父母を敬うということ

聖書箇所;出エジプト記20章12節 メッセージ題目;父母を敬うということ  私が幼稚園から小学校にかけての頃、テレビで毎日流していたCMがあった。ある程度の年代以上の方はご記憶だろう。それは、今でいう日本財団、競艇の組織が流すもので、その会長である笹川良一という人が、子どもたちや、当時大人気だったお相撲さんの高見山関、音楽家の山本直純さん、そして動物のチンパンジーとともに、法被(はっぴ)を着て、「戸締まり用心火の用心」と歌いながら練り歩く、というもの。そのフレーズは、「地球は一家、人類はみな兄弟、お父さん、お母さんを大切にしよう」だった。  そんな、親を大切にしなさい、敬いなさい、という教えは、日本人にかぎらず、人類普遍の教えというべきだろう。それは、この十戒でも語られてるように、それがわれわれ人類の創造主である神さまのみこころだから人類はみなその教えを大切にする、と言えよう。  しかし、私たちクリスチャンにとって大切なのは、それが「なぜ」クリスチャンにとって大切なのか、ということを、みことばの語ることから再定義することである。そうしないと、下手をすると父と母をいかに敬っているといっても、その敬い方が聖書的とはいえなくて、かえってみこころを損なってしまいかねない。あるいは、敬うことが必要だとわかっていてもそれがどうしてもできないで、過度に自分のことを責めてしまう。ゆえに私たちは、神さまはなぜ「あなたの父と母を敬え」とおっしゃっているのか、そして父と母を敬う私たちに、神さまはどのような祝福をくださるのか、父と母を敬うにはどうすればいいのか、ともに学ぶ必要がある。そのようにして、私たちはふさわしいかたちで、みこころにかなった親孝行の社会を形づくっていきたいものである。  それでは見ていこう。まず、この「あなたの父と母を敬え」というこの戒めは、十戒のうちの第5の戒めである。この戒めが置かれている位置に注目したい。十戒の戒めの並び方をご覧になれば一目瞭然だが、最初の4つの戒めが神さまに対する「対神関係」の戒めであり、あとの6つが人に対する「対人関係」の戒めである。その「対人関係」の戒めの最初に来るのがこの第5の戒めというわけである。  つまり、この戒めは、十戒において神さまがどのようなお方であるかということを踏まえたうえでとらえるべきものである。すなわち、神さまはイスラエルを奴隷の家から救われたお方である、だから、「神さまのほかに神があってはならない」、「偶像をつくってはならない」、「神の名をみだりに口にしてはならない」、「安息日を覚えてこれを聖とせよ」、その前提あっての「あなたの父と母を敬え」である。日本社会がそうであるように、テレビのCMも含めた世間一般が、親を敬いなさい、親孝行をしなさい、と言うから、父母を敬うのではない。救い主なる神さま、唯一の神さま、聖なる神さまのご命令だから、父母を敬う、というわけである。  この戒めが置かれた順番に注目すれば、神さまがなぜ人に対する第一のご命令として、父母を敬いなさい、とおっしゃったかが見えてくる。これは、対神関係を扱う前半の戒めと、対人関係を扱う後半の戒めの、いわば「結節点」に位置する戒めである。千代崎秀雄先生という牧師先生はこの事情について、このようにおっしゃっている。  「聖書の思想によると、子が幼い間は親は神の代理として愛の保護・育成・訓戒を与える責任があるとされる。したがって、第5を前半の中にかぞえることも可能。」そう、だから、この「あなたの父と母を敬え」という戒めは、「対神関係」の戒めと「対人関係」の戒めを同時に兼ね備える役割を果たしているといえる。それだけにとても重要である。  とはいっても、この聖書の思想のとおりに、親が神の代理として子どもに対する保護・育成・訓戒の働きを果たしおおせた、という実例は、聖書の中からなかなか探すことは難しい。  もしそういう実例があれば、たとえばミッション系の幼稚園などで保護者を対象にやっている、聖書をもとにした子育てセミナーなどはずいぶんやりやすくなるのだが、あいにくそういう具体的な模範は聖書の中からなかなか見出せるものではない。  一応、見いだせるものといったら、条件が限定されている中でそれでも母親としての役割を果たそうとした、モーセの母ヨケベテ、サムエルの母ハンナのケースといったところだろう。それでもあまり具体的に、微に入り細にわたってどういうことをしたかを書いているわけではない。あるいは、父親のケースでいえば、イサクのケースやヤコブのケースのような、ふさわしい父親というにはどこか問題を抱えたケースだろう。いわば反面教師である。ダビデはいまわの際にソロモンに王権を授ける際、王様として、と同時に、親としてもよい模範を示せたといえなくもないが、一方でダビデは、息子アムノンやアブサロム、アドニヤに対しては親として合格とはいえなかった。  新約聖書の場合は、子どもが亡くなったり、重病に陥ったりして悲嘆にくれる親、というのは出てくるが、神さまの御手に委ねるまで、子どもをふさわしく育てた親、という具体的な実例は見つけにくい。あえて言えば、イエスさまのもとに息子ヤコブとヨハネを送り出すまで、親として子どもたちを監督したゼベダイの存在や、テモテにユダヤ人クリスチャンの母親、また祖母として信仰を継承したユニケやロイスの存在が、それをほのめかしていると言える程度だろう。  ただし、聖書的な「父母」の概念をしっかり語っている箇所ならちゃんと存在する。それは第一テサロニケ2章のみことば、パウロが自分自身の牧会哲学を、母親というもの、また父親というものになぞらえて語っている箇所である。お開きいただきたい。  まず、パウロは母という存在と自分の牧会との関係について語る。7節と8節。……まず、パウロは、母親とは子どもをいとおしく思う存在だと語る。さきほど、サムエルの母であるハンナのことに少し触れたが、ハンナは神さまへの誓いどおり、長い不妊の末にようやく生まれたサムエルを神さまにおささげし、祭司エリのいる神殿に預けた。しかし、ハンナは年ごとの礼拝でシロの地に赴くたびに、自分の手で縫った小さな上着をサムエルに差し入れしている。ハンナは、神さまの御手に子どもを委ねた以上、もう関係ない、とはならなかったのである。幼いサムエルが寒い思いをしないように、と、ひと針ひと針縫う労苦を惜しまなかった。それはやはり、サムエルをいとおしんでいたからだった。そのような、母親が子どもを愛しいつくしむ、その愛情をあなたがた教会のおひとりおひとりに注ぐのです、とパウロは告白しているわけである。  そしてパウロは、自分は母親のごとく、神の福音だけではなく、自分のいのちをもあなたがたに与えたい、とも語っている。パウロが福音を語るのは、その福音を聞いた人がイエスさまを信じ受け入れて、永遠のいのちを得るためである。その人が救われてほしい一心で、また、救いの道を歩んでほしい一心で、パウロは一生懸命に福音を語り、みことばを解き明かす。しかし、それは単なることばだけの伝道ではない。自分のいのちさえも差し出すこともいとわない姿勢、それが教会形成にとって必要であるというわけである。  そのような、いつくしむ愛、子どものためなら自分がどうなってもいいという愛、その究極の愛は神さまの愛で、イエスさまが私たち神の子どもたちをいつくしんでくださり、私たちが永遠の滅びから救われ、生きるために、ご自身のいのちを十字架の上にてお捨てになった愛にあらわされている。聖書全体から受ける神さまのイメージは男性的だが、時に神さまは私たち人間を、母親の子どもを思う愛情の原点ともいえる愛をもって愛してくださる。お開きにならないでいいが、イザヤ書66章13節を見ると、神さまは、神の民が自らの罪に傷ついて沈むのをご自身が慰めてくださるその御姿が、まるで子どもを慰める母親のようだとお語りになっている。神さまはそのように、母親のような愛情を神の民である私たちに注いでくださるお方である。  もしかすると私たちは、地上の母親から充分な愛情、ふさわしい愛情を受けられないで生きてきたかもしれない。神さまはそんな私たちのことを、地上のどんな母親にもまさる愛でいつくしんでくださっている。  一方でパウロは、自身の牧会と教会形成を父親にもなぞらえている。第一テサロニケ2章11節、12節にあるとおりである。パウロは教会のひとりひとりに、神のご存在のリアルとそのみこころを示し、そのみこころにふさわしく歩むように勧め、励まし、また厳かに命じている。これが父親というものだというわけである。神を示し、その道を歩めるように訓戒する。そのためには厳格になることもいとわない。  旧約聖書、また聖書全体の総決算と言えるヨハネの黙示録における神さまは、きわめて厳格な父の姿で私たちに迫ってこられる。私たちは罪を犯した罪人なので、厳格な父の前に出るにはどうしても後ろめたさを覚え、なかなか近づけない。よく、父親とは厳格な近づきがたい存在だと言われるが、それはおよそこの世の父親というものが、聖書に啓示されている父なる神さまのお姿をこの世に示す存在であるからだろう。この世の父親が厳格であるように、いやそれ以上に、父なる神さまは厳格なお方である。  しかし、父は私たちから遠いだけの存在ではない。どうしても近づくことができないでいる私たち子どもたちのために、御子イエスさまを橋渡しをするお方として私たちのもとに送ってくださった。私たち罪人を憐れんでくださる、母親のような愛情である。というより、神さまのこのいつくしむ愛をこの地上で表現するのが、母親という存在だというべきだろう。父なる神さまは、私たちがイエスさまを信じればそれでよしとする、そのいのちの道を備えてくださったのである。私たちはイエスさまによって、父なる神さまのもとに堂々と行けるのである。  というわけで、十戒が神の民に与えられた戒めという前提で見るならば、十戒の第5の戒めは、神のみこころを神の国で実践する、神のかたちとしての父と母だから敬うべき、ということである。すなわち、神の民が父と母を敬うことは、神を恐れ、礼拝することにつながるのである。  しかしそれは、まず、父母が神さまを恐れ、神さまに従順であるということが前提となることに注意が必要である。おそらく、子どもが家族の中で最初にクリスチャンになるケースで、もっとも葛藤することはこのことではないだろうか。  私はかつて、純粋な信仰を持ったクリスチャンの高校生が、夏のバイブルキャンプを通じてバプテスマを受ける決心に導かれたものの、子どもが教会の活動に積極的になりすぎることを嫌った母親の顔色を見るあまり、バイブルキャンプから帰ってきたら、バプテスマはおろか、それきりぱったりと教会に行くことそのものをやめてしまった、という、あまりに心痛むできごとに接したことがある。私としては、父母を敬うとはそういうことではないんだよ、と教えてあげたかったが、何しろ彼女は重い障害を抱えていて、母親なしには何もできない人だったから、手の出しようがなかった。  そういう葛藤を抱えるのは、親が神さまに不従順なケースだろう。「父母を敬え」というみことばがあまりにリアルすぎて、それをまずは守ることで神のみこころに従おうとすると、どうなるか? たとえば親が、もうおまえは教会に行くな、と言ったら、それに従わざるをえなくなる。しかし、これを仕方のないことと片づけていいのだろうか? 神さまはそんな、ご自身に従おうとする者を見捨てるような、冷たいお方なのだろうか?  しかし、信仰を持って歩もうとする子どもに対し、親という存在は時に大きすぎる。そのせいで信仰生活もままならないでいる方にまず申し上げたいことだが、神さまがおっしゃっている「あなたの父と母を敬え」は、大前提として、神の民という共同体の中の家族に語られたことばである。したがって、親がもし神の民に属さず、ゆえに神にお従いすることの何たるかもわからない場合、この戒めを律法的に自分の親子関係にあてはめようとするなら、その人はとても苦しむことになる。  場合によっては、強すぎる親の存在ゆえに、やっぱり教会から離れよう、信仰から離れよう、という決断をしてしまいかねない。それは神さまの望んでおられることではない。  とはいっても、教会から離れざるをえない選択をすることも充分あり得るのは、お互い理解するしかなかろう。ただしそれは、「あなたの父と母を敬え」というみことばを、教会を離れるという行動をもって実践するからでは断じてない。言うなればこれは、やむをえない行動、不本意な行動である。しかし、その迫害をする人がそれでも血を分けた自分の親である以上、葛藤するしかない。そんな苦しみにあう聖徒は、日本にたくさん存在している。ほんとうに、そのような不条理をあえてお許しになる神さまのみこころは理解することはとても難しい。私たち教会はただ一緒に、その兄弟姉妹たちと悩みながら、静かに祈るしかない。  それでも付け加えれば、ことみことばに関しては「あなたの父と母を敬え」ということばを律法的に、守り行わなければ祝福されない、呪われる、罰が当たる、などというような命令として、律法的にとらえるべきではない。というのは、やはりこのみことばは大前提として、神の民の共同体における益について語っているからである。  それは、「あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである」ということである。しかしこれは、単なる一代限りの長寿のようにとらえるべきではない。神さまが与えられる土地とは、この地上において神さまが王として統べ治められるあらゆる領域であり、それは教会はもちろん、教会のひと枝ひと枝として私たちが遣わされ、形成する働きに用いられるあらゆる領域を指す。それはクリスチャンホームであるかもしれない。また、クリスチャンとしての共同体であるかもしれない。  そういう場所を神さまが私たちに与えてくださるのは、この地上に私たちをとおして、神さまのご支配を実現してくださるためである。つまり、神の国は私たちがこの地上に実現させていただく。言い換えれば、神の国を実現することは、神さまと人との共同作業であり、その働きが長く続く条件は、神の支配の代理者としての父と母を敬う、その態度を保ち、それにふさわしい言動をすることであるわけである。そうすることで、この地上に神のご支配される神の国は保たれ、また、拡大する。それは私たち一代限りではなく、これからも続いていくことである。  私たちが一代目だとしたら、そのあとに続く人たちを生み、養い育てる。それは肉親としての、法律上の家族とはかぎらない。私たちが伝道して「霊的な子ども」を生み、養い育てるならば、神さまのそのご支配はさらに続く。もちろん、そのような方々に敬っていただけるような霊的生活をすることが肝心である。それはその方々にも祝福が臨むためである。  私たちはこの地上では、父と母を敬うべきと知りながらも、その父母が主にある歩みをしていなかったばかりに、とても敬えず、今に至るまで苦しい思いをしてきたかもしれない。しかし、私たちの人生はこれで終わりではない。私たちは、その過去を主の御手にお委ねし、新たに私たちをキリストにある家族として立て上げてくださる主のみこころにお従いしよう。そして私たちは、特に、もし自分たちが不幸な親子関係の中に生きてきたと思うならなおさら、その分、この世界に主にある愛情に満ちた親の愛が満ち、それによって子どもたちが喜んで父母に従える、そのような平安に世界が満たされるように、ともに祈っていこう。