平和をつくるために
聖書箇所;ヤコブの手紙4章1節〜12節 メッセージ題目;「平和をつくるために」 先週の15日、日本は終戦記念日を迎えた。1945年8月15日、昭和天皇のスピーチがラジオ放送され、日本国民が敗戦を知った日である。しかしこの日はところ変われば、まったく違う意味を持つ。韓国なら何の日だろうか? 光復節といい、同じ1945年8月15日、日本の支配から脱したことを記念する日である。 このような、戦争を記念することにおいて世間がデリケートになっているさなか、パリオリンピックのメダリストが、戦争の記念館を訪問したいと発言して物議をかもした。その反響が韓国や中国のような国に及んでいるのを見ると、つくづく、このようなことを語ることの難しさを痛感するものである。 私は韓国人と国際結婚をしたほか、韓国とのつながりを人一倍持ちつづけてきた立場から、日本は韓国と平和を保ってほしいと願うし、また、同じように世界が平和でいてほしいと願う。それはクリスチャンにかぎらず、人であるならばだれもが願うべきことだろう。 私たちクリスチャンは、イエスさまから、平和をつくる人は幸いです、その人は神の子と呼ばれるからです、と言っていただいている存在である。イエスさまを信じて神の子にしていただいているならば、主が願っていらっしゃるように、平和を愛するのみならず、平和をつくり出してしかるべきである。それでは、私たちはどのようにして平和をつくるのだろうか? 今日のみことばはそのことを語っている。 1節。みことばは、なぜ人は戦い、争うのか、それはその人の欲望が、戦いたいと願うから、争いたいと願うから、と喝破する。何か人のせい、環境のせいではない、自分のせいで戦い、争うのである。 2節。その、戦い、争う欲望はどこから出てくるのかが語られている。そう、何ものかを欲しがっても、それが手に入れられない場合、戦ったり、争ったりする。世界で起きている戦争や紛争など、まさに領土や財産を手に入れようとしての争いだろう。まさにそれゆえの破壊と人殺し、それが戦争、紛争である。 しかし、この「人殺し」というものは、実際に人のことをあやめるという行動に出なくても、私たちがしてしまう罪であることを、イエスさまは言っておられる(マタイ5:22、23)。主にある兄弟に「おまえは馬鹿だ」と腹を立てることが人殺しであり、それは最高のさばきを受けて地獄ゆきがふさわしい、と。考えてみよう。私たちは欲しいものが自分のものにならないと、「いいなー」はまだしも、「不公平だ」とか「けち」とか「あいつばかりいい思いして」とか、人を引き下げるようなことを思ったり、口にしたりしないだろうか。 そういう態度は神さまの御前で一切正当化されない。なぜそのようなことを言ったりしてはいけないか。それは、神さまが愛してやまない存在をさばく、すなわち、神さまの愛のみこころをかぎりなく粗末にすることだからである。言い換えれば、神さまのみこころを傷つけることである。この、さばくということの害悪については、あとであらためて学んでみたい。 2節の続きを読むと、願っても欲しいものが手に入らないのは、求めないからだ、とある。神さまは必要とあらば必ずくださるのに、祈り求めないから、もらえるものももらえなくなる。 しかし、祈りはしたものの、手に入らない場合もある。それは3節で語っているとおりである。悪い動機、肉的な動機で願っているから、というわけである。私たちがみこころにかなっていると思って祈り求めているものが、実は神さまのみこころと関係ない、自分の肉欲でしかなかったということは案外あるものである。もし、祈り求めている対象がそういうものだったら、それを手に入れるために、あくどい手段を選ぶことも辞さないだろう。しかしそうなるとそれはもはや、祈って求めていることにはならない。 4節を見てみよう。このような自己中心の祈りは、世を愛することであり、それは神に敵対すること、節操のないことであると語る。しかし私たちは考えないだろうか? ヨハネ3章16節のみことばはたしかに、神はひとり子イエスさまをくださるほどにこの世を愛された、神さまがこの世を愛しておられるのに、私たちはこの世を愛してはならないのか? しかし、ここでいう「世を愛する」というのは、「神の愛」ではない。聖書を原語で読むとフィレオーの愛、すなわちもとが兄弟愛を意味することばだから、「世の仲間になる」こととでも解釈すればいいだろう。このみことばではそれを「世の友となる」と言い換えている。つまり、神さまのみこころを知って、神さまが私たちに必要と定めていらっしゃるものを求める代わりに、世の中の人たちの価値観にしたがって、世の中の人たちがあたりまえのように求めているものを求めること、あたかもそれが神さまのみこころであるかのように振る舞うことを、厳しく戒めているわけである。 世はそもそも、神さまにお従いすることを選ばない。少しでも神さまのみこころが漂うように思えたら、たちどころに拒否する。それが世の中であるのだから、私たちはもしかしたら、世の人たちから嫌われたくない一心で、いろいろな面で妥協したりしていないだろうか。「いや、そのようにして自分はこの世にイエスさまを証ししている」とでも言うのだろうか。しかしそれでも、実際はこの世に妥協している点では変わらない。 この世に妥協することは、イエスさまを証しすることにはならない。なぜならば私たちがこの世に妥協してみせたところで、この世はそれをクリスチャンとして当然の態度と思いこそすれ、私たちのへりくだりを認めてイエスさまを信じたりなどしないからである。私たちがこの世においてイエスさまを証しするために必要なことは、イエスさまを脇に置いてこの世に妥協することではなく、たとえ世の中からどう思われようとも、イエスさまにお従いする態度を徹底することである。 5節のみことばは、神さまが私たちをどう思っていらっしゃるか、ということを語っている。このみことばは2種類の訳し方をすることができ、それはこの聖書本文、また欄外の訳注にそれぞれ書かれているが、まず父なる神さまは、私たちのうちに御霊なる神さまを住まわせてくださっている。そして、私たちのうちに住まわせられた御霊を御父がねたむほど慕っておられる、ということは、欄外の別訳でもわかるとおり、御霊が私たちのことをねたむほど慕っておられる、ということ。 私たちは御霊に満たされるべき存在である。なぜならば、私たちはもはや世の者、肉に属するものではなく、神のもの、キリストのものだからである。御霊に満たされることは、神さまが願っていらっしゃることであり、御霊に満たされるなら、私たちは世の思いではなく、神さまのみこころに従うことができるようになる。御霊なる主は、私たちの努力でどうにもならない、神さまにお従いすることをできるようにしてくださるお方である。 それが、私たちには御霊さまというお方がありながら、神さまのみこころを無視する歩みをするならばどうであろうか。主なる神はねたむ神である。ねたむ、というと、私たちはつい人間的などろどろした、否定的なものととらえがちかもしれないが、自分の愛する人をどこの馬の骨とも知れぬものに取られ、帰ってこないなら、そのとき覚える感情は「ねたみ」といっていいのではないだろうか? 果たして、神さま以上の愛を注ぐことのできる存在がこの世にあるというのか? それを知っていてなお、ほかのものに心を寄せるならば、それは神さまの御怒りを買うべきことである。 しかし、神さまは私たちに怒ってばかりのお方ではない。6節のみことば。神さまは豊かに恵んでくださる。神さまのおおもとのみこころは、救いという最高の恵みを与えていただいた私たちのことを、さらに豊かに恵んでくださることにある。 神さまは私たちを恵みたい。なぜなら、私たちの身代わりに御子イエスさまを十字架につけてくださったほどに、私たちのことを愛してくださっているからである。肉の思い、この世の思いに浮気しないで、ただ一心に神さまに向かう私たちのことを、神さまは恵まずにはいられない。神さまの愛を信頼しよう。 しかし、条件がある。高ぶらないでへりくだることである。高ぶるとは、神さまを認めないで自分中心に振る舞うこと。へりくだるとは、神さまを認めて被造物、神のしもべ、キリストの弟子としての分をわきまえて振る舞うことである。へりくだっているならば、互いを自分よりもまさった人だと心から認めることができ、その態度で生きる人を神さまは喜んでくださる。そのような人を大いに恵んでくださる。 そのために必要なことは何だろうか? 7節。まず、神に従うこと、それから、悪魔に対抗することである。この順番を間違えてはならない。神に従うとは、8節にあるとおり、神に近づくことによって可能となる。8節のみことばは、神に近づく者に神さまが近づいてくださることを語っている。自堕落な生活をやめないでいる人に神さまが近づいてくださることを期待する前に、まず悔い改めて神さまのみもとに行く必要がある。ここでも順番が大事である。神さまに近づくことによって、はじめて悪魔は私たちから去っていく。神さまに近づきもしないならば、悪魔は私たちから去ることはない。 神に近づく者のすることは、このみことばにあるとおり、罪人の手をきよめることである。つまり、間違っている罪深い行動を一切断ち切ることができるように、祈って取り組むことである。しかしそのためには、二心をきよめる、つまり、みこころに従いたい御霊の思いと、肉に従いたい思いが同居するこの二心を、完全に御霊の思いに従わせる。日々の主との交わりは、私たちにそのような献身をもたらす。こうして心が完全に主に向かうことではじめて、肉に従った罪深い行いから人は自由にしていただき、そういう者から悪魔は逃げ去る。 しかしそのための取り組みは生半可なものではない。9節を見よう。これは「いつも喜んでいなさい」というみこころと何ら矛盾しない。変えるべき喜びは、伝道者の書7章6節が語るような喜びである。だらだらとテレビやスマホを眺めて楽になった気になろうとも、神さまとの交わりがないために生まれる大きな危機から救ってはくれない。自分がどんなに大変なところにいるか自覚するなら、泣きわめくしかない。そして、徹底した悔い改めをするしかない。 10節。そのようにしてへりくだる者を主は高くしてくださる。いつ高くされるか、それはこの地上に生きている間のいつかかはわからなくても、世の終わり、新天新地が始まり、イエスさまが王として永遠に統べ治められる御国において、確実に私たちは高く引き上げていただける。それは、それだけ私たちが主のみこころにしたがってへりくだることによって、この地において主のご栄光をあらわすことができたことを、「よくやった。よい忠実なしもべだ」と、主が最大限にほめてくださるからである。 そうすることが平和をつくることにつながるのだが、11節、12節を読んでいただきたい。私たちが平和をつくるうえで妨げとなることがある。それは、互いをさばきあう、ということである。 しかし、人をさばく人は言うかもしれない。これはさばいているわけではない。悪口を言っているわけではない。建設的な批判だ。共同体の益のために必要なことだ。しかし、それは神さまから見れば、人をさばいていることに変わりはない。 人をさばく人がよって立つものは、神のみことばだろう。見なさい、この人はこんなにもみことばから外れている、よってみこころにかなっていない、罪人だ。 しかし、これはみことばを尊重していることではない。人を愛するための定めを人をさばくための定めに引き下げるという、たいへんな罪を犯していることになる。それが、律法をさばき、律法の悪口を言うということである。 私たちがクリスチャンをさばくとすると、そのように兄弟姉妹をさばく行動は、そうか、キリスト教は神のことばを盾に人をさばく宗教なのか、神のことばとはそういう冷たいものなのか、という未信者の印象につながったりしかねない。そうなると、どれほど聖書のみことば、神のおきては間違って受け取られ、そしられることになるだろうか。 人をさばくことはそれだけではない。神さまになり代わってさばき主の座につくという、この上なく不遜な態度を取っていることになる。若者がよく、分不相応な発言をする者に対して、誰だよ、などと言ったりするが、人をさばく者などは、神さまからしたらまさしく「誰だよ」である。 このように、みことばを軽んじ、神さまになり代わる、ここから争いが生じ、平和が壊される。だから、平和をつくる者となるためにまずすることは、神を神とし、みことばに従って人を尊重し、人を愛することである。 私たちはだれからも、神の子と呼んでいただくにふさわしくありたいと願わないだろうか? それは私たちの中に戦う欲望があるかぎりとてもむずかしい。まず、そのような私たちであることを神さまの御前に謙遜に認め、そこから救っていただくべく、神さまのあわれみと恵みを求めていこう。