恵みの上に恵み

聖書本文;ヨハネの福音書1章9節~18節 メッセージ題目;恵みの上に恵み  最近よく使われることばに「伏線回収」というものがある。小説なりドラマなり、ストーリーのあちこちに伏線となるできごとがちりばめられていて、物語の最後になると、その伏線すべてに意味があったことが判明する。これを「伏線回収」というわけで、そういう、ストーリーの妙味を楽しむ物語のあらすじを、物語をまだ知らないけれども興味や関心を持とうとしている人の前でべらべらしゃべったりする行為は、「ネタバレ」と呼ばれて、とんだマナー違反となる。  牧師の千代崎秀雄先生という方がおっしゃっていたことだが、聖書を一つの推理小説に見立てると、新約聖書は「解決編」にあたり、「旧約聖書」はその「解決編」に向かう伏線ということができる、と。だから、新約聖書だけを読んでいるようでは、ほんとうに聖書を読んだことにはならない、と。いかにも、旧約学をライフワークとされ、そしてとてもユーモアに富んでおられた千代崎先生ならではのおことばだが、しかし、旧約聖書を充分に読んだうえで新約聖書に行くというのは、ユダヤ人でもないかぎり普通はありえないことである。だいいち、何の予備知識もない中でいきなり最初からずっと聖書を通読するのは難しすぎるし、そのプロセスで旧約の「伏線回収」として新約を味わうなんてことは、まず無理であろう。  だから、どうしたって、聖書を読むとなったら、まず新約聖書に書かれているイエスさまとその福音を充分に学ぶことが先になるし、それから旧約聖書を、イエスさまを鍵に読み解いていくしかない。あんなことをおっしゃった千代崎先生だって、間違いなく、最初はその読み方で聖書をお読みになったはずである。ともかく、新約を鍵に旧約を読んだ結果、その結果、ああ、新約聖書とは旧約聖書の伏線回収なのだなあ! と、しみじみするわけである。  実は、今年に入ってから連続して学んでいる、ヨハネの福音書を読むときにも、読みながらの謎解きではなく、先に答えを知ったうえで、あとになってからこんな謎が書かれていたのか、と気づくような読み方をしないと、とても難しい。いきなり、初めにことばがあった、とあるみことばを解き明かすには、どうしたって、もっとあとにある、そのことばがイエスさまであることを示す箇所をもとに語るしかない。ここまでしばらくの間、そういう前提でヨハネの福音書を読み進めてきたが、今日はついに、イエスさまのことを明らかにするみことばまでやって来た。  では、早速本文にまいりたい。すべての人を照らすまことの光が、世に来ようとしていた、とある。私たちはこのみことばをお読みして、どう思うだろうか? ああ、ついにまことの光が世を照らすのか、希望がやって来た。これでもう、暗闇に沈むことはない。苦しむことはない。そのように喜ぶだろうか。私たちならば、喜ぶのが普通だと思うだろう。  この光はこの世界をおつくりになり、この世界を所有しておられる、まことの神さま、王の王、主の主である。それなら、人はこの光とはどなたであるのか、わかっていてしかるべきであった。だが、その光によって照らされるべき「すべての人」の住む「この世」は、まず、この「まことの光」を知らなかった。知らなかったのはなぜであろうか? 光であられる神さまについて、正しく教えられていなかったからである。教えるべき人が、教えることをしなかったということである。  本来ならば、この「まことの光」を正しく指し示す役割は、神のみことばをだれよりも学んでいる、宗教指導者たちが担うべきであった。だが、彼らはその役割を果たさなかった。それはなぜであろうか? 彼らからして、自分たちが学んでいるはずのみことばが何を意味しているか、理解できなかったからである。これでは民に正しく教えることができないのは当然である。  それなら、祭司であれ、レビびとであれ、律法学者であれ、この宗教指導者たちは、まことの光が来れば、ああ、この方こそ、神さまだ、キリストだ、これまでわからなかったみことばがほんとうに成就したご存在そのものだ、と、有難く受け入れることをしたのだろうか? 本来ならばそうしてこそしかるべきであった。しかし、彼らは受け入れることをしなかったのである。それは彼ら宗教指導者たちが、自分たちが導く世界が、光に照らされることのない、暗闇のままであってほしい、と願った、ということである。要するに、まことの光に照らされたくなかったのである。  現在、どこかのテレビ局が、闇に葬っていたできごとが明るみに出たということで、そういうテレビ局の放送でコマーシャルを流せないと判断した企業が、次から次へと撤退するという、前代未聞のできごとが起こっている。あの一連のできごとが事実であるという前提で言うが、テレビ局の幹部役員としては、このまま暗闇が続いていてくれたらとどんなに願ったことだろうか。しかし、それが明るみに出ているのは、正義をもって歩む人たちが光に照らし、明るみに出しているからである。  もっと深刻な話をすれば、お隣の国韓国が今たいへんな状況になっていることは、ニュースでもご存じのとおりだろう。先週の礼拝後の報告をお聞きになったように、妻は目下、韓国の動向にくぎづけになっているが、日本人の聖徒のみなさまにおかれては、日本宣教の献身者がなぜ自分の国のことばかり? などとおっしゃらないで、どうかご理解いただきたい。かつて私は韓国にいたときにちょうど東日本大震災が起こり、韓国にいながらにして日本のことが気が気でなかったという体験をしているので、いるべき国にいながら祖国を思う妻のその思いは、痛いほどわかる。また、私にとっても韓国は、人生の3分の2以上の長きにわたって関わってきた国であるから、現在韓国で起きていることは、とても他人事とは思えない。  ともかく、妻はいま、韓国に関して、日本で報道されているのとは比較にならないほど多くの情報を集めているが、現在韓国で起こっている混乱のその背後には、ざっくり話すと、いま国会の多数を占めている野党議員たちは実はかなり大掛かりな不正選挙により選ばれている、だが、その証拠はたくさん挙がっている、それを明るみに出さないとこの国は終わってしまう、という、必死の闘争がいま国民全体に燎原の火のごとく広がっている、という事情がある。もちろん、それを押しとどめようとする勢力の必死の抵抗も一方で存在し、それが現在の韓国社会の混乱につながっている。それでもいまや韓国は、ほんの少し前までの状況が嘘のように、与党の支持率が野党を上回るまでになっている。これも、暗闇を光により明るく照らすための戦いであるといえよう。  聖書の話に戻すと、ユダヤの宗教指導者たちは、民が暗闇にいたままでいてくれたら、自分たちのつくったシステムの中でのうのうと暮らすことができる。権力欲も金銭欲も満たすことができる。そんな世界を照らして正そうとする者は、どんな手段を用いてでも葬り去らなければならなかった。  そして、彼らが選んだ方法は、このまことの光なるお方、イエスさまを、十字架につけるということだった。十字架という手段を彼らが選んだのは、木にかけられた者は呪われる、と定めた律法のみことばがあるからである。どうだ、こいつは木にかけられたぞ、こいつは罪人の中の罪人、呪われた野郎だ、民どもよ、これでもおまえたちは、こいつを救い主キリストと信じるつもりなのか。イエスさまを十字架につけたとき、宗教指導者たちは、ざまあみろ、この呪われた者よ、と、さぞ高笑いしていたことだろう。  しかし、彼らがどんな方法を弄しようとも、神さまは民の中から、イエスさまを信じ受け入れる人たちを起こしてくださった。彼ら民衆は、宗教指導者たちの小難しい説教で信じたのではない。イエスさまの権威に満ちたみことばを直接耳にして、何よりも、神ご自身でいらっしゃるイエスさまを直接目にして、このお方がキリストだと信じる信仰に導かれたのである。それは、イエスさまという御名を持つこの方こそがキリスト、救い主であると信じたということである。そのようにして神さまは、暗闇の中にいた民をまことの光によって照らしてくださった。そして、神さまはこのように信仰へとお導きになった民に、神の子どもとなる特権をお与えになった。  13節を見ると、神の子どもというものは、ただ、神によって生まれた存在であると語る。その一方で、それ以外のものによっては生まれていないことも語っている。このみことばによれば、神の子どもは、血によって生まれるのではない、また、肉の望むところによって生まれるのでもない、あるいは、人の意志によって生まれるのでもない、と語る。  神の子どもは血によって生まれるのではない、つまり、家門、血筋、民族が神の子であることの理由にはならない。このことは、神の民と自認するユダヤ人にとっては痛烈な宣言である。ユダヤ人は自分たちが神の民であるという歴史を誇りとしてきた。  それそのものはすばらしいことであろうが、そんな彼らはつねに堕落の歴史を歩み、そしていま、彼らの指導者たちは救い主キリストが現れてもわからない、認められないほどになっていた。そんな者たちは自分たちのことをどんなに素晴らしい選民、神の民だと思おうとも、到底、神の民と名乗れるような状態にはなかった。そんな中でイエスさまを信じて神の子となれたとするならば、それはもはや人間のわざによることではなく、神のみわざであったというわけである。  また、肉の望むところによっても神の子どもにはなれない。これが聖書の宣言である。私たちは自分が望んでイエスさまを信じたと思っているようで、実はそうではない。なぜならば、私たちを支配しつづけてきた肉の望むことは、神さまに従うよりも、神さまに敵対することを選びたがるからである。私たちは本来、イエスさまなんて信じるものか、となって当然の存在である。  私たちはよく、この日本にはイエスさまを信じる人が少なすぎる、と、嘆くだろう。しかしそれはある意味当然のことである。表現を選ばず申しあげると、日本人にかぎらず、人というものはだれであれ、イエスさまというお方を信じたくないようにできているからである。だから、私たちがせっかく思い立って伝道したというのに、そのために祈るだけ祈ったというのに、相手がイエスさまを信じてくれなかった……こういうことが起きてもがっかりする必要はない。その反応は当然のものだからである。  そして、人の意志によっても神の子にはなれない。よし、信じよう、と願ったところで、それが神さまから由来するものでないならば、ほんとうの意味でイエスさまを信じたことにはならないのである。  要するに、人に由来するものは、血筋であれ、感情であれ、神の子どもとされることの根拠にはなりえない、ということである。もし、人がイエスさまを信じているというならば、それは、神さまがその人を信仰に導いてくださったから、というわけである。  お互いの顔を見ていただきたい。恥ずかしいだろうが、じっと見ていただきたい。目の前にいるこの人はすごいのである。なにせ、この人は、神によって、神の子として生まれた人たちだからである。私たちはいま、天使よりも素晴らしい人のお顔を見ているのである。  さて、イエスさまは神であられるのに、人となってこの世界にお住まいになった。そして、イエスさまは神であられるゆえ、栄光に輝くお方であられたが、残念なことに、みことばを学んではいてもそのほんとうの意味を一向に悟ることのできなかった宗教指導者たちは、イエスさまの栄光を見ることもできなかったほど、暗闇の中に陥っていた。  というよりも、暗闇から抜け出して光の方に行こうという気が、そもそもなかった。しかし、神さまによって神の子どもとなるように選ばれていた人は、イエスさまの栄光を見ることが許され、イエスさまの栄光に照らされて暗闇から光へと移された。  この栄光は、神のひとり子としての栄光である。それが人々の前で栄光として輝くのは、18節のみことばにあるとおり、人の目で見ることの許されていないご存在である御父を、ご自身のご存在とみことばとみわざによって解き明かされるゆえである。イエスさまのご栄光は、御父を離れて独自に存在するものではない。イエスさまの栄光は、御父の栄光を顕す栄光である。  そして、この方は恵みとまことに満ちておられた、とある。このイエスさまについてのバプテスマのヨハネの証言がそれに続く。ヨハネはイエスさまのことを、自分よりまさったお方である、なぜならば、自分よりも先におられたからである、と語っている。イエスさまはこの地に誕生されるはるかむかし、世界が創造されるより前からおられるお方、したがってイエスさまは神さま、それに比べると自分はどんなに人から尊敬を集めようとも、所詮は人間である、ということである。  イエスさまは神の恵み、神のまことをこの世に実現する、ただひとりのお方だった。確かに民には、モーセをとおして神さまご自身から伝授された律法があった。だが彼らは、律法を受け取り、学んではいても、まことのいのちに至ってはいなかった。神の子どもとなってはいなかった。というより、律法は人が罪人であることを明らかにする以上のものではなく、結果として人は、イエスさまのもとに行くしかなかった。  しかし、人はイエスさまを信じることによって、人間的ないかなる努力にもよらず、神の子どもとなるという恵み、すなわち、神さまからの無償のプレゼントをいただけることになった。恵みのうえにさらに恵みを受けたとは、人が罪人であることを悟らせる律法とは、イエスさまに救っていただいて神の子どもとしていただくという恵みを受けたことによって、実は恵みであったことがわかった、その律法という恵みが、イエスさまという恵みによって、ほんとうに恵みとなった、ということを意味する。また、恵みの上に恵みとは、かぎりなく恵みを受けた、イエスさまが来てくださったことによって、究極の恵み、これ以上ありえない恵みを人が受けた、ということも意味する。  私たちがこうして生きているのは、どこまでも、イエスさまの恵みによることであると覚えよう。それでも私たちはつい、悩んでしまうことがあるかもしれない。しかし、もし、悩むようなことがあるなら、このような者をかぎりなく恵んでくださっている、イエスさまの恵みに目を留め、感謝しよう。イエスさまの恵みの最高の現れはもちろん、この死ぬべきものを罪と死の支配から贖い出し、天国、永遠のいのちへと導いてくださった、十字架のみわざである。  また、自分の人生を振り返ってみよう。ここまで導かれてきたことは、相働きて益となす神さまの恵みではなかったか。覚えて感謝しよう。  <お祈り>  ・過去を振り返り、ここまで導かれてきた恵みに感謝しよう。  ・現在いただいている恵みに感謝しよう。  ・未来において、神さまは私たちにさらに大きな恵みをくださると信じて感謝しよう。

光の証し、証しの光

聖書箇所;ヨハネの福音書1章6節~8節 メッセージ題目;光の証し、証しの光  のっけから意地汚い話で恐縮だが、学生時代、大学から徒歩20分ほどの距離にあった、大塚駅前のラーメン屋「ホープ軒」が好きだった。味ももちろん素晴らしかったし、半分オープンになっているような店構えで、カウンター席の後ろを都電荒川線の電車がうなりを上げて走っていくのがたまらなかった。  自分が楽しむだけではない。よく友達を連れて行き、友達の喜ぶ顔を見てはドヤ顔を浮かべていたものだった。お店には宣伝用のチラシが備えつけてあり、それを持ち帰っては友達にあげて、一緒に行こうな、などと誘ったりしていたものだった。  あるとき、そんな自分のしていることは、まるで伝道みたいだな、と気づいた。おいおい、キリストを伝えるべきなのに、自分のやっていることはこれじゃ、ホープ軒の伝道師じゃないか。そして思った。果たして自分は、こうしてホープ軒のラーメンを宣伝するほどに、イエスさまのことを語っているだろうか?  しかし、最高のものがあれば宣伝したくなるのは人の常であろう。セールスマンとしてよい成績を上げるには、その売り物がどんな特徴、どんな効能を持っていて、それが買い手にとってどんな益をもたらすかを知り尽くしているのはもちろんのこと、その売り物を、買ってほしい、どうしても手に入れてほしい、という、情熱が何より大事であろう。しかし、セールスマンが物を売るのはもっと根本的な理由がある。その売り物を売るように、雇われ、派遣されているから。そう、売ることで、雇い主の希望を実現するからである。私もなんだかんだ言って、ラーメンの味を伝えたい情熱があるばかりに、宣伝しまくった結果、ホープ軒の売上アップに「貢献」して、経営者を喜ばせてしまっていたわけであった。  本日のみことばは、ヨハネという人物を短く紹介している。バプテスマのヨハネといわれている人物である。マラキ書の4章ほか、旧約のいろいろなところで預言されていたこの人物は、時至って、この世にあらわれたのであった。  6節のみことばを見ると、このヨハネが「神から遣わされた一人の人」であると書いてある。ヨハネがいかにこの世界に生まれたか、ということについては、ルカの福音書1章に詳しく書いてあり、子を産むはずのなかった女性を神さまがお選びになり、そうして生まれたのがヨハネであった、ということで、生まれからしてヨハネは特別、神さまによって遣わされた人だったことがわかる。  それは、ヨハネの人生はヨハネの持ち物だったのではない、神さまのものだった、ということである。ヨハネはこの世界を生きながらにして、神の人として生き、神の人として振る舞った。神を離れての自分という生き方など、ヨハネはしなかったのである。  神がヨハネを遣わされたということは、ヨハネは神のみこころをこの地に伝える全権大使の役割を果たすのがみこころだった、ということである。福音書を読むと、ヨハネのおもな働きであったバプテスマならびに説教を語る場面が詳しく出てくるが、ヨハネは住む場所は荒野、恰好からして、らくだの毛衣を身にまとっていて、食べ物はというといなごと野蜜だったという。そして語ることばといえば、宗教指導者のような高い地位にある者たちのことをさえ「まむしのすえども」と呼んではばからないような、妥協なき痛烈なことばである。俗世を離れた孤高の預言者、といった感じだが、これはヨハネがそういう演出をわざとしていたわけではない。すべては神さまの導きであった。それが証拠に、イエスさまご自身が、ヨハネからバプテスマを受けることは人としてふさわしい、とおっしゃり、ヨハネからバプテスマをお受けになっている。  そのように、ヨハネが人にバプテスマを授けるということ、逆に言えば、人がヨハネからバプテスマを受けるということは、人としてふさわしいこと、あるべき姿であるのは、神さまがそうお定めになったからである。人がバプテスマを受けることは何を象徴しているだろうか? 水に沈められて古い自分が死に、水から引き上げられて新しい自分へと生かされる。そのように、神の御前に悔い改めることによって古い自分が過ぎ去り、すべてが新しくされることを象徴している。さらには、罪なきお方ゆえに悔い改める必要のないイエスさまに至っても、バプテスマをお受けになっている。それほど、バプテスマは人として受けるべきものである、というわけであり、ヨハネとはこのバプテスマというみこころをこの世に示すために、神さまがお遣わしになった人だった、というわけである。  だから、これははっきり申し上げたいが、神さまを信じた、つまり、イエスさまを信じたというならば、バプテスマを受けよという神さまのみこころに従順になる必要がある。イエスさまを信じているが、バプテスマは受けない、というようではいけない。バプテスマを受けたから救われるとか、天国に行けるとかいうことでは決してなく、イエスさまを信じて救われたから、バプテスマを受けるということをもって神さまのみこころに従順になる、というわけである。  さて、それがヨハネの示したバプテスマというものだが、7節のみことばによると、ヨハネは証しのために来た、光について証しするため、そして、彼によってすべての人が信じるためであった、ということである。ということは、ヨハネがほんとうに伝えたかったのは、かたちとしてバプテスマを施すこと以前に、光なるお方であった。そのお方とはもうお分かりのとおり、イエスさまである。来週詳しくお話しするが、その光なるお方がイエスさまであることは、9節以下において語られている。ヨハネとは、その闇を照らす究極の光なるお方、イエスさまを宣べ伝える存在であった、というわけである。  しかし、8節の評価を見ると、ヨハネはどんな人物だろうか? 彼は光ではなかった、ただ光について証しするために来た存在である、と語っている。これはどういうことかというと、大いなるカリスマ性を帯びて人々を惹きつけていたヨハネのことを、人々は、もしかしたら彼こそが、むかしからみことばにおいて預言されてきたメシア、キリスト、救い主ではないだろうか、と思った、と聖書にあることと関係がある。しかし、彼はそのような自分に対する評価を知って、私はキリストではありません、と公言した。そう、彼はどんなに神的権威をもって働いていたとしても、キリストではなかったのである。それは周りがどう評価しようとも、彼自身がいちばんよくわかっていた。  韓国にはむかしから、われこそは再臨のキリストであると名乗る人間がうじゃうじゃしている。そういう人にとんとお目にかからない日本からしたら信じがたい話だが、これはほんとうのことである。何十人といるらしい。その中の一人が、あるインタビューにこう答えていたそうだ。「あなたはキリストですか?」すると、彼はこう言ったという。  「いや、私にはわかりませんが、周りはそう言っているから、きっとそうなんでしょうね。」なんとも卑怯な語り口だが、ヨハネはまさにこの反対、だれが何と言おうとも、自分はキリストではないという自覚をしっかり持っていた。  しかし、確かにヨハネはイエスさまのような光ではなかったが、それなら彼はどんな意味においても、光ではなかったのだろうか? そうではない。イエスさまはヨハネのことを「彼は燃えて輝くともしびだった」と表現された。ともしびというものは暗いところを明るく照らす存在である以上、言うまでもなく光である。しかし、イエスさまと同等の意味での光ではない。たとえるならば、イエスさまは太陽のような光であろう。太陽ひとつの存在で地球を昼と夜とに分けてしまう、それほどの光、さらには、やがてこの世界が終わって天国が実現したら、イエスさまご自身がその都の明かりとして照らされ、永遠に夜がない。まさしくイエスさまは、究極の光である。  これに対してヨハネはというと、ともしびのように、照らすにしても極めて限定的な場所という意味での「光」である。このところ毎日天気がよく、夜も雲がなくて晴れわたっているが、そんな夜には月がよく見える。その煌々と光る月に夜は照らされ、月明りということばをあらためて実感する。しかし、月の光は太陽の光に遠く及ばない。  さらに言えば、月は太陽の光を反射して輝く存在である。そう、イエスさまという究極の光を映すことで、ヨハネは光としての役割を果たしていた。言い換えれば、イエスさまという光を映してはじめて、ヨハネは光となれたわけである。それはいわば、月が、太陽の光を映さないかぎり、地球から見ればないのも同じにしか見えないのと同じことである。  そういうわけで、ヨハネは光なるイエスさまを証しすることで、はじめて光としての役割を果たし、ヨハネの説教を聴いた人はことごとく、その先におられる救い主イエスさまの福音を知るに至った。  そんなヨハネの姿は、私たちクリスチャンにとっても素晴らしいモデルである。それは、イエスさまという光を映して人々をイエスさまへと導いたという点で、そのように、そのことばと行いをもってイエスさまを証ししたという点で、私たちにとってモデルなのである。  しかし、大前提がある。それは、ヨハネは神さまによって、神さまのみこころをこの地上で守り行うべく遣わされた人であった、ということである。私たちはそれを知っているから、ヨハネのことを極めて特殊な人と見てしまわないだろうか? 荒野の、らくだの衣の、いなごと野蜜の……変人! いや、とてもそのレベルに至れない聖人!  しかし、ここはイエスさまのみことばに耳を傾けていただきたい。イエスさまはヨハネのことを、女から生まれた者のうちでヨハネよりもすぐれた人間はいなかった、とお語りになる。つまり、ヨハネほどすぐれた人間は歴史上いたためしがなかった、最高の人だ、というわけである。しかしイエスさまはおっしゃる。しかし、天の御国のいちばん小さな者でも、ヨハネよりも偉大である。  私たちは自分のことを何者だと思っているだろうか? 私たちはイエスさまを信じているだろうか? ならば、私たちは天の御国にすでに入れていただいている、と信じて感謝すべきである。ということは、私たちは自分が大したことがないように思っているかもしれないが、神さまの御目から見れば、天の御国の人である。もしかしたらその中でもいちばん小さな存在かもしれない。神さまのために対して何もできていないなどと考えるならば、自分なんて小さい、などと思うかもしれない。だが、そんな私たちであろうとも、神さまは私たちのことを天の御国の人にしてくださっている。そういう存在になれるように、神さまは私たちに聖霊さまを送ってくださり、イエスさまを主として、救い主として信じるようにしてくださった。それには働きの代償など一切関係ない。ただ、神さまの恵みによって救っていただき、小さかろうが大きかろうが、天の御国の人にしていただいたのである。  そんな、天の御国の人は、最も小さい人であろうとも、ヨハネよりも偉大なのである、とイエスさまは言ってくださった。このみことばを受け止めていただきたい。あの、すべての人がヨハネの証しによってイエスさまを信じるようになった、とすら聖書が評価するほどのヨハネ、これほどの大人物がいるだろうか? それなのに、そんなヨハネよりも私たちの方が偉大だと、イエスさまは言ってくださるのである。  もったいないなんてものではないおことばだ。しかし、このイエスさまのおことばは、私たちが「何をするか」に目を留めて、その結果、「ヨハネと比べると何もしていないも同然」と落ち込むか、そんなの当然じゃないかと開き直るかするような、そんな比較意識から自由にしてくれる。神さまが私たちに目を留めてくださるのは、「ヨハネのような証しをしたから」ではない。「身代わりにイエスさまを十字架につけてくださるほど、愛してくださっているから」である。  イエスさまは私たちクリスチャンのことを「あなたがたは世の光です」と言ってくださっている。「あなたがたはこれから頑張れば世の光になれます」とはおっしゃっていない。努力しようとすまいと、もうすでに私たちは、世の光にしていただいているのである。そんな私たちとして、神さまはすでに私たちに最高の評価を与えてくださり、私たちのことを用いてくださるのだから、私たちがヨハネと自分を比較したりするのはナンセンスなことである。  私たちに必要なのは、世の光として輝きたいと思えるほどに、主の恵みをいただくことである。世の光として闇の世界に遣わされ、その世界を照らす働きに用いていただくことは、なんともうれしく、また楽しいことである。しかし、それはその「行い」をしたから楽しいわけではない。イエスさまの恵みのあまりのすばらしさを受け取り、その楽しさを抑えきれないから、どうかこの素晴らしいイエスさまを知ってほしいと、暗闇の世界に出ていき、暗闇を私たちの愛のことばと行いで照らし、その働きに用いていただくことを私たちは喜ぶのである。  ヨハネがしたように、私たちがすることは「光の証し」である。また、ヨハネがそうだったように、私たちもまた「証しの光」である。先週に引きつづいて、祈りつつ考えていただきたい。光なるイエスさまによって光としていただいている私たちはことばと行いの証しをもって、どこで、だれを、いつ、どのように照らすべきだろうか?

いのちの光

聖書本文;ヨハネの福音書1章4節~5節 メッセージ題目;いのちの光  元日礼拝、主日礼拝を含め、今年に入って3回目の公式礼拝である。ここまでの2回、私たちは神のかたちであることを前提に、私たち人間が愛のかたちに創造されていること、また、ことばのかたちに創造されていることを学んできた。  今日の本文を見ると、神のことばなる御子イエスさまは、いのちあるお方、また、そのいのちとは人の光であることが語られている。そして、その光は闇の中に輝き、闇は光に打ち勝たなかった、と。  人が神のかたちに創造されていることを前提に語ると、人は神のかたちゆえ、その中にいのちがあるかたちに造られていること、また、その中に光があるかたちに造られていることがわかる。本日は、いのちとは何か、光とは何かを学んでまいりたい。  まず、いのちとは何か。人は土のちりで形づくられたとき、その中にいのちがなかった。それゆえ創造主なる神さまがなさったことは、人の鼻にいのちの息を吹き込まれた、ということだった。そうして人は生きるものとなった、とみことばは語る。  ゆえに人のいのちというものは、神さまによって存在させられてこそ本来の意味がある、ということになる。動物や植物はいのちの息を吹き込まれているわけではない。人間だけがいのちの息を神さまに吹き込んでいただいている、ということは、人間とは、神さまといのちの交わりを持ってしかるべき存在である、ということである。  そんな人間に対して神さまは、エデンの園の中央にある善悪の知識の木の実に手を伸ばして食べてはならない、とおっしゃった。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ、と警告された。これは、善悪の知識の木の実に食べたら死ぬような毒があるから、ということではない。神さまのご命令に不従順になるとき、それは神さまとの交わりが絶たれるということを意味し、その結果人は死ぬ、というわけである。  人は空気を吸って生きる。神さまとの交わりを断つということは、空気以外のものを吸おうとする行為に等しい。当然、人は死ぬしかなくなる。神への不従順の結果人が死ぬということは、それくらい当たり前のことであった。しかし人は、神への不従順を選択した。そして人は、死ぬものとなった。  しかし人間は、皮肉なことに生きることを渇望するようになった。もしこの世界に不老不死の薬があると知ったら、人はどんな大金を積んでもそれを手に入れようと躍起になるだろう。不老不死とはいかないまでも、新聞を開いたら健康に関する情報や広告があふれている。みんな死にたくなどないのである。  しかし、死の本質とは神への不従順であるかぎり、死ぬことは避けられない。死なないために選ぶべき道はただひとつ、よみがえりであり、いのちであるお方、御父のもとに行くための唯一の道であり、真理であり、いのちであるお方、イエスさまのもとに行き、神さまとの交わりを回復するしかない。その根本的な信仰を回復しようともしないで、人はほかの方法でいのちを得ようとして、結局うまくいっていないのである。よほどイエスさまを信じることがいやと見えるが、神さまはこれしか、救われるための道を備えてはおられない。  一方で、死ぬことを意識してしまって仕方がない人がいる。聖書を読んでも、自らいのちを絶つことはしないまでも、死ぬことを意識してならなかった神の人がいたことがわかる。エリヤがそうだったし、ヨナがそうだった。どちらも、自分が望んだように事が運ばず、死を意識した。しかし神さまは、エリヤにもヨナにも不思議なみわざをお見せになり、そのたましいを回復に導かれた。エリヤが立ち直ったことははっきり聖書に書いてあるとおりで、ヨナに関しては聖書ははっきり語っていないが、ヨナ書というみことばをよく読むと、ヨナが神さまのお取り扱いを受け、神さまに対して不満を並べたことを悔い改めたことがほのめかされている。  神の人にして死を意識する、それは充分あり得ることである。しかし、普通の人と神の人との違いは、神の人には立ち帰るべき場所があるということである。それは、神の御前である。1970年に寺山修司が作詞してカルメン・マキが紅白歌合戦でも歌った、「時には母のない子のように」という歌があるが、この題名の歌は本来、黒人霊歌である。  元歌である黒人霊歌のほうの「時には母のない子のように」という歌は、こういう歌詞である。「時に私は、自分が母のない子のように思えるんだ、家から遠く離れてしまって。時に私は、もう自分は終わってしまったと感じるんだ、家から遠く離れてしまって。」しかし、この歌はこれで終わっていない。「罪人よ、罪人よ、なぜおまえは祈らないのか。」そう、私たちは時に、絶望する。しかしそれは、いのちなる神さまとの交わりがどこかで切れてしまっているからである。そんな私たちに神さまは、「生きよ」とおっしゃる。生きよというご命令にはどのようにお従いするのか? いのちなる神との交わりを持つことによってである。私たちは神との交わりによって、いのちを回復する。  だから、死ぬことを意識するのは、いのちなる神さまからもっとも離れた状態である。映画、小説、テレビドラマ、アニメ、ゲームと、やたらと私たちは「死ぬ」ということが空想の次元で身近になってしまっているが、けっしてそれは手放しで美化されるべきものではないことを、私たちは心に留める必要があろう。神さまのみこころは、どこまでも「生きよ」である。  とはいっても、神さまは私たち人間が「死ぬ」ことを前提に語っておられる箇所も、確かに聖書には存在する。「あなたが蒔くものは、死ななければ生かされません」という、第一コリント15章36節のみことばなどそうであろう。しかし、死ぬのは死んで終わりになるためではない。生きるため、それも、永遠のいのちをもって生きるためである。本来、死ぬということは、神さまのみこころに不従順になる選択をした人間の受けるべき呪いであった。しかし神さまはこの「死ぬ」ということを、人間が永遠のいのちに生きるために必要なプロセスとしてくださった。  それなら、なぜ「死ぬ」という、悲しむべきことがこの世界に残されているのだろうか? それについては次のポイントについてお語りしたら、最後にまとめて結論としてお話ししたい。  では、光、について学ぼう。光とはいのちである。さらにいえば、光とは人の光である。  私の隣の家は、現在毎日、リフォーム工事をしている。それまでも空き家で、したがって明かりなど点いていなかったのだが、現在は工事のためだろう、明かりを点けている。しかし、どういうわけだか、一晩中明かりをつけっぱなしである。それが次の日の工事をするときに便利だということなのだろうが、だれもいないところに明かりがついているのはもったいないし、だいいち異様である。明かりというものは、人のいるところを照らしてこそ意味がある。  そのように、イエスさまにある光というものは、人を照らす光である。では、なぜ人をその光をもって照らされるのだろうか? その答えは5節のみことばからわかる。光は闇の中に輝いている。闇は光に打ち勝たなかった。そう、人が闇の中にいてはいけないというのが、神さまのみこころだからである。  光と闇はどちらが良いもので、どちらが悪いものですか、一つにつき一つを選んでください、と言われ、「闇のほうが良いもの、光の方が悪いもの」と答える人は、かなりの偏屈であろう。そう問われたら、闇のほうが悪いに決まっている。それは聖書もそう語っているとおりである。闇の象徴するものは、悪魔であり、死であり、滅びであり、絶望であり、混沌である。  イエスさまの来られた時代のユダヤの指導者たちは、闇の勢力に属する者たちだったとイエスさまは評価しておられる。本来、神を指し示すべき者が闇の勢力だったとは、何ということであろう。しかし、それゆえにイエスさまのことを十字架につけたともいえよう。  この5節のみことばは新共同訳という訳の聖書を読むと、「暗闇は光を理解しなかった」とある。彼ら指導者たちがその立場にふさわしくイエスさまのことを理解していたら、イエスさまのことを十字架につけたどころか、すべての民がイエスさまを信じるように、率先して行動したことだろう。  しかし彼らは暗闇の勢力の者たちだったゆえ、イエスさまが救い主、人々を救いに導く光そのものでいらっしゃったことを理解できなかったし、理解しようともしなかった。  しかし、そのような闇の勢力も、光に照らされるならば変えられる。その典型的な例はパウロである。パウロは何をしただろうか? 神のみことばを堂々と解き明かし、ユダヤの宗教指導者たちに悔い改めを迫ったステパノのことを石打ちにした張本人、それがパウロである。しかし彼は、今にも教会に迫害を加えようとダマスコに向かっていたその途上で、神の光に照らされ、そのときからイエスさまのために生きる人へと変えられた。それまでのパウロは、いわば神のいのちのかたちを喪失していた状態にあった。それゆえに、神の御名を用いてさえも人を殺す、すなわち神につく人のいのちを奪うような、ほんとうのところは神をも恐れぬ所業を平気でしていた者だった。それが神のいのち、神の光に回復させられた。これは神の恵みである。  このように、闇につく者が光につく者とならせていただけるのは、恵みである。使徒ヨハネは、人間が光の方に来ないのは、光よりも闇を愛したから、その行いが悪いからだと喝破している。光よりも闇を愛する行い、すなわち悪い行いとは何であろうか? ローマ人への手紙1章に語られているとおり、神を神としないことである。すべての罪、すべての悪は、人が神を神としないことに始まる。人は神を神としない結果、あらゆるけがれ、あらゆるむさぼりに身を委ねることになってしまった。  しかし、イエスさまという方は、そのあらゆるけがれ、あらゆる罪、あらゆる悪をもたらす闇の勢力を、ご自身の十字架の贖いをもって滅ぼしてくださった。闇を光によって照らしてくださったのである。闇というものは、ひとたび光に照らされたら消えるしかない。  闇を象徴するもの、それは人の死である。しかし、人の死というものはなぜ必要なのだろうか? 人の死が象徴している闇というものが存在を許されているのはなぜだろうか? それは、いのちの光なるイエスさまによって滅ぼされるということをもって、イエスさまの勝利、イエスさまのご栄光が現されるゆえに、存在を許されているということである。  夜が怖い、という人がいるだろう。しかし、夜というものをいつまでも怖がる必要がないのは、やがて朝が来て、夜の闇を吹き払ってくれるからである。同じように、主にある人が死を怖がる必要がないのは、死というのがやがて、永遠のいのちに呑み込まれるからである。同じことで、闇の勢力がまだ存在しているこの世界だが、やがてこの世界は終わり、永遠に夜がない、したがって闇がない御国を、神さまは来たらせてくださる。死というもの、闇というものは、神さま、イエスさまの永遠の勝利、永遠のご栄光が顕されるための、いわば「引き立て役」でしかないのである。  だから、闇というもの、死というものをやたら意識したり、恐がったりしてはならない。ほんものは神の光であり、神のいのちである。私たちクリスチャンの生活は、この闇と死に支配されて絶望的になっているこの世に住む人々に、どうか怖がらないでほしい、あなたは生きる、ということを、確信に満ちて、そのことばと行いによって語るということである。  私たちはどこを照らしたいだろうか? そして、だれに永遠のいのちを受けてほしいだろうか? 神さま、私を遣わしてください、用いてください、ともに祈ろう。

人間はことばのかたちである

聖書箇所;ヨハネの福音書1章1節~3節 メッセージ題目;「人間はことばのかたちである」  まず、本文を見てみよう。「初めにことばがあった」。この「初め」は、聖書の最初のことば、創世記1章1節の、「初めに、神が天と地を創造された」と対応することばである。しかし、このヨハネの福音書1章1節における「初め」は、あらゆる創造のわざよりも優先する「初め」である。  高校時代、仲のよかった友人に聞かれたことがある。彼は創造主を信じられない、その理由は、神が天地万物を創造する前に、何をしていたかがイメージできないから、と。遊んででもいたのか? しかし、それはそういうふうに考えるものではない。時間というものは創造とともに始まっているのだから、その前に何をしていたか、などと、人間的な時間の概念で神のみわざを推し量ることはできない、と考えるのがふさわしい。  ヨハネの福音書1章1節における「初め」は、創世記1章1節以下のあらゆる時間の概念を超越した「初め」である。そしてその、究極の「初め」の存在であった「ことば」は、神とともにあり、神であった、と、このみことばは語る。  神とともにあり、神である。「神」とは、究極の唯一なる絶対者、父なる神さまであり、「ことば」とは、その究極の絶対者なる、父なる神とともにおられた「神」であるというわけである。  2節。この方は、初めに神とともにおられた。1節で語られたことの繰り返しである。ここにおいて、「ともにおられた」という表現が用いられているとおり、この方は父なる神から独立した存在であることが再度明かされている。  そして3節。すべてのものは、この方、すなわちことばによって造られた。あらゆる被造物がことごとく、このことばなる方によって造られた、と語る。このことについてはのちほどあらためて取り上げるが、神とともにあり、神であることばとは創造主であることが明かされている。  もう、このことばなる神とはだれなのか、おわかりであろう。この「神とともにあり、神であることば」とは、イエス・キリストである。それは14節に書かれているとおり。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」、これで、この神とともにある神なることばは、人となってこの世界に来られたイエスさまであることがわかる。  さて、今日も元日礼拝のメッセージに引きつづき、三段論法で、私たち人間とは何者なのか、今日のみことばを鍵にして解いてみたい。  大前提、私たち人間は神のかたちである。小前提、神はことばである。結論、人間はことばのかたちである。  私たちはことばを用いて生活する。現に、こうしてみなさんにメッセージを語る私も、ことばを介してメッセージをお伝えしているわけである。そんなことから私たちは、ことばというものを、人間が生活を営むうえで用いる「道具」のようなものだと考える傾向があるのではないだろうか。しかし、さきほどの三段論法に従えば、人間とはことば、それも、神のことば、言い換えれば神であることばのかたちに創造されているものであり、それが人間の本質だというわけである。そうなると、ことばはもはや「道具」のカテゴリーに収まらない。私たちの本質そのものである。  そこで私たちは、神を知り、また私たちを知るために、神の本質であり、また私たちがそのかたちに創造されているという、ことばとは何か、ほかならぬ神のことばである聖書がことばについて何と語っているかを見ていきたい。    第一に、ことばとは意味があるものである。  「ことば」というものを聖書の原語で「ロゴス」というのはご存知であろう。このことばは「論理」という意味も持つ。世界中にはあらゆることばがあるが、意味のないことばはひとつもない、と聖書は語る(Ⅰコリント14:10)。むかし、娘が幼かったころ、Eテレの「にほんごであそぼ」という番組で、おおたか静流という歌手がつくった何やらわけのわからない歌詞の歌(びっとんへべへべ るってんしゃーらか りーぼーぱなぱな かーわーへー……)が流れていたが、これはおおたか静流の「ロゴス」が紡がせた歌詞であると考えると、あながち意味がないとはいえない。同じように、私が好きな詩人、草野心平は冬眠中のカエル「ごびらっふ」にひとりごとを言わせる詩を書いているが(るてえる びる もれとりり がいく……)、これもまた草野心平の「ロゴス」のなしたわざといえよう。やはり、そうだとすると、およそ人間の発することばで、意味のないことばなどこの世にはないわけである。  そのように、ことばに意味があるのは、神の本質がひとつとして不必要なものがない、すべてが一致している、首尾一貫している、矛盾がない、すべてに意味があるものであり、そのことばなる神のかたちに私たち人間がつくられているゆえである。  神の創造のみわざは、すべてがご自身のうちに論理的なご計画をもってなされ、今もなお矛盾なきみこころをもってこの天地万物は保たれている。それが本来の世界のあり方である。ところがこの世界、天地万物は、人間の罪のために堕落し、神の完全であり善である論理にもとる領域が多く生まれた。天変地異や伝染病により人は大勢死ぬようになった。  そして人は本来、神のみこころにかなうように、神のみこころをもってこの世界を創造的によくする存在であった。ところが人の創造するものといったらどうであろうか。あまりにも悪魔的なものばかりになってしまっている。破壊的なもの、オカルト的なもの、淫乱に満ちたものがどれほど、人間の手によって生まれていることだろうか。戦争や公害のような人のもたらす不幸は言うに及ばない。それらのものを生み出すのは、人間の堕落したロゴス、神の似姿であることを自ら放棄したロゴスである。  ゆえに、私たち人間がこの世界をよくしようと思うならば、私たち人間自身が「神のことば」である神のかたちに回復していただくように、ほかならぬ神のことばなる聖書のみことばを握り、神のあわれみを求めて祈るしかない。ほんとうによいものは神から生まれるのであって、けっして堕落した人間のうちからは生まれない以上、そうするしかない。  だから、私たち自身を知ろう。私たちは「ロゴス」という神のかたちをもって、神のみこころをこの世界に創造して送り出すのが本来の姿である。その姿に、日々みことばと祈りによって回復していただき、この世界をよくする働き、すなわち、神のみこころにかなう者とする働きに用いていただくよう、祈ろう。  第二に、ことばは交わりを生む存在である。  聖書を読むと、唯一なる神さまが実は、三位一体のうちに交わりを持っておられることがわかる。ヨハネの福音書12章を読むと、御子イエスさまが御父に祈っておられるが、その際にイエスさまは、ことばを発して祈っておられる。それに対して御父が御子にお応えになっているが、それもことばで表現されている。ほかにもヨハネの黙示録22章を読むと、御霊なる神さまは御子キリストに向かって、「来てください」と呼びかけておられる。  そもそも、創世記1章に書かれた人間の創造のわざからして、「われわれのかたちに人を造ろう」と、三位一体なる神さまのうちで協議し、ご意志を決定しておられるわけである。そうして創造された人間は、神と交わりを持つ存在として創造された。神は人間にみことばをお語りになり、人間は神に祈ることによって語りかける。これが神と人との交わりであり、その交わりはことばをもってなされる。これはいわば、ことばなるご存在と、ことばのかたちに造られた存在が、ことばをもって交わっている、ということである。そして、人と人が交わるのもことばによる。  問題は、人間が堕落してしまっているため、神との交わりが破壊され、その結果、人どうしの交わりも神不在となり、交わりの名に値しない、単なる「ことばのやり取り」でしかなくなってしまったことにある。そのくせ、そのことばのやり取りでときに人がいたく傷つくのだから始末が悪い。  神との関係においてはどうであろうか。人は神のことばを聞かず、サタンのことばに喜んで耳を傾けるようになった。そのような、サタンに乗っ取られた人間どうしの交わりたるやどうであろうか。神を神としないことば、破壊的なことば、人を馬鹿にすることば、くだらないことば、悪い冗談、人を呪うことば、人を破滅に陥れる甘いささやき、どれをとっても聖い神、よきお方なる神のみこころとは似ても似つかない悪いことばのコミュニケーションと化している。  私たち人間は、神のことばのかたちとして、神のことばという本質を回復する必要がある。神のことばにつねに親しむならば、悪いことばは口にできなくなる。マタイ12:36、エペソ4:29、エペソ5:3~4といったみことばの警告は、きわめてリアルなものと受け取るべきである。このようなことばから逃れたいならば、そういうことばが交わされる人の輪を避け、みことばを日々開いてお聴きすることである。  ほんとうに御霊に満たされるならば、低俗なコミュニティと距離を置き、聖書のみことばに親しむようになって、ことばがきれいになるだろう。そういうことばづかいで人に接するならば、人は私たちのことばにふれて、俗っぽい世界のくだらなさに気づき、そこから聖い神さまを求めるように、神さまが私たちのことを用いてくださると信じよう。そうして、私たちの周りから、イエスさまが支配される御国が広がっていくのである。  今日はまず、悔い改めの時間を持とう。私たちがつくり出し、世に向けて送り出しているものはほんとうにみこころにかなっていただろうか? 私たちが口から発することばはほんとうにみこころにかなっていただろうか? もし、ふさわしくない行いやことばが示されたならば、それを捨てます、捨てられるように、神さま、恵みとあわれみをください、と祈ろう。  そして、みこころにかなうことを創造させてください、みこころにかなうことばを語れる人と意味のある交わり、神さまに喜ばれる交わりを持たせてください、と祈ろう。何をすることが神さまのみこころにかなうか、だれとどんな話をすることが神さまのみこころにかなうか、導きを求めよう。