聖書箇所;ヨハネの福音書1章1節~3節
メッセージ題目;「人間はことばのかたちである」
まず、本文を見てみよう。「初めにことばがあった」。この「初め」は、聖書の最初のことば、創世記1章1節の、「初めに、神が天と地を創造された」と対応することばである。しかし、このヨハネの福音書1章1節における「初め」は、あらゆる創造のわざよりも優先する「初め」である。
高校時代、仲のよかった友人に聞かれたことがある。彼は創造主を信じられない、その理由は、神が天地万物を創造する前に、何をしていたかがイメージできないから、と。遊んででもいたのか? しかし、それはそういうふうに考えるものではない。時間というものは創造とともに始まっているのだから、その前に何をしていたか、などと、人間的な時間の概念で神のみわざを推し量ることはできない、と考えるのがふさわしい。
ヨハネの福音書1章1節における「初め」は、創世記1章1節以下のあらゆる時間の概念を超越した「初め」である。そしてその、究極の「初め」の存在であった「ことば」は、神とともにあり、神であった、と、このみことばは語る。
神とともにあり、神である。「神」とは、究極の唯一なる絶対者、父なる神さまであり、「ことば」とは、その究極の絶対者なる、父なる神とともにおられた「神」であるというわけである。
2節。この方は、初めに神とともにおられた。1節で語られたことの繰り返しである。ここにおいて、「ともにおられた」という表現が用いられているとおり、この方は父なる神から独立した存在であることが再度明かされている。
そして3節。すべてのものは、この方、すなわちことばによって造られた。あらゆる被造物がことごとく、このことばなる方によって造られた、と語る。このことについてはのちほどあらためて取り上げるが、神とともにあり、神であることばとは創造主であることが明かされている。
もう、このことばなる神とはだれなのか、おわかりであろう。この「神とともにあり、神であることば」とは、イエス・キリストである。それは14節に書かれているとおり。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」、これで、この神とともにある神なることばは、人となってこの世界に来られたイエスさまであることがわかる。
さて、今日も元日礼拝のメッセージに引きつづき、三段論法で、私たち人間とは何者なのか、今日のみことばを鍵にして解いてみたい。
大前提、私たち人間は神のかたちである。小前提、神はことばである。結論、人間はことばのかたちである。
私たちはことばを用いて生活する。現に、こうしてみなさんにメッセージを語る私も、ことばを介してメッセージをお伝えしているわけである。そんなことから私たちは、ことばというものを、人間が生活を営むうえで用いる「道具」のようなものだと考える傾向があるのではないだろうか。しかし、さきほどの三段論法に従えば、人間とはことば、それも、神のことば、言い換えれば神であることばのかたちに創造されているものであり、それが人間の本質だというわけである。そうなると、ことばはもはや「道具」のカテゴリーに収まらない。私たちの本質そのものである。
そこで私たちは、神を知り、また私たちを知るために、神の本質であり、また私たちがそのかたちに創造されているという、ことばとは何か、ほかならぬ神のことばである聖書がことばについて何と語っているかを見ていきたい。
第一に、ことばとは意味があるものである。
「ことば」というものを聖書の原語で「ロゴス」というのはご存知であろう。このことばは「論理」という意味も持つ。世界中にはあらゆることばがあるが、意味のないことばはひとつもない、と聖書は語る(Ⅰコリント14:10)。むかし、娘が幼かったころ、Eテレの「にほんごであそぼ」という番組で、おおたか静流という歌手がつくった何やらわけのわからない歌詞の歌(びっとんへべへべ るってんしゃーらか りーぼーぱなぱな かーわーへー……)が流れていたが、これはおおたか静流の「ロゴス」が紡がせた歌詞であると考えると、あながち意味がないとはいえない。同じように、私が好きな詩人、草野心平は冬眠中のカエル「ごびらっふ」にひとりごとを言わせる詩を書いているが(るてえる びる もれとりり がいく……)、これもまた草野心平の「ロゴス」のなしたわざといえよう。やはり、そうだとすると、およそ人間の発することばで、意味のないことばなどこの世にはないわけである。
そのように、ことばに意味があるのは、神の本質がひとつとして不必要なものがない、すべてが一致している、首尾一貫している、矛盾がない、すべてに意味があるものであり、そのことばなる神のかたちに私たち人間がつくられているゆえである。
神の創造のみわざは、すべてがご自身のうちに論理的なご計画をもってなされ、今もなお矛盾なきみこころをもってこの天地万物は保たれている。それが本来の世界のあり方である。ところがこの世界、天地万物は、人間の罪のために堕落し、神の完全であり善である論理にもとる領域が多く生まれた。天変地異や伝染病により人は大勢死ぬようになった。
そして人は本来、神のみこころにかなうように、神のみこころをもってこの世界を創造的によくする存在であった。ところが人の創造するものといったらどうであろうか。あまりにも悪魔的なものばかりになってしまっている。破壊的なもの、オカルト的なもの、淫乱に満ちたものがどれほど、人間の手によって生まれていることだろうか。戦争や公害のような人のもたらす不幸は言うに及ばない。それらのものを生み出すのは、人間の堕落したロゴス、神の似姿であることを自ら放棄したロゴスである。
ゆえに、私たち人間がこの世界をよくしようと思うならば、私たち人間自身が「神のことば」である神のかたちに回復していただくように、ほかならぬ神のことばなる聖書のみことばを握り、神のあわれみを求めて祈るしかない。ほんとうによいものは神から生まれるのであって、けっして堕落した人間のうちからは生まれない以上、そうするしかない。
だから、私たち自身を知ろう。私たちは「ロゴス」という神のかたちをもって、神のみこころをこの世界に創造して送り出すのが本来の姿である。その姿に、日々みことばと祈りによって回復していただき、この世界をよくする働き、すなわち、神のみこころにかなう者とする働きに用いていただくよう、祈ろう。
第二に、ことばは交わりを生む存在である。
聖書を読むと、唯一なる神さまが実は、三位一体のうちに交わりを持っておられることがわかる。ヨハネの福音書12章を読むと、御子イエスさまが御父に祈っておられるが、その際にイエスさまは、ことばを発して祈っておられる。それに対して御父が御子にお応えになっているが、それもことばで表現されている。ほかにもヨハネの黙示録22章を読むと、御霊なる神さまは御子キリストに向かって、「来てください」と呼びかけておられる。
そもそも、創世記1章に書かれた人間の創造のわざからして、「われわれのかたちに人を造ろう」と、三位一体なる神さまのうちで協議し、ご意志を決定しておられるわけである。そうして創造された人間は、神と交わりを持つ存在として創造された。神は人間にみことばをお語りになり、人間は神に祈ることによって語りかける。これが神と人との交わりであり、その交わりはことばをもってなされる。これはいわば、ことばなるご存在と、ことばのかたちに造られた存在が、ことばをもって交わっている、ということである。そして、人と人が交わるのもことばによる。
問題は、人間が堕落してしまっているため、神との交わりが破壊され、その結果、人どうしの交わりも神不在となり、交わりの名に値しない、単なる「ことばのやり取り」でしかなくなってしまったことにある。そのくせ、そのことばのやり取りでときに人がいたく傷つくのだから始末が悪い。
神との関係においてはどうであろうか。人は神のことばを聞かず、サタンのことばに喜んで耳を傾けるようになった。そのような、サタンに乗っ取られた人間どうしの交わりたるやどうであろうか。神を神としないことば、破壊的なことば、人を馬鹿にすることば、くだらないことば、悪い冗談、人を呪うことば、人を破滅に陥れる甘いささやき、どれをとっても聖い神、よきお方なる神のみこころとは似ても似つかない悪いことばのコミュニケーションと化している。
私たち人間は、神のことばのかたちとして、神のことばという本質を回復する必要がある。神のことばにつねに親しむならば、悪いことばは口にできなくなる。マタイ12:36、エペソ4:29、エペソ5:3~4といったみことばの警告は、きわめてリアルなものと受け取るべきである。このようなことばから逃れたいならば、そういうことばが交わされる人の輪を避け、みことばを日々開いてお聴きすることである。
ほんとうに御霊に満たされるならば、低俗なコミュニティと距離を置き、聖書のみことばに親しむようになって、ことばがきれいになるだろう。そういうことばづかいで人に接するならば、人は私たちのことばにふれて、俗っぽい世界のくだらなさに気づき、そこから聖い神さまを求めるように、神さまが私たちのことを用いてくださると信じよう。そうして、私たちの周りから、イエスさまが支配される御国が広がっていくのである。
今日はまず、悔い改めの時間を持とう。私たちがつくり出し、世に向けて送り出しているものはほんとうにみこころにかなっていただろうか? 私たちが口から発することばはほんとうにみこころにかなっていただろうか? もし、ふさわしくない行いやことばが示されたならば、それを捨てます、捨てられるように、神さま、恵みとあわれみをください、と祈ろう。
そして、みこころにかなうことを創造させてください、みこころにかなうことばを語れる人と意味のある交わり、神さまに喜ばれる交わりを持たせてください、と祈ろう。何をすることが神さまのみこころにかなうか、だれとどんな話をすることが神さまのみこころにかなうか、導きを求めよう。