ひとつの家族

聖書箇所;エペソ人への手紙2:11~22 メッセージ題目;ひとつの家族  先週、私ども一家は韓国に行ってきた。ちょうどいま、パリオリンピックが開かれていて、日本に戻ってニュースを見てみると、いま韓国は愛国心の高揚とともに、反日感情が高まっているともいう。  それはそうかもしれない。今回の韓国滞在で、私は西大門刑務所跡の記念館に行ってきた。西大門刑務所は、日本が韓国を支配していた20世紀初頭につくられた、ソウル市内の一等地にありながらきわめて大きなもので、建築当時のレンガ造りの建物を今に残す。そこには、かつて日本が独立運動家たちに対してどれほど残酷なことをしてきたかがこれでもかと示されていて、その膨大な展示を前にしては、日本人としてさすがにうなだれるほかない。極めつけは、その片隅に今も残る小さな建物である。死刑台の建物。そこはさすがに中にまで入ることはできないが、建物に手で触ることができるほどには近づける。  こういう歴史をしっかり後世に残している国と民族が、日本に対して反感を持たないほうがおかしいと考えるべきであろう。ときどき日本では、韓国は反日教育を行なっていると批判する人がいるが、そういう批判は韓国の人にしてみれば大きなお世話であろう。日本でも、たとえば広島や長崎が原爆を記念し、のちの世代に教育することは当然のことである。もしそうしなかったら、それこそおかしいわけで、日本に支配された過去を今に伝えるのも、それと同じことではないだろうか?   そのような中で、オリンピックのような機会ともなると、やはり日本憎しの感情が盛り上がるのも仕方なかろうと思う。これは日本人が批判すべきことではない。しかしである。韓国には、このような日本を赦し、受け入れ、日本のために祈っている人たちがいる。それはクリスチャンたちである。今年の夏も韓国教会は日本の各地に短期宣教チームを送っている。なんとか日本にリバイバルが起きてほしいという、切なる思いで祈りをもって仕えてくださっている。  私は大学生のときだから30年近く前になるが、当時の日本の教会は「リバイバル」ということが一種の合言葉になっていた。私もその中で、「燃える」ムーブメントに身を投じていた。それは、100年以上宣教活動が続いていても一向に成長しない日本の教会に対して、一種の危機意識をいだいていたからではないかと思う。私はキャンパス・クルセードに入って伝道の訓練を受けたり、大きな集会に行って大声で祈ったり歌ったりした。しかし、一向に教会の成長の兆しは見えてこなかった。  きょうのみことばは、そのような葛藤の中にあり、日本ではなく、韓国の神学校で学ぶことを決意し、その入学試験のために韓国に行ったとき、ひとり聖書を読んでいて、示されたみことばである。この箇所は、過去、現在、未来の、三つの時制で語ることができるので、順番に見ていきたい。  まずは「過去」。過去、彼らエペソのクリスチャンたちは、とても悲惨な状態にあった。11節、12節。……福音が伝えられ、それを信じ受け入れる前のエペソの人たちの状態。まず彼らは、割礼を施されていない者だったとある。割礼は、創造主なる神さまとの契約のうちにあるというしるしに、男子が性器の包皮を切り取る儀式で、そのように肉体に痕跡を残しているということは、まさしくイスラエル、ユダヤという、神の民であることの証しだった。それも男性に限っての儀式であり、きわめてユニークな方法である。 そういうイスラエル、ユダヤにしてみれば、割礼を受けていないということは、イコール、神の民でない、はなはだしくは神に敵対する、憎むべき存在、ということになる。少年ダビデが巨人ゴリアテと闘ったとき、ダビデはゴリアテのことを、無割礼のペリシテ人と呼んで闘いに赴いたが、割礼か無割礼かということは、神の民にとってそれほど重要なことである。そしてもともとの神の民イスラエル、ユダヤからしてみれば、エペソの人たちは、無割礼の異邦人の群れである。 また、エペソの人たちは、「キリストから離れ」とある。道であり、真理であり、いのちであるお方、御父に至る唯一の道なるお方、このお方に出会うことなしに、どのようにしてまことの神さまを信じることができるだろうか? 約束の契約については他国人、つまり、神の民として、神さまが契約を結んでくださった民族ではない、というわけである。家であれ車であれ、売る人と買う人の契約というものをとおしてはじめて買う人の手に入るように、契約によって神さまは人に、神の民としての市民権を与えられる。イエスさまに出会っていないということは、アブラハムと交わされた契約のまことの成就である、イエスさまの十字架の血潮という契約などそもそも関係ない。そういう者であるならば、いったいどうやって創造主なる神さまに出会うことができるだろうか。まことの望みを与えてくださる神さまに出会うことができるだろうか。 ただ、彼らは、偶像にすぎないアルテミスを崇拝することで、宗教心を満足させるのが精いっぱいで、それではとてもまことの神さまに出会うことなど叶わなかった。異邦人とは、そのようなかぎりなく悲惨な状況にある存在である。このような存在に、救いはあるのだろうか?    そこで「現在」を見てみよう。彼らエペソの人たちは、キリスト・イエスによって神の民とされた。 ひとつ前のみことばの中の、「キリストから遠く離れ」ということばがかぎになる。キリストとは、道であり、真理であり、いのちであるお方である。このキリストを通してでなければ、父なる神さまに出会うことはない。 しかし、ほんとうのことを言うと、キリストから遠く離れていたのは、ユダヤ人も同じだった。我らこそはメシア待望の民、という自負心をいだいていた彼らだった。そんな彼らはイエスさまをキリストと認めず、十字架につけた。彼らもほんとうの意味でキリストに出会っていなかった。 しかし、キリスト・イエスの十字架を信じることにより神さまとの和解に導かれる、その信仰は、ユダヤ人から始まった。ペテロの説教で悔い改め、ほんとうの意味で神の民になった人たちが大いに増やされ、エルサレムに教会が形成された。この、キリストにつくユダヤ人と同じように、異邦人ゆえにまことの神に対する望みのなかったエペソの人たちも、キリスト・イエスの十字架を信じる信仰へと導かれた。 13節。「近い者となりました」とある。だれと近い者となったのか? それは、外見上の割礼によらず、イエスさまへの信仰によってまことの神の民とされたユダヤ人であり、そしてそれ以上に、そのようにまことの救いに導いてくださった、神さまに近い者とされた、ということである。もはや以前のような、神さまからも神の民からも無関係な、悲惨な存在ではなくなったのである。 14節から16節。この箇所の主語はキリストである。言うまでもなく、ユダヤ人たちが思い描いていたようなキリストではなく、イエス・キリストである。イエスさまは十字架にお掛かりになることで、イエスさまを信じる者を神さまと和解させてくださり、そのようにして、ご自身をとおして神さまに近づく者どうしを、和解に導いてくださった。お互いの間に存在していた敵意も、滅ぼしてくださった。 平和をつくる者は幸いです、とイエスさまはおっしゃった。世界のさまざまな人たちは、争いと憎しみの絶えない世界において、平和をつくる働きに献身している。それはとても素晴らしいことである。では、平和をつくる者は幸いです、とイエスさまに言われている私たちクリスチャンは、どのようにして平和をつくる働きに参与するのだろうか? それは、イエスさまを信じる者どうしで、手に手を携えるところから始まるのではないだろうか? そのようにして和解に導かれ、敵意が滅ぼされるだけではない。17節。……ユダヤはたしかにまことの神さまに近い存在だが、ほんとうの意味でイエスさまを受け入れていたわけではない。まことの神さまから遠い存在の異邦人の場合はなおさらである。どの国も、クリスチャンの多い少ないにかかわらず、宣教が必要である。その宣教のわざを通して、神さまから近い民族にも、神さまから遠い民族にも、ほんとうの意味での平和の福音は伝えられ、一つとなって御父に近づく。それがいずれ、民族どうしの和解へと導かれると、私たちは信じてまいりたい。 私たち日本のクリスチャンは、たしかにこの国に暮らしていると、マイノリティとしての弱さを痛感させられる。しかし、どうか元気を出していただきたい。私たちはけっして、彼らに見劣りする存在ではない。 私は神学生のとき、神学校のある授業で、教授に突然指されて質問されたことがあった。「日本にはどれくらいクリスチャンがいますか?」私は正確な数字を知っていたわけではなかったが、よく言われる日本のクリスチャンの割合からざっと計算してみて、そうですね、27万人くらいでしょうか、とお答えした。クリスチャンばかりの国に生まれ育った韓国人の神学生たちを前にして、恥ずかしいな、という思いもあったが、教授はすぐにこうおっしゃった。「そうですか! それなら、決して少なくありませんね!」私はこのおことばに、どれほど励まされたかわからなかった。 私たちが日本のクリスチャンであることは、誇りとすべきことである。この国の中から、この民族の中から、イエスさまを信じる信仰へと導かれた、それによって世界の兄弟姉妹とともに神さまに近づく存在とされた、なんとすばらしいことであろうか。 19節……創造主なるイエス・キリストを中心に、すべての民族はひとつの家族とされる。ことばや民族がちがおうとも、同じ家族である。このことをどうか、信仰によって受け取っていただきたい。 最後に、未来の姿。20節から22節。……民族は、単に和解させられるだけではない。創造主なるキリスト、王の王なるキリストのからだである教会を、ともに形づくる。 20節を見ると、使徒たちや預言者たちという土台、とある。使徒の著したものは新約聖書であり、預言者たちの著したものは旧約聖書である。旧約と新約、この聖書全体を土台として、教会は建てられる。 そして、その聖書の啓示するお方、キリスト・イエスを基として、教会が建てられる。いかに聖書を学び、また伝えていても、キリスト・イエスが伝わっていないならば、それは「異端」である。それをキリスト信仰と呼んではならない。しかし私たちクリスチャンはそうではない。私たちは、聖書において啓示されたお方、イエスさまを中心に、この教会、共同体を建てるべく召されている。 教会という場所は、神さまに礼拝をささげ、祈り、交わりを行い、みことばに学び、奉仕し、みことばを宣べ伝えるべく、この地上に存在する共同体である。しかしそれは、特定の民族や言語にかぎって形成する共同体ではない。民族や言語の枠を超えて、神さまに創造され、イエスさまの十字架を信じる信仰によって贖われたどうしが、ともに形づくるもの、それがまことの教会である。 しかし私たちは、この教会に対して視線を注ぐのと同時に、もうひとつのビジョン、究極のビジョンに目を留める必要があろう。それは、世の終わりのビジョンである。ヨハネの黙示録、5章6節から14節。……この大礼拝が想像できるだろうか? あらゆる民族から、あらゆる部族から、あらゆることばを話す民から、救われて主を礼拝する。この世の終わりに、私たち日本のクリスチャンも、多くの民族、部族、ことばを話す民に交じって、主の御前に召し出される。私たちはその日まで、和解の福音を語り、人々を神さまと和解させ、敵対するどうしを、福音によって和解に導く働きに用いていただこう。この民に、私たちは福音を語っていこう。そして、ともに教会形成に励み、キリストのからだなる共同体をこの地にうち立てる働きに用いられていこう。 私たちの過去を思うと、どれほど悲惨だったことだろうか。神さまから離れていた、それが私たちの現実だった。祝福を受けた民からするとこの日本は悲惨に思えてならなかったことだろう。しかし私たちは、イエスさまを信じ受け入れる信仰に導いていただき、神さまに近づき、神の民に加えていただいた。そのような私たちは今後、神さまによって召された者どうし、キリストのからだなる教会という共同体をこの地にうち立てていくように求められている。 この、喜びあふれるわざに用いられる私たちとなるように祈ろう。