みこころにかなう計画

聖書箇所;ヤコブの手紙4章13節~17節 メッセージ題目;「みこころにかなう計画」  今日は、メッセージの内容をもとに、あとで交わりの時間にともに分かち合いのときをお持ちしたいと思う。週報の、いつもなら牧会コラムを掲載しているページに、交わりの時間に考えていただくための質問を掲載させていただいた。今日のメッセージは、ここに掲載したことを具体的に考えながら聴いていただきたい。そして、今日、みことばをとおして示されたことがあるなら、どうかあとでともに分かち合い、せめて今日から次の主日の一週間の間だけでもまず、祈り合ってまいりたい。  今日のテーマは、「みこころにかなう計画」である。  みなさまは「計画」ということばを聞くと、どんなお気持ちになるだろうか?「さあ、何かの取り組みの前には必ず、しっかりした計画を立てるぞ! 計画大好き!」と、わくわくしてくるだろうか?「いや、計画を立てるなんて苦手だ、実行するのはもっと苦手だ!」となるだろうか? 私は残念ながら、苦手な方。むかしから計画を立てるのも、実行するのも得意ではなかった。それだけに計画を立て、それを実行することに成功したときのうれしさといったらない。でも、この教会を牧会するようになって11年になるが、計画を立てたり実行したりするのが苦手、などと言っている場合ではない。  さて、今日のみことばを読むと、のっけからかなり衝撃的なみことばとなっている。13節、14節。  13節のようなことばは、この世界に住む人は普通に口にしていることではないだろうか? 商売という経済活動で口に糊することの何がいけないというのだろうか? しかし14節を読むと、そのような計画を立てる人間がどんなにむなしい存在かということを説いている。それはそうかもしれないが、それを言っちゃあおしめえよ、とならないだろうか? 私たちはいつかこの地上からいなくなるのですから。  現にこの時代のクリスチャンたちは、迫害に絶えず囲まれていて、明日をも知れぬ状態であった。いつ殺されるかわからない。のんきに商売のことを考えている場合ではない。そしてこんにちの私たちも、ついこのあいだ、南海トラフ騒ぎがあったばかりである。いつか死ぬとは分かっているけれども、いつ死ぬかわからない。しかし、そんなことを意識していたら、明日の計画を立てることさえためらってしまう。みことばは、人はすべからく計画を立てるのをやめるべきである、と言っているとでもいうのだろうか? 計画を立てることがそんなにいけないことなのだろうか?  しかし、みことばには続きがある。15節。大前提が書かれている。「主のみこころであれば、私たちは生きていて」。この告白がつねに伴うのが、私たちクリスチャンである。主のみこころによって生かされていることを謙遜に認め、そう告白することが、私たちにとっての大前提である。  このみことばと深い関連を持ったことがらを、イエスさまはお話しになっていらっしゃる。ルカの福音書12章13節から21節。  遺産相続で取り分を多くするためにイエスさまを利用しようという者がいたが、イエスさまはその人の心の中を見抜き、それは神の前に富む態度ではないと喝破された。このみことばは、経済的な祝福を求めることが真理とばかりに駆り立てることの愚かさを語っている。もし、人が大いに富んだとしても、それは富ませてくださった神さまの恵みなのであり、それを自分の快楽のために用いることなど言語道断である。その者のいのちは神さまの御手のうちにある以上、神を認め、神の栄光をあらわすことを、富や財産の用い方においても実践すべきであった。  こういう計画を立ててはならないわけである。しかし聖書を見ると、計画を立てることが聖徒の模範として示されている箇所がたくさんあらわれている。エジプトの総理大臣に抜擢されたヨセフは、世界が飢饉に陥らないように食糧計画を立てた。ヨシュアはカナンに進攻する際作戦を立てたが、これも「計画」のひとつといえるだろう。ダビデはソロモンに神殿建築の計画を授けている。みな、計画である。  しかし、これらの計画が聖書的に見て模範であるのはなぜかはもうお分かりだろう。そう、これらはみな、「主のみこころ」が成し遂げられるための計画だからである。  もうひとつみことばを見てみたい。ピリピ人への手紙2章13節。クリスチャンにとってみこころにかなった志(こころざし)を立てること、その志にしたがってことを行うことは、祝福のわざであることをこのみことばは語る。しかし、志というものは、人の側で主体的に立てるものでもある。行ってみればクリスチャンにとっての志とは、神さまと人との「合作」であるといえるだろう。その志はやみくもに行動することで成し遂げられるのではなく、人が祈りのうちに「計画」を立てることによって成し遂げられるのではないだろうか。ヨセフの食糧計画、ヨシュアのカナン進攻の計画、ダビデの神殿建築の計画、みな、神と人との「合作」といえるものだった。  そういうわけで私たちも計画を立てる。ところが、場合によっては、16節のみことばのような警告を受けるような計画を立てることにもなりかねない。これはどういうことか? 神さまがその能力を与えてもいらっしゃらないのに、「自分にはこんなことができるぞ」とばかりに公言する。このことは、同じヤコブの手紙で警告され、イエスさまも警告しておられることと同じである。5章12節。マタイの福音書5章34節から37節。  そう、「誓う」という行為。しかし、たとえば結婚式で、神と人の前に「病めるときも、健やかなるときも、この人を愛することを誓います」という行為もいけないことになるのか。そうではない。要は「主にあって『誓う』」ということであるかどうか。14節にあるとおり、明日のことがわからないのが私たち人間であり、そういう限定的な被造物にすぎない分際で、おいそれと「誓う」という行為などできないものである。  そういう行為をしてはならないのは、自分が、何もかもお見通しで、未来に至るまでみこころの計画を立てておられる神さまになり代わることだからである。そう、神さまは創造のはじめから世の終わりに至るまで、確固たる計画を立てておられることは、神のみことばである聖書を読めばわかることである。人間が勝手に計画を立てることは、その確固たる計画を立てておられる神さまに対する挑戦であり、越権行為である。神さまはそのようなものに怒りを発しておられる。  そのような流れで17節を読むと、なすべき正しいこととは何か、それを行わないとはどういうことかがわかる。そう、なすべき正しいこととは、「主のみこころであれば」という前提のもと、へりくだって、主のみこころを絶えず求め、計画を着実に立てていくことである。だから、その正しいことを行わない罪とは、主のみこころを求めもせずに自分勝手に計画を立て、それを行おうとすることである。  先週学んだみことばに、悪い動機で願うものは与えられない、というくだりがあった。しかし考えてみよう。悪い動機、すなわちみこころから外れた動機で求めたものが与えられないということは、むしろその人にとって祝福と言えることではないだろうか? むしろ、みこころから外れたものをその人が手に入れることが、その人にとってはわざわいと言えるだろう。  計画を立てることにおいても同じことが言える。神さまに祈りもしないで立てた計画が、あとでどんなに祈ってみたところでなることがなくても、不思議ではない。そのとき、その計画がならないことを、神さま、こんなに祈っているのになぜかなえていただけないんですか! と恨み言を言ってみたところで始まらない。最初からよく祈らずに、つまりみこころと確信するだけの確信も平安もなしに始めたことだからである。  今日はともに、少し立ち止まって祈ってみたい。私たちはおそらく、いろいろと求めるべきものがあるだろう。仕事の特定のスキルだろうか? 仕事のための新たな資格だろうか? はたまた、新たな職場だろうか? 配偶者だろうか?  みな、すばらしいものにちがいない。しかし、それらのものがなぜ自分に必要なのだろうか? 神さまのみこころは、ほんとうにそういったものを私たちに与えてくださることなのだろうか?   実際、それらのものを求めることにおいて、平安があるだろうか? みことばに裏づけられた確信があるだろうか? そしてその祈りの課題は、私たち教会でともに共有して祈ってもらえているだろうか? その祈りは必ずかなえていただけるという、御霊による確信をいただいているだろうか?  みこころにかなう計画というものは、まずなによりも、神さまが与えてくださっているという確信が伴ってくるものである。そういう人には平安がある。「それ、ほんとうにみこころですか?」と突っ込まれても、動揺せずに確信をもって、「はい、みこころです」と答えることができる。裏づけとなるみことばもあれば、キリストのからだなる教会、仲間のクリスチャンたちにも同様の確信、導きが与えられ、その計画がなるようにみんな積極的に祈ってくれる。  最後に、私がこの教会に導かれたことが、ほかならぬみこころを求めつつ立てた計画の実現だったことをお証しして、メッセージを締めくくりたい。  私がイエスさまを信じ、教会員になった母教会、北本福音キリスト教会は、特定の教派に所属しない、単立の教会だった。しかし同時に、幼児洗礼を施さず、また浸礼によるバプテスマをもって洗礼を施していた。また、役員会もあったが、事実上の最高意思決定機関は、年に1回行われる、全教会員が集まって合議する総会だった。そう考えると、北本福音キリスト教会の教会形成は、バプテスト教会のそれだった。ただ、バプテストを標榜していなかっただけであり、実質バプテストだった。  のちに私は韓国教会から学ぶことで日本の教会を元気にしたい思いで、韓国の長老派の神学校に学んだ。神学生としての奉仕教会も同じ教派の教会である。その長老派の環境で私は、ひとことでまとめると「神の御前で徹底して生きる」ことをモットーとした長老派の根幹をなすカルヴァン主義に共鳴し、これが生涯目指すべきものという確信に至った。  しかし、私はいずれ日本に戻らなければならない。だが、母教会は主任牧師が立てられて間もなかった時期で、私の帰る場所はなかった。私はどこの教会、あるいは教団教派に行くべきか、『キリスト教年鑑』を購入して韓国の神学校に持ち込み、それをしょっちゅう眺めては祈っていた。  その結果、あることをきっかけに実に理想的な教会につながった。もともと、保守バプテスト同盟の重鎮だった宣教師の開拓した教会で、カルヴァン主義をもってバプテストの教会を形成する群れだった。その群れは、私が大学生の頃に取り組んでいた子ども伝道、弟子訓練の働きにも先鋭的に取り組むことで、当時日本中の教会から見学に訪れてくるような教会で、私は行ってみてたちまちとりこになり、その教会に所属しながら、神学校の残りの後半を過ごすことになった。その教会の縁で、当時韓国で押しも押されもせぬモデル教会だったサラン教会で学ばせていただくという恵みにもあずかった。  しかし、神学校を卒業して実際にその教会で働きを始めてみると、私は実は牧会者になるには向いてないのではないか、と思わされることばかりが起こり、やがて私は召命観を失ったまま、失意のうちに鬱々として何年間も過ごすこととなった。そんな中、私のことを心配した父が大芝居を打ち、自分は重い病気にかかったから帰って来い、と言い、帰っていかざるを得なくなって実家に戻り、地元の教会に厄介になることになったが、そこでも召命が回復することはなかった。  そんな私はしかし、韓国の神学校に推薦してくださった宣教師の開拓教会を、伝道師という肩書で手伝うことになった。妻ともその開拓教会の働きを通じて出会い、結婚したり、試験を受けて牧師の資格もいただいたりと、働き人として大きく前進することになったが、私はほんらい、韓国で学んだのは、日本の教会を元気にするため、すなわち日本宣教がおおもとのビジョンとして与えられていた人間である。そして妻もまた、日本宣教のビジョンをいだいて訓練を受け、来日したわけである。だがその開拓教会は韓国語で礼拝を行い、お昼には韓国料理を食べ、したがって韓国人ばかりが集まる群れであって、私は韓国語ができる日本人であったためにある程度の働きはできたものの、所詮は「小間使い」のようなものであった。  そのような下働きのような働きをしていたころ、私にはいちどでいいからやってみたいことがあった。それは「韓国での日本語礼拝の牧会」であった。  私は下の娘が生まれたタイミングで、妻と相談し、足かけ7年にわたる韓国人教会の働きを辞めることになったが、なんと渡りに船で、ちょうどそのとき、日本語礼拝部の牧師を募集している教会がソウルにあって、私どもは韓国に引っ越した。  しかし、この働きは長くできるものではないことはわかっていた。やはり私どもにとっての召命は、日本宣教であることを確信していたからである。私は神学生時代の頃のように、またいろいろな教会のことを調べながら祈りはじめた。その中でも、神学生時代に共鳴したカルヴァン主義バプテストの群れである「保守バプテスト同盟」など特に自分の召命に照らして向いているのではないか、と考えるようになった。  そのような中でお話しをいただいたのが、この水戸第一聖書バプテスト教会だった。保守バプテスト同盟の教会。ここに、神学生時代以来の長年の祈りがついにかなうことになった。そして10年以上にわたってここでお働きすることが許されていることに、主の立てさせてくださった計画を思わずにいられない。また一方で、人間的に立てた計画がならなかったことも、これまでの人生を振り返ってみるとどんなに多かったかを思う。しかし、その人間的な計画がならなかったのは、神さまの恵みであった。それがそのとおりになっていたら、少なくとも今、茨城でみなさまとともに味わっている目海にあずかることはできなかった。  あらためて、ピリピ人への手紙2章13節のみことばをお読みしよう。みなさまが主にあって確信しているみこころの計画はどうだろうか? 祈って考えていただきたい。それがみこころにかなう以上、成し遂げられるように、自分のために、そして、お互いのために祈っていこう。

平和をつくるために

聖書箇所;ヤコブの手紙4章1節〜12節 メッセージ題目;「平和をつくるために」  先週の15日、日本は終戦記念日を迎えた。1945年8月15日、昭和天皇のスピーチがラジオ放送され、日本国民が敗戦を知った日である。しかしこの日はところ変われば、まったく違う意味を持つ。韓国なら何の日だろうか? 光復節といい、同じ1945年8月15日、日本の支配から脱したことを記念する日である。  このような、戦争を記念することにおいて世間がデリケートになっているさなか、パリオリンピックのメダリストが、戦争の記念館を訪問したいと発言して物議をかもした。その反響が韓国や中国のような国に及んでいるのを見ると、つくづく、このようなことを語ることの難しさを痛感するものである。  私は韓国人と国際結婚をしたほか、韓国とのつながりを人一倍持ちつづけてきた立場から、日本は韓国と平和を保ってほしいと願うし、また、同じように世界が平和でいてほしいと願う。それはクリスチャンにかぎらず、人であるならばだれもが願うべきことだろう。  私たちクリスチャンは、イエスさまから、平和をつくる人は幸いです、その人は神の子と呼ばれるからです、と言っていただいている存在である。イエスさまを信じて神の子にしていただいているならば、主が願っていらっしゃるように、平和を愛するのみならず、平和をつくり出してしかるべきである。それでは、私たちはどのようにして平和をつくるのだろうか? 今日のみことばはそのことを語っている。  1節。みことばは、なぜ人は戦い、争うのか、それはその人の欲望が、戦いたいと願うから、争いたいと願うから、と喝破する。何か人のせい、環境のせいではない、自分のせいで戦い、争うのである。  2節。その、戦い、争う欲望はどこから出てくるのかが語られている。そう、何ものかを欲しがっても、それが手に入れられない場合、戦ったり、争ったりする。世界で起きている戦争や紛争など、まさに領土や財産を手に入れようとしての争いだろう。まさにそれゆえの破壊と人殺し、それが戦争、紛争である。  しかし、この「人殺し」というものは、実際に人のことをあやめるという行動に出なくても、私たちがしてしまう罪であることを、イエスさまは言っておられる(マタイ5:22、23)。主にある兄弟に「おまえは馬鹿だ」と腹を立てることが人殺しであり、それは最高のさばきを受けて地獄ゆきがふさわしい、と。考えてみよう。私たちは欲しいものが自分のものにならないと、「いいなー」はまだしも、「不公平だ」とか「けち」とか「あいつばかりいい思いして」とか、人を引き下げるようなことを思ったり、口にしたりしないだろうか。  そういう態度は神さまの御前で一切正当化されない。なぜそのようなことを言ったりしてはいけないか。それは、神さまが愛してやまない存在をさばく、すなわち、神さまの愛のみこころをかぎりなく粗末にすることだからである。言い換えれば、神さまのみこころを傷つけることである。この、さばくということの害悪については、あとであらためて学んでみたい。  2節の続きを読むと、願っても欲しいものが手に入らないのは、求めないからだ、とある。神さまは必要とあらば必ずくださるのに、祈り求めないから、もらえるものももらえなくなる。  しかし、祈りはしたものの、手に入らない場合もある。それは3節で語っているとおりである。悪い動機、肉的な動機で願っているから、というわけである。私たちがみこころにかなっていると思って祈り求めているものが、実は神さまのみこころと関係ない、自分の肉欲でしかなかったということは案外あるものである。もし、祈り求めている対象がそういうものだったら、それを手に入れるために、あくどい手段を選ぶことも辞さないだろう。しかしそうなるとそれはもはや、祈って求めていることにはならない。  4節を見てみよう。このような自己中心の祈りは、世を愛することであり、それは神に敵対すること、節操のないことであると語る。しかし私たちは考えないだろうか? ヨハネ3章16節のみことばはたしかに、神はひとり子イエスさまをくださるほどにこの世を愛された、神さまがこの世を愛しておられるのに、私たちはこの世を愛してはならないのか?  しかし、ここでいう「世を愛する」というのは、「神の愛」ではない。聖書を原語で読むとフィレオーの愛、すなわちもとが兄弟愛を意味することばだから、「世の仲間になる」こととでも解釈すればいいだろう。このみことばではそれを「世の友となる」と言い換えている。つまり、神さまのみこころを知って、神さまが私たちに必要と定めていらっしゃるものを求める代わりに、世の中の人たちの価値観にしたがって、世の中の人たちがあたりまえのように求めているものを求めること、あたかもそれが神さまのみこころであるかのように振る舞うことを、厳しく戒めているわけである。  世はそもそも、神さまにお従いすることを選ばない。少しでも神さまのみこころが漂うように思えたら、たちどころに拒否する。それが世の中であるのだから、私たちはもしかしたら、世の人たちから嫌われたくない一心で、いろいろな面で妥協したりしていないだろうか。「いや、そのようにして自分はこの世にイエスさまを証ししている」とでも言うのだろうか。しかしそれでも、実際はこの世に妥協している点では変わらない。  この世に妥協することは、イエスさまを証しすることにはならない。なぜならば私たちがこの世に妥協してみせたところで、この世はそれをクリスチャンとして当然の態度と思いこそすれ、私たちのへりくだりを認めてイエスさまを信じたりなどしないからである。私たちがこの世においてイエスさまを証しするために必要なことは、イエスさまを脇に置いてこの世に妥協することではなく、たとえ世の中からどう思われようとも、イエスさまにお従いする態度を徹底することである。 5節のみことばは、神さまが私たちをどう思っていらっしゃるか、ということを語っている。このみことばは2種類の訳し方をすることができ、それはこの聖書本文、また欄外の訳注にそれぞれ書かれているが、まず父なる神さまは、私たちのうちに御霊なる神さまを住まわせてくださっている。そして、私たちのうちに住まわせられた御霊を御父がねたむほど慕っておられる、ということは、欄外の別訳でもわかるとおり、御霊が私たちのことをねたむほど慕っておられる、ということ。  私たちは御霊に満たされるべき存在である。なぜならば、私たちはもはや世の者、肉に属するものではなく、神のもの、キリストのものだからである。御霊に満たされることは、神さまが願っていらっしゃることであり、御霊に満たされるなら、私たちは世の思いではなく、神さまのみこころに従うことができるようになる。御霊なる主は、私たちの努力でどうにもならない、神さまにお従いすることをできるようにしてくださるお方である。  それが、私たちには御霊さまというお方がありながら、神さまのみこころを無視する歩みをするならばどうであろうか。主なる神はねたむ神である。ねたむ、というと、私たちはつい人間的などろどろした、否定的なものととらえがちかもしれないが、自分の愛する人をどこの馬の骨とも知れぬものに取られ、帰ってこないなら、そのとき覚える感情は「ねたみ」といっていいのではないだろうか? 果たして、神さま以上の愛を注ぐことのできる存在がこの世にあるというのか? それを知っていてなお、ほかのものに心を寄せるならば、それは神さまの御怒りを買うべきことである。  しかし、神さまは私たちに怒ってばかりのお方ではない。6節のみことば。神さまは豊かに恵んでくださる。神さまのおおもとのみこころは、救いという最高の恵みを与えていただいた私たちのことを、さらに豊かに恵んでくださることにある。  神さまは私たちを恵みたい。なぜなら、私たちの身代わりに御子イエスさまを十字架につけてくださったほどに、私たちのことを愛してくださっているからである。肉の思い、この世の思いに浮気しないで、ただ一心に神さまに向かう私たちのことを、神さまは恵まずにはいられない。神さまの愛を信頼しよう。  しかし、条件がある。高ぶらないでへりくだることである。高ぶるとは、神さまを認めないで自分中心に振る舞うこと。へりくだるとは、神さまを認めて被造物、神のしもべ、キリストの弟子としての分をわきまえて振る舞うことである。へりくだっているならば、互いを自分よりもまさった人だと心から認めることができ、その態度で生きる人を神さまは喜んでくださる。そのような人を大いに恵んでくださる。  そのために必要なことは何だろうか? 7節。まず、神に従うこと、それから、悪魔に対抗することである。この順番を間違えてはならない。神に従うとは、8節にあるとおり、神に近づくことによって可能となる。8節のみことばは、神に近づく者に神さまが近づいてくださることを語っている。自堕落な生活をやめないでいる人に神さまが近づいてくださることを期待する前に、まず悔い改めて神さまのみもとに行く必要がある。ここでも順番が大事である。神さまに近づくことによって、はじめて悪魔は私たちから去っていく。神さまに近づきもしないならば、悪魔は私たちから去ることはない。  神に近づく者のすることは、このみことばにあるとおり、罪人の手をきよめることである。つまり、間違っている罪深い行動を一切断ち切ることができるように、祈って取り組むことである。しかしそのためには、二心をきよめる、つまり、みこころに従いたい御霊の思いと、肉に従いたい思いが同居するこの二心を、完全に御霊の思いに従わせる。日々の主との交わりは、私たちにそのような献身をもたらす。こうして心が完全に主に向かうことではじめて、肉に従った罪深い行いから人は自由にしていただき、そういう者から悪魔は逃げ去る。  しかしそのための取り組みは生半可なものではない。9節を見よう。これは「いつも喜んでいなさい」というみこころと何ら矛盾しない。変えるべき喜びは、伝道者の書7章6節が語るような喜びである。だらだらとテレビやスマホを眺めて楽になった気になろうとも、神さまとの交わりがないために生まれる大きな危機から救ってはくれない。自分がどんなに大変なところにいるか自覚するなら、泣きわめくしかない。そして、徹底した悔い改めをするしかない。  10節。そのようにしてへりくだる者を主は高くしてくださる。いつ高くされるか、それはこの地上に生きている間のいつかかはわからなくても、世の終わり、新天新地が始まり、イエスさまが王として永遠に統べ治められる御国において、確実に私たちは高く引き上げていただける。それは、それだけ私たちが主のみこころにしたがってへりくだることによって、この地において主のご栄光をあらわすことができたことを、「よくやった。よい忠実なしもべだ」と、主が最大限にほめてくださるからである。  そうすることが平和をつくることにつながるのだが、11節、12節を読んでいただきたい。私たちが平和をつくるうえで妨げとなることがある。それは、互いをさばきあう、ということである。  しかし、人をさばく人は言うかもしれない。これはさばいているわけではない。悪口を言っているわけではない。建設的な批判だ。共同体の益のために必要なことだ。しかし、それは神さまから見れば、人をさばいていることに変わりはない。  人をさばく人がよって立つものは、神のみことばだろう。見なさい、この人はこんなにもみことばから外れている、よってみこころにかなっていない、罪人だ。  しかし、これはみことばを尊重していることではない。人を愛するための定めを人をさばくための定めに引き下げるという、たいへんな罪を犯していることになる。それが、律法をさばき、律法の悪口を言うということである。  私たちがクリスチャンをさばくとすると、そのように兄弟姉妹をさばく行動は、そうか、キリスト教は神のことばを盾に人をさばく宗教なのか、神のことばとはそういう冷たいものなのか、という未信者の印象につながったりしかねない。そうなると、どれほど聖書のみことば、神のおきては間違って受け取られ、そしられることになるだろうか。  人をさばくことはそれだけではない。神さまになり代わってさばき主の座につくという、この上なく不遜な態度を取っていることになる。若者がよく、分不相応な発言をする者に対して、誰だよ、などと言ったりするが、人をさばく者などは、神さまからしたらまさしく「誰だよ」である。  このように、みことばを軽んじ、神さまになり代わる、ここから争いが生じ、平和が壊される。だから、平和をつくる者となるためにまずすることは、神を神とし、みことばに従って人を尊重し、人を愛することである。  私たちはだれからも、神の子と呼んでいただくにふさわしくありたいと願わないだろうか? それは私たちの中に戦う欲望があるかぎりとてもむずかしい。まず、そのような私たちであることを神さまの御前に謙遜に認め、そこから救っていただくべく、神さまのあわれみと恵みを求めていこう。

ひとつの家族

聖書箇所;エペソ人への手紙2:11~22 メッセージ題目;ひとつの家族  先週、私ども一家は韓国に行ってきた。ちょうどいま、パリオリンピックが開かれていて、日本に戻ってニュースを見てみると、いま韓国は愛国心の高揚とともに、反日感情が高まっているともいう。  それはそうかもしれない。今回の韓国滞在で、私は西大門刑務所跡の記念館に行ってきた。西大門刑務所は、日本が韓国を支配していた20世紀初頭につくられた、ソウル市内の一等地にありながらきわめて大きなもので、建築当時のレンガ造りの建物を今に残す。そこには、かつて日本が独立運動家たちに対してどれほど残酷なことをしてきたかがこれでもかと示されていて、その膨大な展示を前にしては、日本人としてさすがにうなだれるほかない。極めつけは、その片隅に今も残る小さな建物である。死刑台の建物。そこはさすがに中にまで入ることはできないが、建物に手で触ることができるほどには近づける。  こういう歴史をしっかり後世に残している国と民族が、日本に対して反感を持たないほうがおかしいと考えるべきであろう。ときどき日本では、韓国は反日教育を行なっていると批判する人がいるが、そういう批判は韓国の人にしてみれば大きなお世話であろう。日本でも、たとえば広島や長崎が原爆を記念し、のちの世代に教育することは当然のことである。もしそうしなかったら、それこそおかしいわけで、日本に支配された過去を今に伝えるのも、それと同じことではないだろうか?   そのような中で、オリンピックのような機会ともなると、やはり日本憎しの感情が盛り上がるのも仕方なかろうと思う。これは日本人が批判すべきことではない。しかしである。韓国には、このような日本を赦し、受け入れ、日本のために祈っている人たちがいる。それはクリスチャンたちである。今年の夏も韓国教会は日本の各地に短期宣教チームを送っている。なんとか日本にリバイバルが起きてほしいという、切なる思いで祈りをもって仕えてくださっている。  私は大学生のときだから30年近く前になるが、当時の日本の教会は「リバイバル」ということが一種の合言葉になっていた。私もその中で、「燃える」ムーブメントに身を投じていた。それは、100年以上宣教活動が続いていても一向に成長しない日本の教会に対して、一種の危機意識をいだいていたからではないかと思う。私はキャンパス・クルセードに入って伝道の訓練を受けたり、大きな集会に行って大声で祈ったり歌ったりした。しかし、一向に教会の成長の兆しは見えてこなかった。  きょうのみことばは、そのような葛藤の中にあり、日本ではなく、韓国の神学校で学ぶことを決意し、その入学試験のために韓国に行ったとき、ひとり聖書を読んでいて、示されたみことばである。この箇所は、過去、現在、未来の、三つの時制で語ることができるので、順番に見ていきたい。  まずは「過去」。過去、彼らエペソのクリスチャンたちは、とても悲惨な状態にあった。11節、12節。……福音が伝えられ、それを信じ受け入れる前のエペソの人たちの状態。まず彼らは、割礼を施されていない者だったとある。割礼は、創造主なる神さまとの契約のうちにあるというしるしに、男子が性器の包皮を切り取る儀式で、そのように肉体に痕跡を残しているということは、まさしくイスラエル、ユダヤという、神の民であることの証しだった。それも男性に限っての儀式であり、きわめてユニークな方法である。 そういうイスラエル、ユダヤにしてみれば、割礼を受けていないということは、イコール、神の民でない、はなはだしくは神に敵対する、憎むべき存在、ということになる。少年ダビデが巨人ゴリアテと闘ったとき、ダビデはゴリアテのことを、無割礼のペリシテ人と呼んで闘いに赴いたが、割礼か無割礼かということは、神の民にとってそれほど重要なことである。そしてもともとの神の民イスラエル、ユダヤからしてみれば、エペソの人たちは、無割礼の異邦人の群れである。 また、エペソの人たちは、「キリストから離れ」とある。道であり、真理であり、いのちであるお方、御父に至る唯一の道なるお方、このお方に出会うことなしに、どのようにしてまことの神さまを信じることができるだろうか? 約束の契約については他国人、つまり、神の民として、神さまが契約を結んでくださった民族ではない、というわけである。家であれ車であれ、売る人と買う人の契約というものをとおしてはじめて買う人の手に入るように、契約によって神さまは人に、神の民としての市民権を与えられる。イエスさまに出会っていないということは、アブラハムと交わされた契約のまことの成就である、イエスさまの十字架の血潮という契約などそもそも関係ない。そういう者であるならば、いったいどうやって創造主なる神さまに出会うことができるだろうか。まことの望みを与えてくださる神さまに出会うことができるだろうか。 ただ、彼らは、偶像にすぎないアルテミスを崇拝することで、宗教心を満足させるのが精いっぱいで、それではとてもまことの神さまに出会うことなど叶わなかった。異邦人とは、そのようなかぎりなく悲惨な状況にある存在である。このような存在に、救いはあるのだろうか?    そこで「現在」を見てみよう。彼らエペソの人たちは、キリスト・イエスによって神の民とされた。 ひとつ前のみことばの中の、「キリストから遠く離れ」ということばがかぎになる。キリストとは、道であり、真理であり、いのちであるお方である。このキリストを通してでなければ、父なる神さまに出会うことはない。 しかし、ほんとうのことを言うと、キリストから遠く離れていたのは、ユダヤ人も同じだった。我らこそはメシア待望の民、という自負心をいだいていた彼らだった。そんな彼らはイエスさまをキリストと認めず、十字架につけた。彼らもほんとうの意味でキリストに出会っていなかった。 しかし、キリスト・イエスの十字架を信じることにより神さまとの和解に導かれる、その信仰は、ユダヤ人から始まった。ペテロの説教で悔い改め、ほんとうの意味で神の民になった人たちが大いに増やされ、エルサレムに教会が形成された。この、キリストにつくユダヤ人と同じように、異邦人ゆえにまことの神に対する望みのなかったエペソの人たちも、キリスト・イエスの十字架を信じる信仰へと導かれた。 13節。「近い者となりました」とある。だれと近い者となったのか? それは、外見上の割礼によらず、イエスさまへの信仰によってまことの神の民とされたユダヤ人であり、そしてそれ以上に、そのようにまことの救いに導いてくださった、神さまに近い者とされた、ということである。もはや以前のような、神さまからも神の民からも無関係な、悲惨な存在ではなくなったのである。 14節から16節。この箇所の主語はキリストである。言うまでもなく、ユダヤ人たちが思い描いていたようなキリストではなく、イエス・キリストである。イエスさまは十字架にお掛かりになることで、イエスさまを信じる者を神さまと和解させてくださり、そのようにして、ご自身をとおして神さまに近づく者どうしを、和解に導いてくださった。お互いの間に存在していた敵意も、滅ぼしてくださった。 平和をつくる者は幸いです、とイエスさまはおっしゃった。世界のさまざまな人たちは、争いと憎しみの絶えない世界において、平和をつくる働きに献身している。それはとても素晴らしいことである。では、平和をつくる者は幸いです、とイエスさまに言われている私たちクリスチャンは、どのようにして平和をつくる働きに参与するのだろうか? それは、イエスさまを信じる者どうしで、手に手を携えるところから始まるのではないだろうか? そのようにして和解に導かれ、敵意が滅ぼされるだけではない。17節。……ユダヤはたしかにまことの神さまに近い存在だが、ほんとうの意味でイエスさまを受け入れていたわけではない。まことの神さまから遠い存在の異邦人の場合はなおさらである。どの国も、クリスチャンの多い少ないにかかわらず、宣教が必要である。その宣教のわざを通して、神さまから近い民族にも、神さまから遠い民族にも、ほんとうの意味での平和の福音は伝えられ、一つとなって御父に近づく。それがいずれ、民族どうしの和解へと導かれると、私たちは信じてまいりたい。 私たち日本のクリスチャンは、たしかにこの国に暮らしていると、マイノリティとしての弱さを痛感させられる。しかし、どうか元気を出していただきたい。私たちはけっして、彼らに見劣りする存在ではない。 私は神学生のとき、神学校のある授業で、教授に突然指されて質問されたことがあった。「日本にはどれくらいクリスチャンがいますか?」私は正確な数字を知っていたわけではなかったが、よく言われる日本のクリスチャンの割合からざっと計算してみて、そうですね、27万人くらいでしょうか、とお答えした。クリスチャンばかりの国に生まれ育った韓国人の神学生たちを前にして、恥ずかしいな、という思いもあったが、教授はすぐにこうおっしゃった。「そうですか! それなら、決して少なくありませんね!」私はこのおことばに、どれほど励まされたかわからなかった。 私たちが日本のクリスチャンであることは、誇りとすべきことである。この国の中から、この民族の中から、イエスさまを信じる信仰へと導かれた、それによって世界の兄弟姉妹とともに神さまに近づく存在とされた、なんとすばらしいことであろうか。 19節……創造主なるイエス・キリストを中心に、すべての民族はひとつの家族とされる。ことばや民族がちがおうとも、同じ家族である。このことをどうか、信仰によって受け取っていただきたい。 最後に、未来の姿。20節から22節。……民族は、単に和解させられるだけではない。創造主なるキリスト、王の王なるキリストのからだである教会を、ともに形づくる。 20節を見ると、使徒たちや預言者たちという土台、とある。使徒の著したものは新約聖書であり、預言者たちの著したものは旧約聖書である。旧約と新約、この聖書全体を土台として、教会は建てられる。 そして、その聖書の啓示するお方、キリスト・イエスを基として、教会が建てられる。いかに聖書を学び、また伝えていても、キリスト・イエスが伝わっていないならば、それは「異端」である。それをキリスト信仰と呼んではならない。しかし私たちクリスチャンはそうではない。私たちは、聖書において啓示されたお方、イエスさまを中心に、この教会、共同体を建てるべく召されている。 教会という場所は、神さまに礼拝をささげ、祈り、交わりを行い、みことばに学び、奉仕し、みことばを宣べ伝えるべく、この地上に存在する共同体である。しかしそれは、特定の民族や言語にかぎって形成する共同体ではない。民族や言語の枠を超えて、神さまに創造され、イエスさまの十字架を信じる信仰によって贖われたどうしが、ともに形づくるもの、それがまことの教会である。 しかし私たちは、この教会に対して視線を注ぐのと同時に、もうひとつのビジョン、究極のビジョンに目を留める必要があろう。それは、世の終わりのビジョンである。ヨハネの黙示録、5章6節から14節。……この大礼拝が想像できるだろうか? あらゆる民族から、あらゆる部族から、あらゆることばを話す民から、救われて主を礼拝する。この世の終わりに、私たち日本のクリスチャンも、多くの民族、部族、ことばを話す民に交じって、主の御前に召し出される。私たちはその日まで、和解の福音を語り、人々を神さまと和解させ、敵対するどうしを、福音によって和解に導く働きに用いていただこう。この民に、私たちは福音を語っていこう。そして、ともに教会形成に励み、キリストのからだなる共同体をこの地にうち立てる働きに用いられていこう。 私たちの過去を思うと、どれほど悲惨だったことだろうか。神さまから離れていた、それが私たちの現実だった。祝福を受けた民からするとこの日本は悲惨に思えてならなかったことだろう。しかし私たちは、イエスさまを信じ受け入れる信仰に導いていただき、神さまに近づき、神の民に加えていただいた。そのような私たちは今後、神さまによって召された者どうし、キリストのからだなる教会という共同体をこの地にうち立てていくように求められている。 この、喜びあふれるわざに用いられる私たちとなるように祈ろう。