聖書箇所;出エジプト記20章8節~11節
メッセージ題目;安息を持つ意味
韓国の民俗音楽に、4種類の打楽器を用いた「サムルノリ」というものがある。私が卒業した大学には、このサムルノリや韓国の伝統舞踊に取り組む「西ヶ原ノリマダン」というサークルがあり、私はメンバーではなかったが、メンバーに韓国語を専攻する親しい仲間がたくさんいたので、しょっちゅう部室に出入りしていた。
ある日、その打楽器のひとつ、2本の長いばちで両側からたたく、鼓を大きくしたような楽器、チャングの様子を見た友達が、血相を変えた。聞くと、チャングというものは演奏するときに皮をぴんと張った状態にして、演奏し終わったら元に戻し、皮をゆるめるのだとか。彼女はそのとき、ひとこと言った。「チャングを休ませなきゃ……。」なるほど、ゆるませることは「休ませる」ことなのか、と納得したものだった。
今日のみことばは、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」という、十戒の第四の戒め。これまでの三つの戒めが「ほかに神があってはならない」「偶像をつくってはならない」「神の御名をみだりに口にしてはならない」と、「べからず」の内容だったのに対し、この第四戒は「べし」の戒め。
安息日とは何だろうか? まずその起源は、創世記1章、2章にさかのぼる。創世記1章を読めばわかるが、神さまが6日かけて世界をおつくりになったことを聖書は語っている。その次の日、7日目に神さまがなさったこと、それは、なさっていたすべてのわざを休まれた、ということである。そう、休むということ、休みの日を設けるということは、神さまがまずなさったことであることを、聖書は語っている。
神さまが6日で世界を創造され、7日目に休まれた、それを、こんにちも普通に用いている「週」「曜日」というものに適用すると、安息日は「土曜日」ということになる。ただし、聖書の民であるイスラエルは、一日というものを夕方から次の日の夕方までと定めていたため、こんにちの午前12時から次の午前12時までを一日とするやり方とは一致していない。しかしそれでも、11節に語られているとおり、神さまが安息を取られたゆえ、その被造物である人間も安息を取るべきであるという原則は変わらない。
私たちクリスチャンはこの「安息日」にあたる日を、日曜日とし、これを主の日、「主日」と呼ぶ。それは、イエスさまがお墓の中からよみがえったのが、日曜日の朝であり、それ以来クリスチャンは、この日曜日を特に大切にするしるしとして、日曜日を安息日としてきた。そういう立場からすると、日本中で流通するカレンダーがみな、週の初めの日である日曜日を特別に赤い字で記していることが、聖書的にかなっているということができよう。
今日は十戒の語る「安息」また「安息日」というものについて考えたい。この「安息日」というものは、だれにとって大事なのか? それは、主の民の個人個人にとって、また、主の民という共同体にとってである。
私たちは主の民である。しかし、そのような私たちは、この世においてはひとりひとりで活動する存在である。それは、クリスチャンホームの人であっても変わらない。うちの子どもたちも日中身を置いている場所は、まずクリスチャンを見かけない、一般の公立の学校である。みなさまのいらっしゃる場所も、クリスチャンがいるような環境ではないだろう。
そのような私たちは、9節にあるとおりのご命令に従って生きている。「六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。」勤労ということは、神さまが人間に命じられたことである。神さまが人間をおつくりになった初め、人間が神さまから与えられたことは「遊び」ではなく「仕事」であった。創世記2章15節、「神である主は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。」地上の環境を管理する働き、それが人間に与えられた本来の仕事である。
しかし、この仕事というものは、人間が神に背いたことによって、極めて厳しいものとなった。食べてはならないと神さまから厳重に命じられた「善悪の知識の木の実」に手を出した人間に対し、神さまは何とおっしゃっただろうか?「また、人に言われた。『あなたが妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、大地は、あなたのゆえにのろわれる。あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる。/大地は、あなたに対して茨とあざみを生えさせ、あなたは野の草を食べる。/あなたは、額に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ。」
ほんらい、エデンの園を管理することはとても楽しく、やりがいのあることだったはずだ。しかし、いまや人は苦しんで働き、ついには死ぬという、何ともむなしい存在となり果ててしまった。そんな人間が救われる道があるとすればただひとつ、神さまに立ち帰ることだけである。神さまはご自分に立ち帰る者に対し、邪慳にはなさらない。親しく受け入れてくださるお方である。
神の民もそのようにして、神さまに立ち帰るべく選ばれた民である。ゆえに、その民が神の民として生きるうえで必要なことは、神さまの望んでおられる方法で神に立ち帰ることである。それが、安息を持つということ、神さまはその、人が安息を持つ基準として、週7日のうち1日、とお定めになった。それは、創造のわざを6日で行い、7日目に休まれた、神さまご自身にならう者と、人がなるためにである。
しかし、よく考えよう。神さまは7日目には確かに創造のわざをお休みになったが、森羅万象を動かされるというみわざまでお休みになったわけではない。いつも、つねに、働きつづけておられたし、今も休まずに働きつづけておられる、なぜならば、それが創造主だからである。しかるに人には、ご自身に倣って週に6日働き、1日休むことを命じておられる。これはどういうことだろうか? それは、私たち人間が神さまに造られた被造物、土から取られた土の器、極めて壊れやすいもの、という事実を、謙遜に受け入れる必要があるからに他ならない。神さまはお休みにならない全能の創造主であっても、私たち人間はそういうわけにはいかないのである。
というわけで、週に6日働き、1日は休む、というライフスタイルを私たち神の民が実践するとき、私たちはその生き方をもって、自分が被造物、神さまが創造主であるという、謙遜な信仰告白を具体的に実践していることになるのである。その休みの日、安息日は、ガツガツ遊ぶ日ではない。せっかくの休みだからと、元を取ろうとばかりに遊びまくって、かえって疲れて月曜病にでもなったりしたら、何のための安息なのかわからない。しかし、一日かけてじっくり体も心も休めるならば、さらなる働きにリフレッシュして出ていけることになる。
だから、「休む」ということは人間にとって必要なものである。陳腐な言い方かもしれないが、「休むのも仕事のうち」である。また、「休むことができるのがプロ、休まないのはアマチュア」ともいう。たしかに、生産性を上げるために休むことは大切であり、それゆえに社員を働きずくめにさせるような企業は今や「ブラック企業」のレッテルを貼られるような、不名誉な存在となった。そういうことが普通に語られるようになったという点では、いい時代になったといえるのかもしれない。
しかし、そういうことが理想論として語られるからと、現実に社会全体がそれを実践しているわけではない。そういうきつい職場から簡単にもっとよい条件の職場に転職ができないということは、日本の抱える大きな問題であり、私たちもみな、その問題から無縁ではありえない。週に6日働き、1日は休むということは、十戒にもある神さまのご命令だというのに、私たちはなかなか、1日を差し出して休めない。そのことに私たちは後ろめたさを覚えていることだろう。しかし、どうしようもないのが現実ではないだろうか。
そのような中で今日、こうして御前に集まることができた私たちは、いわば神の民の「代表選手」である。
今や社会が、休むことの美徳を説く一方で、休むことも簡単にさせてくれないような厳しさに満ちあふれ、私たちもそんなダブルスタンダードの社会を構成する一員にされているような中、それでもここにいる私たちは、日曜日を主の日として神の御前に出ることが許されている。
このことを当たり前と考えてはならない。世界を見渡してみると、戦争や自然災害のためだったり、キリスト教を認めない政治体制のためだったりという理由で、主日をまともに礼拝の日に充てられない人がいっぱいいる。この日本もいま述べたとおり、仕事のために、あるいは健康上の理由で、また家族の反対に会っていて、日曜日を主日として聖別できないクリスチャンが、それこそいっぱいいる。
そのような中で私たちが、この日を主の日として、礼拝のために御前に出ることができるのは神さまの恵みでなくて何だろうか。この世界に生きている以上、私たちも日曜日に仕事を入れざるをえなかったかもしれないのである。あるいは、もっとほかの事情で礼拝できなかったかもしれないのである。この私も実をいうと昨日、胸が痛みだし、すわ、病気の再発か!? と、病院に行った。結果として何もなかったからよかったが、もし入院なんて事態にでもなったら、礼拝には来られなかったのである。
私たちが日曜日を聖別できていることは、偉いのでも何でもない。日曜日に働かざるを得ない、あるいは、そのほかの諸事情でどうしても来ることのできない兄弟姉妹を代表して招かれている、それゆえに、兄弟姉妹を代表して礼拝をささげる、それくらいの意識が必要ではないだろうか。
そして私たちは、安息を持っているといっても、だらけに来ているのでも、遊びに来ているのではない。神の民として安息を得られるほんとうの場所は、神の御前である。私たちが神の御前ですることは、礼拝である。私たちは神の御前にみことばをいただき、歌い、祈り、聖徒たちと祈りの課題を分かち合い、ともに楽しみ、奉仕する。これらがみな礼拝である。このメッセージの時間からしばらくしたら「祝祷」というものがささげられるが、それでたしかに礼拝が締めくくられはするものの、厳密に言えば礼拝はそれで終わりではない。小学校の校長先生がよく、遠足の帰りの会で「家に帰るまでが遠足です」というのを聞くが、私たちにしても、「家に帰るまでが礼拝です」である。
その「礼拝」というものは、個人、または数人単位の「小さな」ものがあり、それは平日の仕事の合間にささげるものである。QTや聖書通読、お祈りの伴う毎日のディボーション、家庭礼拝、平日の聖書勉強会や祈祷会といったものがこれにあたる。ディボーションなら毎日、小グループなら週1回平日がよい。しかし、教会全体の「大きな」礼拝は、やはり主日なる日曜日にささげてこそである。私たちは主日に、教会という共同体全体として主の御前にリトリートのひとときを持ち、安息を体験する。それだけに、ここに来られない人のためにも覚えて祈ることが大事になる。
最後に、どうしても主日を聖別するのが難しい、なぜならば、日曜日にも普通に働かなければならないからだ、という方のために、ひとことメッセージをお届けしたい。お願いしたいことだが、どうか、私たちのことを主にある共同体と見込んで、祈ってほしいことをシェアしていただきたい。そうすることで、主日に集う共同体の一員として振る舞えていることになる。
また、簡単ではないと思うが、6日間は仕事をし、1日は安息の日として休むようにという、主のみこころにお従いし、どうしても日曜日に仕事をせざるをえなかったならば、平日の1日に休みを取れたら、主の御前に礼拝をささげるようにすることを、心からお勧めする。その日にはぜひ、礼拝をささげていただきたい。そのためにこの教会という環境をしっかり利用していただきたい。私ども夫婦はみなさまの礼拝のために、可能なかぎり動き、ご奉仕する所存である。そうすれば礼拝はひとりきりではなく、少なくとも私ども2人が加わることになり、礼拝は公のものとなる。どうか、ともにそういう共同体となれるように、お互いのために祈っていこう。
では、ともに感謝の祈りをおささげしよう。今日、こうして私たちが御前に出ることができることに、心から感謝しよう。そして、ひとりでも多くの兄弟姉妹が主日を聖別して礼拝をささげることができるようにお祈りしよう。