「赦し」

聖書箇所;エペソ人への手紙4章30節~32節 メッセージ題目;「赦し」 メッセンジャー;キム・サムエル牧師(クァンミョン教会副牧師)  シャローム! お会いできてうれしいです。  샬롬 반갑습니다.  私は、韓国の議政府(ウィジョンブ)にある光明(クァンミョン)教会から日本に派遣された祈祷宣教チームのリーダーを拝命しております、キム・サムエルと申します。私とともに、8人からなるチームがともに来日しました。いま特別賛美をおささげした、お美しい姉妹たちです。 저는 대한민국 의정부에 있는 광명교회에서 온 기도팀의 팀장을 맡고 있는 김삼열 목사라고 합니다. 저와 함께 8명의 기도팀이 함께 왔습니다. 방금 특송한 아름다운 자매님들이십니다.  私どものチームは、神さまの全面的な恵みとお導きのうちに、こちら水戸第一聖書バプテスト教会に到着し、一週間にわたって教会と水戸市内にて、茨城のために熱くお祈りしました。 저희 팀들은 하나님의 전적인 은혜와 인도하심 가운데 이곳 미토제일성서침례교회에 도착하여 한 주간 교회와 미토시 나아가 이바라키현을 위해 간절히 기도했습니다.  私どものことをみなさまの教会までお導きくださり、聖霊を注いでくださり、お祈りさせてくださった神さまに、感謝と賛美をおささげします。 저희들을 이곳 교회까지 인도해주시고…

偶像礼拝とは自分可愛さの罪

聖書箇所;出エジプト記20章1節~4節メッセージ題目;「偶像礼拝とは自分可愛さの罪」  先週から始まった十戒の学び、今日は第二戒である。 茨城は巨大な像があちこちに存在する。水戸常澄のダイダラボウ、水戸内原のハニワ、石岡の獅子頭、そして何といっても、牛久の仏像。いずれも、桁外れに大きい像である。これらの巨大な像は礼拝の対象であったり、なかったりする。しかし、いずれの像も極めて霊的な意味を持っているのはたしかで、そういう意味ではこの第二戒で戒められている、つくることも拝むことも神の民には禁じられている、偶像に分類できよう。そう考えると、茨城観光にやってくるようなお客さんのことは、あんまりお連れしたくないような場所である。 先週のメッセージで、ほかに神がいてはならないはずのイスラエル民族が、その律法が与えられてほとんど時間が経たないうちに、金の子牛の像をつくってそれをこぞって拝んだ、神の民にしてそうだったのである、という内容のことをお語りした。では、そんな私たちには、偶像はないのだろうか? 私たちはつい、偶像というと、神社仏閣や新興宗教の施設にお参りするイメージを思い浮かべ、いや、自分はそんなことなどしていないから大丈夫だ、などと思ったりしていないだろうか? そんな私たちは、偶像とは何か、そして、この第二戒で戒められている、自分のために偶像を造ってはならないとはどういうことかを知る必要がある。以下、見てまいりたい。 第一に、第二戒は、「いわゆる宗教行為としての偶像礼拝」のために偶像を造ってはならない、という意味である。 これはさきほども述べたとおり。現在私たちはマクチェイン式聖書通読で、列王記第一を読んでいるが、南北に分裂したイスラエルの、北イスラエル王国は、金の子牛を拝ませた。出エジプトの途上で起こった忌まわしいことをそっくりそのまま再現したわけである。さらに時代が下ると、アハブ王の時代になって、バアル、アシェラといった偶像神が礼拝される時代になる。 金の子牛にせよ、バアルやアシェラにせよ、唯一神なる神の民であるイスラエルにはありえない存在、あってはならない存在である。しかし、現実にイスラエルにそういうものが存在し、そういうものが礼拝の対象になっているということは、とかく神さまから離れたいと願う人間の罪の性質が、神さまから離れるという悪い行いを、偶像の神々をつくり、またそれを拝むということをもって表現する、ということであるといえるだろう。 しかし、当時のイスラエルの民にとってはどうだったか。金の子牛にせよ、バアルやアシェラにせよ、国の政策で民がこぞって礼拝するように仕向けられていた存在であった。その点ではそういう国策を敷いていた王にいちばんの責任があり、列王記を読み進めていくうちに登場する様々な王の紹介に、「彼は主の目の前に悪を行い」と書かれ、国を挙げての偶像礼拝の責任が王にあることを明らかにしているのだが、それなら民は仕方なかったと免罪されるのか。そうではない。民もまた、偶像礼拝をしたものとして神のお取り扱いを受けるべき存在となるわけである。 これはとても厳しいことかもしれない。しかし、アハブが政策としてバアルとアシェラを礼拝するようにさせていた暗黒時代、預言者エリヤのほかに主のしもべはいなかったようでも、神を恐れる侍従オバデヤのような人物はいたし、バアルにひざをかがめることをしない7000人の人が残されていた。民は、偶像礼拝は仕方がない、と言い訳する余地はなかったといえる。 これに酷似した歴史は日本や朝鮮半島もかつてたどっていた。日本はかつて、国家神道の国策が敷かれていて、それは太平洋戦争に敗れ、GHQの支配下に入るまで続いたが、その国家神道の政策は朝鮮半島でも強要された。朝鮮半島は当時、あらゆる政治結社が解散させられていた中で、キリスト教会をはじめ宗教団体は辛うじて存続していたが、やがて、国家神道に従うことはキリスト教会にも強要されることになった。 現代において、こうして守られて礼拝をささげている私たちからしたら信じられない話なのだが、礼拝の前に東方遥拝、すなわち皇居のほうを向いて拝礼し、それからようやく、まことの神さまを礼拝するのである。これが偶像礼拝でなくて何であろうか。そして、当然のように神社を参拝させられた。しかし、この国家的な流れを断固として拒否した牧師や長老がいた。彼らは投獄され、牧師と長老合わせ58人が殉教したと伝えられる。神を神とするとはそういうことである。 しかし、戦時中の日本の教会はほぼ例外なく、神棚を礼拝堂に飾り、それに拝礼することを常としていた。これを私たちはどう考えるべきだろうか? 生き残るために仕方がなかったから、と考えるべきだろうか?  それならそれで、何のために生き残ろうとしたのだろうか? 神の栄光のためだろうか? では、そうすることでなぜ神の栄光が現れるのか、と問われると、どう答えるべきだろうか? 所詮は、自分のために偶像を造り、生き残ることを画策したに過ぎなかったのではないだろうか? しかし、自分のために偶像を造るという行為、それを拝むという行為は、当時の日本だけではない。現代の日本に生きる私たちにとっても大きな課題である。家々に仏壇や神棚が当たり前に存在するのがこの日本という国である。それを当たり前に拝み、家族の命日やお盆やお彼岸には墓参りをして、お線香をあげて手を合わせるのがこの日本という国の常識である。親族や知人が亡くなったら、お線香をあげに訪問するのが日本という国の常識である。そして……だれかが亡くなるという厳かなとき、仏式の葬儀ではお焼香をし、神道の葬儀では真榊をささげることもする。 こういうことを、クリスチャンでありながら行うということは、何を意味するだろうか? いや、自分はこういう行為をしているけれども、心の中では神さまにお祈りしているから大丈夫です、とでもいうのだろうか?  こういうケースで好んで引用されるみことばが、神を信じたアラムのナアマン将軍がエリシャに対し、自分の主君である王の偶像礼拝を手伝うことをお許しいただきたい、と申し出、エリシャがそれを許可した、という箇所である。エリシャが大いなるみわざのなされたナアマンにそれを許したのだから、私たちも偶像礼拝をせざるを得ないときは、しても許される、と。 しかし、これは主がその民に偶像を礼拝を許容されることもある、ということの根拠にはまったくならない。その時代にあってイスラエル民族以外に、それもイスラエルの敵に対してみわざが行われたということは限定的、例外的なことであり、神さまはなにも、ナアマン将軍をとおしてアラムにリバイバルを起こすことがみこころだったわけではない。アラムが神の民イスラエルの敵国でありつづけることは、神さまのみこころでさえあり、すなわちこの民をイスラエルにもまして祝福されるということは、少なくとも神さまのみこころではなかった。この日本における証し人として召されている私たちとナアマンとでは、状況が全く異なるのである。 

ほかに神はいない私たち

聖書箇所;出エジプト記20章1節~3節 メッセージ題目;ほかに神はいない私たち  今日はこのメッセージのあとで、バプテスマを控えている。新たに神の民として公式的なスタートを切られる姉妹に向けたメッセージとして、今日のメッセージを用意させていただいた。  むかしのアメリカの映画で「十戒」というものがある。1956年の作品で、チャールトン・ヘストン主演。聖書が今よりもずっと尊重されていた、古き良きアメリカを象徴する映画。イスラエルの民がエジプトの圧政から救い出され、荒野に導き出され、シナイ山にて神さまと契約を結ぶ、という、出エジプト記の記述を映像化したものである。特撮の歴史に残る作品でもあり、イスラエルの民の目の前で、紅海が真っ二つに割れるシーンが特に有名。なお、なぜか日本ではこの主人公の名が「モー『ゼ』」となっているが、もちろん正しくは「モー『セ』」。一般的な日本人がとかく「モー『ゼ』」と言ってしまうのは、なんとかしてほしいところだが、この映画の日本語版のせいと言えなくもないだろう。  この作品の題名、私たちだったらなんとつけるだろうか? つい「出エジプト」と名づけてしまうかもしれない。しかし、実際には「十戒」とつけられた。実に意味のある題名となった。この作品のタイトルが「出エジプト」ではなく、「十戒」であったことは、聖書になじみのない日本人にとっても、「十戒」という聖書の教えがどれほど大事か、ということを強く印象づける役割を果たしたといえ、それはすばらしいことだった。この十戒とは、聖書66巻のもっとも基礎になるものであり、この十戒の教えによって教えられることにより、私たちは神の民としてふさわしく歩むことができる。  今日はまず、姉妹のバプテスマをお祝いする意味も込めて、第一戒から学ぶ。今年いっぱいで第十戒まで学べるので、しっかり予習してきていただきたい。少なくとも、聖書に書かれている、十戒全体をつねに読んでいただきたい。  第一戒。あなたがたは、わたし以外に、ほかの神があってはならない。  あの、チャールトン・ヘストンの映画が、「十戒」であることを日本人は知ったわけで、それなら「十戒」には何が書いてあるのだろうか、と興味を持って読んだら、その第一戒がこれ、ということで、八百万の神々の風土に生きる日本人は、そりゃないよ、と思うだろうか? しかし、ここは、なぜ神さまは「わたし以外、ほかの神があってはならない」とおっしゃったのか、そしてなぜ彼らは、そのように命じられなければならなかったのか、それをちゃんと押さえておかないと、神さまは悪い独裁者であるかのように大きく誤解をしてしまう。  このご命令、戒めは、先行するあらゆる聖書の記述が前提となる。まず、神さまがこの世界をおつくりになったこと。そして、神さまにお従いする民として、セツの子孫が増えていったこと。しかし、地上には悪が増大し、唯一ノアだけがその中で神さまのみこころにかなっていたので、ノアとその家族だけを全地球規模の滅びから救ってくださったこと。そして時が下り、神さまはアブラハムと契約を結ばれ、アブラハム、その子のイサク、その子のヤコブの神となられたこと。ヤコブとはイスラエルという名前が与えられた人であり、ヤコブの子孫たちはイスラエル民族、神さまはアブラハム、イサク、ヤコブの神であられるゆえ、イスラエル民族がもろとも、神さまの民として神さまの契約の中にある形になる。  そのイスラエルが異国の地で苦しむが、やがてもろとも救われることは、神さまがアブラハムにすでに約束してくださったことろであった。はるか昔に与えられた預言、それが時至って、出エジプトという形で成し遂げられた。時にイスラエル民族は、エジプトの地で奴隷生活を強いられ、ものすごい苦しみにあっていた。しかし民がその神に叫び求める祈りをおささげすると、神さまはその祈りを聴き届けてくださり、指導者モーセを不思議なようにして立ててくださった。  そしてモーセの導きのもと、エジプトには十種類のすさまじい災いが下され、根負けしたファラオはイスラエル民族を国から追放した。しかし、いざ追放して彼らが国からいなくなってみると、ファラオはまたもや考えを変えた。軍隊を派遣して、イスラエルを取り返しにかかった。目の前は広い海、紅海、後ろにはエジプト軍が迫るという、この危機的な状況の中で、神さまは紅海を真っ二つに分けられ、全イスラエルを通らされた。しかし、あとを追ってきたエジプト軍の上には、道の両側にそそり立つ水の壁が襲いかかり、ひとりとして残らなかった。  このようにして、この20章2節にあるとおり、神さまは、イスラエルをエジプトの地、奴隷の家から導き出した彼らの神、主としてのご栄光をあらわされたのであった。そう、彼らが苦しみと悲惨の中にあったとき、神さまがお救いになった。「だから」、わたしの言うことにとどまりなさい、というわけである。これは、神さまの親心にも似た愛である。  ほんとうに愛する子どもだったら、勝手なことは許さないだろう。それは親としての沽券にかかわるからではない。つまり、「親の顔が見たい」なんて人から侮辱されたくないから、ではない。子どもが子どもらしく、ちゃんとなるためである。夜ふかししたり、スマホばかりやったり、おいしくても栄養のない食べ物でおなかをいっぱいにしたりということを許さないのは、子どもが憎いからではない。かわいいからである。神さまもそう。ご自身の子どもがきちんとなることが、神さまにとって最高の喜びである。救われている以上、罪の奴隷になっていてはならないのである。  私たちもそうである。私たちはイスラエル民族ではないが、神さまの一方的なあわれみによって、神さまの子どもとなる契約を、イエスさまを信じる信仰によって与えていただいた、という点では同じである。私たちクリスチャンも契約を結び、神の民にしていただいた。  だから、2節のみことばは、地理的、歴史的な古代エジプトではないにせよ、古代エジプトがイスラエルのことを、神さまのことをまともに礼拝させないような奴隷状態、苦役にあえぐような奴隷状態に留め置いたように、私たちのことを、神なくて、罪の奴隷であった奴隷状態から、神さまが救い出してくださり、私たちはイエスさまを信じる信仰が与えられ、自由といのちを与えていただいた、という点で、私たちにも適用できる。  そういうわけで、十戒が与えられる大前提は、「救い」である。だから、そもそも、イエスさまを信じていなくて、したがって神さまの「救い」とは何かということなどまったく知らない、わからない人が、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」と言われれば反発心を覚えるのは当然である。  しかし、神さまによって救っていただいた人ならばどうか? 救っていただく前の自分の悲惨さ、それも絶望的な悲惨さを思い、そこから救ってくださったことへの感謝があってしかるべきである。神さま、こんな私のことを救ってくださり、ありがとうございます。私はこれからの人生、聖書のみことばに書いてあるとおりに、あなたさまにお従いします。そうなってこそしかるべきである。  この、神さまというお方は、ただひとり、イエスさまというお方、神の御子によって解き明かされたお方である。その解き明かしの集大成が、聖書のみことばである。だから、聖書のみことばをお読みすれば、この目に見えないまことの神さまに、どのようにお従いすべきかということがわかるようになっている。  その神さまは、天地万物をおつくりになった創造主であり、また、イエス・キリストの父なるお方である。このお方以外に神はいない。それは事実であるが、世の中の人々は、このお方以外にも神がいるかのように信じ、また振る舞っている。現代の日本に至っては、何やら素晴らしく見える人やものに至るまでも「神」と呼んではばからない。汎神論、ここに極まれり、といった感じだが、私たちはだれが何と言おうとも、創造主なる唯一の神さま以外のものは、すべて限りある被造物である、という信仰告白を曲げない生き方をするように召されている。  3節の表現にもう少し注目しよう。わたしのほかに神はない、とは言っていない。「あなたには」と言って、「あってはならない」と言っている。つまり、神さまと私たちひとりひとりの関係の中で、わたしは「あなたにとって」ただひとりの神なのだよ、「あなたには」ほかに神はいてはならないんだからね、と語っておられるわけである。  それゆえ、私たちは、生きているかぎり、つねに自分の目の前に唯一の神さまをお迎えする生き方を徹底する必要がある。何といっても、このような戒めが与えられて間もなくというタイミングで、早くもイスラエルの民は、自分たちを導き出した神だ、といって、金の子牛の像を刻んでそれに礼拝する、という、たいへんな罪を犯している。神さまの御手によって数々の奇跡を体験しながら救いを味わった彼らにしてそうだったのである。そう、神ならぬものを神とするという態度は、私たちのうちにつねにあるものである。私たちはそれを絶えず警戒しなければならない。  そのような、神ならぬものを神とする態度の種とでもいうべきものは、私たちの中に絶えずある。私たちがもし、自分のお金や時間や人生の関心を、まことの神さまにつかえるためよりも、もっと別のものに用いがちだったならば、それは「ほかの神」が私たちの中にあるせいかもしれない。音楽、遊び、グルメといった趣味が、それこそ「神」になってしまっているのである。あるいは、人前で自分がクリスチャンであるように振る舞わない、振る舞えないとしたら、その理由はもしかして、イエスさまを信じていることが周りにばれたら恥ずかしい、と思っているからではないだろうか? そうだとすると、私たちは周りの人たちのことを、神さまよりも大事にしている、言い換えれば、「世間様」という「神」に仕えていることになる。  しかし、いちばん警戒しなければならない「神」は「自分自身」である。自分が好きなように振る舞う。神さまを無視して自分のことばかり考える。そうなると、神さまのみこころは行えなくなる。自己中心。それが「罪」の究極の形である。しかし、神さまは私たちがそのような存在であることをすべてご存じの上、ひとり子イエスさまという完璧なささげ物によって、私たちを罪から贖いだしてくださった。救われるために、私たちはそれに何かつけ加える必要はない。ただ、信じればいいのである。  今日、バプテスマをお受けになる姉妹は、ただ、イエスさまの十字架の贖いを信じる信仰により、救われ、神さまの子どもにしていただく契約を結んだ、大事な私たちの家族でいらっしゃる。姉妹にとって、神さまのほかに神はないように、私たちにとっても、神さまのほかに神はない。私たちはともに、神さまのほかに神はない歩みをしていくように、励まし合っていく、大事な存在とされている。今日のバプテスマをお祝いし、私たちがひとつ家族にしていただいていることに感謝しよう。