教会は癒やしの共同体

聖書箇所;ヤコブの手紙5章13節~20節 メッセージ題目;「教会は癒やしの共同体」  ヤコブの手紙の学びも今日で最後となった。私たちはここまで、信仰とは行いあってこそということを学んできた。さて、その行いが、教会という共同体の中では、どのように実が結ばれるものだろうか? 今日の箇所をお読みするとまず、祈り、そして賛美をおささげすることに始まっていることがわかる。  13節。私たちの間で苦しんでいない人などひとりもいない。自分は何も苦しんでいない、という人がいるかもしれないが、そういう人もどこかで苦しんでいるものである。そのように、私たちはみな苦しんでいる。しかし私たちクリスチャンは神の子どもたちである。私たちが苦しむ姿を見つめてくださっている天の父なる神さまが私たちにはおられる。私たちが神さまに叫び求めるならば、神さまはその叫びに耳を傾けてくださり、必ず応えてくださる。  とはいえ、この叫び求める祈りを予想外に長くささげなければならない時も、私たちにはあるかもしれない。イエスさまはおっしゃっている。求めなさい、そうすれば与えられます。探しなさい、そうすれば見つかります。門をたたきなさい。そうすれば開かれます。しかし、このみことばは、求めつづけなさい、探しつづけなさい、門をたたきつづけなさい、という意味なのはみなさまご存知だろう。とすると、この苦しみから解放してください、というお祈りも、応えられるまでずっと、ずっと、ささげなければならない、ということも起こってくるかもしれない。  しかし、ここは神さまの愛を信頼していただきたい。このように、神さまは必ず祈りを聞いてくださるという信仰は忍耐を生み、その忍耐を完全に働かせると、私たちは何ひとつ欠けたところのない人として成長させていただけると、みことばは約束している。ここは忍耐して祈ろうではないか。  さて、そのようにして祈りが聞かれ、苦しみから解放されたとする。そうしたら、私たちのすることは「神さまを賛美すること」であってしかるべきである。なにも歌を歌いなさいというのではない。もちろん、歌を歌うのが賛美なのはもちろんだが、そのようなことが神さまのみわざだと認め、そのようなことをしてご自身のご栄光をあらわしてくださった神さまの御名をほめたたえる、神さまにご栄光をお帰しすることが、神さまを賛美することである。  しかし、実際には、このように「神さまを賛美する」という、人として最高のわざまでたどり着くことがなかなか人にはできない。喜んでそれで終わりということがどんなに多いことだろうか。イエスさまにツァラアトを癒やしていただいた10人の人。だが、癒やされてイエスさまのもとにやってきたのは、その中のたったひとりのサマリア人だった。イエスさまはその人のことをどんなにほめてくださったか。そして、感謝をしにやって来なかった人たちのことをどんなにお嘆きになったことか。よいことがあったら神さまをほめたたえ、感謝することは、人のなすべきわざである。  さて、苦しみの最たるもの、それは、神の栄光をあらわす信仰のわざに踏み出していきたいと願いながら、それを果たすことができないゆえの苦しみではないだろうか。早い話が病である。私たちはこの肉体を用いて主の栄光をあらわす仕組みになっている。それが病気やけがなどで主と人々のためにまともに働けない、これほど苦しいことはほかにない。  そのような人にはどうしなさいと語られているだろうか? 14節。教会の長老たちを招いて、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい、ということである。オリーブ油が基本的に食用油だと思っている日本人のわれわれからしたら、病気の人にオリーブ油を塗る、というのは不思議な感じがするかもしれない。しかし、先週私は小児科病棟に入院した話をしたが、心臓の手術をする男の子が、おへそにオリーブ油を塗ってもらっていたのを見た。看護師さんに聞いたら、消毒の意味があるとのことだった。オリーブ油にそういう効能があると知って、私は高校生なりに新しい知識を得て満足したものだった。  実際、イエスさまの「良きサマリア人」のたとえ話では、強盗に半殺しの目にあった旅人を介抱したサマリア人が、旅人の傷口にオリーブ油を注いであげた、と語っていらっしゃる。そういうわけで、オリーブ油は主イエスもお認めになる、痛みによく効く薬のようなものでもある。  15節のみことばと考え合わせてみたい。油を用いて教会の長老たちが患者のために祈るならば、その患者は救われる。何から救われるのか? その人を立ち上がれなくしている存在から救われるのである。それは病気かもしれない。その病気も、その人が犯した罪や悪習慣がもたらしたものかもしれない。しかしその人はそれを悔い改め、全面的に神さまの癒やしの御手に自分を委ねる決断をするのである。  教会の長老たちが祈るとは、教会の霊的責任を負う人たちが祈る、ということである。私たちバプテスト教会は、教会員がみな教会における霊的責任を負うという立場に立つわけで、牧師や責任役員のことが長老なのではない。長老がいるとあえて仮定するならば、私たちがみな長老である。だから、私たちがみな祈るのである。  オリーブ油を用いることは聖書のみことばに従順でありたいという信仰の姿勢から来るのならば「あり」ではある。しかし、オリーブ油が霊的に何を意味しているのかを少なくとも考える必要はあるし、それが考えられているならば、手許にオリーブ油がなくても一向にかまわないというべきだろう。教会の長老たちが油を用いて人を立ち上がらせることは、イスラエルの長老たちが油を注いで人を王に立てることを象徴しているといえよう。王とはだれだろうか? ペテロの手紙第一2章9節によれば、その王とは祭司であり、聖なる国民、神のものとされた民、とある。そしてそれは「あなたがた」、すなわち、私たちクリスチャンである。私たちクリスチャンに油を注いで「王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民」としてくださるのは、聖霊なる神さまである。  したがって、私たちがだれかのために祈るならば、それは聖霊の油注ぎを祈ることであり、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民としてこの世界に雄雄しく羽ばたけるようにとりなすことになる。病気であったりけがをしたりという、弱さの中に留まったままでは、王としても祭司としても振る舞うことなどおぼつかない。それを人として、クリスチャンとして立てること、言い換えれば、王として、祭司として立てること、それが教会が御霊の力によってとりなして祈ることである。そうすれば病や痛みの中にある人も、王として振る舞えるし、祭司として振る舞える。  16節もこの文脈から読む必要がある。たとえ隠しておきたくても、教会の中では互いに対して罪を告白しあわなければならない、のではない。それを間違えると、リーダーが自分のことを一切報告義務がないところに置いたまま、教会員たちが秘密を告白しないとならないような共同体をつくってしまいかねない。それは別名「カルト」というのである。そのように、互いに対して罪を告白しなければならないと取ってはならない。目的は「癒やされるため」。罪の告白しっこの結果、共同体が病むならば、それは目的と手段を取り違えて、やってはならないことをしたことになる。  罪の告白は、共同体が、また共同体をなすひと枝ひと枝が癒やされるためにすべきものである。しかしそれもまずは、神さまの御前にすることが最優先である。また、罪の告白をするにあたっては、教会の「徳」を立てること、「徳」を高めることを最優先で考えたうえでする必要がある。そう考えると、うかつにはできないこと、慎重にすべきことであることがわかる。  しかし、こうも言うことができる。「罪」というからおどろおどろしくなるが、これを「弱さ」と言い換えたらどうだろうか? 肉体の弱さ、性格の弱さは往々にして、罪深い考え方、罪深い行動に直結する。「弱さ」と「罪」は必ずしもイコールではないが、兄弟姉妹が告白する「弱さ」のためにとりなして祈ることは、結果としてその兄弟姉妹の「罪」が取り扱われることになる。パウロも自分の肉体の「弱さ」を告白したが、同じパウロは「もし福音を宣べ伝えないならば、私はわざわいです」とも告白している。肉体の弱さのせいで福音を宣べ伝えられなくなる、わざわいな状態は、すなわちパウロにとっては罪である。  だから彼はその弱さが覆われるように祈る必要があったし、また、祈ってもらう必要があった。そのように私たちも、弱さが覆われて罪を犯さないように、いや、力強く主の働きができるようになる必要がある。その祈りは聴かれる。なぜならば、私たちは正しい人だからである。正しい人とは「義人」ともいう。私たちはことさらに、自分のことを「罪人」だと卑下していないだろうか? よく考えていただきたい。主はおっしゃるのである。「神がきよめたものを、あなたがきよくないと言ってはならない。」私たちをきよめてくださったイエスさまの十字架の血潮のきよめは絶対である。私たちは自分の力で祈るのではない。全能なる創造主、イエスさまの御名で祈るのである。だから私たちの祈りは聴いていただけるのである。  その祈りの力は旧約聖書に書かれているとおりである。17節、18節。みことばがこう語る以上、私たちもエリヤのように、全能なる神さまのみわざが起こるように祈れるのである。このみことばを信じない人はどうぞご自由にと言うしかない。私たちは不信仰にならず、このみことばのとおりである、このみことばのとおりになると信じて祈ろう。そしてその全能の御手は、病んでいる人を立ち上がらせるということをもって実現するのである。  最後に、教会という共同体は真理を保つためにあらゆる努力を傾けるべきだが、それでも真理が何かがわからなくなってしまう人がいる。19節、20節。真理から迷い出た人、言い換えれば罪人のことを、迷いの道から連れ戻す人とはだれだろうか? 罪人のたましいを死から救い出し、また多くの罪を覆う人とはだれだろうか? それはイエスさまである。  真理から迷い出るのは、イエスさまというまことの羊飼い、道であり、真理であり、いのちであられるお方についていくことをしないからである。イエスさまについていくことを怠けてしまう。その結果、目の前の何やら魅力的に感じられるものに惹かれてしまう。かくしてますます、真理から迷い出てしまう。イエスさまについて行くことをしないなら、その人は神中心ではなく、自己中心、偶像中心の生き方をしていることになり、そういう人を罪人と呼ぶ。何やら目立った罪を犯すから罪人なのではない。イエスさまという、ついて行くべき目標を外した生き方、ハマルティア、的外れの罪、だからそういう人は罪人なのである。真理から迷い出た人が罪人とは、そういうことである。  イエスさまはそのような、迷える羊を捜して、みもとに連れ戻してくださる。しかしこのみことばを見よう。イエスさまがそれをなさるとは書いていない。むしろこのみことばは、私たち教会へのチャレンジと読めないだろうか? そう、私たちはキリストのからだだから、罪人を迷いの道から引き戻すことは、教会がみんなで取り組むべきことである。  ここでも教会がいやしの共同体として機能すべきであることがはっきりする。真理の道から迷い出ている、すなわち、イエスさまについて行くことをせず、イエスさま以外のものについて行っているならば、その人は罪人であり、したがって罪に病んだ「病人」である。その人が回復するために私たちは働く必要がある。異端やカルトにやられてしまっているならば、彼らを教会の共同体からさらっていったその異端なりカルトなりのことをよく知る必要があるし、そんな彼らの「教理」に負けない、論より証拠の愛を実践して示す必要がある。  そういう点で私たちは、この世の魅力を振りまくものたちの存在や動きに無知を決め込んではならない。彼らは執拗に私たちのうちの弱い羊たちを狙ってくる。彼らの作戦を見抜き、彼らから羊たちを取り戻すために祈りをもって力を尽くしていこう。それが私たち、キリストのからだなる教会のなすべきことである。  私たちの信仰の行いは、教会という共同体、キリストのからだなる共同体において、互いの癒やしのために祈ることにおいて実現する。今日学んだとおり、そんな私たちお互いの弱さが覆われ、また迷う身から救い出され、癒やされ、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民としてふさわしく振る舞い、この地をキリストのものとしていく助けができるように、お互いのためにともに祈っていこう。

備えよう、主が来られる時に

聖書箇所;ヤコブの手紙5章7節~12節 メッセージ題目;備えよう、主が来られる時に  アメリカの歴史を代表する政治家、エイブラハム・リンカーンは、大統領になって閣僚を任命するにあたり、ある人物の推薦を受けた。それでその人に面接したが、結局、閣僚に採用しないことを決めた。なぜ採用しないことにしたかと問われ、こう答えたという。「顔が悪すぎる。男は40歳になったら自分の顔に責任を持ちなさい。」  この「男は40歳になったら自分の顔に責任を持て」とは、私のように年齢よりもはるかに若く見られ、したがって人並みの苦労をしていないことがバレバレな人間からしたら、なかなか耳に痛いことばだが、小説家の中島らもは、このことばを受けて、こんなことも言っている。そうか、40になるまでは、顔に責任を持たなくていいのか、とのんきにしていたら、40になったらきっちり、無責任な顔になっているだろう。たしかに顔ほど怖いものはない。  この場合、生きるということは、どんな生き方をしてきたか、そういうことが顔に刻まれて人の目に明らかになるという、40歳というひとつのリミットに向けて生きるということだ、とも言える。そう、どう生きてきたか、それは40(しじゅう)の男なら顔であるように、わかるひとにはしっかりわかってしまうものである。だが、ほんとうのところ、人生は40歳で終わりではない。きょうび、日本は少子高齢化で、あるいは私自身が50にもなったから余計にそう思うのだろうが、40なんてまだまだ、若者の部類のように見えてしまう。人は80、90まで生きるのもざらという時代である。40で生き方の審判を受けるのはいかにも早すぎる。そしてもっと大事なのは、人の生き方を審判するのは人ではない。さばき主なる神さまである、ということ。  先週学んだみことばは、地上で神をも恐れず贅沢にふけった罪人、その不敬虔が、イエスさまを十字架につけたほどの、そんな罪人を待ち受ける、あまりに怖ろしいさばきを語っている。今日のみことばはそれに続くことばで、やはりさばき主なる主の再臨の日を語っているが、こちらはヤコブが書簡を書き送っているその読み手、教会を形成する主にある兄弟姉妹に語ることばである。そんなクリスチャンたちのことを、ヤコブはどのように励まし、また勧めているだろうか? ともに見ていこう。  7節。みことばは私たちクリスチャンに、耐え忍ぶことを教えている。それはいつまでのことか? さばき主なる主が来られる、再臨されるまでのことである。そのように耐え忍ぶべきである私たちにとっての模範が、大地の貴重な実りを待つ農夫であるとみことばは語る。  初めの雨、後の雨、とあるが、これはイスラエルの地域の季節がどうであるかということが前提となっている。日本では季節といえば春、夏、秋、冬だが、イスラエルは雨が降らない「乾季」と、雨に大地が潤される「雨季」の二つの季節となっている。言うまでもなく乾季は雨が降らないので、人も大地もからからに渇く。どんなに日が経っても一向に雨が降らないわけだから、農夫はどれほど忍耐を強いられることだろうか?  しかし、この「雨がまったく降らない」ということは、今後も変わることのない状態ではない。なぜならば時が来れば、創造主なる神さまは大地に秋の雨を降らせてくださり、乾季を終わらせてくださるからである。この、雨期に入る秋の雨、これが「初めの雨」であり、その後春に降る雨が「後の雨」である。このような雨というものは、聖書のみことばによれば、神さまの恵みの象徴である。  農夫たちは、日照りの乾季にも農作業など、しなければならない日々の厳しい仕事に取り組む。しかし、その働きを完成するものは、雨という自然のもたらす神の恵みであり、それが時至ってもたらされるということを知っていなければ、いや、それを現実に見ていない以上、信じていなければ、という方が正確だが、雨は必ず降ると信じていなければ、その激しい環境の中の重労働はあまりにむなしいものとなってしまう。そんな彼らを支える希望は、神さまが時至って、必ず雨をもって大地を潤してくださるという信仰である。  みことばは、あなたがたが忍耐することも、それと同じである、と語る。私たちを取り囲む環境は決して生易しいものではない。この手紙を読んでいた聖徒たちも、時の権力者たちの迫害に晒されながらの、文字どおり命がけの、たいへんな信仰生活を送っていた。  私たちはそれに比べると、いのちこそ安全かもしれないが、恵みを分かち合って励まし合える兄弟姉妹の数はけっして大勢とはいえないし、偶像礼拝をしてこそ当たり前、日曜日は礼拝ではなく仕事をしてこそ当たり前という、日本の環境に生きるしかない。  それだけでも大変なのに、毎日のディボーションの時間を持つにも忙しすぎたり、疲れすぎたりしている。さらに、生活の糧を得る手段である仕事も、スキルの面でも人間関係の面でも厳しく、しかもそのストレスの真っただ中の重労働のすえに得られる生活の糧はわずか、休みもろくに取れないから疲れも抜けない……そのように、苦しみの中にある点では初代教会の信徒たちと立場は同じであり、私たちもまた、ヤコブをとおして与えられるこのみことばの励ましを受け取るべき立場にある。  私たちも毎日、いわば種を蒔く生活をしている。毎日のディボーションを通じて神さまからみことばをお聴きし、そこで命じられたみことばを具体的に守り行い、隣人を愛し、隣人に仕えるという、よい働きをすることで、私たちのうちに生きておられるキリストが伝わるように努力する。ことばを用いても、あるいは無言の行動をとおしても、私たちは努力する。だが、その日々の努力を周りは何とも思っていないことがほとんどではないだろうか。そればかりか、私たちが主にあってよかれと思って語ったことやした行いが悪く受け取られ、嫌われたり、悪口を言いふらされたりする。私たちの人生に雨ひとつふらない乾季が、これでもか、と続くようである。  それでも私たちが心折れず、絶望に陥らないのは、やがてその努力が報いられる、神の恵みに潤された大地が豊かな実りをつけるがごとき、天の御国に入れていただけるという信仰が確かにあるからである。その天国に入るにあたって、私たちがイエスさまを信じてここまで来たことを堂々と言えるならば、どんなに素晴らしいことだろうか。その日を目指して、今日のあらゆることに忍耐するのである。農夫が、乾季が来る日も来る日も続こうとも心折れないのは、初めの雨と後の雨を神さまが必ずもたらしてくださるからだと知っているように、私たちもやがて入れていただける天国の恵みを覚えて、今日の働きに取り組むことができるからである。  8節。だから私たちは心を強くするのである。主は近い。それはイエスさまが天に上げられて以来、世々の聖徒たちがつねに意識し、生きていくうえでの真実であった。振り返れば2000年にわたり、主はまだこの時を来たらせてはおられなかった。それで、楽天的な人は、これからもまだまだ世は終わらない、と思うかもしれない。しかし、私たちは今の世界を見て思わないだろうか? あまりにおかしくなっていないだろうか? そんな世相を見るにつけ、主は近い、と意識しないだろうか?   主は近い。しかし、その意識を持ちつづけることは、私たちを厭世的にするのではない。むしろもっと積極的に、だから私たちは主の御前に徹底して生きよう、というやる気を起こさせることである。すぐにでも来られる主の御前に恥ずかしくなく立てるように、しっかり生きよう、そうなってしかるべきである。  さて、さばき主を意識するならば、私たちがしてはならないことについても、今日のみことばは2つ語っている。まず9節、文句を言い合ってはいけない、ということである。これは、人を罪に定めてさばくようなことを、教会という主のからだなる共同体においてお互いしてはいけない、ということである。  なぜ、聖徒は人をさばくということをしてはいけないのか? それは、だれもがほんとうのさばき主のさばきに服することになっていて、それは人様を罪に定めてさばく人も例外ではないから、ということである。人を罪に定める、さばくということをすることとは、すなわち、自分は人をさばけるだけの正しい人、きよい人だとうぬぼれていることであり、また同時に、まことのさばき主なる神さまになり代わってさばき主の座に座ることである。どれほど傲慢なことだろうか?  しかし、この罪は、神を神とする、聖書のみことばがまことであると告白するような人は特に陥りやすい罠である。新約聖書の福音書には、イエスさまがパリサイ人のことを糾弾されるみことばがこれでもか、と登場するが、あれは、律法主義ではなくて信仰によって救われた私たちクリスチャンは、こんないけ好かないパリサイ人のようでなくてよかった、と、私たちが安心するために書かれているのだろうか? それはちがうだろう。むしろ、神の恵みのゆえに信仰によって救っていただいたはずの私たちが、聖書のみことばを盾にして人をさばくようなパリサイ人になりかねないことを、これでもかと警告しておられるからではないだろうか?   ことばを選ばず申しあげれば、私たちは現代のパリサイ人である。人をさばくことで優越感を覚え、もっといえば快感を覚える存在である。いけ好かないのは私たち自身である。しかし、パリサイ人からもパウロのような人が出た。私たちはパウロがそうしたように、私たちは信仰のゆえに恵みによって救われた、行いによるのはない、と自分自身が信じ、クリスチャンたちにそう呼びかける人である。  正しいみことばを「所有している」ことで慢心するのは、自分の義に拠り頼んでいる証拠である。いわんやそのみことばを人様をさばくための道具にするなど、もってのほかである。そうではなく、私のようなこんな罪人のことさえも救ってくださった、神の恵みにのみ拠り頼むべき存在、それが私たちクリスチャンである。私たちの本来の罪深さを思うならば、どうして人様のことを罪に定め、さばく資格などあろうものか?  もうひとつ、みことばが戒めていること、それは12節にあるとおり「誓う」ことである。これは結婚式の新郎新婦や、牧師按手を受ける献身者のように、神と人の前に責任を果たすべく、厳かに約束することを言っているのではない。そういうことと本質的に異なることである。  「誓う」ことがさばき主のさばきにあうことであると警告されているのは、これが「文句を言い合う」ことと本質的に同じだからである。つまり、人間の分際で全能の主の座にのし上がることだからである。特に「誓う」ということは、こういうことは必ず起こる、と、神の名さえ用いて自分の名を高める行為である。これは十戒で戒められている「神の御名をみだりに口にする」行為である。  これは私自身のみっともない経験の分かち合いだが、わかっていただける実例だと思うので、恥を忍んでお伝えする。高校1年生のとき、私は肺の病気の入院をとおして、それまでの人生のすべてが神さまの恵みであることを知って、ものすごくうれしくなった。この体験を私は、私の入院と手術を覚えて一生懸命祈ってくださった教会のみなさまに、礼拝中の「証し」という形でお話ししたほどだった。  具体的に言えば、両方の肺を同時に手術するような大掛かりなものになるところだったのが、片方の肺を軽く手術するだけで済んだ、同時に入院した病棟が小児科の病棟に回され、おいしい病院食を食べてお友だちができるなどあまりに楽しかった、そういうことになったのは、神さまの恵みによることだったと思い至った、ということだったのだが、問題はその先、これほどまでに神さまがよくしてくださるならば、私の人生はもっと上向きになるはずだ、と考え、当時私は学年で後ろからすぐに数えられるほど成績が悪かったが、神さまが味方なら絶対に次の試験はいい成績が取れる、と、周りにそう言って回った。  しかしふたを開けてみると、成績は相変わらず悪いままだった。理由ははっきりしていた。勉強をしなかったからだった。当たり前である。しかし、この悪い成績という現実を目の前にしてくよくよしていたとき、聖書のみことばを開くと書いてあった。「一切誓ってはならない。」私は砕かれた。そうだ、私は誓うという罪を犯してしまった。  今振り返ってみると、私の何が悪かったかはわかる。私が夢見ていたものは、「キリストがたたえられること」ではなかった。むしろ、「キリストを信じている『自分』がたたえられること」だった。そんな自分がよい入院生活を送れたのは完全に神さまの恵みであり、御名がほめたたえられることであったのに、私は勘違いもはなはだしく、だいいち傲慢だった。  というわけで、私たちは主のわざを行う歩みの中で、文句を言ったり、誓ったりすることで主のみこころを損なう誘惑にさらされている弱い者であることを、謙遜に認める必要がある。しかし、最後まで耐え忍ぶものは救われる。10節、11節を読もう。聖書は、忍耐した人たちの記録である。特にここでは、そのような信仰の先達を代表する立場として「預言者」という立場を挙げている。預言者とは読んで字のごとく「主のみことばを預かる者」である。お預かりした主のみことばをイスラエルの民の代表として語ったのが預言者だが、私たちもまた、日々の主との交わりの中でみことばをいただき、その生活において、ことばと行いをとおしてみことばをこの世に宣べ伝えるものである。その点で私たちも預言者である。  そんな私たちは、預言者がときに理不尽な目にあって苦しんだように、苦しみの中に置かれよう。中にはここで例に挙がっているヨブのごとく、答えのない中をいつまでもぐるぐると回らされる不条理を体験するかもしれない。しかしそんな私たちが覚えておくべきことがある。それはこの11節のみことばが語るとおり、「主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる」ということである。  信仰の鑑だったヨブも苦しみの中でさらに親友たちから責められ、神さまに対してつぶやくことばを口にしてしまった。しかしその苦しみの中でヨブはほんとうの意味で神さまに出会った。それは「慈愛に富み、あわれみに満ちておられる」神さまだった。  ヨブだけではない。主に選ばれ、用いられた主の働き人はことごとく、苦しみの中にあってもなお、慈愛に富み、あわれみに満ちておられる主との交わりをとおして、励ましと慰めをいただき、希望を失わなかった。やがて来る初めの雨と後の雨のような、神の恵みに満ちた天の御国に入れられる日、完全に苦しみから解き放たれる日をはるかに望み見ることができていたのである。  私たちもこの地上でまだしばらくの間、苦しむ日が続くかもしれない。しかし私たちはやがてともに、恵みの雨に潤され、この世の苦しみが報われる日が来る。主が来てくださり、その恵みの日を来たらせてくださるのである。その日をともに望み見つつ、失望しないで働きつづける恵みをいただけるように祈っていこう。

金持ちとはだれか

聖書箇所;ヤコブの手紙5章1節~6節 メッセージ題目;「金持ちとはだれか」  多くの人は、お金持ちになることに憧れ、またそうなれるように努力する。しかし、お金持ちというものはそんなに憧れるべきものなのだろうか? 聖書のみことばを見ると、必ずしもそうではないことがわかる。  本日の箇所は、お金持ちに対する警告である。1節のみことばからして「金持ちたちよ、よく聞きなさい」ということばから始まっている。「迫り来る自分たちの不幸を思って、泣き叫びなさい」、穏やかではないが、これが聖書のメッセージである。  もちろん、お金持ちになることが神さまの祝福のひとつであることは、聖書も語ってきたとおりである。ヨブ記のヨブがそうだったし、ダビデにしても、ソロモンにしてもそうだろう。しかし、それは特別なケースであって、だれもがお金持ちになるわけではない。むしろ神の民は、お金持ち、権力者によって虐げられてきた弱者である。  イエスさまのたとえ話に、金持ちとラザロ、という話がある。金持ちの家の前で物乞いをしていたラザロは、死んで天国に行くが、金持ちは地獄に落ちてしまう、という話。また、イエスさまは、金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴をくぐるほうがもっとやさしい、とおっしゃった。まさしく「不可能」というレベルである。  そういう前提でこのヤコブのことばを聞くと、金持ちになった以上、服するべきさばきに服さなければならないというように思えてくる。すると、もし自分がお金持ちだという自覚のある方、人からお金持ちだと言われている方は、もうだめなのだろうか? 読み進めていこう。  2節と3節。金持ちが後生大事にしている富は、腐っている。自分のことを立派に見せている服は、どんなに立派でも、実は虫に食い荒らされている。私たちはタンスに防虫剤を吊るせば虫に食われることはなくなると考えるが、ほんとうのところ、防虫剤を吊るそうが何をしようが、その服はすでに虫に食い荒らされている。  そして、金銀はさびている。さびが彼らを責め、その肉を火のように食い尽くす。考えるだけでも怖ろしいことだが、彼らがなぜそのような目にあうのかというと、「終わりの日に財を蓄えた」からだという。つまり、もう神さまはすでに終わりの日をもたらしておられる、その終わりの日に神さまを無視して、役にも立たない富や財を蓄えてきたからだ、ということである。  その人はどうしなければならなかったのだろうか? イエスさまはお教えになった。マタイの福音書6章19節から21節。自分のために蓄えるのではなく、天に蓄えればよかった。つまり、神の国とその義のために用いればよかったのである。思いつくところではいろいろあろう。教会や宣教の働きに献金するとか、貧しい人、困っている人のために用いるとか。いずれにせよ、自分の快楽のために用いない、自分さえよければという用い方をしないことである。  5節のみことばの表現を借りれば、自分の心を太らせるような財の用い方をしている人は、どういう生き方をしてきただろうか? 4節。自分が経営する組織、こんにちの日本なら会社や法人と言い換えてもいいだろう、で働く者たちが重労働にあえいでいるのに、ろくに養われない。ブラックな職場である。そんな労働者たちは神さまに叫んでいる。まさに、エジプトの横暴に耐えかねて神さまに叫んだイスラエルのようである。つまりこの場合、金持ちは神さまのみこころをいたく踏みにじる権力者と化しているわけである。  みなさまも職場でたいへんな思いをなさっていないだろうか? そのとき、主に叫んだ経験はないだろうか? 安心していただきたい。主は必ず、その叫びを覚えておられる。そして、その叫びに応えてくださる。まさにエジプトに報いられたようにである。エジプトの手からイスラエルをお救いになった神さまの御手は、今も変わらずに私たちのことを導いてくださる。  しかし私たちは、そのような主人に自分で復讐をすべきではない。これは、ローマ人への手紙12章19節と20節にあるとおりである。わざと手抜きして働いたりして、組織に損失をもたらすようなことをしてはいけない。むしろそのようなときこそ、心身の健康が許すかぎりかぎりまじめに働こう。  そうすることが相手の頭に燃える炭火を積む、とある。炭火とはイザヤ書6章のみことばにおいては、天の御国で燃やされているものであり、そこから取られた火が唇にあてられるとその人の不義はきよめられ、神のことばを宣べ伝えるにふさわしいものとされる。同じことはヨハネの福音書にも見られ、イエスさまの裁判を見守るペテロのそばで赤々と燃えていた炭火は、ペテロが土壇場になってイエスさまを裏切る罪人であることを照らし出した。  しかしのちにペテロは復活のイエスさまに会うが、そのときイエスさまはやはり燃える炭火で魚を焼いて、傷心のペテロのために朝ごはんを用意してくださり、まことの羊飼いとしての使命を回復させてくださった。このときイエスさまが用いられたものも炭火だったわけである。炭火はそのように、人の罪を示し、悔い改めに導く聖霊の働きを象徴している。だから、相手の頭に炭火を積むことは一見すると相手を焼き滅ぼすようなさばきを加えることに見えるが、ほんとうのところ、相手が罪を自覚させられて悔い改め、神さまのみこころに沿う人になるということにつながることである。  だから私たちはどんな環境でも忠実に働くことが求められるが、心身の健康が許すかぎり、これは大事。労働の結果心身の健康を壊してしまったら元も子もない。私たちの善意を悪で返す権力者はいるものである。今日の箇所で問題にしている「金持ち」とは、まさにこのタイプの悪辣な権力者、自分を肥え太らせるためならば人がどうなってもいい人のことを言っている。  そうやって人から搾取する者のすることは何か、といえば、5節にあるとおり。肥え太らせるのは「心」である。ごちそうをたらふくたべてからだが太ったら、ジムにでも行けばいい。サプリでも飲めばいい。少なくともからだは引き締まる。しかし、からだが格好よく引き締まろうとも、心に贅肉がつきまくっているという事実に変わりはない。人を人とも思わないくらい、人を愛せなくなってしまうくらい、心が肥え太って鈍くなってしまっているわけである。  屠られる日のために、とあるが、そのように贅沢のかぎりを尽くして肥え太った者は、終わりの日にほふられる。言い換えれば、永遠の死へと突き落とされる。自分のために富んでも、神の前に富まなかった生き方、その生き方がことごとくさばきにあうわけである。  さて、6節のみことばに注目しよう。金持ちの人を人と思わない生き方とは、人を不義に定めて殺す生き方だということである。金持ちに雇われる立場の人が、あえて金持ちに歯向かうことがあるだろうか? こうして、金持ちの横暴に身をさらすしかなくなり、ついにはいのちを落とす。私も高校時代の親友が働きすぎで過労死をしたが、過労死させられるような人は、まさにこの横暴の中に抵抗もできずに身をさらしつづけた、やさしい人ではないかと考える。  さて、金持ちが雇用するような人はたいていひとりではなく、少なくとも2人以上、複数だろう。しかしこのみことばを見ると、「正しい人」、「彼」と、単数になっている。これは注目すべきことである。つまり、これはひとりの人を指すと考えるべきである。  もう、おわかりだろう。同じヤコブの手紙2章6節と7節、金持ちにおもねって貧しい人を差別する教会を糾弾するみことばであるが、このように金持ちとは、主の御名をけがす存在である。そのように、主の御名をけがすことにおける究極の形、それは神の御子イエスさまを十字架につけることでなくて何だろうか。そう、イエスさまという何の罪もない正しい方を、不義に定めて殺した、イエスさまはそのような者たちに一切抵抗されず、粛々と十字架を背負われた、この6節のみことばは、時の権力者たちがイエスさまを十字架につけたことを語っているのである。  さあ、そうなると、このみことばは「イエスさまを十字架につける者」という視点で問い直す必要がある。今日学んでいるみことばは、果たして、金持ちを自認する人、人から金持ちと思われている人だけのものだろうか?   私たちも多かれ少なかれ、腐る富、虫に食われる衣、さびる金銀を後生大事に取っておく傾向がないだろうか? 私たちが肉に属する生き方をやめないなら、どうしてもこの世のものに執着するようになってしまう。その点で私たちは、世の終わりを意識もしないで自分を肥え太らせる金持ちと五十歩百歩である。  そうだとすると、私たちは客観的に見て金持ちであろうとなかろうと、自分の身に不幸が迫っていることを嫌でも考えなければならない。不幸とは何か? 持っていたものがすべて滅ぼされ、下手をすると自分まで永遠に滅ぼされかねない、ということである。  しかし、あらためて1節のみことばを見てみよう。このみことばは何と命じているか? そう、「泣き叫びなさい」である。「金持ちたちよ、よく聞きなさい。あなたがたに不幸が迫っているのはもはや避けられないから、その不幸を粛々と受け入れ、地獄に落ちて永遠に苦しみなさい」とは書いていない。「泣き叫びなさい」である。気高い金持ちにふさわしくないほどに、恥も外聞もなく泣き叫びなさい、というわけである。  泣き叫ぶその声はだれが聞くのだろうか? そう、神さまである。神さま、このままでは私は救われません! 滅んでしまいます! 私を滅ぼさないでください! 助けてください! その叫びを神さまは必ず聞いてくださる。  泣き叫ぶのは金持ちだけのすることではない。もし私たちが、ふさわしく富を用いていないと気づかされたならば、また、人を人と思わないような行動に出ていたと気づかされたならば、その罪ゆえにイエスさまが十字架におかかりになったと認め、悔い改める必要がある。泣いて叫んで悔い改めるくらいのことをしたっていい。おなかのすいた赤ちゃんが大きな声で泣くように、私たちも生きるために神さまに向かって泣き叫ぶのである。  私が韓国の教会で学んだことはたくさんあるが、その中でも特に学んだことは、神さまの御前に泣き叫ぶように大きな声を上げてお祈りすることである。これは日本のような環境ではなかなか難しいかもしれない。しかし、機会があればどこかで実践してみられることをお勧めする。神さまに実際に声を上げることによってはじめて、神さまがこの切なる叫びを聞いてくださっているということを実感できるようになるからである。論より証拠、ぜひ実践してみていただきたい。  そうして泣き叫ぶ祈りは、私たちの富の用い方、そして人との接し方を変え、ひいてはイエスさまとの関係を変える。イエスさまを十字架につけたほどの罪人にふさわしい、富を用いることにおける罪、人と接することにおける罪、そういった罪が悔い改めに導かれる。ここから私たちの行いが変えられ、行いをもって私たちの信仰が証しされるようになるのである。  何度も繰り返すが、ヤコブの手紙は私たちに対し、行いによって救われるなどと一切語ってはいない。確かにヤコブの手紙は、行いというものを強調してはいるが、それは行いによって救われると語っているわけではない。ただ、まことの信仰はまことの行いを生み出してしかるべきであると語っているわけである。  私たちの富の用い方、また、人間関係のつくり方を振り返ってみよう。私たちはこの箇所で糾弾されている金持ちのことをさばくことができるだろうか? 私たちも多かれ少なかれ同じことをしているならば、悔い改め、天に宝を積む働きをし、また、人々の赦しをいただいてこれまで以上によい関係を築いて働いていこう。そのようにして、この世に生けるイエスさまを証しする働きをするために用いられていこう。

主の晩餐は弟子のしるし

聖書箇所;ヨハネの福音書6章41節~66節 メッセージ題目;主の晩餐は弟子のしるし  先週の水曜日、私たちの愛する兄弟が天の御国に凱旋されました。昨日が兄弟の葬儀でした。このような中で今日私たちは第一主日につき、主の晩餐のひとときを迎えています。さらにここには、いずれこの主の晩餐にあずかるべく、バプテスマの備えをしている姉妹もいます。……こういう状況の中で語るべきはどのみことばだろう、かなり祈って考え、今日、この箇所を選ばせていただきました。  兄弟は生前から、ご自身のご葬儀をどのようにするか、ということをよく語っていらっしゃいました。それは、死からのよみがえり、そして永遠のいのちに対する信仰を、堅く保っていらっしゃったからでした。死で終わりではない。おそらく、日本のほとんどの人は、死んだらどうなるかということを知りません。知らないということは、死ということを大いに怖れるという結果を招きます。だから、普通お葬式は悲しく暗く沈んでいます。  しかし、昨日の告別式はまったくそうではありませんでした。告別式をとおし、兄弟が主のみもとに召され、いま永遠のいのちの安息に憩っておられることを、私たちは確信しました。私たちには寂しさはもちろんありましたが、しかし平安がありました。  そう言えるのは、兄弟にはそれこそ、いまお読みいただいたみことばの44節にあるとおりの、神さまに選んでいただいているという信仰、それゆえに、終わりの日によみがえらされるという信仰があることが、確かなことだからです。イエスさまを信じて義と認められた人は、よみがえって永遠のいのちを受けます。もはや死も苦しみもありません。あるのは滅びることのない喜びだけです。まさに47節が語るとおりです。イエスさまを信じるならば、永遠のいのちを持っています。  しかし、イエスさまは群衆たちの耳に、奇妙に聞こえることもおっしゃいます。48節。わたしはいのちのパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。  それだけではありません。イエスさまはこんなことさえおっしゃっています。53節から58節。これを聞いた人々はパニックになりました。「これはひどいことばだ。」尾山令仁先生の翻訳された現代訳聖書では、このニュアンスを生かす形で、「第一、血なまぐさいし」ということばを挿入しています。ただし、これは別の解釈も可能で、韓国語の聖書では「このことばは難解だ」という意味に表現されています。しかし、ひとつ言えることは、ひどいと思ったにせよ、難しいと思ったにせよ、イエスさまの言わんとしていることがちゃんとわからなかった、ということは確かです。それで、せっかくイエスさまのことを慕ってついてきたというのに、このことばの難解さ、血なまぐささに恐れをなし、というより、俗っぽい言い方をすれば「ドン引き」して、彼らはもう、イエスさまの弟子であることを辞めて去っていってしまいました。  しかし、十二弟子はちゃんと残りました。残って、引きつづきイエスさまのみことばを聴きつづける特権にあずかりました。実は、イエスさまは群衆にお語りになるとき、多くの場合、たとえをもって語られました。それを聴いた人々は、難しい話だけれども何となくありがたい、くらいに思って、ああ、なんだか知らないけれどもいい話を聞いた、とばかりに、帰っていったのではないでしょうか。しかしこのようなみことばの聴き方は、「群衆」の聴き方です。このたびの、イエスさまのことばにつまずいた人たちもそうでした。彼らのことを聖書は「弟子」と言っていますが、イエスさまのことばを皮相的にしかとらえられなかったという点では、「群衆」のレベルにとどまっていました。  「群衆」と「弟子」を分けるものは何でしょうか? イエスさまがたとえで語られた真理の謎を解いていただき、真理をわがものとさせていただく立場になった者、それが「弟子」です。この時代の群衆は、イエスさまのたとえ話の意味を知ろうとすることにそこまでの情熱を傾けなかったため、「弟子」になりきることができませんでした。  さて、それなら、現代における「弟子」とはだれでしょうか?「弟子」というものが、イエスさまのたとえ話の解釈を直接教えていただける立場にあるものと考えるならば、聖書を手にしている人はだれであれ、「弟子」になるように招かれているといえます。なぜならば、聖書を読みさえすれば、難解なイエスさまのたとえのその意味することを、ちゃんと理解することができるからです。  しかし、言うまでもないことですが、聖書という本を持ってさえいれば「弟子」なのではありません。イエスさまのおっしゃるとおりのことを守り行う人、それが弟子ですから、まず、聖書を持っているだけではなくてちゃんと開く、毎日読む、読んで黙想し、生活に適用し、それを実践することで聖書のみことばを具体的に守り行う、毎日のその繰り返しが私たちのことを弟子に育て上げます。  では、私たちは「群衆」にとどまることと、「弟子」の道を進むことと、どちらがよりいいでしょうか? イエスさまのことばに去っていった弟子たちは、もう弟子になんてなりたくない、と思ったわけです。こんにちにおいても、弟子の歩みをわざわざするなんて馬鹿げている、と考える人が少なくありません。そのように生きていれば、いろんなことを我慢しなくていい、好き放題のことをできると考えるでしょう。  しかし、「弟子」の歩みをする人は、少なくとも、まことのいのちなるイエスさまの弟子でありつづけることゆえに、だれにも奪えないほんものの喜びを日々体験しつづけます。イエスさまとともにいる喜び、イエスさまにならって隣人を愛し仕える喜び……その喜びを日々体験できるのは、その人が「弟子」だからです。その歩みを喜べる人は、好き放題に生きることのむなしさを知るゆえに、そのような生き方をあえてしようとしません。神と隣人を愛するという、ほんとうに意味のある人生を生きようと一生懸命になります。はたして、どちらがよりよい生き方でしょうか? 申し上げるまでもないことです。  天国に行かれた私たちの愛する兄弟は、ほんとうにイエスさまの弟子だったと思います。兄弟は学校教育という世界で用いられていた方でしたが、学校教育の現場の中で、真に世の中の役に立つ人を育てるために、まず、むなしい人生観に生徒たちが支配されないように、進化論は学校教育に必要だからもちろん教える一方で、創造論の論理を提示することを常としておられたとうかがっています。勇気のいることだったと思います。しかし、兄弟は最後まで聖書の真理に立ち、創造のみわざの確かさを徹底して説く生涯を送られました。  さて、弟子であるということは、イエスさまがこうしてお語りになったことの真の意味を悟らされた人であるということですが、イエスさまはその真理、永遠のいのちを人が得るためにご自身の血と肉を分け与えてくださるということを、十字架で肉を裂かれ、血を流されることによって示してくださいました。そして人は、イエスさまの十字架の死が自分の罪の罰の身代わりであったことを信じ、そしてイエスさまが3日目に復活されて罪と死に永遠に勝利してくださったことを信じることによって、救われ、罪赦され、神の子どもとなり、永遠のいのちをいただき、天国に入れていただけます。  このことを、はっきりわかる形で私たちに示してくださったもの、それが主の晩餐です。「わたしの肉を食べ、血を飲む者に永遠のいのちがある」、これを信じられる人は、十二弟子に匹敵する献身に招かれている人であって、ちょっとやそっとのことでつまずいて去っていく群衆のような人では断じてありません。そして、その弟子の歩みをする人は、第一ペテロ3章21節にあるとおり、バプテスマを受けることをもって主に生涯お従いする誓いを立てた人です。そして、弟子だからイエスさまの血と肉にあずかれる以上、主の晩餐をもってイエスさまのみからだと血潮にあずかる人は、バプテスマをもって生涯主の弟子として歩むことを約束した人なのです。しかし、私は声を大にして申しあげますが、死の弟子として歩むクリスチャンの歩みは、イエスさまがいつもともにいてくださるという、何にも代えがたい歩みです。いま、その喜びがいまひとつ湧きあがらないという方も、主の晩餐に招かれています。召しあがってください。主が生きてうちに働いてくださるという、まさにそのことを、どうか体験していただきたいのです。  ここには、バプテスマの準備を進めておられる方がいます。その方にとって今日の主の晩餐が、どうか生涯最後の「見学」となり、来月にはバプテスマをお受けになって、ともに主の晩餐にあずかられるように、教会のみなさまで祈っていただければと思います。  主の晩餐は弟子の証しです。私は弟子です。私は弟子として歩みます。どうか弟子として歩ませてください。その切なる祈りをもって、今日の晩餐に臨みましょう。