また、どのようなことを勧めているだろうか?「私の愛し慕う兄弟たち」と呼んでいる。なんとも麗しい。  この「愛し慕う」の「愛」は、主の愛を現す「アガペー」から来ることばが用いられている。主が愛しておられるように、私はあなたがたを愛します、と語っているわけである。  主が愛されるように、教会の兄弟姉妹を愛する。このことは、主の愛を知る者だけができることである。主がどのように自分のことを愛してくださっているか知っているからこそ、そのように兄弟姉妹を愛したい。これぞ、私たちクリスチャンの歩むべき歩みである。  高校生の頃だからもう30年以上前のこと、私がまだ韓国語を学ぶ前、夏休みのある日、韓国から日本に短期宣教にやってきたチームに会う機会があった。日本語のできる通訳の方を介してコミュニケーションを取っていたのだが、みんなと会話しているうちに、そのチームの中の、私より少し年上の若い姉妹が私に向かい、日本語で、「わたしは、あなたを、あいします」と言った。みんな、きょとんとしている。それで、通訳の兄弟がその意味をみんなに訳してあげると、チームのみんなはどっと沸いた。真っ赤になった彼女はすかさず言った、「イエスさまの愛で愛します!」  こういうことが言えるのが、主の愛を知る者どうしの強みである。ともに主に愛されているどうし、主の愛がどんなにすばらしいか、わかっている。その愛をもって互いに愛し合う……この愛は、民族や言語や国境を越える。  またパウロは、ただ愛するだけではない、愛し「慕っている」と語る。慕うということは、そばにいたくてたまらない、ということ。これは、特別な関係である。  主が、ただ愛するにとどまらず、「慕う」関係へと導き入れてくださってはじめて、クリスチャンはパウロがピリピ教会の兄弟姉妹に対して告白するように、お互いのことを「慕う」ことができるようになる。 あの時の短期宣教の姉妹は、たしかに同じ主の愛を受けているどうし、「イエスさまの愛で愛します」くらいのことは言ってくれた。しかし、「慕ってくれていた」かというとどうだろうか? 慕うほどの特別な関係だったら、そのときかぎりの出会いで終わることなどなかったはずである。うちの妻の場合ならどうだろうか? はじめて出会ったのは今から18年前のことだが、たった2日顔を合わせただけで離ればなれになっても、それから後もしょっちゅう電話のやり取りをした。これは、お互いが慕っていたということ。  先週も申し上げたが、私はこの教会に赴任して、ちょうど10年経った。みなさまのお姿を見ていて思うことは、みなさんは教会をただ愛するのみならず、愛し慕っているのだなあ、ということ。10年前のことを振り返ってみると、教会から牧師招聘のお話をいただいたとき、私は韓国にいた。このお導きに感謝するとともに、自分は霊的面をはじめ、あらゆる面で整えられなければと願った。  そこで取り組んだことは、毎朝のように近所の教会の早天祈祷会に出席することだった。そうして祈れば祈るほど、私の中にも、教会を愛し慕う思いが確実に育っていった。今思えば、教会を愛し慕う兄弟姉妹のその愛に負けまいという思いを主がくださったのだろう。あれから10年、教会の兄弟姉妹を愛し慕う気持ちは増し加わるばかりである。  そういうわけで、愛することは主の愛の与えられたどうしならばだれでもできることであるが、慕うのは、特別な関係へと導き入れられている者がはじめてできることである。そこで私たちは、自分の身の周りの人間関係を考えてみたい。私たちには主にあって「愛し慕っている」といえる存在が、いったいどれくらいいるだろうか? もし、そのような存在がおられるならば、それはとても素晴らしいことである。その関係を大事にしていただきたい。ダビデがヨナタンとの友情をはぐくんだように、私たちも大事な人との慕い慕われる交わりをとおして、主にある愛をはぐくんでいきたい。 また、慕う対象がもしいるという実感がないならば、どうかその対象を心から慕い求めていただきたい。異性ではないほうがいい。男性は男性の、女性は女性の、それぞれ慕う対象を祈り求めていこう。  1節のつづきだが、パウロは、ピリピ教会のメンバーを指すことばに「私の喜び」という表現を用いている。ピリピ人への手紙は喜びの手紙と呼ばれている。それはピリピ教会こそがパウロの喜びそのものだったからである。  先ほども言ったことだが、私たちに愛し慕う対象がいたとする。しかし、その人に、「あなたは私の喜びです!」と言えるだろうか? ちょっとためらってはしまわないだろうか? しかし、パウロは心からそう言えた。  そう、パウロにとって、ピリピ教会は存在そのものが喜びだった。これはちょうど、親にとって子どもが、目に入れても痛くない、存在そのものが素晴らしいのと同じである。  パウロは結婚していなかったというのが定説だが、ということは、子どももいなかったことになる。しかしパウロは、実の親が子どもに注ぐのと同じように、心からの愛情をピリピ教会に注いだ。  ピリピ教会の存在そのものが、パウロにとって限りなく愛おしかったわけである。パウロはしばしば、自分が信仰に導き、訓練した信徒について「産んだ」という表現を用いている。産む、ということは、出産を経験された婦人の方ならどなたもご存知のとおり、とても大変なことであるが、いざ生まれると、その苦しみは途方もない喜びに変わる。そしてふつう親ならば、喜んで子育てをする。産むだけではなく、子育ても大変な労力を必要とするが、親ならばその労を惜しまない。それは、子どもの存在そのものが喜びだからである。  パウロも迫害を逃れつつ労苦して人を信仰告白に導き、どんな迫害にも耐えられるだけの信仰を持つように鍛え上げた。それは、主を愛していたからであるし、主から自分に託された羊の群れがたまらなく愛おしかったからである。  羊は弱いままでいてはならない、蛇のさとさと鳩の素直さを身に着けさせ、狼の群れにも勝てるようにと、羊の群れをこの上なく強力に育て上げた。それは、惜しみなく愛情を注いで、子どもを強い子に育てようとする親心そのものである。  そしてパウロはこのピリピ教会を、ただ愛し慕い、喜ぶにとどまらない。「冠」と呼んでさえいる。  頭にかぶるものは、その人が何者であるかを象徴します。プロ野球のチームの帽子ならば、そのチームのファンであることを誇りにしている人という意味合いを持ちます。YGマークの帽子をかぶれば、その人は巨人ファンである。ヒジャブと呼ばれるスカーフ状の布で頭部をおおう女性は、ムスリムないしはイスラム圏に住む女性ということになる。 その中でも、冠だったらどうだろうか? 冠をかぶる資格のある人は、王さまのような位の高い人である。あるいは、マラソンの勝者のような栄光あふれる人である。「栄冠」というぐらいである。彼らは間違っても、王座についているときや、表彰台に上るときのような、晴れの舞台で庶民のかぶるような帽子をかぶってはならない。 また冠は、栄光ある人の頭に置かれるからこそ価値があります。王冠とか月桂冠といった冠は、平凡な人かぶってはならない。 ここでパウロは、ピリピ教会を「冠」と呼んでいる。なぜパウロは彼らのことを「冠」と呼んだのだろうか? いま、マラソンの勝者に与えられる「月桂冠」のことを例に出したが、そもそも、われら終わりの日の勝者のことを「月桂冠」を授与されるスポーツ選手に例えたのは、パウロである。コリント人へ第一の手紙、9章の24節から27節をお読みしよう。 ……パウロは、朽ちない冠を受けるためにあらゆる自制をし、目標の定まった闘いをすると述べている。何のために自制するのだろうか?  コリント教会やピリピ教会のような教会を形成するために、その一方で、その指導者としてふさわしくあるように自制するのである。また、何を目標とするのだろうか? 聖徒を整えて奉仕の働きをさせ、教会全体をキリストの満ち満ちた身たけにまで成長させる、ことばを変えれば、キリストの似姿へと成長させるという目標である。 その教会の成長という目標のために、あらゆる闘いも辞さない。これぞ、牧者のあるべき姿である。そのようにしてこの世の闘いを闘いおおせて、終わりの日に主の御手から受けるわが勝利の冠、それが、あなたがた教会だというわけである。私たちは終わりの日に勝利の冠を受けるということをみことばから学んでいるが、その冠がどんなものか、イメージできるだろうか? パウロは、それは教会の兄弟姉妹であるとはっきり語った。 救い主キリストを宣べ伝えて人を永遠のいのちに導き、永遠のいのちの素晴らしさを生涯体験すべく訓練する。そのようにして、天国の民、キリストの似姿とされた人たちの存在、それが、世の終わりに永遠に王とされる者にとっての、朽ちることのない栄光なのである。 私たちはお互いのことを「冠」と信じて教会生活を送っているだろうか? お互いがお互いにみことばの恵みを語り、成長させられ、ともにキリストの似姿へと変えられていくならば、この教会の兄弟姉妹こそ、私たちを王ならしめ、勝利者ならしめる「冠」である。お互いがお互いにとって、とても大事な存在なのである。 パウロは、以上述べてきたように、ピリピ教会の信徒たちは何よりも大事な存在だからこそ、「主にあって堅く立ってください」と勧めている。教会は、締まりも必要であり、秩序も必要である。創造主なる神もキリストも認めたがらないこの世にあって、キリストが生きておられること、信じ受け入れるべきお方であることをしっかりと証しする使命が教会に与えられている。 そして、パウロはどんな思いをこめて、「私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ」と、ピリピ教会に呼び掛けたのだろうか? それは、自身が告白したとおり、キリストが心のうちに生きておられるゆえに、キリストの心を持ってそう呼びかけたのだった。 そう、私たちのことを「わたしの愛し慕う兄弟たち、わたしの喜び、冠よ」と呼んでくださるのは、イエスさまである。それほど私たちはイエスさまに愛されている。主は私たちのことを、ご自身のひとみのように守ってくださる。そして、可愛い子には旅をさせよということわざのように、冒険の生涯を通して私たちを鍛え、キリストの似姿へと変えてくださる。終わりの日には、私たちが王の王なるイエスさまを冠として飾る。 そして私たちもまた、心のうちにキリストが生きている存在である。だからこそ私たちもお互いに対して心から、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ! と言うことができる。なんと麗しいことだろうか。 私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。そうお互いに呼びかけ合う、それが心からの告白となる、その同じ思いで一致して、今日も、そしてこれからも、ともに歩んでいこう。