ほかに神はいない私たち

聖書箇所;出エジプト記20章1節~3節 メッセージ題目;ほかに神はいない私たち  今日はこのメッセージのあとで、バプテスマを控えている。新たに神の民として公式的なスタートを切られる姉妹に向けたメッセージとして、今日のメッセージを用意させていただいた。  むかしのアメリカの映画で「十戒」というものがある。1956年の作品で、チャールトン・ヘストン主演。聖書が今よりもずっと尊重されていた、古き良きアメリカを象徴する映画。イスラエルの民がエジプトの圧政から救い出され、荒野に導き出され、シナイ山にて神さまと契約を結ぶ、という、出エジプト記の記述を映像化したものである。特撮の歴史に残る作品でもあり、イスラエルの民の目の前で、紅海が真っ二つに割れるシーンが特に有名。なお、なぜか日本ではこの主人公の名が「モー『ゼ』」となっているが、もちろん正しくは「モー『セ』」。一般的な日本人がとかく「モー『ゼ』」と言ってしまうのは、なんとかしてほしいところだが、この映画の日本語版のせいと言えなくもないだろう。  この作品の題名、私たちだったらなんとつけるだろうか? つい「出エジプト」と名づけてしまうかもしれない。しかし、実際には「十戒」とつけられた。実に意味のある題名となった。この作品のタイトルが「出エジプト」ではなく、「十戒」であったことは、聖書になじみのない日本人にとっても、「十戒」という聖書の教えがどれほど大事か、ということを強く印象づける役割を果たしたといえ、それはすばらしいことだった。この十戒とは、聖書66巻のもっとも基礎になるものであり、この十戒の教えによって教えられることにより、私たちは神の民としてふさわしく歩むことができる。  今日はまず、姉妹のバプテスマをお祝いする意味も込めて、第一戒から学ぶ。今年いっぱいで第十戒まで学べるので、しっかり予習してきていただきたい。少なくとも、聖書に書かれている、十戒全体をつねに読んでいただきたい。  第一戒。あなたがたは、わたし以外に、ほかの神があってはならない。  あの、チャールトン・ヘストンの映画が、「十戒」であることを日本人は知ったわけで、それなら「十戒」には何が書いてあるのだろうか、と興味を持って読んだら、その第一戒がこれ、ということで、八百万の神々の風土に生きる日本人は、そりゃないよ、と思うだろうか? しかし、ここは、なぜ神さまは「わたし以外、ほかの神があってはならない」とおっしゃったのか、そしてなぜ彼らは、そのように命じられなければならなかったのか、それをちゃんと押さえておかないと、神さまは悪い独裁者であるかのように大きく誤解をしてしまう。  このご命令、戒めは、先行するあらゆる聖書の記述が前提となる。まず、神さまがこの世界をおつくりになったこと。そして、神さまにお従いする民として、セツの子孫が増えていったこと。しかし、地上には悪が増大し、唯一ノアだけがその中で神さまのみこころにかなっていたので、ノアとその家族だけを全地球規模の滅びから救ってくださったこと。そして時が下り、神さまはアブラハムと契約を結ばれ、アブラハム、その子のイサク、その子のヤコブの神となられたこと。ヤコブとはイスラエルという名前が与えられた人であり、ヤコブの子孫たちはイスラエル民族、神さまはアブラハム、イサク、ヤコブの神であられるゆえ、イスラエル民族がもろとも、神さまの民として神さまの契約の中にある形になる。  そのイスラエルが異国の地で苦しむが、やがてもろとも救われることは、神さまがアブラハムにすでに約束してくださったことろであった。はるか昔に与えられた預言、それが時至って、出エジプトという形で成し遂げられた。時にイスラエル民族は、エジプトの地で奴隷生活を強いられ、ものすごい苦しみにあっていた。しかし民がその神に叫び求める祈りをおささげすると、神さまはその祈りを聴き届けてくださり、指導者モーセを不思議なようにして立ててくださった。  そしてモーセの導きのもと、エジプトには十種類のすさまじい災いが下され、根負けしたファラオはイスラエル民族を国から追放した。しかし、いざ追放して彼らが国からいなくなってみると、ファラオはまたもや考えを変えた。軍隊を派遣して、イスラエルを取り返しにかかった。目の前は広い海、紅海、後ろにはエジプト軍が迫るという、この危機的な状況の中で、神さまは紅海を真っ二つに分けられ、全イスラエルを通らされた。しかし、あとを追ってきたエジプト軍の上には、道の両側にそそり立つ水の壁が襲いかかり、ひとりとして残らなかった。  このようにして、この20章2節にあるとおり、神さまは、イスラエルをエジプトの地、奴隷の家から導き出した彼らの神、主としてのご栄光をあらわされたのであった。そう、彼らが苦しみと悲惨の中にあったとき、神さまがお救いになった。「だから」、わたしの言うことにとどまりなさい、というわけである。これは、神さまの親心にも似た愛である。  ほんとうに愛する子どもだったら、勝手なことは許さないだろう。それは親としての沽券にかかわるからではない。つまり、「親の顔が見たい」なんて人から侮辱されたくないから、ではない。子どもが子どもらしく、ちゃんとなるためである。夜ふかししたり、スマホばかりやったり、おいしくても栄養のない食べ物でおなかをいっぱいにしたりということを許さないのは、子どもが憎いからではない。かわいいからである。神さまもそう。ご自身の子どもがきちんとなることが、神さまにとって最高の喜びである。救われている以上、罪の奴隷になっていてはならないのである。  私たちもそうである。私たちはイスラエル民族ではないが、神さまの一方的なあわれみによって、神さまの子どもとなる契約を、イエスさまを信じる信仰によって与えていただいた、という点では同じである。私たちクリスチャンも契約を結び、神の民にしていただいた。  だから、2節のみことばは、地理的、歴史的な古代エジプトではないにせよ、古代エジプトがイスラエルのことを、神さまのことをまともに礼拝させないような奴隷状態、苦役にあえぐような奴隷状態に留め置いたように、私たちのことを、神なくて、罪の奴隷であった奴隷状態から、神さまが救い出してくださり、私たちはイエスさまを信じる信仰が与えられ、自由といのちを与えていただいた、という点で、私たちにも適用できる。  そういうわけで、十戒が与えられる大前提は、「救い」である。だから、そもそも、イエスさまを信じていなくて、したがって神さまの「救い」とは何かということなどまったく知らない、わからない人が、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」と言われれば反発心を覚えるのは当然である。  しかし、神さまによって救っていただいた人ならばどうか? 救っていただく前の自分の悲惨さ、それも絶望的な悲惨さを思い、そこから救ってくださったことへの感謝があってしかるべきである。神さま、こんな私のことを救ってくださり、ありがとうございます。私はこれからの人生、聖書のみことばに書いてあるとおりに、あなたさまにお従いします。そうなってこそしかるべきである。  この、神さまというお方は、ただひとり、イエスさまというお方、神の御子によって解き明かされたお方である。その解き明かしの集大成が、聖書のみことばである。だから、聖書のみことばをお読みすれば、この目に見えないまことの神さまに、どのようにお従いすべきかということがわかるようになっている。  その神さまは、天地万物をおつくりになった創造主であり、また、イエス・キリストの父なるお方である。このお方以外に神はいない。それは事実であるが、世の中の人々は、このお方以外にも神がいるかのように信じ、また振る舞っている。現代の日本に至っては、何やら素晴らしく見える人やものに至るまでも「神」と呼んではばからない。汎神論、ここに極まれり、といった感じだが、私たちはだれが何と言おうとも、創造主なる唯一の神さま以外のものは、すべて限りある被造物である、という信仰告白を曲げない生き方をするように召されている。  3節の表現にもう少し注目しよう。わたしのほかに神はない、とは言っていない。「あなたには」と言って、「あってはならない」と言っている。つまり、神さまと私たちひとりひとりの関係の中で、わたしは「あなたにとって」ただひとりの神なのだよ、「あなたには」ほかに神はいてはならないんだからね、と語っておられるわけである。  それゆえ、私たちは、生きているかぎり、つねに自分の目の前に唯一の神さまをお迎えする生き方を徹底する必要がある。何といっても、このような戒めが与えられて間もなくというタイミングで、早くもイスラエルの民は、自分たちを導き出した神だ、といって、金の子牛の像を刻んでそれに礼拝する、という、たいへんな罪を犯している。神さまの御手によって数々の奇跡を体験しながら救いを味わった彼らにしてそうだったのである。そう、神ならぬものを神とするという態度は、私たちのうちにつねにあるものである。私たちはそれを絶えず警戒しなければならない。  そのような、神ならぬものを神とする態度の種とでもいうべきものは、私たちの中に絶えずある。私たちがもし、自分のお金や時間や人生の関心を、まことの神さまにつかえるためよりも、もっと別のものに用いがちだったならば、それは「ほかの神」が私たちの中にあるせいかもしれない。音楽、遊び、グルメといった趣味が、それこそ「神」になってしまっているのである。あるいは、人前で自分がクリスチャンであるように振る舞わない、振る舞えないとしたら、その理由はもしかして、イエスさまを信じていることが周りにばれたら恥ずかしい、と思っているからではないだろうか? そうだとすると、私たちは周りの人たちのことを、神さまよりも大事にしている、言い換えれば、「世間様」という「神」に仕えていることになる。  しかし、いちばん警戒しなければならない「神」は「自分自身」である。自分が好きなように振る舞う。神さまを無視して自分のことばかり考える。そうなると、神さまのみこころは行えなくなる。自己中心。それが「罪」の究極の形である。しかし、神さまは私たちがそのような存在であることをすべてご存じの上、ひとり子イエスさまという完璧なささげ物によって、私たちを罪から贖いだしてくださった。救われるために、私たちはそれに何かつけ加える必要はない。ただ、信じればいいのである。  今日、バプテスマをお受けになる姉妹は、ただ、イエスさまの十字架の贖いを信じる信仰により、救われ、神さまの子どもにしていただく契約を結んだ、大事な私たちの家族でいらっしゃる。姉妹にとって、神さまのほかに神はないように、私たちにとっても、神さまのほかに神はない。私たちはともに、神さまのほかに神はない歩みをしていくように、励まし合っていく、大事な存在とされている。今日のバプテスマをお祝いし、私たちがひとつ家族にしていただいていることに感謝しよう。