父母を敬うということ

聖書箇所;出エジプト記20章12節 メッセージ題目;父母を敬うということ  私が幼稚園から小学校にかけての頃、テレビで毎日流していたCMがあった。ある程度の年代以上の方はご記憶だろう。それは、今でいう日本財団、競艇の組織が流すもので、その会長である笹川良一という人が、子どもたちや、当時大人気だったお相撲さんの高見山関、音楽家の山本直純さん、そして動物のチンパンジーとともに、法被(はっぴ)を着て、「戸締まり用心火の用心」と歌いながら練り歩く、というもの。そのフレーズは、「地球は一家、人類はみな兄弟、お父さん、お母さんを大切にしよう」だった。  そんな、親を大切にしなさい、敬いなさい、という教えは、日本人にかぎらず、人類普遍の教えというべきだろう。それは、この十戒でも語られてるように、それがわれわれ人類の創造主である神さまのみこころだから人類はみなその教えを大切にする、と言えよう。  しかし、私たちクリスチャンにとって大切なのは、それが「なぜ」クリスチャンにとって大切なのか、ということを、みことばの語ることから再定義することである。そうしないと、下手をすると父と母をいかに敬っているといっても、その敬い方が聖書的とはいえなくて、かえってみこころを損なってしまいかねない。あるいは、敬うことが必要だとわかっていてもそれがどうしてもできないで、過度に自分のことを責めてしまう。ゆえに私たちは、神さまはなぜ「あなたの父と母を敬え」とおっしゃっているのか、そして父と母を敬う私たちに、神さまはどのような祝福をくださるのか、父と母を敬うにはどうすればいいのか、ともに学ぶ必要がある。そのようにして、私たちはふさわしいかたちで、みこころにかなった親孝行の社会を形づくっていきたいものである。  それでは見ていこう。まず、この「あなたの父と母を敬え」というこの戒めは、十戒のうちの第5の戒めである。この戒めが置かれている位置に注目したい。十戒の戒めの並び方をご覧になれば一目瞭然だが、最初の4つの戒めが神さまに対する「対神関係」の戒めであり、あとの6つが人に対する「対人関係」の戒めである。その「対人関係」の戒めの最初に来るのがこの第5の戒めというわけである。  つまり、この戒めは、十戒において神さまがどのようなお方であるかということを踏まえたうえでとらえるべきものである。すなわち、神さまはイスラエルを奴隷の家から救われたお方である、だから、「神さまのほかに神があってはならない」、「偶像をつくってはならない」、「神の名をみだりに口にしてはならない」、「安息日を覚えてこれを聖とせよ」、その前提あっての「あなたの父と母を敬え」である。日本社会がそうであるように、テレビのCMも含めた世間一般が、親を敬いなさい、親孝行をしなさい、と言うから、父母を敬うのではない。救い主なる神さま、唯一の神さま、聖なる神さまのご命令だから、父母を敬う、というわけである。  この戒めが置かれた順番に注目すれば、神さまがなぜ人に対する第一のご命令として、父母を敬いなさい、とおっしゃったかが見えてくる。これは、対神関係を扱う前半の戒めと、対人関係を扱う後半の戒めの、いわば「結節点」に位置する戒めである。千代崎秀雄先生という牧師先生はこの事情について、このようにおっしゃっている。  「聖書の思想によると、子が幼い間は親は神の代理として愛の保護・育成・訓戒を与える責任があるとされる。したがって、第5を前半の中にかぞえることも可能。」そう、だから、この「あなたの父と母を敬え」という戒めは、「対神関係」の戒めと「対人関係」の戒めを同時に兼ね備える役割を果たしているといえる。それだけにとても重要である。  とはいっても、この聖書の思想のとおりに、親が神の代理として子どもに対する保護・育成・訓戒の働きを果たしおおせた、という実例は、聖書の中からなかなか探すことは難しい。  もしそういう実例があれば、たとえばミッション系の幼稚園などで保護者を対象にやっている、聖書をもとにした子育てセミナーなどはずいぶんやりやすくなるのだが、あいにくそういう具体的な模範は聖書の中からなかなか見出せるものではない。  一応、見いだせるものといったら、条件が限定されている中でそれでも母親としての役割を果たそうとした、モーセの母ヨケベテ、サムエルの母ハンナのケースといったところだろう。それでもあまり具体的に、微に入り細にわたってどういうことをしたかを書いているわけではない。あるいは、父親のケースでいえば、イサクのケースやヤコブのケースのような、ふさわしい父親というにはどこか問題を抱えたケースだろう。いわば反面教師である。ダビデはいまわの際にソロモンに王権を授ける際、王様として、と同時に、親としてもよい模範を示せたといえなくもないが、一方でダビデは、息子アムノンやアブサロム、アドニヤに対しては親として合格とはいえなかった。  新約聖書の場合は、子どもが亡くなったり、重病に陥ったりして悲嘆にくれる親、というのは出てくるが、神さまの御手に委ねるまで、子どもをふさわしく育てた親、という具体的な実例は見つけにくい。あえて言えば、イエスさまのもとに息子ヤコブとヨハネを送り出すまで、親として子どもたちを監督したゼベダイの存在や、テモテにユダヤ人クリスチャンの母親、また祖母として信仰を継承したユニケやロイスの存在が、それをほのめかしていると言える程度だろう。  ただし、聖書的な「父母」の概念をしっかり語っている箇所ならちゃんと存在する。それは第一テサロニケ2章のみことば、パウロが自分自身の牧会哲学を、母親というもの、また父親というものになぞらえて語っている箇所である。お開きいただきたい。  まず、パウロは母という存在と自分の牧会との関係について語る。7節と8節。……まず、パウロは、母親とは子どもをいとおしく思う存在だと語る。さきほど、サムエルの母であるハンナのことに少し触れたが、ハンナは神さまへの誓いどおり、長い不妊の末にようやく生まれたサムエルを神さまにおささげし、祭司エリのいる神殿に預けた。しかし、ハンナは年ごとの礼拝でシロの地に赴くたびに、自分の手で縫った小さな上着をサムエルに差し入れしている。ハンナは、神さまの御手に子どもを委ねた以上、もう関係ない、とはならなかったのである。幼いサムエルが寒い思いをしないように、と、ひと針ひと針縫う労苦を惜しまなかった。それはやはり、サムエルをいとおしんでいたからだった。そのような、母親が子どもを愛しいつくしむ、その愛情をあなたがた教会のおひとりおひとりに注ぐのです、とパウロは告白しているわけである。  そしてパウロは、自分は母親のごとく、神の福音だけではなく、自分のいのちをもあなたがたに与えたい、とも語っている。パウロが福音を語るのは、その福音を聞いた人がイエスさまを信じ受け入れて、永遠のいのちを得るためである。その人が救われてほしい一心で、また、救いの道を歩んでほしい一心で、パウロは一生懸命に福音を語り、みことばを解き明かす。しかし、それは単なることばだけの伝道ではない。自分のいのちさえも差し出すこともいとわない姿勢、それが教会形成にとって必要であるというわけである。  そのような、いつくしむ愛、子どものためなら自分がどうなってもいいという愛、その究極の愛は神さまの愛で、イエスさまが私たち神の子どもたちをいつくしんでくださり、私たちが永遠の滅びから救われ、生きるために、ご自身のいのちを十字架の上にてお捨てになった愛にあらわされている。聖書全体から受ける神さまのイメージは男性的だが、時に神さまは私たち人間を、母親の子どもを思う愛情の原点ともいえる愛をもって愛してくださる。お開きにならないでいいが、イザヤ書66章13節を見ると、神さまは、神の民が自らの罪に傷ついて沈むのをご自身が慰めてくださるその御姿が、まるで子どもを慰める母親のようだとお語りになっている。神さまはそのように、母親のような愛情を神の民である私たちに注いでくださるお方である。  もしかすると私たちは、地上の母親から充分な愛情、ふさわしい愛情を受けられないで生きてきたかもしれない。神さまはそんな私たちのことを、地上のどんな母親にもまさる愛でいつくしんでくださっている。  一方でパウロは、自身の牧会と教会形成を父親にもなぞらえている。第一テサロニケ2章11節、12節にあるとおりである。パウロは教会のひとりひとりに、神のご存在のリアルとそのみこころを示し、そのみこころにふさわしく歩むように勧め、励まし、また厳かに命じている。これが父親というものだというわけである。神を示し、その道を歩めるように訓戒する。そのためには厳格になることもいとわない。  旧約聖書、また聖書全体の総決算と言えるヨハネの黙示録における神さまは、きわめて厳格な父の姿で私たちに迫ってこられる。私たちは罪を犯した罪人なので、厳格な父の前に出るにはどうしても後ろめたさを覚え、なかなか近づけない。よく、父親とは厳格な近づきがたい存在だと言われるが、それはおよそこの世の父親というものが、聖書に啓示されている父なる神さまのお姿をこの世に示す存在であるからだろう。この世の父親が厳格であるように、いやそれ以上に、父なる神さまは厳格なお方である。  しかし、父は私たちから遠いだけの存在ではない。どうしても近づくことができないでいる私たち子どもたちのために、御子イエスさまを橋渡しをするお方として私たちのもとに送ってくださった。私たち罪人を憐れんでくださる、母親のような愛情である。というより、神さまのこのいつくしむ愛をこの地上で表現するのが、母親という存在だというべきだろう。父なる神さまは、私たちがイエスさまを信じればそれでよしとする、そのいのちの道を備えてくださったのである。私たちはイエスさまによって、父なる神さまのもとに堂々と行けるのである。  というわけで、十戒が神の民に与えられた戒めという前提で見るならば、十戒の第5の戒めは、神のみこころを神の国で実践する、神のかたちとしての父と母だから敬うべき、ということである。すなわち、神の民が父と母を敬うことは、神を恐れ、礼拝することにつながるのである。  しかしそれは、まず、父母が神さまを恐れ、神さまに従順であるということが前提となることに注意が必要である。おそらく、子どもが家族の中で最初にクリスチャンになるケースで、もっとも葛藤することはこのことではないだろうか。  私はかつて、純粋な信仰を持ったクリスチャンの高校生が、夏のバイブルキャンプを通じてバプテスマを受ける決心に導かれたものの、子どもが教会の活動に積極的になりすぎることを嫌った母親の顔色を見るあまり、バイブルキャンプから帰ってきたら、バプテスマはおろか、それきりぱったりと教会に行くことそのものをやめてしまった、という、あまりに心痛むできごとに接したことがある。私としては、父母を敬うとはそういうことではないんだよ、と教えてあげたかったが、何しろ彼女は重い障害を抱えていて、母親なしには何もできない人だったから、手の出しようがなかった。  そういう葛藤を抱えるのは、親が神さまに不従順なケースだろう。「父母を敬え」というみことばがあまりにリアルすぎて、それをまずは守ることで神のみこころに従おうとすると、どうなるか? たとえば親が、もうおまえは教会に行くな、と言ったら、それに従わざるをえなくなる。しかし、これを仕方のないことと片づけていいのだろうか? 神さまはそんな、ご自身に従おうとする者を見捨てるような、冷たいお方なのだろうか?  しかし、信仰を持って歩もうとする子どもに対し、親という存在は時に大きすぎる。そのせいで信仰生活もままならないでいる方にまず申し上げたいことだが、神さまがおっしゃっている「あなたの父と母を敬え」は、大前提として、神の民という共同体の中の家族に語られたことばである。したがって、親がもし神の民に属さず、ゆえに神にお従いすることの何たるかもわからない場合、この戒めを律法的に自分の親子関係にあてはめようとするなら、その人はとても苦しむことになる。  場合によっては、強すぎる親の存在ゆえに、やっぱり教会から離れよう、信仰から離れよう、という決断をしてしまいかねない。それは神さまの望んでおられることではない。  とはいっても、教会から離れざるをえない選択をすることも充分あり得るのは、お互い理解するしかなかろう。ただしそれは、「あなたの父と母を敬え」というみことばを、教会を離れるという行動をもって実践するからでは断じてない。言うなればこれは、やむをえない行動、不本意な行動である。しかし、その迫害をする人がそれでも血を分けた自分の親である以上、葛藤するしかない。そんな苦しみにあう聖徒は、日本にたくさん存在している。ほんとうに、そのような不条理をあえてお許しになる神さまのみこころは理解することはとても難しい。私たち教会はただ一緒に、その兄弟姉妹たちと悩みながら、静かに祈るしかない。  それでも付け加えれば、ことみことばに関しては「あなたの父と母を敬え」ということばを律法的に、守り行わなければ祝福されない、呪われる、罰が当たる、などというような命令として、律法的にとらえるべきではない。というのは、やはりこのみことばは大前提として、神の民の共同体における益について語っているからである。  それは、「あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである」ということである。しかしこれは、単なる一代限りの長寿のようにとらえるべきではない。神さまが与えられる土地とは、この地上において神さまが王として統べ治められるあらゆる領域であり、それは教会はもちろん、教会のひと枝ひと枝として私たちが遣わされ、形成する働きに用いられるあらゆる領域を指す。それはクリスチャンホームであるかもしれない。また、クリスチャンとしての共同体であるかもしれない。  そういう場所を神さまが私たちに与えてくださるのは、この地上に私たちをとおして、神さまのご支配を実現してくださるためである。つまり、神の国は私たちがこの地上に実現させていただく。言い換えれば、神の国を実現することは、神さまと人との共同作業であり、その働きが長く続く条件は、神の支配の代理者としての父と母を敬う、その態度を保ち、それにふさわしい言動をすることであるわけである。そうすることで、この地上に神のご支配される神の国は保たれ、また、拡大する。それは私たち一代限りではなく、これからも続いていくことである。  私たちが一代目だとしたら、そのあとに続く人たちを生み、養い育てる。それは肉親としての、法律上の家族とはかぎらない。私たちが伝道して「霊的な子ども」を生み、養い育てるならば、神さまのそのご支配はさらに続く。もちろん、そのような方々に敬っていただけるような霊的生活をすることが肝心である。それはその方々にも祝福が臨むためである。  私たちはこの地上では、父と母を敬うべきと知りながらも、その父母が主にある歩みをしていなかったばかりに、とても敬えず、今に至るまで苦しい思いをしてきたかもしれない。しかし、私たちの人生はこれで終わりではない。私たちは、その過去を主の御手にお委ねし、新たに私たちをキリストにある家族として立て上げてくださる主のみこころにお従いしよう。そして私たちは、特に、もし自分たちが不幸な親子関係の中に生きてきたと思うならなおさら、その分、この世界に主にある愛情に満ちた親の愛が満ち、それによって子どもたちが喜んで父母に従える、そのような平安に世界が満たされるように、ともに祈っていこう。

安息を持つ意味

聖書箇所;出エジプト記20章8節~11節 メッセージ題目;安息を持つ意味  韓国の民俗音楽に、4種類の打楽器を用いた「サムルノリ」というものがある。私が卒業した大学には、このサムルノリや韓国の伝統舞踊に取り組む「西ヶ原ノリマダン」というサークルがあり、私はメンバーではなかったが、メンバーに韓国語を専攻する親しい仲間がたくさんいたので、しょっちゅう部室に出入りしていた。  ある日、その打楽器のひとつ、2本の長いばちで両側からたたく、鼓を大きくしたような楽器、チャングの様子を見た友達が、血相を変えた。聞くと、チャングというものは演奏するときに皮をぴんと張った状態にして、演奏し終わったら元に戻し、皮をゆるめるのだとか。彼女はそのとき、ひとこと言った。「チャングを休ませなきゃ……。」なるほど、ゆるませることは「休ませる」ことなのか、と納得したものだった。  今日のみことばは、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」という、十戒の第四の戒め。これまでの三つの戒めが「ほかに神があってはならない」「偶像をつくってはならない」「神の御名をみだりに口にしてはならない」と、「べからず」の内容だったのに対し、この第四戒は「べし」の戒め。  安息日とは何だろうか? まずその起源は、創世記1章、2章にさかのぼる。創世記1章を読めばわかるが、神さまが6日かけて世界をおつくりになったことを聖書は語っている。その次の日、7日目に神さまがなさったこと、それは、なさっていたすべてのわざを休まれた、ということである。そう、休むということ、休みの日を設けるということは、神さまがまずなさったことであることを、聖書は語っている。  神さまが6日で世界を創造され、7日目に休まれた、それを、こんにちも普通に用いている「週」「曜日」というものに適用すると、安息日は「土曜日」ということになる。ただし、聖書の民であるイスラエルは、一日というものを夕方から次の日の夕方までと定めていたため、こんにちの午前12時から次の午前12時までを一日とするやり方とは一致していない。しかしそれでも、11節に語られているとおり、神さまが安息を取られたゆえ、その被造物である人間も安息を取るべきであるという原則は変わらない。  私たちクリスチャンはこの「安息日」にあたる日を、日曜日とし、これを主の日、「主日」と呼ぶ。それは、イエスさまがお墓の中からよみがえったのが、日曜日の朝であり、それ以来クリスチャンは、この日曜日を特に大切にするしるしとして、日曜日を安息日としてきた。そういう立場からすると、日本中で流通するカレンダーがみな、週の初めの日である日曜日を特別に赤い字で記していることが、聖書的にかなっているということができよう。  今日は十戒の語る「安息」また「安息日」というものについて考えたい。この「安息日」というものは、だれにとって大事なのか? それは、主の民の個人個人にとって、また、主の民という共同体にとってである。  私たちは主の民である。しかし、そのような私たちは、この世においてはひとりひとりで活動する存在である。それは、クリスチャンホームの人であっても変わらない。うちの子どもたちも日中身を置いている場所は、まずクリスチャンを見かけない、一般の公立の学校である。みなさまのいらっしゃる場所も、クリスチャンがいるような環境ではないだろう。  そのような私たちは、9節にあるとおりのご命令に従って生きている。「六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。」勤労ということは、神さまが人間に命じられたことである。神さまが人間をおつくりになった初め、人間が神さまから与えられたことは「遊び」ではなく「仕事」であった。創世記2章15節、「神である主は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。」地上の環境を管理する働き、それが人間に与えられた本来の仕事である。  しかし、この仕事というものは、人間が神に背いたことによって、極めて厳しいものとなった。食べてはならないと神さまから厳重に命じられた「善悪の知識の木の実」に手を出した人間に対し、神さまは何とおっしゃっただろうか?「また、人に言われた。『あなたが妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、大地は、あなたのゆえにのろわれる。あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる。/大地は、あなたに対して茨とあざみを生えさせ、あなたは野の草を食べる。/あなたは、額に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ。」  ほんらい、エデンの園を管理することはとても楽しく、やりがいのあることだったはずだ。しかし、いまや人は苦しんで働き、ついには死ぬという、何ともむなしい存在となり果ててしまった。そんな人間が救われる道があるとすればただひとつ、神さまに立ち帰ることだけである。神さまはご自分に立ち帰る者に対し、邪慳にはなさらない。親しく受け入れてくださるお方である。  神の民もそのようにして、神さまに立ち帰るべく選ばれた民である。ゆえに、その民が神の民として生きるうえで必要なことは、神さまの望んでおられる方法で神に立ち帰ることである。それが、安息を持つということ、神さまはその、人が安息を持つ基準として、週7日のうち1日、とお定めになった。それは、創造のわざを6日で行い、7日目に休まれた、神さまご自身にならう者と、人がなるためにである。  しかし、よく考えよう。神さまは7日目には確かに創造のわざをお休みになったが、森羅万象を動かされるというみわざまでお休みになったわけではない。いつも、つねに、働きつづけておられたし、今も休まずに働きつづけておられる、なぜならば、それが創造主だからである。しかるに人には、ご自身に倣って週に6日働き、1日休むことを命じておられる。これはどういうことだろうか? それは、私たち人間が神さまに造られた被造物、土から取られた土の器、極めて壊れやすいもの、という事実を、謙遜に受け入れる必要があるからに他ならない。神さまはお休みにならない全能の創造主であっても、私たち人間はそういうわけにはいかないのである。  というわけで、週に6日働き、1日は休む、というライフスタイルを私たち神の民が実践するとき、私たちはその生き方をもって、自分が被造物、神さまが創造主であるという、謙遜な信仰告白を具体的に実践していることになるのである。その休みの日、安息日は、ガツガツ遊ぶ日ではない。せっかくの休みだからと、元を取ろうとばかりに遊びまくって、かえって疲れて月曜病にでもなったりしたら、何のための安息なのかわからない。しかし、一日かけてじっくり体も心も休めるならば、さらなる働きにリフレッシュして出ていけることになる。  だから、「休む」ということは人間にとって必要なものである。陳腐な言い方かもしれないが、「休むのも仕事のうち」である。また、「休むことができるのがプロ、休まないのはアマチュア」ともいう。たしかに、生産性を上げるために休むことは大切であり、それゆえに社員を働きずくめにさせるような企業は今や「ブラック企業」のレッテルを貼られるような、不名誉な存在となった。そういうことが普通に語られるようになったという点では、いい時代になったといえるのかもしれない。  しかし、そういうことが理想論として語られるからと、現実に社会全体がそれを実践しているわけではない。そういうきつい職場から簡単にもっとよい条件の職場に転職ができないということは、日本の抱える大きな問題であり、私たちもみな、その問題から無縁ではありえない。週に6日働き、1日は休むということは、十戒にもある神さまのご命令だというのに、私たちはなかなか、1日を差し出して休めない。そのことに私たちは後ろめたさを覚えていることだろう。しかし、どうしようもないのが現実ではないだろうか。  そのような中で今日、こうして御前に集まることができた私たちは、いわば神の民の「代表選手」である。  今や社会が、休むことの美徳を説く一方で、休むことも簡単にさせてくれないような厳しさに満ちあふれ、私たちもそんなダブルスタンダードの社会を構成する一員にされているような中、それでもここにいる私たちは、日曜日を主の日として神の御前に出ることが許されている。  このことを当たり前と考えてはならない。世界を見渡してみると、戦争や自然災害のためだったり、キリスト教を認めない政治体制のためだったりという理由で、主日をまともに礼拝の日に充てられない人がいっぱいいる。この日本もいま述べたとおり、仕事のために、あるいは健康上の理由で、また家族の反対に会っていて、日曜日を主日として聖別できないクリスチャンが、それこそいっぱいいる。  そのような中で私たちが、この日を主の日として、礼拝のために御前に出ることができるのは神さまの恵みでなくて何だろうか。この世界に生きている以上、私たちも日曜日に仕事を入れざるをえなかったかもしれないのである。あるいは、もっとほかの事情で礼拝できなかったかもしれないのである。この私も実をいうと昨日、胸が痛みだし、すわ、病気の再発か!? と、病院に行った。結果として何もなかったからよかったが、もし入院なんて事態にでもなったら、礼拝には来られなかったのである。  私たちが日曜日を聖別できていることは、偉いのでも何でもない。日曜日に働かざるを得ない、あるいは、そのほかの諸事情でどうしても来ることのできない兄弟姉妹を代表して招かれている、それゆえに、兄弟姉妹を代表して礼拝をささげる、それくらいの意識が必要ではないだろうか。  そして私たちは、安息を持っているといっても、だらけに来ているのでも、遊びに来ているのではない。神の民として安息を得られるほんとうの場所は、神の御前である。私たちが神の御前ですることは、礼拝である。私たちは神の御前にみことばをいただき、歌い、祈り、聖徒たちと祈りの課題を分かち合い、ともに楽しみ、奉仕する。これらがみな礼拝である。このメッセージの時間からしばらくしたら「祝祷」というものがささげられるが、それでたしかに礼拝が締めくくられはするものの、厳密に言えば礼拝はそれで終わりではない。小学校の校長先生がよく、遠足の帰りの会で「家に帰るまでが遠足です」というのを聞くが、私たちにしても、「家に帰るまでが礼拝です」である。  その「礼拝」というものは、個人、または数人単位の「小さな」ものがあり、それは平日の仕事の合間にささげるものである。QTや聖書通読、お祈りの伴う毎日のディボーション、家庭礼拝、平日の聖書勉強会や祈祷会といったものがこれにあたる。ディボーションなら毎日、小グループなら週1回平日がよい。しかし、教会全体の「大きな」礼拝は、やはり主日なる日曜日にささげてこそである。私たちは主日に、教会という共同体全体として主の御前にリトリートのひとときを持ち、安息を体験する。それだけに、ここに来られない人のためにも覚えて祈ることが大事になる。  最後に、どうしても主日を聖別するのが難しい、なぜならば、日曜日にも普通に働かなければならないからだ、という方のために、ひとことメッセージをお届けしたい。お願いしたいことだが、どうか、私たちのことを主にある共同体と見込んで、祈ってほしいことをシェアしていただきたい。そうすることで、主日に集う共同体の一員として振る舞えていることになる。  また、簡単ではないと思うが、6日間は仕事をし、1日は安息の日として休むようにという、主のみこころにお従いし、どうしても日曜日に仕事をせざるをえなかったならば、平日の1日に休みを取れたら、主の御前に礼拝をささげるようにすることを、心からお勧めする。その日にはぜひ、礼拝をささげていただきたい。そのためにこの教会という環境をしっかり利用していただきたい。私ども夫婦はみなさまの礼拝のために、可能なかぎり動き、ご奉仕する所存である。そうすれば礼拝はひとりきりではなく、少なくとも私ども2人が加わることになり、礼拝は公のものとなる。どうか、ともにそういう共同体となれるように、お互いのために祈っていこう。  では、ともに感謝の祈りをおささげしよう。今日、こうして私たちが御前に出ることができることに、心から感謝しよう。そして、ひとりでも多くの兄弟姉妹が主日を聖別して礼拝をささげることができるようにお祈りしよう。

御名をみだりに口にするとは

聖書箇所;出エジプト記20章7節 メッセージ題目;御名をみだりに口にするとは  アメリカにはいろいろなスラングがあって、日本人などにも、アメリカ人の真似をして、粋がって使いたがる人がいる。あまりいろいろ挙げるのは礼拝メッセージの時間にふさわしくないから詳しくは言わないが、神さまに関するものもいくつかある。そのなかに(ごめんなさい、ここだけはあえて口にします)、「オーマイガー」というものがあるのをご存じだろう。言うまでもなく「なんてこった!」という意味で、略して「OMG」と言ったりする。  しかし、クリスチャンの場合は、同じ「OMG」でも、「オー・マイ・グッドネス」というのが常である。「グッドネス」とは、「よいこと」という意味であるが、究極の「よいお方」である神さまのことを暗に指すことばでもある。こういう言い方をすることによって、「ゴッド」と直接口にすることを避ける。  その背景にあるのは、この出エジプト記20章7節、十戒の第三戒のいましめである。「なんてこった!」という俗っぽいことを口にするのに、畏れ多くも「ゴッド」はないだろう、というわけである。このように、やたらと神さまの御名を口にしないことは、旧約のむかしからイスラエルの間で行われていたことで、子音の文字だけが書かれている聖書を読むとき、「YHWH」という4文字、すなわち「神」を意味する4文字に差し掛かったら、朗読する人は口を閉ざし、次の単語からまた読み直す。  そうしているうちに、「YHWH」の読み方が失われ、この「YHWH」は「神聖四文字」と呼ばれるようになった。しかし、まったく音読しないわけにはいかないので、この四文字に、「主」を意味する「アドナイ」の母音を当て、「ヤホワ」と読むようになった。これは日本式に言えば「エホバ」であり、現在も流通している「文語訳聖書」ではこの「YHWH」の部分、新改訳聖書では太い字で「主」と書いてある部分に「エホバ」の呼び名が当てられている。しかし、これとて正確な呼び名ではなく、研究の結果、これはおそらく「ヤハウェ」と読んだのだろうということになっている。しかし、神さまのことを「ヤハウェさま」とはあまり言わない。私も言わない。  こういうことの根拠になっているのがこの第三戒のみことばだが、第三戒が意味することは、単なる「YHWH」を発音しない、なぜなら、神の御名は聖だからだ、というレベルにとどまるものではない。神の御名がみだりに唱えられるべきではない聖なるものだ、ということには、もっといろいろな意味がある。  そのことについてご説明する前に、「名前」というものについてもう少し見てから、3つのポイントに移って学びたいと思う。「名は体を表す」ということわざがあるが、聖書の世界においては特にそうである。「アブラハム」といえば、「多くの国民の父」という意味があり、その名のとおり、信仰をもって神の子となった、数えきれないほど多くの人の「信仰の父」となった。「モーセ」は「引き出す」、ナイル川の岸辺から引き出され、エジプトからイスラエルを引き出す人となった。「イエス」は「神は救い」、言うまでもなく救い主、救いの神、また、救いを与える父なる神へと導き、救ってくださるお方。そして「YHWH」は、「生成する、○○である」という意味があるといわれ、そうすると、創造主、絶対的に存在する永遠の主権者、ということになる。  そういう「名前」は人格的な存在として扱われるべきものである。日本では、名字だけで呼ぶ、呼び捨てで呼んでいいのは、スポーツ選手や芸能人のような有名人くらいのものだが、それとて本人を前にしたら、呼び捨てで呼ぶわけにはいかない。名前を尊重することは礼儀だというだけではなく、その人そのものを大切にすることだからと言えるだろう。  そのような「名前」を「その人そのもの」として用いる究極の形、それは「お祈り」である。私たちは「イエスさまのお名前によって」お祈りする。イエスさまご自身がおっしゃったとおり、イエスさまこそが、父なる神さまに人が至るための唯一の道だからである。  ほかの名前を使ってはいけない。「主の御名によって」ならいいが、「神さまの御名によって」とは言わないし、「天のお父様の御名によって」とか「聖霊さまの御名によって」などと祈ったらアウトである。「イエスさまの御名によって」が正しい。  そういうわけで、「神の御名」とは、「神さまご自身」を象徴するもの、と言えよう。そう考えると、「YHWH」を発音しないうちにほんとうの読み方がわからなくなった、ということは、ナンセンスどころか、一理あるとさえ言えてくるかもしれない。つまり、まるでそれは、神さまが目に見える存在ではないように、口にできる存在ではない、と言えるのかもしれない、ということである。  では、3つのポイントを見てみよう。第一に、神の御名をみだりに口にするとは、「神が聖なる存在であることを引き下げる行動」である。  具体的にいえば、「YHWH」を発音しなくなったいきさつや、アメリカで「オー・マイ・グッドネス」というようになったことなど、罪深くも汚らわしい人間が、聖なる神の御名を口にするなら、それは神への冒瀆だ、ということが含まれるだろう。それも確かにそうである。しかし、神が聖なる存在であることを引き下げることは、それにとどまらない。もっと深刻な問題である。  それは、「神の民」を名乗る人の生き方に現れる問題である。聖書を読むと、きよい神の民であるはずのイスラエルが、どんなにひどいことを考え、ひどいことを口走り、ひどい行いをしていたかが、これでもか、これでもか、と書かれている。そんな彼らイスラエルはしかし、創造主なる神さまの民、きよい神さまの民として生きることが、民としての変わらぬ旗印、究極のアイデンティティではなかったか。しかし、彼らは悪い行いで神を否定して恥じるところがなかった。  そんな彼らはしかし、形式的な宗教生活の中で、相変わらず神の御名を唱えることをしていたのであった。さらには、イエスさまを十字架につけた宗教指導者たち。彼らは、自分たちこそは純粋に神さまを礼拝し、神さまの御名を呼ばわっていた者たちだという自負心があったことだろう。だが彼らのやったことは、神の御子イエスさまを十字架送りにしたことだった。そんな彼らはいくら熱心に神の御名を唱えてみたところで、神は彼らの呼ぶ声を、ご自身の御名をみだりに唱える声としか見なしてくださらなかった。  現代においても同じことが行われている。異端などまさしくそれで、彼らは自分たちこそが神に対して純粋かつ熱心な群れ、この世に存在するキリスト教会はみな間違いと言わんばかりだが、実は彼らの口にする神の御名は、神とは似ても似つかないものの名前である。彼らについて行くならば、その人には救いは一切ありえない。だから私たちは、異端というものを警戒しなければならないのである。間違っても彼らのことを、キリスト教の一派とか、主にある兄弟とか見なしてはならない。  しかし、異端だけだろうか? 異端とよく似た反社会的な、キリスト教会を標榜する集団がある。いわゆる「カルト」である。詳しくは言わないが、教会を名乗っていても実はとんでもないことをしている団体は日本のいたるところに存在し、そこではパワハラやセクハラが横行し、いくつかの教会の不祥事はマスコミで報道された。こうして世間的に、だからキリスト教は怖い、などという、とんでもないメッセージが送られるに至った。そんな彼らは確かに正統の教義を持ち、少なくとも信仰告白という点では問題がないように見えた。それに、神の御名を呼び求めていたという点では模範的にさえ見えた。だが、彼らの礼拝や伝道や交わりは、ほんとうのところは、神の御名をみだりに口にしていたことにしかならなかったと言えよう。  しかしである。人様を批判する私たちもまた、神の御名をみだりに口にするあやまちを犯すものであることを心に留める必要がある。私たちがもし、「どうせどんな罪を犯していても自分はイエスさまの十字架によって赦されている」とばかりに、自分勝手な考えや態度や言動を悔い改めなかったとしたらどうだろうか? そういう人が神の御前に祈ってみたところで、それは「神の御名をみだりに口にする」ことにしかなっていないのではないだろうか?  だから、「神の御名をみだりに口にする」ということは、「私はクリスチャンとして、『なんてこった!』というときに『オー・マイ・グッドネス!』と言っているから問題ない」とか、そういう次元の問題ではないのである。私たちの生き方で神さまがそしられているのに、何食わぬ顔で神さまを礼拝するようでは、それは「神の御名をみだりに口にする」ことになる。まさしく、テトスが相手をしていた、クレタ人のクリスチャンたちのようである。パウロは彼らに対し、テトスへの手紙1章16節にあるとおり、実に辛辣きわまる評価を下しているが、私たちもこのことばのような評価を神さまから下されることのないように、口先だけの敬虔さではなく、行いにおいて、神さまを証しする生活ができるようになってまいりたい。  第二に、神の御名をみだりに口にするとは、ふさわしい神礼拝のあり方を逸脱した方法で神を礼拝するという行動である。  具体的なことはイエスさまがいくつか語っておられる。それらはおもに、マタイの福音書5章から7章に記された「山上の垂訓」にあらわれているが、その中でも6章、わざわざ人前で、人に褒めてもらえるように敬虔ななりをすることはいけない、と語っておられる。そう言うようにして御名を語るならば、それは神の御名をみだりに唱えることになるだろう。  たとえば断食の祈り。「断食」するやつれた顔を人前にさらして、「さすが、敬虔なクリスチャン!」とほめてもらうようでは、それは、「みだりに御名を口にする」ことである。断食して苦しい中だからより神さまに聞いていただける、とか、そういう問題ではない。それは所詮、肉を満足させる苦行であり、そうして御名を呼び求めたところで、「みだりに御名を口にする」ことにしかならない。神さまがもし人を断食に導かれるとしたら、それは食事ものどを通らない、食べて楽しむどころではない、というくらい祈りに打ちこまなければならないと思うようにされるときであり、そうなったら人はどんなに周りが止めても、断食をするだろう。そういう、神さまとの関係の中で行うものではない、パフォーマンスの断食は、御名をみだりに口にすることに通じる。  またイエスさまは、同じことばをただ繰り返して祈ってはならない、ともおっしゃった。ことば数が多ければ聴かれる、と思うのは、異邦人的な発想、つまり、神の民にふさわしくない発想である、と。そう、日本でもお経や題目を繰り返したり、繰り返し寺社にわざわざ足を運んで参拝したりすることでご利益がある、願いが叶う、ということが常識になっていて、そういう行動をちゃんと続けられている人は「偉い」と評価される。  しかし、まことの神さまはそういうお方ではない。私たちは親を呼ぶとき、「おかあさん、おかあさん、おかあさん、おかあさん、おかあさん……」などと延々呼ぶ必要はないし、また、そう呼んだら何が言いたいか、何を伝えたいか、いよいよわからなくなるから、そう呼んではいけない。お母さんだって怒るだろう。神さまも、私たちの父なるお方である以上、そのように御名を繰り返す呼び方をしてはいけない。それは「みだりに御名を口にする」ことである。  20年ほど前、歴代誌第一4章10節のみことばをもとに、「ヤベツの祈り」というものがキリスト教会に流行した。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあってわざわいから遠ざけ、私が痛みを覚えることのないようにしてください」という、ヤベツが祈ったというこの単純かつ意味の深い祈りは、それを何度も繰り返すように祈ることが奨励されたりもしたが、もしこれを何の考えもなく祈るならば、やはり「みだりに御名を口にすること」にも通じる。  イエスさまはそれで、こう祈りなさいと「主の祈り」をお示しになった。神さまの御名がほめたたえられることを第一に求めるこの祈りからしたら、私たちは何と、欲にまみれた祈りばかりささげていることだろうか。まさしく、私たちの祈りは「神の御名をみだりに口にする」もの、すなわち、「肉を満足させるために神さまのご主権を利用することもいとわない」傲慢なものでしかないか、よく考える必要がある。  いかがだろうか? このようなことを私たちはしていないだろうか? この戒めのみことばは、「御名をみだりに口にする者を主は罰せずにはおかない」と語っている。実に怖ろしい。  だとすると、私たちはみな、すべからく神の罰を受けるべき存在ということになりはしないか? しかし、この罰はイエスさまが十字架の上で受けてくださったことこそ、私たちが第一に思い起こすべきことである。私たち、神以外のものを神としてしまうような者、神を神としないような者、それゆえにむさぼりという偶像をつくり、それに肉の欲を用いてしまうような者、その肉の欲がかなえられるように、神さまの御名さえも用いてしまうようなピントの外れた罪人……そのような者の罪は、イエスさまの十字架の上にくぎづけにされた。  私たちは、神の御名をみだりに口にする、肉的な罪人であることを、ふさわしくない形で礼拝をささげたつもりになっているようなものであることを、今こそ認めて悔い改めよう。主は必ず、私たちの罪を赦し、神さまのみこころにかなう礼拝者として整えてくださる。  しかし、私たちはそうなると、考えてしまうかもしれない。いったい、「神の御名をみだりに口にしない」ものになるにはどうすればいいのだろうか? そこで第三のポイントである。神の御名をみだりに口にするかどうかは、神さまと自分との関係性で決まる。単純に言えば、神さまとの交わりがあるかないかで決まる。  ここまで見てきた、神の御名をみだりに口にするケースは、いずれも「神さまとの交わりがまともに成立していない」から起こっていることである。神さまとの交わりがない状態でも、人は「宗教的」な仮面をかぶり、いかにも自分が敬虔な神の民であるようにごまかすことなど、いくらでもできる。しかし、神さまと自分との関係ができていて、その中で神さまとの交わりを保っているならば、このような、みこころにかなっていない神さまの呼ばわり方など、とてもできないものである。  神さまと交わりを持とうと努める人は、神さまがいちばん大切なこととして私たちにお語りになった教え、聖書のみことばに日々教えられることを大切にする。そして、聖霊の交わりがつねに生活にあるように、お祈りすることを大切にする。しかし、その根底にあるものは、神を神とする、神を恐れる態度である。しかし、同時にこの恐れるべきお方、神さまの前に、大胆に出ていくことができるようにしてくださった、イエスさまの十字架に日々感謝する態度もまた、私たちの大切にすべきことである。  このことを考えるヒントとして、きわめて胸の痛むケースをお語りしたい。もう亡くなられた方だが、私には神学生時代の恩師にあたる牧師がいる。韓国のキリスト教会で、その名前を知らない人はいないほどの先生である。  この先生はとても大きな教会を牧会しておられた関係で、その影響のもとにあった信徒は数知れず、また、その先生から牧会の手ほどきを受けた副牧師はやがて韓国全土や海外に散り、それぞれの地で実に聖書的かつ健康な教会を立てておられ、この先生が生涯大切にされた、主の弟子として整えられつつ歩むことの喜びは、多くの信徒たちの生活の中で実践されている。素晴らしいことである。  しかし、この先生の息子のことにも触れなければならない。彼はとても頭がいい人で、ベストセラー作家でもある。彼は間違いなく、父親であるこの先生に愛されたし、またおそらく、この偉大な先生の息子として、信徒たちや副牧師たちにことのほか愛されただろう。だが、彼は今どんな人になっているか? キリスト教会、そしてその根底にある、聖書の語る福音を否定する人になった。それどころか、そのような反キリスト的な教えを韓国中に広めるインフルエンサーになってしまった。今や韓国でたいへんな影響力を持つ人になり、彼に扇動されて信仰をなくす人も現れ、大勢の韓国人クリスチャンの中に及んでいる悪影響は計り知れないものがある。  しかし、彼がこれだけの有名人になれたのは、あの偉大な牧師が父親であったから、以外の何ものでもない。あの先生の愛息の語ることだから聴かなければ、という動機で彼の言うことを聴いた人はとても多かったはずである。  私も彼の著書を5冊ほど買ったが、その最大の理由は、彼がすばらしい人だからということ以上に、まさに父上が私の恩師だったからである。たしかに、それらの本を読めば、彼は説得力にあふれた語り方をする頭のいい人ということはわかる。しかし彼は、そういう偉大な父親を持たなければ、まともなクリスチャンならば相手にしないような話をしているだけの人である。  不肖の息子、ということばがあるが、彼などまさにそうだろう。彼は、父親のもっとも大切にしている福音、キリストの弟子として歩む生き方を、一切受け継がなかった。しかし、その牧師先生がそんな息子を持ったからだめな人だったと評価するようなクリスチャンは、まともな人ならばいない。それは、ダビデがアムノンやアブサロム、アドニヤのような悪い息子たちがいても、なおみこころにかなっているのと同じことである。実際、この先生を生涯尊敬し、この先生が大切にしておられたように、主の弟子として整えられることに励むクリスチャンは、韓国中に、そして世界のいたるところにおられ、そういう方々が健康な教会を日々形づくっている。私も足りないながら、その先生に少しでもあやかろうという精神で、日々歩み、取り組むものである。とにかく、この先生が今なお及ぼしているよい影響は、この息子の及ぼしている悪い影響とは、比べ物にならないほど大きい。この息子と、韓国と世界にいる、この先生の霊的影響力のもとにあるクリスチャンたちと、どちらがその先生の名前を公に口にすることがふさわしいか、言うまでもないだろう。  私たちにとって、神さまの御名をみだりに口にするかどうかも、これと同じこと。神さまが大切にしておられるみこころを無視して生きる者の礼拝など、神の御名をみだりに口にすること以上のものではない。しかしそうではなく、神さまを心から愛し、そのみこころに喜んで従順に従いたいと切に願う者の礼拝は、神さまが喜んで受け入れてくださる。その、神さまに受け入れられるにふさわしい礼拝をささげることは、人として最高の喜び、そして祝福である。その礼拝をささげることも、恵みによる。恵みを求めて祈ろう。神さまはこの祈りを、みだりに呼ばわる声どころか、ご自身に対する真剣な声として、大いに喜んで受け入れてくださると信じ感謝して、お祈りしよう。