聖書箇所;出エジプト記20章7節
メッセージ題目;御名をみだりに口にするとは
アメリカにはいろいろなスラングがあって、日本人などにも、アメリカ人の真似をして、粋がって使いたがる人がいる。あまりいろいろ挙げるのは礼拝メッセージの時間にふさわしくないから詳しくは言わないが、神さまに関するものもいくつかある。そのなかに(ごめんなさい、ここだけはあえて口にします)、「オーマイガー」というものがあるのをご存じだろう。言うまでもなく「なんてこった!」という意味で、略して「OMG」と言ったりする。
しかし、クリスチャンの場合は、同じ「OMG」でも、「オー・マイ・グッドネス」というのが常である。「グッドネス」とは、「よいこと」という意味であるが、究極の「よいお方」である神さまのことを暗に指すことばでもある。こういう言い方をすることによって、「ゴッド」と直接口にすることを避ける。
その背景にあるのは、この出エジプト記20章7節、十戒の第三戒のいましめである。「なんてこった!」という俗っぽいことを口にするのに、畏れ多くも「ゴッド」はないだろう、というわけである。このように、やたらと神さまの御名を口にしないことは、旧約のむかしからイスラエルの間で行われていたことで、子音の文字だけが書かれている聖書を読むとき、「YHWH」という4文字、すなわち「神」を意味する4文字に差し掛かったら、朗読する人は口を閉ざし、次の単語からまた読み直す。
そうしているうちに、「YHWH」の読み方が失われ、この「YHWH」は「神聖四文字」と呼ばれるようになった。しかし、まったく音読しないわけにはいかないので、この四文字に、「主」を意味する「アドナイ」の母音を当て、「ヤホワ」と読むようになった。これは日本式に言えば「エホバ」であり、現在も流通している「文語訳聖書」ではこの「YHWH」の部分、新改訳聖書では太い字で「主」と書いてある部分に「エホバ」の呼び名が当てられている。しかし、これとて正確な呼び名ではなく、研究の結果、これはおそらく「ヤハウェ」と読んだのだろうということになっている。しかし、神さまのことを「ヤハウェさま」とはあまり言わない。私も言わない。
こういうことの根拠になっているのがこの第三戒のみことばだが、第三戒が意味することは、単なる「YHWH」を発音しない、なぜなら、神の御名は聖だからだ、というレベルにとどまるものではない。神の御名がみだりに唱えられるべきではない聖なるものだ、ということには、もっといろいろな意味がある。
そのことについてご説明する前に、「名前」というものについてもう少し見てから、3つのポイントに移って学びたいと思う。「名は体を表す」ということわざがあるが、聖書の世界においては特にそうである。「アブラハム」といえば、「多くの国民の父」という意味があり、その名のとおり、信仰をもって神の子となった、数えきれないほど多くの人の「信仰の父」となった。「モーセ」は「引き出す」、ナイル川の岸辺から引き出され、エジプトからイスラエルを引き出す人となった。「イエス」は「神は救い」、言うまでもなく救い主、救いの神、また、救いを与える父なる神へと導き、救ってくださるお方。そして「YHWH」は、「生成する、○○である」という意味があるといわれ、そうすると、創造主、絶対的に存在する永遠の主権者、ということになる。
そういう「名前」は人格的な存在として扱われるべきものである。日本では、名字だけで呼ぶ、呼び捨てで呼んでいいのは、スポーツ選手や芸能人のような有名人くらいのものだが、それとて本人を前にしたら、呼び捨てで呼ぶわけにはいかない。名前を尊重することは礼儀だというだけではなく、その人そのものを大切にすることだからと言えるだろう。
そのような「名前」を「その人そのもの」として用いる究極の形、それは「お祈り」である。私たちは「イエスさまのお名前によって」お祈りする。イエスさまご自身がおっしゃったとおり、イエスさまこそが、父なる神さまに人が至るための唯一の道だからである。
ほかの名前を使ってはいけない。「主の御名によって」ならいいが、「神さまの御名によって」とは言わないし、「天のお父様の御名によって」とか「聖霊さまの御名によって」などと祈ったらアウトである。「イエスさまの御名によって」が正しい。
そういうわけで、「神の御名」とは、「神さまご自身」を象徴するもの、と言えよう。そう考えると、「YHWH」を発音しないうちにほんとうの読み方がわからなくなった、ということは、ナンセンスどころか、一理あるとさえ言えてくるかもしれない。つまり、まるでそれは、神さまが目に見える存在ではないように、口にできる存在ではない、と言えるのかもしれない、ということである。
では、3つのポイントを見てみよう。第一に、神の御名をみだりに口にするとは、「神が聖なる存在であることを引き下げる行動」である。
具体的にいえば、「YHWH」を発音しなくなったいきさつや、アメリカで「オー・マイ・グッドネス」というようになったことなど、罪深くも汚らわしい人間が、聖なる神の御名を口にするなら、それは神への冒瀆だ、ということが含まれるだろう。それも確かにそうである。しかし、神が聖なる存在であることを引き下げることは、それにとどまらない。もっと深刻な問題である。
それは、「神の民」を名乗る人の生き方に現れる問題である。聖書を読むと、きよい神の民であるはずのイスラエルが、どんなにひどいことを考え、ひどいことを口走り、ひどい行いをしていたかが、これでもか、これでもか、と書かれている。そんな彼らイスラエルはしかし、創造主なる神さまの民、きよい神さまの民として生きることが、民としての変わらぬ旗印、究極のアイデンティティではなかったか。しかし、彼らは悪い行いで神を否定して恥じるところがなかった。
そんな彼らはしかし、形式的な宗教生活の中で、相変わらず神の御名を唱えることをしていたのであった。さらには、イエスさまを十字架につけた宗教指導者たち。彼らは、自分たちこそは純粋に神さまを礼拝し、神さまの御名を呼ばわっていた者たちだという自負心があったことだろう。だが彼らのやったことは、神の御子イエスさまを十字架送りにしたことだった。そんな彼らはいくら熱心に神の御名を唱えてみたところで、神は彼らの呼ぶ声を、ご自身の御名をみだりに唱える声としか見なしてくださらなかった。
現代においても同じことが行われている。異端などまさしくそれで、彼らは自分たちこそが神に対して純粋かつ熱心な群れ、この世に存在するキリスト教会はみな間違いと言わんばかりだが、実は彼らの口にする神の御名は、神とは似ても似つかないものの名前である。彼らについて行くならば、その人には救いは一切ありえない。だから私たちは、異端というものを警戒しなければならないのである。間違っても彼らのことを、キリスト教の一派とか、主にある兄弟とか見なしてはならない。
しかし、異端だけだろうか? 異端とよく似た反社会的な、キリスト教会を標榜する集団がある。いわゆる「カルト」である。詳しくは言わないが、教会を名乗っていても実はとんでもないことをしている団体は日本のいたるところに存在し、そこではパワハラやセクハラが横行し、いくつかの教会の不祥事はマスコミで報道された。こうして世間的に、だからキリスト教は怖い、などという、とんでもないメッセージが送られるに至った。そんな彼らは確かに正統の教義を持ち、少なくとも信仰告白という点では問題がないように見えた。それに、神の御名を呼び求めていたという点では模範的にさえ見えた。だが、彼らの礼拝や伝道や交わりは、ほんとうのところは、神の御名をみだりに口にしていたことにしかならなかったと言えよう。
しかしである。人様を批判する私たちもまた、神の御名をみだりに口にするあやまちを犯すものであることを心に留める必要がある。私たちがもし、「どうせどんな罪を犯していても自分はイエスさまの十字架によって赦されている」とばかりに、自分勝手な考えや態度や言動を悔い改めなかったとしたらどうだろうか? そういう人が神の御前に祈ってみたところで、それは「神の御名をみだりに口にする」ことにしかなっていないのではないだろうか?
だから、「神の御名をみだりに口にする」ということは、「私はクリスチャンとして、『なんてこった!』というときに『オー・マイ・グッドネス!』と言っているから問題ない」とか、そういう次元の問題ではないのである。私たちの生き方で神さまがそしられているのに、何食わぬ顔で神さまを礼拝するようでは、それは「神の御名をみだりに口にする」ことになる。まさしく、テトスが相手をしていた、クレタ人のクリスチャンたちのようである。パウロは彼らに対し、テトスへの手紙1章16節にあるとおり、実に辛辣きわまる評価を下しているが、私たちもこのことばのような評価を神さまから下されることのないように、口先だけの敬虔さではなく、行いにおいて、神さまを証しする生活ができるようになってまいりたい。
第二に、神の御名をみだりに口にするとは、ふさわしい神礼拝のあり方を逸脱した方法で神を礼拝するという行動である。
具体的なことはイエスさまがいくつか語っておられる。それらはおもに、マタイの福音書5章から7章に記された「山上の垂訓」にあらわれているが、その中でも6章、わざわざ人前で、人に褒めてもらえるように敬虔ななりをすることはいけない、と語っておられる。そう言うようにして御名を語るならば、それは神の御名をみだりに唱えることになるだろう。
たとえば断食の祈り。「断食」するやつれた顔を人前にさらして、「さすが、敬虔なクリスチャン!」とほめてもらうようでは、それは、「みだりに御名を口にする」ことである。断食して苦しい中だからより神さまに聞いていただける、とか、そういう問題ではない。それは所詮、肉を満足させる苦行であり、そうして御名を呼び求めたところで、「みだりに御名を口にする」ことにしかならない。神さまがもし人を断食に導かれるとしたら、それは食事ものどを通らない、食べて楽しむどころではない、というくらい祈りに打ちこまなければならないと思うようにされるときであり、そうなったら人はどんなに周りが止めても、断食をするだろう。そういう、神さまとの関係の中で行うものではない、パフォーマンスの断食は、御名をみだりに口にすることに通じる。
またイエスさまは、同じことばをただ繰り返して祈ってはならない、ともおっしゃった。ことば数が多ければ聴かれる、と思うのは、異邦人的な発想、つまり、神の民にふさわしくない発想である、と。そう、日本でもお経や題目を繰り返したり、繰り返し寺社にわざわざ足を運んで参拝したりすることでご利益がある、願いが叶う、ということが常識になっていて、そういう行動をちゃんと続けられている人は「偉い」と評価される。
しかし、まことの神さまはそういうお方ではない。私たちは親を呼ぶとき、「おかあさん、おかあさん、おかあさん、おかあさん、おかあさん……」などと延々呼ぶ必要はないし、また、そう呼んだら何が言いたいか、何を伝えたいか、いよいよわからなくなるから、そう呼んではいけない。お母さんだって怒るだろう。神さまも、私たちの父なるお方である以上、そのように御名を繰り返す呼び方をしてはいけない。それは「みだりに御名を口にする」ことである。
20年ほど前、歴代誌第一4章10節のみことばをもとに、「ヤベツの祈り」というものがキリスト教会に流行した。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあってわざわいから遠ざけ、私が痛みを覚えることのないようにしてください」という、ヤベツが祈ったというこの単純かつ意味の深い祈りは、それを何度も繰り返すように祈ることが奨励されたりもしたが、もしこれを何の考えもなく祈るならば、やはり「みだりに御名を口にすること」にも通じる。
イエスさまはそれで、こう祈りなさいと「主の祈り」をお示しになった。神さまの御名がほめたたえられることを第一に求めるこの祈りからしたら、私たちは何と、欲にまみれた祈りばかりささげていることだろうか。まさしく、私たちの祈りは「神の御名をみだりに口にする」もの、すなわち、「肉を満足させるために神さまのご主権を利用することもいとわない」傲慢なものでしかないか、よく考える必要がある。
いかがだろうか? このようなことを私たちはしていないだろうか? この戒めのみことばは、「御名をみだりに口にする者を主は罰せずにはおかない」と語っている。実に怖ろしい。
だとすると、私たちはみな、すべからく神の罰を受けるべき存在ということになりはしないか? しかし、この罰はイエスさまが十字架の上で受けてくださったことこそ、私たちが第一に思い起こすべきことである。私たち、神以外のものを神としてしまうような者、神を神としないような者、それゆえにむさぼりという偶像をつくり、それに肉の欲を用いてしまうような者、その肉の欲がかなえられるように、神さまの御名さえも用いてしまうようなピントの外れた罪人……そのような者の罪は、イエスさまの十字架の上にくぎづけにされた。
私たちは、神の御名をみだりに口にする、肉的な罪人であることを、ふさわしくない形で礼拝をささげたつもりになっているようなものであることを、今こそ認めて悔い改めよう。主は必ず、私たちの罪を赦し、神さまのみこころにかなう礼拝者として整えてくださる。
しかし、私たちはそうなると、考えてしまうかもしれない。いったい、「神の御名をみだりに口にしない」ものになるにはどうすればいいのだろうか? そこで第三のポイントである。神の御名をみだりに口にするかどうかは、神さまと自分との関係性で決まる。単純に言えば、神さまとの交わりがあるかないかで決まる。
ここまで見てきた、神の御名をみだりに口にするケースは、いずれも「神さまとの交わりがまともに成立していない」から起こっていることである。神さまとの交わりがない状態でも、人は「宗教的」な仮面をかぶり、いかにも自分が敬虔な神の民であるようにごまかすことなど、いくらでもできる。しかし、神さまと自分との関係ができていて、その中で神さまとの交わりを保っているならば、このような、みこころにかなっていない神さまの呼ばわり方など、とてもできないものである。
神さまと交わりを持とうと努める人は、神さまがいちばん大切なこととして私たちにお語りになった教え、聖書のみことばに日々教えられることを大切にする。そして、聖霊の交わりがつねに生活にあるように、お祈りすることを大切にする。しかし、その根底にあるものは、神を神とする、神を恐れる態度である。しかし、同時にこの恐れるべきお方、神さまの前に、大胆に出ていくことができるようにしてくださった、イエスさまの十字架に日々感謝する態度もまた、私たちの大切にすべきことである。
このことを考えるヒントとして、きわめて胸の痛むケースをお語りしたい。もう亡くなられた方だが、私には神学生時代の恩師にあたる牧師がいる。韓国のキリスト教会で、その名前を知らない人はいないほどの先生である。
この先生はとても大きな教会を牧会しておられた関係で、その影響のもとにあった信徒は数知れず、また、その先生から牧会の手ほどきを受けた副牧師はやがて韓国全土や海外に散り、それぞれの地で実に聖書的かつ健康な教会を立てておられ、この先生が生涯大切にされた、主の弟子として整えられつつ歩むことの喜びは、多くの信徒たちの生活の中で実践されている。素晴らしいことである。
しかし、この先生の息子のことにも触れなければならない。彼はとても頭がいい人で、ベストセラー作家でもある。彼は間違いなく、父親であるこの先生に愛されたし、またおそらく、この偉大な先生の息子として、信徒たちや副牧師たちにことのほか愛されただろう。だが、彼は今どんな人になっているか? キリスト教会、そしてその根底にある、聖書の語る福音を否定する人になった。それどころか、そのような反キリスト的な教えを韓国中に広めるインフルエンサーになってしまった。今や韓国でたいへんな影響力を持つ人になり、彼に扇動されて信仰をなくす人も現れ、大勢の韓国人クリスチャンの中に及んでいる悪影響は計り知れないものがある。
しかし、彼がこれだけの有名人になれたのは、あの偉大な牧師が父親であったから、以外の何ものでもない。あの先生の愛息の語ることだから聴かなければ、という動機で彼の言うことを聴いた人はとても多かったはずである。
私も彼の著書を5冊ほど買ったが、その最大の理由は、彼がすばらしい人だからということ以上に、まさに父上が私の恩師だったからである。たしかに、それらの本を読めば、彼は説得力にあふれた語り方をする頭のいい人ということはわかる。しかし彼は、そういう偉大な父親を持たなければ、まともなクリスチャンならば相手にしないような話をしているだけの人である。
不肖の息子、ということばがあるが、彼などまさにそうだろう。彼は、父親のもっとも大切にしている福音、キリストの弟子として歩む生き方を、一切受け継がなかった。しかし、その牧師先生がそんな息子を持ったからだめな人だったと評価するようなクリスチャンは、まともな人ならばいない。それは、ダビデがアムノンやアブサロム、アドニヤのような悪い息子たちがいても、なおみこころにかなっているのと同じことである。実際、この先生を生涯尊敬し、この先生が大切にしておられたように、主の弟子として整えられることに励むクリスチャンは、韓国中に、そして世界のいたるところにおられ、そういう方々が健康な教会を日々形づくっている。私も足りないながら、その先生に少しでもあやかろうという精神で、日々歩み、取り組むものである。とにかく、この先生が今なお及ぼしているよい影響は、この息子の及ぼしている悪い影響とは、比べ物にならないほど大きい。この息子と、韓国と世界にいる、この先生の霊的影響力のもとにあるクリスチャンたちと、どちらがその先生の名前を公に口にすることがふさわしいか、言うまでもないだろう。
私たちにとって、神さまの御名をみだりに口にするかどうかも、これと同じこと。神さまが大切にしておられるみこころを無視して生きる者の礼拝など、神の御名をみだりに口にすること以上のものではない。しかしそうではなく、神さまを心から愛し、そのみこころに喜んで従順に従いたいと切に願う者の礼拝は、神さまが喜んで受け入れてくださる。その、神さまに受け入れられるにふさわしい礼拝をささげることは、人として最高の喜び、そして祝福である。その礼拝をささげることも、恵みによる。恵みを求めて祈ろう。神さまはこの祈りを、みだりに呼ばわる声どころか、ご自身に対する真剣な声として、大いに喜んで受け入れてくださると信じ感謝して、お祈りしよう。